日本の鉄道貨物輸送と物流: 目次へ
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日本加工製紙株式会社
2016.12.29作成開始 2017.1.5公開
<目次>
■1.日本加工製紙の概要
■2.日本加工製紙の沿革
■3.日本加工製紙の経営破綻
■4.日本加工製紙の鉄道貨物輸送
 ▼4−1.紙輸送
 ▼4−2.原料輸送
1998.8高萩駅 日本加工製紙(株)専用線

■1.日本加工製紙の概要  
 2002年5月に経営破綻をした日本加工製紙。当時、その突然の報道に驚いたものだが、経営はそれ以前より厳しい状況が続いていたとのことで、株価は額 面割れの水準に落ち込み、投資家の間では倒産が噂さ れていた。

 鉄道貨物輸送の面では、同社の主力生産拠点である高萩工場には、常磐線・高萩駅から専用線が引き込まれ、化学薬品の到着を中心とした車扱輸送が行われて いた。常磐線沿線では勿来駅(呉羽化学)や泉駅(福島臨海鉄道)等と並んで高萩駅は新専貨≠フ拠点であった。しかし2001年3月には貨物列車の発着が 無 くなり、専用線は休止状態となった。2001年8月に現地訪問をしたが、専用線やスイッチャーは残っているものの、レールは錆びついて雑草に覆われつつあ り、確かに全く使われていない雰囲気であった。そして、それから程なくして経営 破綻のニュースを聞いて、吃驚したものの比較的冷静に受け止められたのも、専用線の使用が停止状態だったためでもある。

 日本加工製紙は、我が国初のアート紙製造会社として設立されたという長い歴史を誇り、高級印刷紙業界の発展と共に同社も成長を遂げたのだが、大手紙パル プメー カー各社が高級印刷紙に参入してきた結果、生産効率に劣る同社の競争力は低下し、設立85年目にして経営破綻という事態に陥った。

 主力生産拠点の高萩工場は、結局同業他社に譲渡され活用されることもないまま、解体撤去されてしまったが、そのことも同社が競争力を失っていたことを強 く示唆していたと言えよう。

本 社所在地
東京都港 区赤坂2-5-27 八千代ビル
設 立年月日
1917 (大正6)年2月22日
資 本金
115億 円
連 結売上高
525億 円(2002年3月期)
従 業員数
785名 (2002年3月31日現在)
主な事業内容
・印刷用 紙(アート紙、コート紙、キャストコート紙ほか)
・雑種紙(気相防錆紙、剥離用紙、複写用紙等の情報産業用紙、磁気カード類ほか)
・化成品(粘着品) 
 の製造販売
※いずれも経営破綻直前の情報

▼ 高萩工場の生産能力
パ ルプ
90,000 トン/年
DIP
72,000 トン/年
原 紙
266,000 トン/年
コー テッド紙・他
272,000 トン/年
『紙 パ技協誌』第55巻第9号、2001年より作成)
▼ 高萩工場の主要製品構成比率
コー ト紙
89%
アー ト紙
5%
タ バコ用紙
3%
エ ンボス用紙
2%

1%
『紙 パ技協誌』第46巻第12号、1992年より作成)
▼出荷先・地域別比率
国 内  86%
輸 出 14%
東 京  67%
大阪  19%
名古屋 14%

『紙 パ技協誌』第46巻第12号、1992年より作成)

