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◆自動車輸送 2001.11作成 2003.4.13全面的に更新  2003.4.20更新 2010.5.9若干訂補

最盛期の北野桝塚。
(『日本の新しい鉄道』久保田博 昭和47年 保育社刊 p74-75より)

目次
@ はじめに
A自動車輸送
1. 自動車輸送の黎明期>
2. 1965(昭和40)年〜1966(昭和41)年 自動車輸送の準備期>
3. 1967(昭和42)年 自動車輸送の初期>
4. 1968(昭和43)年〜1972(昭和47)年 自動車輸送の最盛期まで>
5. 1973(昭和48)年〜1984(昭和59)年度 自動車輸送の衰退期>
6. 1985(昭和60)年度〜 車扱による自動車輸送の終焉とコンテナ輸送の進展。 カーラックシステム軽自動車輸送など>
B バイク輸送
<1.国鉄時代>
<2.JR貨物後の輸送>
C 自動車部品輸送
D 自動車(物流)業界におけるトピック


@はじめに

 筆者が幼少の頃夢中で遊んだ「プラレール」にも車運車(=ク)はあったし、はたまた「鉄道図鑑」の貨車のページには自動車輸送列車の写真が大きく載って い た記憶もあるのだが、考えてみると、当時すでに鉄道による自動車輸送はピークを とっくに過ぎ、細々と継続していたに過ぎない時代であった。実際、私は車運車をこの目で見たことは無いのだが、しかし それでも車運車がズラリと連なる自動車輸送専用列車のイメージは強く頭に焼き付いている、そんな気がするのだ。それ くらいこの自動車輸送の貨物列車には、「華」があり、「夢」があり、「未来」があった筈なのだ。しかし栄光の時期は短く昭 和40年代後半、輸送開始から10年にも満たない期間でピークを迎え、急な坂を転げ落ちるように衰退していく。あたかも その経緯は、あれほど期待されながらも今は無き「ピギーバック」の姿を連想させるではないか。国鉄末期に登場し、新生 JR貨物のシンボルと目されて急成長し、専用列車は「陸のフェリー」の異名を持つまでに至ったピギーバック輸送も、バブル景気崩壊後一気に失速し、人知れ ず全廃されてしまった。もちろん、商品としての自動車を運ぶ自動車輸送とトラック を輸送容器に見立てたピギーバックでは、輸送の本質が異なり、単純な比較は慎まなければならないが、自動車と鉄道の 「相性の悪さ」、そして急速な物流変革の波に対応できなかった鉄道輸送の「致命的な欠陥」を象徴しているようにも感じ る。

 さて自動車産業は依然日本の産業を支える一翼を担っていると言えよう。その産業の裾野は広く、部品などの原料から製品としての自動車まで、物流需要は非 常 に大きい。現在でも部品から自動車まで鉄道貨物輸送の活躍している部分は散見され、今後も需要を開拓していく必要があるだろう。紙・パルプ産業に対する鉄 道輸送のように、ある程度の地位を自動車物流業界の中で鉄道輸送も築くことが戦略的に望ましいのではないだろうか。そんな願いも込めつつ、このページを作 成した。尚、ここではピギーバック輸送については触れないこととする。

 最後に、当時の自動車輸送の熱気を感じる文章を紹介して、本題に入 る。

 昭和40年頃から貨物輸送も量から質への転換が叫ばれ、その一環として物資別適合輸送の推進が行われたが、その中で自動車輸送は 花形であった。[1]

 40年代に入ると、国鉄でも自動車工業の将来性に着目して、41年7月試作専用貨車2両で、(略)・・・輸送を開始した。このときの試作貨車は、 各 メーカーによって製作されていた私有貨車を参考にして製作されたが、積載効率を高めるため、当時の 貨車常識を打ち破った上下2段積みのものであった。(略)・・・自動車輸送は 急成長を遂げ 、41年度わずか7万2,000トンであった輸送トン数が、47年度には224万2,000トンとなった。[2]


A自動車輸送
 

<1.自動車輸送の黎明期>

戦後急速なテンポで成長を遂げたわが国自動車工業の製品輸送は、当初自走、トラックまたは船舶によって行われて、昭和30年代の後半、わずかにテス トケース的なものとして、私有貨車による鉄道輸送がトヨタほか数社の手によって行われたにすぎなかった。[2]

日産自動車株式会社富士工場は原料製品輸送のために、1936(昭和11)年8月5日に吉原駅〜富士工場2.3kmの専用鉄道の運輸 を開始している。※『鉄道要覧』より
海野實著『静岡県の鉄道 今と昔』明文出版社、1986年には、吉原駅の写真の1枚として、トラ貨車に「ダットサン」が2台づつ載った貨物列車がある。昭 和30年代まではこのような自動車輸送だったのだろう。
また吉原駅には塩浜操駅から冷延コイルが到着していたが、これは日産自動車着ではないだろうか? こちら参照。

また吉岡心平著『私有貨車図鑑』307頁には、ク300形(日産、ブルーバード)、クム1000形(トヨタ、パブリカ)といった黎明期の車運車の写 真がある。


<2.1965(昭和40)年〜1966(昭和41)年 自動車輸送の準備期>

◆試験輸送から本格輸送まで[1]

【1965.04.01】 自動車積み専用貨車2両の試作を決定。

【1965.11.10】 試験輸送区間を笠寺・東小金井間とし、対象荷主を三菱プリンスとすること に決定。

【1966.03.06】 自動車積みク9000形式(後にク5000と改称)が日本車両豊川工場及び三菱重工三原工場で各1両ずつ落成。

【1966.03.31】 笠寺駅に自動車積卸線(有効長200m)及び積卸し設備1基が完成。

【1966.07.06】 営業試験輸送開始。(7月6日から9月30日まで) 笠寺(三菱)東小金井(プリンス)間 で両基地から毎日1車ずつ発送。

【1966.07.19】 輸送中自動車の汚れ発生(鉄粉及び銅粉)、機関車次位連結に原因ありとして介在車4両を連結して輸送開始。

【1966.09.29】 自動車の汚れ防止のため自動車用シート作成。

【1966.10.01】 本格的輸送開始。(国鉄のダイヤ改正)
          ・新基地 籠原川崎河岸横須賀厚木 大宮操 百済川西池田
          ・新荷主 トヨタ日産富士重工ダイハツ いすゞ (既存荷主 三菱プリンス)計7社
          ・1日当り使用車12車
          ・笠寺駅の使用車、トヨタ1、三菱2、計3車

◆1966(昭和41)年10月時刻改正について[3]
自動車専用貨車22車を新造し(年度末までには追加40両新造の予定)、各自動車基地の整備(モータープール、自走積卸装置)をし、相互に輸送を実施す る。

*発着駅別輸送車数*
発 駅
着 駅
平 均積載台数
月 間輸送台数
荷 主(筆者予想)
籠原
笠寺
籠原
川西池田
厚木
東小金井
笠寺
厚木
東小金井
横須賀
笠寺
川崎河岸
百済
大宮操
百済
笠寺
東小金井
笠寺
川西池田
百済
12台
9台
12台
12台
10台
8台
9台
8台
8台
10台
300台
225台
300台
300台
250台
200台
225台
200台
200台
250台
富士重工
三菱
富士重工
ダイハツ
日産
プリンス
三菱
日産
プリンス
日産、トヨタ

以上の計画に基き、貨車運用はヤード中継を極力省略し、予備車の1車は、笠寺常備とする。また運転日数は月間25日とする。
貨車の常備駅及び車数は次の通りである。 笠寺7車、東小金井6車、百済9車

また飾磨(荷送人:富士製鉄)→土橋(荷受人:トヨタ自動車)で鋼板積載用屋根開閉式有蓋車(ワキ9000形)2両により冷延コイル の輸送が始まっている。こちら参照

<3.1967(昭和42)年 自動車輸送の初期>

◆国鉄自動車専用貨車ク5000を大幅増強[6]
 国鉄は1966(S41)年7月から開始した物資別適合輸送の中で,自動車輸送が現在もっとも利用度が高 く,有望業種である ことから,今後ク5000を重点的に新造,輸送力の強化をはかることになった。
 国鉄のク5000保有両数は現在22両であるが,計画によると1967(S42)年2月に40両,3月末に50両を新造投入する一方,輸送基地も2月か ら広島・北九州地区を加え,4月には専用貨車112両によるフル運転を開始する方針であるという。
 国鉄が現在実施している物資別適合輸送は,自動車・粉粒体・鉄鋼の3品目であるが,このうちもっとも大規模に行われているのが自動車輸送。1966年7 月にまず2両で東京小金井〜愛知笠寺を下り日産プリンス,上り三菱重工の試験輸送を開始,10月のダイヤ改正で20両を増強し,富士重工・日産・いすゞ・ トヨタが参加,10月末にはさらにダイハツが加わり,本格輸送を開始,7月のスタート当時1日わずか42台の輸送量が,10月には236台,11月には 284台と増え,最近は自動車メーカーから早急な増備を要請されるようになったもの。

◆輸送拡大の歩み[1]

