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両毛丸善株式会社
2019.12.7作成開始 2019.12.8公開
《目次》
はじめに
会社設立と佐野油槽所の建設
館林油槽所の建設と開業
鉄道貨物輸送の廃止
最後に


北館林荷扱所2000.3
■はじめに  
 「両毛丸善株式会社」、「北館林荷扱所」…共に一度聞いたら忘れられない響きがある。丸善 荷扱所≠ノは「昭和」を感じるし、北館林≠ノは北関東特有のあの茫漠な風景をも 目に浮かぶ。

 無論、鉄道貨物輸送に興味がある者には、馴染み深い名だろう。大手民鉄で唯一残っていた東武鉄道の定期貨物列車における最後の荷主であり、その輸送先で あ るからだ。両毛丸善(株)の内陸油槽所は、田園地帯に屹立と聳え立つ幾つもの石油タンク群を擁し、大手石油元売会社の内陸油槽所にも引けを取らない大規模 なもので、圧倒的な存在 感があった。

 そんな同社の内陸油槽所と鉄道貨物輸送に対する熱量には、並々ならぬものがあることは、2015年に発刊された『両毛丸善グループ創立60周年記念誌』 の記 述からも充分に窺える。同社の社史を紐解きながら、その歴史と密接に結び付く鉄道貨物の輸送体系を纏めて いくことにする。

羽生〜川俣1995.4

川俣〜茂林寺前1995.7
急行越前様から東武鉄道の石油専用貨物列車の貴重な写真を提供し ていただきました!!
ありがとうございま す!!(2019.12.9)


■会社設立と佐野油槽所の建設  
 両毛丸善(株)が会社として成長する鍵となったのは、油槽所の設置であった。栃木県という内陸に立地する石油販売業者にとって、油槽所の有無が販売力に 直結したようだ。東武鉄道佐野線・堀米駅に丸善石油(株)の専用線が存在したことは、「専用線一覧表」から分かるのだが、このようなマイナー な駅(失礼!)に油槽所を設けた背景には、両毛丸善(当時は前身の長谷商店)の意図が大きく働いていたことが、社史から明 らかに なった。同社にとって、油槽所の 設置と専用線敷設によるタンク車輸送の確保は、会社の命運を賭けた一大事業であり、その後の飛躍的な成長に結び付き、大成功を収めたというわけだ。

年 月
出  来  事
1958(昭 33)年
4月
前身であ る(株)長谷商店が設立([1]p10)
1959(昭 34)年
8月
3号店の 大間々給油所を開業。足尾線・大間々駅の隣に油槽所を建設し、 専用線を敷設して貨車輸送を行うことを丸善石油(株)に掛け合うも拒否([1]p11)
この頃
葛生の大 手セメント会社でC重油の貨車単位の需要はあったが、低温での長時間輸送や貯蔵に難点があり、半日以上スチームで加温しないと
荷卸しができなかった([1]p11)

東武鉄道佐野線・堀米駅北側の砂利運搬用に敷設され、使用されていな い側線を油槽所建設用地として着目

 *長谷商店は、佐野に油槽所を作りC重油を貨車で運び、加温してすぐに使えるC重油として売れば、加温設備を持たない中小需要家にも売れる見込みであっ た
 *丸善石油は、石油精製量の増加によりC重油の販路確保に頭を悩ませていた
 *東武鉄道は、鉄道からトラック輸送への代替が始まり、貨車輸送需要の減退に対抗する増強策を講じようとしていた

3社にメリットがある絶妙なタイミングでの提案となった([1]p11-12)
1959(昭 34)年
12月
佐野油槽 所が丸善石油が保有する形で開設された。砂利運搬 用の側線と野積みされたトラック100台分の砂利の撤去費用は長谷商店が負担([1]p12)


佐野油槽所([1]p12)
【開設当時の設備概要】

《貯蔵タンク》
ガソリン:100kl×1基
灯油:100kl×1基
軽油:100kl×1基
B重油:100kl×1基
C重油:100kl×1基

《付属設備》
引込側線(100m)、タンク車受入場、ピット、ポンプ設備、ボイラー室、
ドラム缶詰場、危険物倉庫、ドラム缶置場

《車両》
6klタンクローリー2台(白・黒)、平ボディートラック1台

油槽所の運営管理を長谷商店で受託し、受託料として一定の収益が得られるようになった([1]p12)