1998.8高萩市街地に隣接して立地していた日本加工製 紙(株)高萩工場


■2.日本加工製紙の沿革  
 高萩工場を中心とした沿革は下記の通り。

1954(昭 29)年
高萩パル プ(株)高萩工場設立
1956(昭 31)年4月
第1期ク ラフトパルプ(BKP)設備工事が完了。日本初のLBKP専門工場として操業開始
1957(昭 32)年
第2期 BKP設備が完成し稼働
1960(昭 35)年1月
パルプか ら紙までの一貫生産を目指し1号抄紙機の操業開始、第3期BKP設備操業開始
1962(昭 37)年
2号抄紙 機稼働開始
1965(昭 40)年12月
日本加工 製紙(株)と合併し、日本加工製紙(株)高萩工場としてスタート
1967(昭 42)年4月
1号塗工 機を設置し、原料から高級印刷用紙までの一貫体制を構築
1971(昭 46)年3月
王子工 場・京都工場閉鎖により、3号抄紙機設置
1972(昭 47)年2月
2号塗工 機を新設。京都工場より4号抄紙機を移設
1977(昭 52)年
古紙再生 設備稼働
1978(昭 53)年4月
調木設備 の運転を停止し全量購入チップに切り替え
1985(昭 60)年
8号ボイ ラー燃料を石油コークスと重油の混焼に変更
1989(平 元)年
日立港に チップヤード完成。古紙再生設備増強
1990(平 02)年
勝田工場 含めて原紙自給体制を整えるために5号抄紙 機稼働。製品倉庫増設
1996(平 08)年
古紙再生 設備増強
1997(平 09)年
巻取製品 倉庫増設
1998(平 10)年
巻取包装 能力増強。日立港新チップヤード完成
2000(平 12)年
高萩工場 と勝田工場を統合し、「茨城工場」となる
2002(平 14)年5月
破産宣告 し経営破綻
『紙 パ技協誌』第46巻第12号、1992年『紙 パ技協誌』第55巻第9号、2001年より作成)



■3.日本加工製紙の経営破綻  
 地元紙の『茨城新聞』に日本加工製紙の経営破綻直後に興味深い連載があったので、転載する。

2002 年6月26日付『茨城新聞』
(1)自己破産 寝耳に水の従業員

 「Xデー」は突然、やって来た。2002年5月29日。経営不振に陥っていた東証一部上場の中堅製紙メーカー、日本加工製紙(本社東京)は、この日の取 締役会で自己破産申請を決議。東京地裁は同日午後6時、申し立てに基づき破産を宣告した。
     ■
 高萩市安良川の日本加工製紙茨城工場高萩。佐々尾実工場長が破産申し立てを知ったのは午後5時頃だった。それから間もなく、破産管財人の命を受けた弁護 士が工場を訪れ、正門前に1枚の紙切れを張り出した。

 「東京地裁において破産宣告がなされ、当職が破産管財人に選任されました」。破産を公表する告示書。午後7時、夜勤に備えて出勤してきた男性社員 (49)は張り紙を見て体が凍りついた。累積債務を抱えていることは知っていたが、自己破産まで検討していたことなど寝耳に水。午後6時以前に出勤した同 僚たちは異変を知らず、普段通りに働いていた。「会社が破産した。張り紙があった」。そう伝えても半信半疑だった。

 だが、予兆はあった。株価は昨年後半からじりじりと値を下げていた。11月には50円の額面を割り込み、今年4月にはついに20円台にまで急落した。投 資家の間では「経営破綻」の噂が流れ、投資情報関連のホームページの伝言板には「父さん(倒産)は来るのだろうか」といった書き込みが見られるようになっ た。

 その一方、「最悪の事態はありえない」との見方もあった。日本製紙と大昭和製紙が経営統合して設立した持ち株会社「日本ユニパックホールディング」の系 列にあることから、「いざとなれば日本製紙が支援する」との期待感があったからだ。

 工場はフル稼働。機械は常に動いていた。5月にも億単位の金をかけて定期修理をしたばかりだ。「こんなに忙しいのだから、株価は下がっても潰れる筈がな い」。3交代で勤務する従業員は、生活のよりどころとなる会社の存続を信じて疑わなかった。

 しかし、期待は失望に変わった。工場では29日深夜から翌朝にかけ、5回に分けて説明会が開かれた。「この不況、この年でどうやって仕事を見つけろとい うんだ」。出席した社員たちは「失業」という二文字を暗い気持ちで受け止めた。

 上場企業の経営破綻は今年に入って19社目。創業85年の伝統を誇る製紙メーカーはあっけなく消滅、従業員は工場の外へと放り出される。解雇され、職を 失う人たちは関連会社や取引会社を含めると1,300人に上る。
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日本加工製紙 1917年設立。高萩市とひたちなか市に工場がある。カタログや写真集などに使う高級紙のアート・コート紙では大手だが、景気低迷などで高 級紙の需要は減り、業績が悪化。2002年3月期連結決算の売上高は525億円、当期純損失は20億円と5年連続の赤字。関係5社を含むグループの負債総 額(今年3月末時点)は約830億9千万円。グループ従業員は約1210人。