【1967.02.01】
【1967.03.01】
【1967.04.01】
【1967.07.01】
【1967.10.01】
新基地 水島広島志免 
なし
磐田(使用車1車)
岡山操宮城野沼垂塩浜操
金沢
新荷主
愛知機械販売
なし
鈴木自動車東洋工業
ホンダ
なし
1日当り使用車
24.5車
38.5車
44車
108車
137.7車
保有車両数
62両
92両
112両
312両
382両
その他
・笠寺駅設備、積卸線2線、積卸設備2基となる。
・笠寺駅使用車、トヨタ3.5、三菱3.5、愛知0.5、計7.5車
・自動車専用列車
  新鶴見〜志免間1往復
・笠寺駅使用車、トヨタ6、三菱3.5、愛知0.5、計10車
・笠寺駅使用車、トヨタ6、三菱3.5、愛知0.5、計10車 
・ローカルルートの輸送開始
・自動車専用列車増設
  新鶴見〜百済間1往復
・笠寺駅設備、積卸線2線、積卸設備2基となる。
・笠寺駅使用車、トヨタ3.5、三菱3.5、愛知0.5、計7.5車
・磐田駅使用車、スズキ4車
・自動車専用列車笠寺駅始発を新設
   笠寺〜新鶴見 1往復
   笠寺〜香椎   1往復
・笠寺駅設備、積卸線4線、積卸設備4基となる。
・笠寺駅使用車、トヨタ29、三菱4.4、愛知1.9、計35.3車
・磐田駅使用車、スズキ6車

※ 2月に開設された広島の自動車基地に対して,マツダの利用が4月開始と言うことは広島が到着にも使われていたことを示すか。 

【1967.07.01】 自動車輸送専用急行列車を「アロー」号と命名。ク5000形を200両増備(計312両)。[5]

【1967.07.01】 宮城野駅で自動車輸送が開始。[4]
発  駅
利用会社名
 備 考 
厚木
日産

磐田
スズキ

笠寺
三菱

横須賀
日産・トヨタ

水島
三菱

川西池田
ダイハツ

同月1ヶ月でク5000形116車1,134台が輸送されるなど好調な滑り出しを見せた。

【1967.11.X】 北海道内輸送開始(小牧・旭川間)[1]


<4.1968(昭和43)年〜1972(昭和47)年 自動車輸送の最盛期まで>
 
【1968.10.01】 抜本的な白紙大ダイヤ改正が行われたが、貨車保有両数も752両に増加し、基地も6基地増設して26基地とし、列車本数も17 本として輸送の拡大をはかった。[1]  沼津熱田二条北伊丹熊本 南松本に自動車基地開設。[5]

【1969.07.X】 沼津から岩波へ自動車基地移設。(トヨタ東富士工場専用線竣工による)[5]

【1969.10.01】 生産の拡大、道路事情の逼迫、陸送要員の不足等から鉄道輸送の依存度が高まり、輸送の拡大が行われ、使用車計画323車、列車 本数19本、貨車数832両となり、基地も28基地となった。[1]  湘南貨物本牧埠頭に自動車基地開設。自動車輸送拡 大に備えて、自動車用シートの運用方法を改善した。従来はク5000形の格納庫を利用して発駅に返送していたものを、一般貨車に積載して返送するように変 更され、ク5000形の運用効率向上と構内入換作業の緩和を図った。[5]

【1970.10.01】 国内景気は鈍化の様相を呈してきたが、自動車輸送は基地の新設(東小金井、北野桝塚)、貨車数902両、専用列 車本数の増設(28本)等の施策によって輸送実績は伸びた。[1]
         ※東小金井は1966年の試験輸送時からあるはずだが・・・?
         ※国鉄岡多線は北野桝塚駅(当時は貨物駅)迄開業。

【1971.03.X】 小金井に自動車基地開設。[5]

【1971.04.01】 浜松から西浜松に自動車基地移設(浜松駅高架化に伴う西浜松駅開設による)[1]

【1971.12.X】 宇都宮貨物ターミナルに自動車基地新設[1]

1971年度実績は対前年度比106%[5]

1972年度が自動車輸送のピーク。国内自動車生産台数の3分の1を占める80万5000台(1971年度比103%)を輸送した。 [5]

【1972.05.01】 山陰方面に輸送網を拡大するため、鳥取地区に湖山基地を開設した。[1]

【1972.05.25】 川崎河岸駅廃止

【1972.11.20】 仙台地区の自動車基地を宮城野駅から仙台港駅へ移設。[7]

◆仙台臨海鉄道の自動車輸送のあゆみ[7]
 国鉄宮城野駅は取扱量の増加、特にコンテナ到着の増加によって構内は輻輳し、荷捌きにも支障を来す状態となり、早急な留置線、取卸線増設の必要に迫られ て いた。国鉄はこの解決策として1967年以来宮城野駅で扱ってきた乗用自動車の鉄道輸送を仙台臨海鉄道に振替える案を打ち出した。

用地の確保
仙台港駅の貨物積卸場北側に県有地があり、これを借り受けて自動車基地にあてる計画で1972年3月、宮城県との折衝に入った。宮城県当局は当初陸から陸 への輸送、いわゆる港湾に無関係の鉄道輸送であるとの主張と、国鉄宮城野駅の肩代わりを理由に難色を示したが、鉄道営業の公共性と利用荷主の利便を理解さ れ同年8月貸付けが承認された。
積卸線新設
ク5000形貨車10両、1連入線させるため、210m3線とし、残地は全面アスファルト舗装した。(工費56百万円、同年11月20日竣工)
積卸機の常備
宮城野駅常備中の積卸機(トラバーサー)3台は国鉄からの借入れで常備し乗用車輸送体制は完了した。

諸準備も整い、 次の輸送計画により1972年11月20日輸送を開始した。

*乗用自動車輸送計画*
発  駅
会 社
車 数
国 鉄列車
仙 台臨海鉄道列車
小金井
二条
川西池田
小計
日産
日産
ダイハツ

1.0
1.5
1.5
4.0

5571

   661
  (6:45着)
本牧埠頭

湘南貨物
厚木
西浜松
北野桝塚
笠寺

小計
日産
トヨタ
いすゞ
日産
スズキ
トヨタ
三菱
日産
3.0
2.0
0.5
5.5
3.5
4.5
0.5
0.5
20.5



    9099
(自動車専用列車)



   665
  (11:45着)
東小金井

岩波
水島
小計
日産
トヨタ
トヨタ
三菱
3.0
2.0
1.5
1.0
7.5

     471

    4175


   667
  (14:25着)
合 計
31.5



*会社別自動車輸送計画*
会 社
発 駅
車 数
日産
小金井
二条
本牧埠頭
厚木
笠寺
東小金井
 小計
1.0
1.5
3.0
5.5
0.5
3.0
14.5
トヨタ
本牧埠頭
北野桝塚
東小金井
岩波
 小計
2.0
4.5
2.0
1.5
10.0
スズキ
西浜松
3.5
三菱
笠寺
水島
 小計
0.5
1.0
1.5
ダイハツ
川西池田
1.5
いすゞ
湘南貨物
0.5
合  計
31.5

*仙台臨海鉄道 自動車到着トン数*
年 度
1972
(昭47)
1973
(昭48)
1974
(昭49)
1975
(昭50)
1976
(昭51)
1977
(昭52)
1978
(昭53)
1979
(昭54)
1980
(昭55)
1981
(昭56)
1982
(昭57)
1983
(昭58)
1984
(昭59)
トン数
(千トン)
64
205
148
123
120
103
100
108
105
102
79
62
34

※第二次オイルショックの起きた1979年から80年にかけては、鉄道貨物輸送の見直し機運が一時的ながら盛り上がったのだが、自動車輸送もその頃は横這 いを維持していることがわかる。

1972年11月に輸送を開始し、当年度4ヶ月間の輸送実績は63,700トンとなり翌73年度の実績は204,906トンと激増した。
しかしながら、1973年秋の第一次オイルショックの影響と自動車業界の合理化施策により輸送の主流は、低廉大量輸送が可能な船舶輸送に転移し 、鉄道輸送量は年々減少傾向をたどり、
【1977年度】には日産自動車の大部分とダイハツ自動車の全量が船舶輸送に切り替えたのを手始めに、
【1979年度】いすゞ自動車
【1981年度】三菱自動車
【1982年度】日産自動車
【1983年度】スズキ自動車ホンダが完全撤退し、
【1984年12月】トヨタ自動車の撤退により、1972年11月以来12年1ヶ月続いた鉄道による乗用自動車輸送は幕を閉じることになっ た。

仙台港には、仙台北港駅近くに、「本田技研工業(株)仙台中継センター/東北商品管理センター」等の自動車基地がある。1998(平成 10)年5月4日現地訪問。


<5.1973(昭和48)年〜1984(昭和59)年度 自動車輸送の衰退期>

1973年以降は、オイルショック、輸出の拡大、たび重なる労働争議による鉄道不信感等もあって減少の一途をたどった。[1]
輸送中の鉄粉が付くなどしての破損事故や自動車をプールする場所のなさ、といったシステム上の問題と共に、続発するストライキと度重なる運 賃値上げによって、荷主離れが進行した。[14]

*自動車輸送の推移* [1]53、228頁より筆者作成
年 度別
ク 5000保有数
輸 送t数(千t)
年 度別
基 地数
使 用車
専 用列車本数
(始発)
1966 (昭41)
112
71
1966.10
9
12

1967 (昭42)
502
669
1967.10
18
138
10
1968 (昭43)
752
1,312
1968.10
26
265
17
1969 (昭44)
832
1,836
1969.10
28
323
19
1970 (昭45)
902
2,050
1970.10
29
380
28
1971 (昭46)
902
2,162




1972 (昭47)
902
2,242
1972.10
28
363
25
1973 (昭48)
932
2,050
1973.10
28
369
27
1974 (昭49)
932
1,219




1975 (昭50)
932
1,050
1975.03
27
244
19
1976 (昭51)
932
892
1976.10
25
168
17
1977 (昭52)
932
752




1978 (昭53)
932

1978.10
19
141
10
1980 (昭55)
932

1980.10
14
118
11
1982 (昭57)
832

1982.11
12
97
11
1984 (昭59)
777

1984.02
6
57
6


【1975.10.X】 北野桝塚〜川西池田の1往復が廃止。[5]