同時期に本社を大間々給油所から佐野油槽所に移転した。エーザイ日本カーリット理研鍛造日本ドロマイト田沢工業等の大口顧客、
林商店村上石炭といった栃木県内の丸善石油特約店まで、遠くは宇都宮、西那 須、前橋、渋川方面まで代行配送を始めた([1]p12)

当時は、新興駅に専用線のあった丸善石油(株)横浜油槽所〔1950年1月開所
(※ 拙web「コスモ石油」参照)〕 からタンク車で石油が到着していたと思われる。
1963(昭38)年
9月
京葉臨海鉄道が開業、浜五井駅丸善石油(株)千葉製油所[現、コスモ石油(株)千葉製油所]専用線か ら石油類の出荷開始([2] p122)
これにより発送場所が新興駅から浜五井駅に変更となったと思われる。

開設当初 は全ての業務を長谷商店が行っていたが、取扱量増加に伴い丸善石油からも社員が常駐するようになった。施設と在庫管理は丸善石油、
貨車の受入作業と配送業務を長谷商店で分担することになった([1]p12)


タンク車の荷下ろし風景([1]p13)
 タンク車は 重油30k、ガソリン・灯油・軽油は10〜20klの容量で、1日平均2〜3両の
受入作業であった。([1]p13)

 堀米駅までは東武鉄道の機関車で牽引され、駅で切り離されたタンク車は、
油槽所の受入場まで電動ウインチで引き込むが、体力を必要とする危険な作業であり、
後にスイッチャー牽引に切り替わった。([1]p12-13)
l

後年、丸善石油の社員は引き上げ、運営の全てを長谷商店で行うことになった([1]p13)
1968(昭 43)年
2月
(株)長 谷商店から両毛丸善(株)に社名変更


▽堀米駅の貨物取扱量(トン)推移
年  度
発 送
到着
合 計
1971 (昭46)
10,111
70,754
80,865
1972 (昭47)
11,113
80,710
91,823
1973 (昭48)
11,410
71,949
83,359
1974 (昭49)
9,288
64,745
74,033
1975 (昭50)
10,323
72,948
83,271
1976 (昭51)
10,197
75,536
85,733
1977 (昭52)
11,801
88,060
99,861
1978 (昭53)
6,811
60,498
67,309
(『栃木県統計年鑑』より作成)

1978(昭 53)年
10月
館林油槽 所移転により佐野油槽所閉鎖
3回の増設工事により、この時点で500klタンク3基、300klタンク5基、200klタンク2基の合計10基、最大貯蔵容量3,400klと開設当 初の6倍超の規模に拡大([1]p13)


■館林油槽所の建設と開業  
 佐野油槽所は、東武鉄道の合理化によって移転を余儀なくされ、新たに館林油槽所が建設されることになり1978(昭53)年10月に完成したが、引き続 きタンク車輸 送が可能な場所を確保できたのは幸いであった。時期的には全国的に油槽所の新増設ではなく、集約化が進行し始めていた頃であり、共同油槽所や大型臨海油槽 所の設置と内陸 の小規模 な油槽所の閉鎖が相次いでいたタイミングである。

 内陸への輸送手段であるタンク車輸送は合理化の対象となりやすく、この頃、新規にタンク車輸送を始めた石油関係の鉄道貨物輸送としては、1977(昭 52)年12月に開通した 釧路開発埠頭・西港駅の東西オイルターミナル(株)、日本石油(株)等の専用線を発地とする輸送(北埠頭駅からの移管がメイン)、1981(昭56)年 10月に盛岡貨物ターミナル駅に開業した日本オイルターミ ナル(株)への輸送(盛岡地区の集約化)といった程度に過ぎない。

 一方で、館林油槽所の開業によって両毛丸善(株)向けのタンク車輸送が大きく増加したことは、統計資料から確かめられる。上記の堀米駅の到着量は年間7万〜8万ト ンで推移しているが、館林油槽所向けのタンク車による石油輸送量は、ピーク時の1994(平6)年度には、年間34.5万トンに達している。実に4〜5倍の輸送量に増加し たわけだ。(※油槽所の最大貯蔵容量も4.5倍程度に増加)