2002 年6月27日付『茨城新聞』
(2)淘汰の時代 経営再建へ支援なし

 「苦渋の選択をするほかなかった」。5月29日午後8時半、東京・日本橋兜町の東京証券取引所。自己破産を発表した日本加工製紙の山口征一社長は深々と 頭を下げた。

 本来なら前日、2002年3月期の決算を発表する手はずだった。が、実際はそれどころではなかった。山口社長はじめ経営陣は事業継続に向け、金融機関の 支援を取り付けられるかどうかの瀬戸際に立たされていた。

 連結最終決算は2001年3月期まで4年続けて赤字。経営再建に向け、今年4月には抜本的経営改善計画を策定、メーンバンクの三菱信託銀行や大株主の日 本製紙に支援を要請していた。
 「当期損益は赤字だが、経常ベースでは去年(01年3月期)も13億の黒字を計上し、今年も黒字だったはず。経営陣もなんとか生き残れると思っていたの ではないか」。ある社員は語る。

 しかし外部の評価は厳しかった。「第三者の弁護士や公認会計士らから、経営改善計画の実現は困難と指摘された。このまま会社が存続しても財産を減少させ るだけになる」。金融支援を得られず、苦渋の決断を迫られた山口社長は疲れた表情を見せた。
     ■
 「マシンは古いが、資金がないから設備投資はできない。これでは到底、勝ち組にはなれっこない」。日本加工製紙の元社員は自嘲気味に呟いた。

 日本加工製紙はかつて神崎製紙などとともに「アート3社」と呼ばれ、高級印刷用紙であるアート紙やコート紙の分野で高いシェアを誇った。しかし高度成長 期以降、大手各社がアート・コート紙に進出、価格競争が激しくなった。

 製紙業は典型的な装置産業だ。マシンの差が製品に反映され、コスト削減でも明暗が分かれる。「うちの抄紙機や塗工機は幅が314メートル、よそのメー カーは618メートル。同じ時間、機械を動かしたとすると、よそはうちの倍以上の紙を造ることができる。コストは断然、向こうの方が安い」。元社員は内情 を明かす。

 不況で紙の需要が低迷し、製紙各社の設備稼働率が落ち込んでいることも、日本加工製紙にはマイナス要因になった。日本加工製紙の生産量は年間約36万ト ン。製紙業界に占めるシェアは1.2%にすぎず、たとえ破綻しても需給が逼迫するおそれはない。むしろ需要減で稼働率を落としている各社にとっては増産へ のプラス材料となる。

 小泉首相が声高に叫ぶ構造改革、そして不良債権処理。不振企業のレッテルをはられた日本加工製紙は構造改革の波にのまれ、業界内の競争の中で淘汰された と言えそうだ。
     ■
 高萩市安良川の日本加工製紙茨城工場。38万平方メートルに及ぶ敷地の一角に赤と白のツートンカラーの煙突がそびえる。高萩のランドマークともいえる存 在だ。
 破産宣告から間もなく1カ月。工場はすでに操業を停止し、煙突から煙は消えた。高さ100メートルの大煙突を見上げる市民の目は寂しげだ。

2002 年6月28日付『茨城新聞』
(3)解雇通告 崩れ去った生活設計

 6月初め、夫の会社から1通の郵便物が届いた。パートから戻った関田恭子さん(47)=仮名=はすぐに封書を開いた。

 破産管財人名の解雇予告通知書。朱印が押された5月30日付の文書には「6月末日付で貴殿他従業員全員を解雇することに致しました」と書かれている。 「お父さんの会社、本当になくなっちゃうんだ」。恭子さんは1枚の紙切れを手にため息をついた。
     ■
 夫の昭雄さん=仮名=は50代前半。日本加工製紙の関連会社に勤めていた。高萩市の自宅から工場が見える。出来上がった製品をトラックで東京などに運ぶ のがこれまでの仕事だ。自己破産の知らせは先月29日夕、自宅で聞いた。組合の仲間から電話で連絡を受け、急いで家を飛び出した。常時使っていたトラック から私物を運び出すように命じられ、破産の事実を身をもって確かめた。