【1976.10.X】 南松本の自動車基地を廃止。[1]

【1978.10.X】 宇都宮タ〜本牧埠頭間に自動車専用列車新設と、列車単位定形契約の締結。[1]133頁
        塩浜操
二条百済川西池田北伊丹熊本 の自動車基地廃止。[1]
         塩浜操駅は、輸出自動車の減少 によって、1978年10月1日に自動車輸送列車の運行を中止した。[9]52頁

【1979.07.01】 北伊丹駅の貨物集約駅が開業(詳しくはこ ちら→「貨物取扱駅と荷主」:北伊丹駅)。 ダイハツの自動車輸送のための設備が設けられたが、諸般の事情で1980年から自動車輸送は中断された。[40] (但し、上記の1978年の北伊丹駅の 自動車基地廃止と矛盾する・・・)

【1980.10.X】 横須賀湘南貨物倉賀野笠寺湖山の自動車基地廃 止。[1]

【1980年頃】 上沼垂駅には、自動車が横浜の本牧埠頭から自動車輸送専用 の 車運車9両(満載で小型車72両)編成による指定列車で毎日ピストン輸送される。ここで荷下ろしされた自動車は、新潟県内・中、 下越 はもちろん、遠くは山形、青森県まで陸送され ており、駅の広場には常に100台近い乗用自動車、貨物自動車が並んでいる。[8]

【1981.01.X】 自動車専用列車(ニッサン号)の長大化。宇都宮タ〜本牧埠頭の自動車専用列車(16両編成、2箇列車)を、臨海鉄 道の協力により21両編成に長大化し、1日当り10両の輸送力増強を行った。[1]169頁

【1982.11.X】 水島岩波の自動車基地廃止。[1]

【1984.02.01】 上沼垂新座タ厚木西浜松金沢 岡山操の自動車基地廃止。残りは、仙台港宇都宮タ本牧埠頭北野桝塚 東広島 志免の6駅となった。[1]

【1984.12.27】 トヨタ北野桝塚発12月27日を以て撤退した。ク5000形による国内向けの乗用自動車 輸送は一時全廃となり、 日産の宇都宮タ〜本牧埠頭の輸出用自動車輸送のみとなる。

*国鉄輸送、年内で廃止 トヨタ 貨車基地減り不便に*[33]
 トヨタ自動車は国鉄の貨車を利用した自動車輸送を年内で打ち切る。国鉄側の貨車基地の合理化などに伴い、貨車による製品輸送が事実上難しくなっているた め で、同社の輸送手段は今後すべてトラックによる陸上輸送と船を使った海上輸送の二本立てに切り替わることになる。貨車輸送は一時期自動車物流の中核だった こともあるが、トヨタの打ち切りはこうした自動車物流面にも新しい時代の波が寄せていることを示している。
 トヨタは現在、上郷工場(愛知県豊田市)内の車両ヤードから国鉄岡多線の引き込み線を利用して一部自動車を貨車輸送している。しかし国鉄側の受け入れ基 地 となる貨車基地が一時全国で25ヵ所もあったのが、貨物輸送の合理化などで今では4ヵ所に縮小、自動車の輸送手段としての役割もジリ貧傾向をたどってい る。
 しかも、輸送コストや物流上の便宜性からみてもトラックや船による輸送に対抗できなくなっている。また同社と引き込み線で結ばれている岡多線も国鉄が第 三 セクターによる運営を打ち出すなど、将来的に自動車など貨車輸送を続けにくい方向にあることから、このほどトヨタと国鉄とが協議、貨車利用の年内打ち切り で合意に達したもの。
 トヨタが完成車の輸送手段として国鉄の貨車を利用し始めたのは1966年。ちょうど日本でも本格的なモータリゼーションを迎え始めた頃で、年々貨車利用 率 も高まり、ピーク時の1973年はトヨタの自動車輸送全体の22%に当たる年間35万台を貨車で輸送していた。しかし、その後はトラックや船が自動車輸送 の主流になり、1983年は貨車輸送は全体の5%に当たる約8万台強まで落ち込み、トラックによる陸送が59%、船が35%を占めた。


97.3時点でのトヨタの輸送基地の跡。宅急便トラックが一杯置かれていた。
出荷基地として使われているようだった。

同じく駅から輸送基地までの取り付け部分。
コンクリート橋が続いているが道路との交差部分は撤去されていた。

【1985.03.X】 ダイヤ改正で自動車輸送の設定は無くなった。3月末まで宇都宮タ〜本牧埠頭の輸送は臨 貨 として残るが4月以降中止。ク5000形式は全車休車。[10]

*自動車の直行貨物列車* [1]184、227頁より筆者作成、太字は最末期まで残った輸送。
1978年10月
1980年10月
1982年11月
1984年2月
5351(大宮操〜北野桝塚)
5851(北野桝塚〜志免)
5853(大宮操〜岡山操)
5350〜5151(北野桝塚〜陸前山王)
5352(北野桝塚〜大宮操)
5850(志免〜北野桝塚)
5852(岡山操〜北野桝塚)
5950(金沢〜北野桝塚)
5150(陸前山王〜宇都宮タ)
5250(宇都宮タ〜根岸)
同左
同左
5853(北野桝塚〜岡山操)
同左
同左
同左
同左
同左
同左
同左
5951(米原〜金沢)
5351(新座タ〜北野桝塚)
同左
同左
同左
同左
同左(空)
5852(岡山操〜西浜松)(空)
同左(空)
同左
同左

5951(米原〜金沢)
廃止
同左
廃止
同左
廃止
同左(空)
廃止
廃止
5150〜5351(陸前山王〜北野桝塚)(空)
同左
廃止
5231(根岸〜宇都宮タ)(空)
合計10本
合計11本
合計11本
合計6本


*1984年2月ダイヤ改正 ク5000形式貨車 駅別発着計画* [1]228頁
発 駅/着駅
仙 台港
宇 都宮タ
本 牧埠頭
北 野桝塚
東 広島
志 免

仙台港



(8)


(8)
宇都宮タ


   21
(5)


(5) 21
本牧埠頭

(21)




(21)
北野桝塚
   8
   5


   7
   14
   34
東広島



(5)

   2
(5) 2
志免



(16)


(16)

   8
(21)  5
   21
(34)
   7
   16  
(55)  57
※単位は車数。また(X)は空車を示す。
※東広島に注目したい。北野桝塚から到着があるのはトヨタであろうが、東広島発志免着があり、これは当然東洋工業 であろう。末期まで荷主であったのだ。


<6.1985(昭和60)年度〜 車扱による自動車輸送の終焉とコンテナ化>

 こうしてク5000形式による乗用車輸送は全廃されたのだが、すぐに復活を遂げた。それが日産自動車の輸出用自動車輸送であり、一時は国内輸送も 復 活した。しかしその復活はあくまで一時的なものであり、コンテナ輸送が鉄道による自動車輸送の主役となっていく。やがて車扱輸送は終焉を迎えるのだが、コ ンテナによる自動車輸送は試行錯誤しつつも、荷主は増加し、現在に至っている。

*乗用車の輸送形態別輸送台数・輸送比率* (各年の『日本物流年鑑』ぎょうせい発行、から筆者が作成)

貨車
自走
積載車
船舶

1987 年度
3,280
0.1%
36,717
0.7%
3,155,431
61.1%
1,967,218
38.1%
5,162,646
1988 年度
32,922
0.6%
29,601
0.5%
3,341,694
60.8%
2,111,505
38.3%
5,506,722
1989 年度
34,613
0.6%
30,852
0.5%
3,447,515
57.9%
2,436,347
41.0%
5,949,327
1990 年度
32,790
0.5%
32,092
0.5%
3,740,712
58.3%
2,618,819
40.8%
6,424,413
1991 年度
32,519
0.5%
27,263
0.5%
3,439,655
57.9%
2,437,987
41.1%
5,937,424
1992 年度
20,814
0.4%
29,288
0.5%
3,096,240
57.4%
2,249,452
41.7%
5,395,794
1993 年度
17,712
0.3%
17,534
0.3%
3,018,616
58.4%
2,118,835
41.0%
5,172,697
1994 年度
  5,260
0.1%
9,514
0.2%
2,995,568
58.3%
2,126,211
41.4%
5,136,553
1995 年度
20,606
0.4%
11,693
0.2%
3,033,147
57.5%
2,208,527
41.9%
5,273,973
1996 年度









1997 年度
26,703
0.4%
275,192
3.6%
4,904,404
64.8%
2,365,988
31.2%
7,572,287
1998 年度
23,585
0.3%
344,177
4.7%
4,619,852
63.5%
2,291,897
31.5%
7,279,511
※国内販売分の輸送台数(=日産の輸出用自動車輸送は含まれない)、1997年度から統計手法が変更か?
※1989年前後が日産のク5000形による国内輸送の最盛期ということになろう。1995年度からカーラックによる輸送開始。台数が急増していることが わかる。

その後の日産自動車の自動車輸送 〜宇都宮貨物ターミナル駅、神奈川臨海鉄道を中心に〜

*神奈川臨海鉄道における自動車輸送量*[9]
年 度
1969 (昭44)
1970 (昭45)
1971 (昭46)
1972 (昭47)
1973 (昭48)
1974 (昭49)
1975 (昭50)
1976 (昭51)
1977 (昭52)
1978 (昭53)
1979 (昭54)
1980 (昭55)
千 トン
15
72
118
116
162
108
105
124
118
145
217
246
年 度
1981 (昭56)
1982 (昭57)
1983 (昭58)
1984 (昭59)
1985 (昭60)
1986 (昭61)
1987 (昭62)
1988 (昭63)
1989 (平元)
1990 (平02)
1991 (平03)
1992 (平04)
千 トン
218
155
132
119
30
105
163
133
154
136
76
50