 館林油槽所の貯蔵能力15,150klと言うのは、日本オイルターミナル(株)松本営業所の15,340klに匹敵し、確かに「内陸最大規模」と言って も過言では無い(※因みに日本オイルターミナル(株)における最大は宇都宮営業所の24,950klである)。そのような 規模の油槽所が、共同油槽所でもなく、石油元売会社でもなく、一地方の燃料販売会社が保有していたことに改めて、吃驚してしまう。そのような規模でかつ、 関東平野の奥まった立地でもあるからこそ、タンク車輸送を必要としたのであろう。

昭和40 年代
後半
東武鉄道 から合理化のため、堀米駅の無人化の申し入れがあ り、石油輸送の確保を要請
北館林荷扱所のカルピスの側線を一部借りること、貨物専用駅のた め将来的にも継続使用が可能との助言を受け、全面移転が決定([1]p38)
1977(昭 52)年
8月
館林油槽 所が着工([1]p38)
1978(昭 53)年
10月
内陸随一の館林油槽所が完成。総工費6億5千万円をかけた一大事業で あった([1]p38)


館林油槽所([1]p39)
【開設当時の設備概要】

《貯蔵タンク》

ガソリン:1,000kl×2基
灯油:1,000kl×3基
軽油:1,000kl×2基
LS-A重油:350kl×1基
A重油:950kl×1基
B重油:950kl×1基
LS-C重油:950kl×1基
C重油:950kl×1基
合計12基 貯蔵可能な仕様容量11,150kl

《付属設備》
ローリー充填所:4ピット6レーン、ドラム充填所:1ピット1レーン、タンク車受入場

《車両》
タンクローリー23台(白・黒)

タンク車受入ピットは5カ所、両サイドから一度に10両の タンク車受入が可能だった([1]p40)
1984(昭 59)年
12月
従来は 14klのローリー(単車)が主体だったが、トレーラー式20klタンクローリーを初導入し、ローリーの大型化に着手([1]p101)
1987(昭 62)年
11月
両毛丸善 の館林LPG基地が竣工([1]p58)
鉄道貨物輸送とは無関係だった模様。
1988(昭 63)年
4月
出荷量増 大に伴い、北側に隣接の他社保有の油槽所を買収し、拡張した。数年間閉鎖したままのため老朽化が激しく、更地にしてからの拡張工事であった([1] p41)
1988(昭 63)年
8月
5億円を 投じ、1,000klタンク4基を増設し、最大15,150klの 貯蔵能力を誇る、内陸最大規模≠フオイルターミナルが完成 した([1]p41)
館林油槽所の全体図(増設部分を含む)([1]p41)

この当時すでに1日あたり30両のタンク車を受け入れてい た。当時の総販売量は年間37万klを超えていた([1]p41)


▽コスモ石油(株)千葉製油所から北館林荷扱所向け石油輸送量(千ト ン)の推移
1983
(昭58)
1985
(昭60)
1988
(昭63)
1989
(平元)
1991
(平3)
1992
(平4)
1993
(平5)
1994
(平6)
1995
(平7)
1996
(平8)
1997
(平9)
1998
(平10)
197.4
234.1
295.1
309.8
330.9
334.1
341.1
345.3
342.6
344.7
342.0
343.0
([2]p124、[4]p70)


■鉄道貨物輸送の廃止  
 1990年代は年間30万トン以上を維持し続けて、安定した輸送需要 を見せていた両毛丸善の石油輸送は、2000年代に入るとあっという間に廃止へと突 き進んでしまい、2003(平15)年8月に実質的に消滅した。それと同時に、かつては私鉄第一位の貨物輸送量を誇ったこともある東武鉄道の鉄道貨物輸送 も全廃と なっ た。

 また、偶然であろうが、西日本でも同じくコスモ石油系の上原成商事(株)向け石油輸送(守山駅着)が、同時期の2003年3月末に廃止となっている。こ の輸送も年間約20万トンと非元売会社の油槽所としては、か なりの輸送量があった。

 東西の主要なコスモ石油系列の燃料販売会社向けタンク車輸送が、同時期に姿を消したのは何やら因縁めいているが、この頃から鉄道による石油輸送は、日本 オイルター ミナル(株)を中心とした共同油槽所への集約が加速し、輸送体系が大幅に再編されていった。1990年代に漸減傾向を示していた鉄道による石油輸送は、 2000年 代 初頭は900万トン台で微増するなど一瞬下げ止まったかにも見えたが、それ以降、国内の燃料油需要のピークを過ぎたことも相まって一気に減少し、近年は 600万トン台にまで縮小した。これは1960年代前半の水準であり、半世紀前のレベルにまで落ち込んだという状況だ。