 「高萩一の大企業。つぶれることはない」。そう思って入った会社だった。二人の子どもが巣立ったら、退職金で家を建て老後を楽しく暮らそうと夫婦で話し 合ってきた。そんな生活設計も、会社の倒産と同時に崩れ去ってしまった。

 重い体を引きずるように家路についた。玄関を開けると、妻や子が迎えてくれた。「お父さん、気を落とさないで。一人じゃないでしょう。私も働いているん だからやっていけるよ」。大学を卒業したばかりの長女が生意気なことを言う。中学生の二女も「高校に行ったらアルバイトをする」と言い出した。

 涙が頬を伝わって流れた。みんなの声をじっと聞いているしかなかったが、家族の励ましが大きな支えになった。
     ■
 昭雄さんの会社は親会社と同様に破産宣告を受けている。工場は既に操業を停止し、大半の社員は自宅待機の状態だが、昭雄さんの仕事は続いている。在庫を 現金に換えるため6月に入ってからも週3、4日、東京へトラックを走らせている。

 行きは満杯だが、帰りは空っぽ。積み荷を見ると自分が今、置かれている立場がよく分かる。生産性のない仕事だ。ハンドルを握っていても、残務整理である ことを思うと無力感を覚える。6月末で解雇された後も運送の仕事は残る。運転手として随時、駆り出されることになりそうだ。その一方で職探しもしなければ ならない。

 これまでの月収は約45万円。失業後約1年間、雇用保険から毎月25万円ほど支給されるが、どう考えてもこれまでの生活を維持することは難しい。50代 で再就職できるかどうか、不安は尽きない。
 「気落ちしていて大丈夫だろうか。事故などに遭わず無事に帰ってきてほしい」。恭子さんは祈るような思いで家を出る夫を見送っている。

2002 年6月29日付『茨城新聞』
(4)連鎖倒産の危機 債権回収めど立たず

 「困った。本当に困った」。高萩市の電気工事業者はつぶやいた。年商2千万円。売り上げのすべてを日本加工製紙に依存してきた。20年来の付き合いだっ た。頼りにしてきた「加工紙」がつぶれ、4、5月の工事代金120万円が未収になった。あてにしていたお金が入らないのは痛いが、得意先を失った事の方が それ以上に痛い。取引先を開拓しようにもこの不況では厳しい。「廃業」の2文字が頭をよぎる。
     ■
 「連鎖倒産の危機ですよ」。パルプの原料となるチップを納入してきた北茨城市の木材加工会社社長も頭を痛めている。日本加工製紙が東京地裁に自己破産を 申請した先月29日もチップを納めている。破産を知ったのはその日の夜。裏切られた思いがした。

 売掛金が約5千万円ある。今年1月以降に納入したチップの代金だ。倉庫には加工する以前の原木が大量に残っている。チップ納入業者は製紙メーカーごとに 系列化が進んでいる。景気の低迷で紙の需要も低迷し、原料のチップもだぶつき気味だ。別のメーカーに切り替えようと思っても容易ではない。

 それ以前に広葉樹のチップを使う製紙工場は近くにはない。「近い所で宮城県か静岡県。そんなに遠くまで運んで採算が合うかどうか」。苦労をともにしてき た4人の従業員は解雇せざるを得ない。
 「このまま沈んでたまるか」という気持ちもある。「まずは在庫処分しないと始まらない」。倉庫に眠っている原木をそのままにしておけばいずれ腐ってしま い、産業廃棄物にしかならない。

 県内の同業4社と協力して県や日本加工製紙に在庫の引き取り手を探してくれるよう要請、在庫の行き先だけはなんとか確保した。しかしその先の見通しは立 たない。
     ■
 日本加工製紙の自己破産は、主力工場のある高萩市やひたちなか市を中心に地域経済にじわじわと影響を与えている。大きな取引先を失った中小企業は存続の 危機に立たされている。

 県商工政策課の5月末時点の調査によると、日本加工製紙に対して50万円以上の債権を持つ県内企業は72社、債権総額は15億9600万円に上る。11 月に1回目の債権者集会が開かれるが、債権回収のめどは立っていない。