【1978.10.X】 宇都宮タ〜本牧埠頭間に自動車専用列車新設と、列車単位定形契約の締結。[1]133頁

【1980.11.28】 自動車の輸出が活発であるため、本牧埠頭駅の自動車積卸線の7、8番線をそれぞれ10m延伸し、1回に車運車7 両ずつの積卸しを可能にした。また根岸駅の国鉄授受線も改良し、21両編成の運転に備えた。[9]52頁

【1981.01.13】 自動車専用列車(ニッサン号)の長大化[1]169頁
宇都宮タ〜本牧埠頭の自動車専用列車(16両編成、2箇列車)を、臨海鉄道の協力により21両編成に長大化し、1日当り10両の輸送力増強を行った。

【1984.03.31】 荷主側の輸送体制の合理化のため、鉄道利用は本年度末をもって打ち切りたいとの申し出があり宇都宮タ〜本牧埠頭 駅間の自動車輸送は廃止された。[11]22頁

【1985.09.02〜27】 9月2日から27日まで宇都宮タ〜本牧埠頭間で輸出用自動車の臨時貨物列車を運転。ク5000形36両が 復活し、運行終了後は再び大宮操駅に留置。[10]

【1986.03.03〜】 内需向け増に対処するため、宇都宮タ〜千鳥町間に3月3日〜8日各1往復、3月10日〜29日(除く日曜日) 2往復の自動車輸送を行った。[11]28頁

【1986.04.01】 宇都宮タ〜本牧操間で自動車輸送が再開された。このため本牧操駅の15〜16番線を神奈川臨海通運(株)専用線とし、この両線を自動車積卸専用にすることとした。トラバーサーを使用するため、同線の一部線間舗装を行って輸送を開始した。 [9]68頁
都心の交通渋滞によって定時性が一部で見直され、欧米への輸出用自動車輸送にク5000形が復活した。[14]
【1986.04.01〜10】 4月1日〜5日・7〜10日は宇都宮タ〜本牧操駅の自動車輸送列車を1本増発。[12]

【1986.11.01】 ダイヤ改正で宇都宮タ〜本牧操の自動車輸送が臨時貨物列車から予定臨に格上げされた。[13]

【1987.02.02】 4月上旬までの予定で、臨時自動車専用列車を宇都宮タ〜金沢間で運行。雪の多い北陸地方への陸送を補うために企 画された。[13]

【1988.03.01】 宇都宮タ〜本牧操の自動車専貨の返路を利用して、本牧操〜宇都宮タの自動車の発送を開始した。[11]44頁

【1988.03.13】 ダイヤ改正を機に、本牧操〜新潟操の自動車輸送を開始した。[11]44頁 
         宇都宮タ〜根岸間の臨貨設定を1往 復増発、従来の宇都宮タ〜金沢間の臨貨は着駅を南福井に変更。[5]

【1988.05.27】 宇都宮タ〜千鳥町間の自動車輸送開始。 [39]129頁

【1989.02.03】 秋田港駅で日産自動車輸送開始(秋田臨海 鉄道社員による取卸業務開始)。[42]50頁

【1989.03.X】 宇都宮タ〜八戸貨物・秋田港・苫小牧間で自動車輸送開始。いずれも他の専貨に併結。八戸貨物又は秋田港行き1車、 苫小牧行き1車で1日当たり16台の輸送。[5]

【1989.07.19】 クム80000形式車両に2台積載した輸入キャンピングカーの輸送を本牧操〜梅田間で開始し、 10月までに70台を輸送した。[9]81頁

【1990.02.01】 大型乗用車の新規輸送に対応してク5000形貨車の上段走行路を改造(上段3台積)し、大型車兼用として、 本牧操〜新潟タ 間で輸送を開始した。[9]82頁 大型乗用車の車種は「インフィニティ」。[5]

【1990.03.10】 宇都宮タ〜横浜本牧間の1往復が季節列車に昇格。1往復が着駅を川崎貨物に変更された。[5]

【1991.10.14】 世界初の自動車輸送専用コンテナ「カーパック」が登場。20ftコンテナをベースに上下二段構造の密閉式で、コンテナ車1両に 3セット、6台を積める。 宇都宮タ〜苅田港を中心に年間4,800台を往復輸送した。[14][19] 

【1991.11.X】 「カーパック」が横浜羽沢〜苅田港で開始、コンテナを開発した日本オイルターミナルなどは将来、全国的に拡大した い意向。[19]

【1992年】 宇都宮タ〜金沢間の自動車輸送の臨貨が廃止。宇都宮タ〜横浜本牧の自動車輸送は再び臨貨に格下げされた。 [5]

【1992年度】 ク5000形による自動車輸送は、宇都宮タ〜横浜本牧苫小牧八戸貨物秋田港千鳥町東広島横浜本牧〜新潟タ宇都宮タで約2万4千台が輸送された。(片道、いずれも 日産)[14]

【1993年頃】 日産カーパック(U41A形式)、現在55個あり、宇都宮タ・横浜羽沢〜福岡タ・苅田港間で運用されている。高品質輸送 のほか特に冬季に輸送力が滞りがちな北海道・東北・北陸地方などへの定時輸送にも適しており、期待がかけられている。[15]

【1994.12.3】 千鳥線自動車輸送廃止。[39]86〜87 頁

【1995年頃】 「カーパック」U41A-9500番台は日産自動車九州工場と栃木工場との間で新車の乗用車を往復輸送している。コキ車 1両にカーパックが3個積まれ、1日当り3両、乗用車の台数にして18台が発着している。具体的な車種は、苅田港からはシルビア、パルサーが発送され、宇 都宮タからはセドリック、シーマなどが到着している。[18]

【1996.04.末日】 ク5000形による宇都宮タ〜横浜本牧の自動車輸送廃止。(末期は年間約6,000台を輸送) [5]
 
【1997.01.X】 「カーパック」U41A-9500番台による自動車輸送を日本海縦貫線にも運用するため、トンネル限界に応じて 高さを低くした「カーパック2」U38A型コンテナが製作され、苅田港〜新潟タのルート1日にコキ1車分3個で運用を開始した。 [16]

【1998.02.X】 苅田港発「カーパック2」の新潟タ着は短期間に終わり、より需要の多い秋田貨物着に変更され、U38Aは13個増 備された。[16]

【1998.03現在】 苅田港から週6日、1日3個の「カーパック2」コンテナが発送されている。また自動車出荷の繁忙期である2月〜4月 は,荷主の要望で宇都宮タ〜秋田貨物のルートでも「カーパック2」の輸送が行われた。2月9日から日曜日を除く週6日、1日3個の「カー パック2」が発送された。この輸送のため「カーパック2」コンテナが13個増備された。[17]

【2000年】 日産の横浜工場から金沢・秋田・新潟へのカーパックによる完成車のスポット輸送が開始された。「雪国へ安定輸送」できると 好評。[35]

【2001.01現在】 輸送自体は継続しているが、自動車メーカーの工場再編成などの関係から、輸送量はかなり減少しているようだ 。[16]

【2002.2月〜3月】 日産の栃木工場で製造されアメリカへ船で輸出される高級車「インフィニティ」約1,000台を、宇都宮タ駅から横浜まで「カー パック」で輸送した。日産の栃木工場では高級車製造は重視されていないため、高級車輸送に使われることが多いカーパックの使用実績は落ちている。[35]

【2003.2月〜3月】 輸出用高級乗用車「インフィニティ」約300台を宇都宮 タ〜横浜本牧間で「カーパック」輸送された。決算期の3月期は販売が増え、キャリアカーが不足しがちなことも鉄道輸送が選択された理由の1 つ。[36]

【2004.2月〜3月】 輸出用高級乗用車「インフィニティ」「インフィニティセドリック」「フェアレディZ」の3車種の合わせて588台が、宇都宮タ〜横浜本牧間でカーパック輸送された。日産は部品輸送のモーダルシフト を進めるなど環境重視を打ち出しており、今回の「カーパック」による乗用車輸送は昨年の約2倍に増加した。[37]

【2005.2月中旬〜3月末】 輸出用の「フェアレディZ」約1,000台が「カーパック」によって宇都宮タ〜横浜本牧間で輸送された。2月中は5両編成で1日コンテナ15個(完 成車30台)を運び、3月からは6両編成で1日コンテナ18個(同36台)に拡充された。今回のスポット輸送終了後も、北陸・新潟方面に完成車定期輸送に「カーパック」の運用を検討してもらってい る。宇都宮ターミナル運輸は、背高の41型カーパックを39個、38型を44個保有している。[38]


◆カーコンテナ

 本田技研工業日本梱包運輸倉庫が共同開発した。形式はU60A形で、コキ100系積載限定。[20]
 30ftコンテナに自動車を4台を載せ、コキ1両で2セットを運べる。1992年10月に運転を開始し、新座タ〜金沢間で 乗用車南福井〜宇都宮タ農機具と効率的な運用をする。[14]
 一時は増備する話もあったようだが、南福井からの農機具の輸送が無くなった時点で運用は中止され、その後コンテナも廃棄された。