 2003年の両毛丸善向け石油輸送廃止は、上原成商事の廃止直後ということもあって、石油タンク車輸送の行く末に不吉な予感を抱いた記憶がある。


羽生〜川俣1995.7

川俣〜茂林寺前1995.7

渡瀬〜北館林荷扱所1995.4
急行越前様から東武鉄道の石油専用貨物列車の貴重な写真を提供し ていただきました!!
ありがとうございま す!!
(2019.12.9)

1990 年代
東武鉄道 より合理化のため、貨物輸送全面廃止の要求があり、その廃止時期の通告が次第に強まり具体的になってきた

鉄道による輸送コストは、タンクローリーによる製油所からの直送 に比べ割高になっていたが、タンク車35両分(約1,300kl)の
石油を全て陸上輸送へ切 り替えることは容易ではなかった

まずは受け入れ側のSSの地下タンクの大型化を進め、大型タンクローリーによる配送効率を高められるようにした([1] p73)
1997(平09)年
10月
東武鉄道は川俣駅[橋本産業(株)]、上白石駅[住友大阪セメント (株)]の貨物取り扱い廃止。
久喜、北館林荷扱所の2駅のみとなり、実質的に両毛丸善向けの石油輸送のみとなる([5]p186-187)
1999(平 11)年
7月
26kl タンクローリーを導入し、コスモ石油(株)千葉製油所からの直送化を 開始([1]p101)
2001(平 13)年
10月
26kl タンクローリーを9台に増車し、直送を本格化([1]p101)
前橋、伊勢崎、宇都宮、小山地区への配送はコスモ陸運に委託することで調整した([1]p73)
委託しているこの輸送の一部は、日本オイルターミナル(株)を活用している可能性はあるかもしれない。
2003(平 15)年
8月
東武鉄道 の機関車老朽化の ため浜五井〜北館林荷扱所間の石油 輸送廃止([3]p20)
2010年現在の両毛丸善(株)webサイトより

荷入りのタキ6両が実質的な最後の貨物列車となった
([5]p188)


▽コスモ石油(株)千葉製油所から
北館林荷扱所向け石油輸送量(千トン)の推移

1999
(平11)
2000
(平12)
2001
(平13)
2002
(平14)
2003
(平15)
2004
(平16)
313.5
268.1
199.6
127.5
23.5
0.0
([4]p70)

2000.3北館林荷扱所

館林油槽 所の役割は、周辺SSや小口需要家への小口配送拠点機能や災害等の緊急対応のための備蓄機能に変化していくことになった([1]p73)



2009.9両毛丸善(株)館林油槽所
■最後に  
 両毛丸善(株)の館林油槽所向け石油輸送は、「JR貨物などでは採算性は 良かった」([5]p187)とのことである が、電気機関車の老朽化など、東武鉄道にとっての鉄道貨物輸送は合理化の対象でしかなかった。逆に考えると、もし館林油槽所クラスのオイルターミナルを、 例えばJR両 毛線沿線の駅に立地させていた場合、JR貨物によるタンク車輸送が継続できた可能性があるのかもしれない。

 両毛丸善は、館林油槽所向けの石油輸送廃止後は日本オイルターミナル(株)高崎営業所や宇都宮営業所を利用している可能性はあると考えていたのだが、社 史の記述からは基本的にコスモ石油 (株)千葉製油所からの直送に切り替えられたようで、残念である(コスモ陸運委託分は分からないが…)。JR貨物や京葉臨海鉄道にとっては、東武鉄道の鉄 道貨物輸送廃止が純粋に減送、減収に繋 がったことになる。

 年間30万トンにも及ぶ輸送需要を逸失してしまった原因が、JR貨物や荷主の意向と関係無く、末端輸送を担う民鉄側の合理化という単純な理由に唖然とす るしかない が、我が国の鉄道貨物輸送が抱える問題の一端を浮き彫りにしているとも言えよう。



[1]『両毛丸善グループ創立60周年記念誌』両毛丸善株式会社、2015年
[2]『35年のあゆみ』京葉臨海鉄道株式会社、1999年
[3]『創立45周年記念 最近10年の歩み』京葉臨海鉄道株式会社、2007年
[4]『京葉臨海鉄道50年史』京葉臨海鉄道株式会社、2013年
[5]花上 嘉成「東武鉄道 貨物列車ものがたり 3」『鉄道ファン』通巻519号、2004年

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