◆カーラック輸送 

*JR貨物 乗用車輸送で新会社 バイクのパックツアーも*[32]
 JR貨物は乗用車の輸送を担当する子会社、JRFエンジニアリングを1994年12月9日付けで設立した。乗用車の鉄道輸送は国鉄時代の72年をピーク に 急速に減少、現在はほとんど手を引いた状態となっている。JR貨物は新会社によって市場開拓を進める一方、年内に新型貨車の導入を始め、自動車輸送を本格 化する。また新会社はJTBと提携して、バイク輸送を含むパックツアーなども手掛ける。
 新会社の資本金は7千万円で、出資比率はJR貨物が65%、日本梱包運輸倉庫が25%、日本フレートライナーが10%。近く貨車メーカーやコンテナメー カーを対象に2千万円程度の増資をする予定で、増資後のJR貨物の出資比率は51%となる。新会社は札幌、新潟、名古屋、福岡営業所を置く。
 第一弾としてトヨタ自動車の完成車の物流子会社、トヨタ輸送と近く契約を結び、1995年3月から輸送を始める予定。トヨタの元町工場(愛知県豊田市) で 生産される「クラウン」、高岡工場(同)の「カローラ」を運ぶ見通し。区間は名古屋から新潟までで、輸送量は年間4,500台を見込んでいる。トヨタが完 成車輸送で鉄道を使用するのは84年以来、ほぼ10年ぶり。JR貨物では今後、他のメーカーに対する営業活動も本格化させる。

 1995年3月6日 名古屋タ〜新潟タでコキ71形を用いたカーラック輸送が開始された。[21]
 コキ71形式低床式コンテナ車に乗用車積「カーラック」コンテナを積載、返路にはこれに汎用5トンコンテナを載せられるという貨車の有効活用をねらった シ ステム。 トヨタ自動車の新車を名古屋タ〜新潟タまで毎日2両(乗用車16〜18台)輸送している。[16]


03.5直江津駅にて

*カーラック輸送の1年*[22]
 昨年3月から、名古屋タ〜新潟タ間で営業を開始したカーラックシステムも、無事1年を迎えることになりました。当初の隔日輸送が7月からは月〜金曜日の 毎 日輸送となり、8月には小型乗用車が5台積載できる新型のラック(コンテナ)も投入されました。
 また10月以降は,既存のT社M社(筆者註、三菱自動車だろう)の商品車輸送も加わり 、現在では日々20台の商品車が土・日曜日も休まず輸送されています。(東海支社営業課)

*名古屋(タ)〜米子間でカーラックシステム輸送を開始*[23]
 JR貨物は1997年3月6日から、名古屋貨物ターミナル駅と米子駅との間でカーラックシステムを用いて商用車の輸送を開始した。トヨタ車 が対象で1列車当たり、クラウンクラス4台を積載できるラック2個とカローラクラスを5台積載できるラック2個を用いる。
 輸送列車は、往路の商品車輸送が16時40分名古屋タ発、翌日の6時16分米子着。復路は12ftJRコンテナを積載し、12時12分米子発、翌日の7 時 29分名古屋タ着。 JR貨物では商用車を、1日当たり16〜18台、月360台、年間4,400台の輸送を見込んでいる。

※かつては幹線筋の大量輸送を担った車運車クに依る鉄道貨物であったが、現在では船だと遠回りになる日本海側で輸送量もそれ程多くない部分の補助的な輸送 を担っている印象である。

◆軽自動車のコンテナ輸送

*軽自動車 本格輸送スタート 鉄道コンテナ初*[24]
 鉄道コンテナによる国内初の軽自動車輸送が1996年5月14日、東水島駅から新潟貨物ターミナル駅までの区間で本格的に ス タートを切った。JR貨物の子会社「JRF・エンジニアリング」が開発した軽自動車専用の「ワイドコンテナ」を使い、倉敷市内の 三菱自動車工業水島工場で生産された軽自動車の完成車を新潟向けに運ぶ。
「ワイドコンテナ」の長さは7.45メートルで、従来の5トンコンテナ2個分の24フィートに相当。幅は5トンコンテナより51センチ大きい2メートル 95センチ、高さは2メートル45センチ。幅を広くしたことで、軽自動車のサイズだと列車の進行方向に2台づつ2列に並べて計4台を積載できる。
 側面はシートに覆われており、支柱が「く」の字型に曲がる構造。目的地に到着後は折り畳んで回送する仕組みで、従来のコンテナの概念を打ち破った。しか も、軽自動車だけでなく農業用車両やバイクなども積むことが可能。軽自動車は三菱自工のモータープールから自走し、隣接する倉敷貨物ターミナル駅でワイド コンテナに積載。東水島駅で列車に仕立てられて22時5分に出発、翌日19時27分に新潟貨物ターミナル駅に着く。到着後も自走してトラックに積み替え、 販売会社のモータープールに納入される。このようにワイドコンテナの輸送区間はレール上に限定されており、「戸口から戸口へ」という考え方に基いた鉄道コ ンテナの一貫輸送とは大きく異なる。
 1996年3月から試験輸送を始めており、これまでに常時4個を運用してきた。現在は1列車に2個(軽自動車8台)を積み、週3回のペースで運んでい る。 新潟に4個のコンテナが着いた時点で4個分を重ねて1つにまとめ、東水島まで回送している。7月下旬には8個まで倍増する予定で、毎日2個の輸送体制が実 現する。

 軽自動車4台積みの24ft「ワイドコンテナ」UM21Z型が1996年に誕生し、倉敷タ〜新潟タのルートで1日2〜3個がコキ100系に積まれ て 輸送されていた。しかし 1998年軽自動車の規格変更で積めなくなり、その後は5トン汎用コンテナに合った専用パレットに軽自動車 を載せて、1コンテナ1台の輸送 となり継続している。[16]

※「ワイドコンテナ」は輸送方法や設計に新機軸を盛り込んだ面白いコンテナだったのだが、わずか2年後に規格変更で使えなくなるとは情けない。規格 変更の情報は把握していなかったのだろうか?
幸い、12フィートコンテナによる軽自動車輸送が開始されていたから継続できたが、傍から観察している身にとって冷や汗が出る話だ。それにしても特殊コン テナは新しい需要を発掘できるが、柔軟性に欠ける嫌いがある。汎用コンテナを柔軟に使うことの方が確実である、という面もあるのかもしれない。

*12フィートコンテナによる軽自動車輸送*[25]
 JR貨物では12フィートコンテナによる軽自動車の輸送をJRFエンジニアリングと共同で開発してきた。この方式は、軽自動車専用パレッ ト (2輪車も積載可能)に軽自動車を1台載せて固定し商品の安全を確保しつつ、荷役効率を高める。積み付け試験と輸送試験の結果は良好であった。
そこで1996年11月12日から、ダイハツ工業(筆者註、ダイハツ車体)の群馬工場から 鹿児島・熊本・長崎 の販売会社へ、この方式を用いた出荷が始まる。発駅は倉賀野で、毎日各2台づつを輸送する。従来は船かトラッ クで輸送していたが、コンテナの毎日輸送で納期短縮・在庫負担軽減を図れるとのことだ。
また新規ルートとして秋田・米子・金沢などの空コン回送地区への発送を要請している。

*新車物流センター開設*[26]
 水島臨海鉄道が新規事業の1つとして建設していた倉敷貨物ターミナル駅構内に建設していた「水島新車点検物流センタ ー」が完成、1998年9月1日から共用を開始した。三菱自動車工業を長期契約テナントに迎える。車扱の基地であった倉敷 タ駅はコンテナのシフトに伴い、スペース的に余裕を生じていた。そうした中、沿線の水島製作所で生産する軽自動車の 鉄道輸送を請け負った縁で三菱自工とつながりが生まれ、それが今回の物流センター建設に結びついた。水島製作所に 隣接した新センターは約1万3,000平方メートルの用地に延べ床面積約3,000平方メートル、鉄骨造り一部2階建ての施設を メーンに、モータープールやガソリンスタンドなどを併設。三菱自工では新車をオーナーに納車する際、これまでカーステレ オなどのオプション用品をそれぞれの地区の販売会社で取り付けていたが、今後は新センターで一括装備するとともに点 検を済ませ、納期のスピードアップと業務効率化、経費節減の「一石三鳥」を果たすことにしている。工費約4億円で契約 期間は20年。水島臨海鉄道では、引き続き三菱自工側に完成車や部品輸送への鉄道利用を働きかけていく考え。

その後、一部の軽自動車はコンテナに載せての鉄道貨物輸送が始まっている。[27] 1998年8月9日に倉敷貨物ターミナル駅を訪問。

 上屋内にコンテナ車があり、荷票は自動車:東水島(三菱自車)→新潟タ(日通新潟)、18D、19B、19Dコンテナなどで、コキ104 系 2両に満載であった。
 荷票から察するに倉敷タ〜東水島は線内輸送であり、倉敷タ駅はコンテナ扱いをしていないという輸送体系なのであろう。

*12フィートコンテナによる軽自動車輸送の拡大*[28]
 1998年には、軽自動車輸送は12フィートコンテナで42個にまで拡大し、JR貨物では専用パレットを190枚保有している。そして運用の効率化を図 る ため、4枚毎に回収している(本来は10枚まで12フィートコンテナに積載することができる)。輸送ルートは以下の通り。

発駅
着駅
荷主 (含筆者予想)
倉賀野
熊本
長崎
鹿児島
米子
ダイハツ工業
熊谷タ
米子
富士重工業
梅小路
新潟タ
米子
ダイハツ工業
大阪タ
新潟タ
ダイハツ工業
東水島
新潟タ
金沢
三菱自動車工

到着個数が多いのは、新潟(タ)が20個、米子が11個など。

 2000年11月に三菱自動車ロジスティクス第2種鉄道利用運送事業の許可を取得した。拠点駅は郡山貨物 ター ミナル駅 で、利用運送事業者は日本通運。[34]
※軽自動車輸送の着駅拡大か?

*貨物バラエティ コンテナは新車のギフトボックス*[41]
 倉敷市の三菱自動車叶島工場で、今最も売れ筋のクルマは軽自動車のeKワゴン。セミトール型で広いスマートな室内、衝撃に強い幅広バンパーに加えて運 転席・助手席にエアバックを標準装備する高い安全性、また2010年の燃費基準にも適合する超低排出ガス等々が、人気の所以である。
 工場近くの三菱自動車ロジスティクスのモータープールには、完成 したばかりのクルマが区画毎にびっしり整列していた。どのクルマもボンネットとルーフのところに、傷や汚れから保護する白いシートが貼られている。クルマ の前後左右は50cmあるかなきか−構内運転・輸送を請負う日本梱包運輸倉庫鰍フ運転技術は脱帽ものだ。
 新車たちは、同所に止まること1〜2日で日本国内各地を始め、世界各国に輸出されていく。その輸送手段は主に船、キャリアカーだが、軽自動車輸送には鉄 道コンテナも使われている。隣接する水島臨海鉄道鰍フ倉敷貨物ターミナル駅か ら、毎日15個前後の12ftコンテナで、新潟・金沢へ運ばれている のだ。
 モータープールの一画に集められた鉄道で輸送するクルマを、日本梱包運輸倉庫のドライバーが1台ずつ運転して駅に届け、軽自動車用の特殊パレット(軽パ レ)に載せる。軽パレと自動車を固定し、フォークリフトでコンテナ積載するのは水島臨海鉄道の役割だ。
 eKワゴンの場合、全長3395mm、全幅1475mm、全高1550mm、重さは800kg前後。12ftコンテナの内寸は、長さ3642×幅 2270×高さ2252mm(19D形式)なので、軽パレに載せたクルマを積むと、まるで誂えたようにぴたりと納まる。
 「鉄道コンテナで運ぶと傷は付かないしリードタイムも早い」と、三菱自動車ロジスティクス鰹譌p車事業部水島事業所青江孝治氏の評価も高い。
 販売会社にはフォークリフトがないので、クルマは着駅の新潟(タ)金沢(タ)でコンテナから取り出し、軽パレから下ろしてキャリアカーで配送す る。そのため、三菱自動車ロジスティクスではキャリアカー1台にまとまるように輸送オーダーしているそうだ。

◆乗用車輸送用新型コンテナ

*JR貨物が開発着手 車種問わぬ汎用性 1997年春新ダイヤの目玉に*
[24]
 JR貨物は、自動車輸送用の新型コンテナの開発に着手した。同社の自動車コンテナは現在、積載する車種に応じて「カーラック」「ワイドコンテナ」の2種 類 が運用されているが、新型コンテナはこの両タイプに続く第3世代となる。バイクや軽自動車から大型ワゴン車に至るまで、乗用車であれば車体の大きさに関係 なく積載が可能なため汎用性も高く、効率輸送につながるものと期待されている。JR貨物では1997年3月のダイヤ改正を目途に実用化する考え。
 カーラック、ワイドコンテナともにコンテナ化した輸送形態であるため、駅での積み卸し作業が容易な上、行きは自動車、帰りは別の荷物という具合に往復の 効 率輸送が可能となる。全体を覆うカバーも付いており、輸送中に車体の塗装を傷めないなどのメリットもある。ところが、カーラックは小型自動車しか積載でき ず、ワイドコンテナは軽自動車以外にオートバイや農業用トラクターなどの軽車両が積み込める程度。多様な車種に対応するという汎用性という点では課題も 残っていた。
 新型コンテナには、車体の大きいワンボックスカーなどのレジャー用RV車を積載し、輸送量の底上げを図るという狙いもある。RV車は昨今のアウトドア ブー ムで生産台数も伸びているが、従来型コンテナでは乗用車に比べ車高が高くなり積載できないためだ。JR貨物では「今やRV車は国内の乗用車生産の25%を 占め、輸送需要も大きい」(営業部)としており、新型コンテナを1997年3月のダイヤ改正の目玉商品とする考えだ。    

※結局、このコンテナは開発に失敗(または中止)したのか?目玉商品にする予定だったようだが。現在も開発の検討はしているのだろうか。

◆JR貨物後の鉄道による自動車輸送のまとめ
<作成中>

Bバイク輸送 

<1.国鉄時代>

*ワム80000形式 オートバイ輸送用物資別適合貨車*[29]
 1968年浜松貨車区がワム83750号車を使用して試験的に改造したものを基礎として、その後日車で58300〜583011の12両が製作された。 そ の構造はオートバイを2段積みできるように棚を設けてあり、復路一般貨物を積載できるように棚を床面高さ1840mmまで可動できる構造になっている。

 1971年4月西浜松駅開業、コンテナ・自動車オートバイ鉄鋼など物資別貨物を主体とする基地で、将来 年間130万トン能力に増強する 予定である。[2]


<2.JR貨物後の輸送>

*二輪車の輸送形態別輸送台数・輸送比率* 各年の『日本物流年鑑』ぎょうせい発行、から筆者が作成

貨車
積載車
船舶

1988年度
0
0.0%
1,649,979
93.9%
107,936
6.1%
1,757,915
1989年度
15,106
0.9%
1,520,201
91.0%
134,838
8.1%
1,670,145
1990年度
49,156
3.1%
1,368,644
86.3%
167,649
10.6%
1,585,449
1991年度
57,020
3.7%
1,268,178
82.5%
212,041
13.8%
1,537,239
1992年度
88,047
6.5%
1,037,463
77.2%
219,116
16.3%
1,344,626
1993年度
77,433
6.4%
943,752
77.6%
195,137
16.0%
1,216,322
1994年度
45,016
3.8%
988,620
83.4%
152,468
12.9%
1,186,104
1995年度
79,726
6.6%
999,724
82.5%
132,336
10.9%
1,211,786
1996年度







1997年度
74,786
3.5%
1,995,923
92.1%
95,775
4.4%
2,166,484
1998年度
82,712
3.7%
2,065,142 
92.6%
82,851
3.7%
2,230,705
※国内販売分の輸送台数、1997年度から統計手法が変更か?
※1992年には積載車輸送のシェアが77%まで下がり、モーダルシフトが進展していた。しかしその後、船舶のシェアが大きく落ち込み(鉄道へのシフトも 考えられる)、積載車のシェアが大きく伸びた。またその一方で貨車のシェアは船舶と同じとなり、バイク輸送においては鉄道輸送は一定の存在感を持っている と言っても過言でないのでは。さらに99年度にスタートし軌道に乗ったという以下↓の輸送が反映した99年度以降の数字が楽しみである。

*1989年にバイク輸送用コンテナ登場*
 1989年度に、バイク輸送専用コンテナU53Aが10個製作された。コキ100系積載限定であるため、区別のため39500番台となっている。 1990 年度も引き続き増備が続けられた。[30]
 所有は日本梱包運輸倉庫(株)で福岡タ〜東京タで運用されている。[15] 熊本にあるホンダの工場からのバイク輸送に使用されていると思われる。

*軌道に乗るバイク輸送 少ない台数でも効率的*[31]
 これまでトラックやフェリーが主役だったバイクのメーカーからの出荷輸送に、1999(平成11)年4月から新しく鉄道コンテナが使用さ れ 始め軌道に乗っている。少ない台数でも効率的に運べるコンテナの機動力を武器に、JR貨物がグループの全国通運、JRF・エンジニアリングの両社と共同で 背高タイプのコンテナとバイクを効率的に積める専用パレットを開発した。現時点では荷主は 本田技研工業1社だが、このほど日本自動車工業 会が主催する見学会も開かれ、さらなる利用促進も期待されている。

 バイクの工場からの出荷には、従来からトラックやフェリーが使われるケースがほとんど。しかし、こうした輸送手段では一度にまとまった量を運ばね ば ならず、着地での在庫量もかさみがち。「もっと手軽に運べる手段があれば鉄道に載せたい」とのメーカー側の意向を、全国通運などがキャッチ。トラックから 鉄道へのシフトを目指し、本社営業部が主体になってコンテナとパレットの開発を進め、数次にわたるテスト輸送でバイクの固定方法やパレットのジョイント部 を改善、このほど実用化にこぎつけた。新たに開発したコンテナは通常の5トン(12フィート)と同タイプながら、高さを2.6mと10cm高くしたのが ポイント。また、バイクを積み卸しする際の安全性を確保するため、前面だけでなく天井の部分も宝石箱のように開閉可能。目的地に運んだ帰路は、もちろん通 常のコンテナとしても使える。

 一方のパレットは鋼製で、二段積み方式を採用。小型から大型まであらゆるサイズのバイクに対応でき、大型バイクはコンテナ1個に6−8台。小型は 20台まで積載。これまでの一段積みに比較して輸送効率を大幅にアップしたことから、結果的に1台当りの運賃を下げられる計算。バイクを載せない回送時に は折り畳め、パレット3組分(6個)を1個のコンテナで返送。バイク以外の農機具輸送にも利用可能だ。

 実際の輸送は、熊本〜札幌・盛岡・新潟間と浜松〜札幌・松山間で実施され、熊本発は1日コンテナ2個、浜松発は同じ く 2−3個の輸送量。バイクメーカーは現在、物流効率化を進めているところで、自工会二輪車部会が企画して4月末に西浜松駅で開かれた見学会では、他メー カーも興味津々の様子。JR貨物営業部では今回のバイク輸送を好例に、今後も輸送用具開発による新規荷主開拓に力を入れることにしている。


C自動車部品輸送
  

◆トヨタ自動車系

1997. 4. 6〜4.12 物流ニッポン新聞社
*アイシン精機(株)がコンテナに広告

 JR貨物は10日、貨物コンテナを広告媒体として活用する実験的な取り組みを開始する、と発表した。既に先月29日、アイシン精機(株)を対象 に 無料で実 施。往路が自動車部品、復路はボックスパレットの広告フィルムを張り、 刈谷コンテナセンター〜名古屋〜熊本の区間でコンテナ輸送した。同 社ではこの実験を踏まえた上で、広告媒体としての知名度を高め、積極的に展開していきたい考えだ。

 1998年3月11日の刈谷駅において,発駅が熊本(アイシン九州)から刈谷(50.70.安城 西尾)空 ケース を輸送するアイシン精機の広告付きのV18Cコンテナを目撃した。着荷主が意味不明だが,コンテナが広告付きのためアイシン精機だろう。このため同社は自 動車部品をアイシン九州へ送っていると思われる。アイシン九州からトヨタ自動車九州や本田技研工業に納入しているのであろうか?
またこのときには,この他のアイシン精機の広告付きV18Cコンテナの輸送としては,苫小牧から刈谷パレット 又は返送パレットの輸送が多数見られた。

*トヨタ自動車東北
 トヨタ自動車の100%出資子会社「トヨタ自動車東北」が,宮城県大和町の仙台北部中核工業団地に建設していた生産工場で1998年10月26日に完工 式 が行われ,本格的な操業が始まった。同工場はトヨタとしては東北初の生産工場で、ABS(アンチロック・ブレーキ・システム)など電子制御装置3種類を生 産。同工場の東北進出は1990年に計画発表され、1993年から稼働予定だったが、業績低迷などを理由に一時は凍結状態になるなど、計画は大幅に遅れて いた。[a]
 新工場ではABSを月産2万6千個、電子制御式サスペンションを同1万6千本、車高調整装置を同8千個製造。トヨタは全社でABSの20%を内製し,こ の 内の半分を新工場で製造する。環境や安全性を左右する電子部品は今後大きく伸びるという。課題としては部品の現地発注率がゼロの点だ。東 北工場は愛知の本社工場と4日間かけて船で部品をやりとりし、九 州工場(組立工場)には2日間かけて鉄道輸送する。効率重視の同社にとってこれは無駄な輸送コストとリードタイムである。[b]
 トヨタ自動車東北の社長のコメント:「新工場の製品は、親工場の広瀬工場でも扱っていない最新部品である。サスペンションや車高調整装置が標準装備され る ようになれば設備能力をさらに拡大する。出荷先は国内の組立工場である。部品調達については、既に愛知から岩手の関東自動車向け定期路線が確立して いるためこれを活用する。当面地元調達はしない。」[b]

<トヨタ自動車東北を取り巻く大まかな物流> [c] 
愛知県内の
トヨタ関連工場など→部品:船→トヨタ自動車東北→電子部品:船 −−−→愛知県内の関連工場 −−→完成車
                                →電子部品:JR−−→トヨタ自動車九州 −−−→完成車
                                →電子部品:トラック −→関東・東北の関連工場−−→完成車
                                →(将来)電子部品:輸出→米国内の工場
     
※このように船で愛知県内から東北に部品を運んでいるのだが、関東自動車向けも含めて鉄道輸送へ誘致したいところだ。 一方,東北の産業基盤の薄さが「現地の部品調達率ゼロ」に象徴されている。コスト高ならば進出しなければよいのだが、トヨタは愛知に工場が集中しているた め、バブル期にはリスク分散の観点から北海道や東北,九州に工場を分散させることにした。北海道や九州は、東北よりも早く工場ができたが東北は凍結さ れたままで進出が危ぶまれていたようだ。しかしトヨタは工場進出の撤回によって企業ブランドに傷が付くのを恐れ工場を建設することで東北地区でのイ メージ向上からシェア拡大を狙っているようである。つまり東北工場は巨大な広告塔の役割を担う面もあり、そのための輸送コスト等は安いものだと考えている のであろう。

[a]読売新聞(仙台版)1998年10月27日、27面
[b]日本経済新聞(東北経済面)1998年10月27日、33面
[c]朝日新聞(仙台版)1998年10月27日、27面
 

輸送経済新聞社 '01.4.24
*JR貨物と太平洋F、フェリーに鉄道コンテナ/災害時輸送の受託を条件に
 長距離フェリーに常時、鉄道コンテナが積載される可能性が出てきた。日本貨物鉄道(=JR貨物、本社・東京、伊藤直彦社長)の東海支社(大森寿明支社 長))が、太平洋フェリー(同・名古屋市、板倉康祐社長)と緊急災害時の業務提携について具体的な交渉に入っている。
 再三にわたり、豪雨や地震で鉄道輸送が寸断される事態が起き、荷主や特積み輸送業者のJR貨物離れが進行。荷主の信頼を確保するため、“物流切断”を何 と しても避けたいとするJR貨物側が、非常時の代替輸送手段として長距離フェリーに注目し、太平洋フェリーに協力を要請した。太平洋フェリーは当初、「災害 時は、ほかの荷主も困っている。JR貨物だけ優先することはできない」として交渉は棚上げに。そのため、東海支社では平常時もコンスタントにコンテナ貨物 輸送を太平洋フェリーに委託するという条件を提示した。支払い運賃による若干の出血も覚悟してのことだ。
 太平洋フェリーは「互いに困った時に助け合い、円滑な輸送を全うする」との条件を掲げ今月、1便3個のコンテナ輸送の見積もりとして22万円を提示。月 内 に、あらためて話し合いの場を持つ。
 JR貨物が危機感を深めている背景には、相次ぐ輸送障害を嫌気した荷主や通運業者のJR離れがある。東海支社管内では昨年、名鉄運輸が北 海 道向けコンテナ輸送を新日本海フェリーに切り替えた。さらに 今年4月からはトヨタ自動車の北海道への自動車部品補給コンテナ輸送の仕事がなくなった。いずれも、JR貨物の緊急時における輸送危機管理体制の 不十分さが主因。
 交渉は一歩前進したが、解決すべき課題もある。太平洋フェリーは「フェリー利用の荷主からクレームが発生しないか。その説明を納得してもらえるか。鉄道 に 荷主をもっていかれないか」と心配する。 一方のJR貨物にも「名古屋地区からのコンテナ輸送需要は見込めるものの、北海道から常時、フェリーを使うほど の 需要があるか」との不安がある。いずれにせよ、両者にとり初めての試みだけに、今後も曲折が予想される。

輸送経済新聞社 '01.5. 2
*岡崎通運、鉄道コンテナ急拡大/荷主のシフト受け
 岡崎通運(本社・愛知県岡崎市、細川道治社長)が通運事業を拡大させている。大手荷主のコンテナ鉄道輸送の利用が前期に大幅に伸びた。同社ではトラック 輸 送とともに、通運を今後の成長分野と見て、ほかの荷主にも営業を推進していく考えだ。従来、年間の通運分野の売り上げは数千万円程度で、社名には通運の名 を残しているものの、ほとんどをトラック輸送が占めていた。
 通運拡大の契機は最大手荷主のモーダルシフト。昨年10月、最大手荷主のフタバ産業(本社・愛知県岡崎市)が岩手県に平泉工場 を新設、平泉と愛知県下の間の輸送を鉄道コンテナ切り替えたことによる。さらに岡崎通運が元請けでトラック輸送していたトヨタ自動車 九州工場へのフタバ製品の輸送もコンテナに切り替わった 。平泉へのコンテナ輸送では、ほかの荷主の貨物も混載、扱い量も増えてきた。平成12年度は1億円を超える収入を通運で上げたもよう。今期は年間フルにコ ンテナ輸送を実施するため、さらに売り上げは増える。
 着荷主の自動車メーカーの拠点再編も見据え、長距離の輸送は積極的にコンテナ化していく。自動車メーカーが「環境重視」の姿勢を鮮明にして、コンテナ利 用 を強めている傾向も追い風だ。
 同社では、今年8月をめどに環境管理の国際規格ISO14001認証の取得を目指す。環境重視の企業方針を打ち出し、多様な輸送手段を荷主にアピールし て いく。

◆マツダ系

*「マツダライナー」運転開始  『鉄道ジャーナル2月号』第24巻第2号,通巻280号,1990年,126頁
 1989年11月2日から西浜松〜東広島で,「マツダ」の貸切による専用コンテナ列車の運行を開始した。これは1989年秋生産を始める軽自動車の部品 を湖西市の下請工場から広島県府中町の本社組立工場に輸送するためで,土・日を除く毎日1往復の運転。往路の数量は1日あたり12フィートコンテナ100 個,復路もボックスパレットの返送のため40個が積載される。今回の契約は4年間に渡るが同一の荷主が通年でコンテナ1個列車を貸切利用するのは,列車の 定時性・低廉性が高く評価された事例として注目を浴びている。

*部品の列車輸送拡大 名古屋分も切り替え  日経産業新聞,1994年11月25日,15面
 マツダはコンテナ列車を利用した部品輸送を拡大する。これまで浜松地区の部品について,専用のコンテナ列車で広島に輸送していたが,12月から名古屋地 区 からの部品もトラック輸送から列車輸送に切り替える。輸送コスト削減との右記の安定性向上を狙う。 1989年にJR貨物の専用コンテナ列車「マツダ号」を利用して東海地区の部品メーカーからの部品輸送を開始した。現在,浜松−広島間を1日1便走らせ, 主に軽自動車「キャロル」用のエンジン・足回り部品を スズキから調達している。
 今回の列車利用拡大では,新たに名古屋−広島間を増便するほか,浜松−広島間を静岡−広島間に延長する。これにより,貨物輸送を利用する部品メーカーは 新 たに 日本電装,ジャトコなど5社程度増え,1995年中に10社程度(現在はスズキなど5社)となる見通し。また,輸送コ ンテナ数は現在の年2万4千コンテナから5万1千コンテナに増えるという。
 マツダによると,貨物輸送はトラック輸送に比べ輸送コストが15%ほど削減でき,部品納入がより安定するなどのメリットがあるという。また今回の貨物利 用 拡大で,大型トラックの利用は1日当たり約30便(年約9千便)減少するため,その分排ガスの減少や幹線道路の渋滞緩和に貢献するとみている。
 同社は今後,関東地区の部品メーカーからの部品調達も貨物輸送に切り替えることを検討している。

*マツダ 軽乗用車 生産中止へ OEM供給に転換検討 朝日新聞、1997年1月11日
 マツダは販売が苦戦している軽乗用車の開発・生産を中止し、スズキからのOEM(相手先ブランドによる生産)供給に切り替える方向で検討を始めた。すで に 軽トラックなどはスズキが生産している車をマツダブランドで販売しており、マツダは事実上、軽自動車の生産から撤退することになる。
 マツダは現在、エンジンを含めた主要部品をスズキから購入し、軽乗用車「キャロル」を生産している。だが1998年10月から、軽自動車の衝突安全性能 に かかわる保安基準が厳しくなることが決まり、メーカー側は車体の長さや幅を伸ばすなど新たな技術開発が求められ、開発コストの増加が予想されている。

*スズキとマツダ 軽自動車のOEM継続 河北新報、2001年5月22日、8面
 マツダとスズキは、スズキからマツダに対するOEM供給契約を継続することで合意した。マツダが販売する軽自動車をめぐっては、米フォード・モーターと ト ヨタ自動車が進める提携交渉の一環として、フォード傘下のマツダがトヨタ系列のダイハツ工業から供給を受けるのでは、との見方が出ていた。
 スズキは「ワゴンR」を{AZ−ワゴン」の車名でマツダに供給するなど、計6車種の生産をマツダから受託している。両社の協力関係維持に伴い、スズキは 次 期OEMモデルの開発に着手している。
両社は1987年、軽自動車の生産協力で合意し、89年にスズキが軽商用車のマツダ向けOEM供給を開始。98年から新規格の軽自動車が発売されてから は、スズキが全モデルをOEM供給している。


D自動車(物流)業界におけるトピック 

*自動車メーカー共同輸送を拡充 1994.4.7日経流通 12面
*日産・三菱も協力 完成車輸送 関東−中部で 1994.5.12日経流通 14面
*物流合理化は宝の山 ダイハツの挑戦 1994.7.28 日経産業 11面

*深浦工場閉鎖検討 トヨタ系の関東自動車 1998.12.16 読売新聞 8面
 トヨタ自動車系の関東自動車工業は、主力工場の1つである深浦工場(神奈川県横須賀市)の閉鎖を検討し始めたことを明らかにした。深浦工場は、トヨタの 小 型乗用車「カローラ」を年間約12万台生産しており、実現すれば、乗用車組立工場の閉鎖としては、95年3月の日産自動車座間工場に続くケースとなる。閉 鎖時期は「カローラ」のモデルチェンジ期に当たる2000年夏をめどに調勢が進むとみられる。
 新車販売の低迷を受けて、深浦工場での「カローラ」の生産台数は、98年上半期で前年同期比24.8%減となっている。生産能力の過剰感が強まっている た め、トヨタグループとして工場再編の検討に着手することにした。

*日産が自動変速機工場分社化 1999.5.15 朝日新聞 10面
 日産自動車は、自動変速機や無段変速機を生産している富士工場(静岡県富士市)を分社化し、6月28日付で新会社「トランステクノロジー」(本社・同 市、 資本金193億円)を設立した。日産の100%出資で、社員は日産から3,900人出向する。また日産は1999年中に、新会社とグループの自動変速機 メーカーであるジャトコを合併させる。合併後の新会社には、外国メーカーからの出資を受け入れる方針。

*岩手でトヨタ車増産 仙台港から輸送へ 2000.8.28 河北新報 22面
 トヨタ自動車系列の関東自動車工業岩手工場(岩手県金ヶ崎町)で、2000年10月から増産されるトヨタ車(乗用車)の約8割が、従来通り仙台港を経由 し て、関東、中部方面に海上輸送される見通しが強まった。トヨタ側に仙台港の利用を働きかけてきた宮城県は、「東北の物流拠点港としての発展に一層の弾みが 付く」として歓迎している。
岩手工場では、「マークK」や「アルテッツァ」などの乗用車の組み立て作業を行っており、年間の生産台数は約10万台。このうちの2割は釜石港から海上輸 送しているが、残りの8割については東北自動車道を利用して仙台港まで陸送し、仙台港から船積みしている。
 トヨタ自動車はリストラ策の一環として、7月に関東自動車工業の横須賀工場を閉鎖し、10月から岩手工場に生産を集約させる。これに伴い、岩手工場の一 日 当たりの生産規模は、現在の400台から700台に増えると見られる。トヨタ自動車車両物流部は「増産、輸送計画はまだ検討中だ」としながらも、「関東、 中部方面から仙台港に車を陸揚げした船の帰りの作業効率を考えると、これまで通り、仙台港がメーンの積み出し港になるだろう」と話している。

*トヨタ車・日産車を共同輸送 2001.8.18日経 1面


*註
[1]『鉄道貨物輸送近代化の歩み』貨物近代化史編集委員会編、日本貨物鉄道株式会社発行、1993年
[2]『日本国有鉄道百年史 第13巻』日本国有鉄道、1974年
[3]『貨物』第16巻第10号、鉄道貨物協会、1966年、18〜22頁
[4]遠藤 浩一「仙台地区の自動車輸送の記録から」、『鉄道ピクトリアル』第46巻第10号、通巻第627号、1996年、94〜95頁
[5]遠藤 浩一「30年の歴史に終止符をうったク5000形」、『鉄道ピクトリアル』第46巻第10号、通巻第627号、1996年、106〜107頁
[6]『鉄道ピクトリアル』第17巻第2号、通巻第193号、鉄道図書刊行会、1967年、71頁
[7]『仙台臨海鉄道のあゆみ(20年間の資料を中心として)』仙台臨海鉄道株式会社、1990年、56〜59頁
[8]『越後の停車場』朝日新聞社新潟支局編
[9]『神奈川臨海鉄道30年史』神奈川臨海鉄道社史編集委員会編、神奈川臨海鉄道株式会社発行、1993年
[10]鎌倉 和浩「臨貨『ニッサン号』運転」、『鉄道ピクトリアル』第35巻第11号、通巻第455号、1985年、118〜119頁
[11]『創業25年のあゆみ』事業開発室編、神奈川臨海鉄道株式会社、1988年
[12]吉元 裕幸「ク5000形の臨貨再運行」、『鉄道ピクトリアル』第36巻第7号、通巻第466号、1986年、90頁
[13]鎌倉 和浩「金沢へ自動車輸送列車」、『鉄道ピクトリアル』第37巻第5号、通巻第479号、1987年、112頁
[14]交通新聞、1993年11月29日付、2面
[15]『鉄道ジャーナル』第27巻第12号、通巻326号、53頁
[16]『鉄道ダイヤ情報』第30巻4号、通巻203号、2001年、20頁〜24頁
[17]運輸タイムズ、1998年3月2日付
[18]『鉄道ダイヤ情報』第24巻11号、通巻139号、1995年、37頁
[19]交通新聞、1991年10月16日付
[20]『鉄道ジャーナル』第27巻第12号、通巻326号、52頁
[21]『新車年鑑 1996年版』鉄道ピクトリアル臨時増刊号、通巻第628号、76頁
[22]JR貨物社内報『ぽるて』No.108/平成8年3月1日、3面
[23]交通新聞、1997年3月12日付
[24]交通新聞、1996年5月23日付、3面
[25]『Monthly かもつ '96.12』2頁(鈴木 康弘氏が運営されるweb「日本の鉄道貨物輸送」より http://homepage1.nifty.com/yswww/rekisi/1990/1996_11.html#car
[26]交通新聞、1998年9月8日付、1面
[27]交通新聞、1998年10月28日付、3面
[28]運輸タイムズ、1998年4月27日付(鈴木 康弘氏が運営されるweb「日本の鉄道貨物輸送」より http://homepage1.nifty.com/yswww/rekisi/1990/1996_11.html#car
[29]『鉄道ピクトリアル』第44巻第4号、通巻第589号、鉄道図書刊行会、1994年、44〜45頁
[30]『新車年鑑』1991年版と1990年版、鉄道ピクトリアル臨時増刊号
[31]交通新聞、1999年6月18日付、3面
[32]日経産業新聞、1994年12月9日付、19面
[33]日本経済新聞、1984年10月12日付、9面
[34]カーゴニュース、2003年2月27日付、74頁
[35]交通新聞、2002年5月8日付、2面
[36]交通新聞、2003年4月22日付、3面
[37]交通新聞、』2004年4月16日付、2面
[38]『JR貨物ニュース』2005年3月15日号、2面
[39]『創立40周年を迎えて(最近10ヵ年のあゆみ)』神奈川臨海鉄道株式会社、2003年
[40]『近畿地方の日本国有鉄道 大阪・天王寺・福知山鉄道管理局史』大阪・天王寺・福知山鉄道管理局史編集委員会、2004年、177〜178頁
[41]『JR貨物ニュース』2004年2月15日号、6面
[42]『秋田臨海鉄道30年のあゆみ』秋田臨海鉄道株式会社、2001年

※「新貨車通信」(http://www.kururin.jp/bbslog/log-s200109.htm) の過去ログには、自動車輸送に関する興味深い議論がある。参照されたい。



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