 県は連鎖倒産を防ごうと50万円以上の債権を持つ取引業者を対象に相談会を開き、中小企業にとって条件のいい「セーフティーネット融資」の活用を呼び掛 けている。しかし、今回の破産劇では融資の網にかからない事業者も多い。

 会社更生法の適用を受けるなどして日本加工製紙が存続し、再建を目指すのであれば中小企業との取引は続く。しかし破産では取引は途絶え、取引業者は今後 の事業計画さえ立てられず、資金調達の道を閉ざされてしまう。

 「破産では打つ手がない。最悪のシナリオだ。もう少し違ったやり方がなかったのか」。債権者の一人は吐き捨てるように言った。

2002 年6月30日付『茨城新聞』
(5)離職者対策 圧倒的に少ない求人

 東京地裁の破産宣告から22日目の今月19日、高萩市総合福祉センターで離職前説明会が開かれた。「再就職への道しるべ」。配布された資料にはこんな表 題がついている。市内に住む男性社員(49)は分厚い資料に目を落とした。「この年齢で就職先が見つかるだろうか」。職安の担当者の説明にじっと耳を傾け た。

 高萩市で生まれ、地元の高校を卒業後、日本加工製紙に就職した。一度も転勤がなく29年間、市内の工場に勤務した。農家の長男。3世代同居で7人家族。 農業をしながら働ける職場は都合がよかった。

 これまで紙を裁断する仕事をしていた。資格や技能があればいいが、履歴書に書けるようなものはない。中学生の子供がいる。これから教育費がかかる。農機 具のローンもある。
 「自宅から通えるところなら多少遠くてもいい。なんとかして仕事を見つけたい」
     ■
 日本加工製紙グループの従業員は保安要員など一部を除いて30日付で解雇される。茨城労働局によると、関連会社を含めたグループ従業員は雇用保険被保険 者ベース(6月10日現在)で1081人。これに下請け企業や取引会社を加えると約1300人が職を失う。その85%が男性、年齢別では45歳以上の中高 年が6割を占めている。

 「これほど多くの失業者が出るのは1960年代の炭鉱閉山以来。あのときは日立近辺の会社に入ったり、全国に散らばったりして再就職したのだが…」。高 萩公共職業安定所の島崎昭美所長は戸惑いを隠せない。

 高萩職安管内の4月の雇用保険受給者は867人で前年同月に比べ31.6%も増加、景気の低迷で雇用情勢は悪化している。有効求人倍率も3月が 0.42、4月が0.36と低水準で推移。4月の有効求人倍率は前年同月の0.64を大きく下回っている。求人と求職のギャップもある。求人はサービス、 販売などが多く、製造業関連は少ない。離職者予定者の多くは地元での再就職を望んでいるが、労働指標を見る限り先行きは厳しい。

 高萩職安では求人開拓推進員を管内の事業所に派遣し、求人の開拓に力を入れている。反応がないわけではない。「日本加工製紙の人なら技術系の人をぜひ採 用したいと言ってくれる企業があった。10社ほど問い合わせがある」(島崎所長)という。

 しかし、離職者の数を考えると求人数は圧倒的に少ない。日立製作所がリストラを進めていることもあって今年に入り、求職者は増加している。生産拠点の海 外移転が進み、産業の空洞化が進んでいる県北臨海地域では製造業関連の求人は期待薄だ。「われわれとしても何とかしたいのだが」。島崎所長は表情を曇らせ た。

2002 年7月2日付『茨城新聞』
(6)どうなる跡地 「再生を」切なる願い

 久々に大勢が顔をそろえた。1日午前、日本加工製紙茨城工場高萩で開かれた工場解散式。出席者の大半は前日の30日付で解雇されている。解散式は「工場 としてけじめをつけよう」(工場幹部)と開かれ、山口征一社長も出席した。体育館に詰め掛けた「元社員」たちは山口社長の挨拶に注目した。

 最大の関心事は、工場を引き取ってくれる製紙会社があるかどうかだった。工場には先月10日と14日、製紙会社2社が視察に訪れている。同業他社に丸ご と買い取ってもらえれば再雇用の道も開ける。しかし、山口社長の口からはついに明るい話は聞けなかった。「譲渡話は進展していないようだ」。参加者の間に あきらめムードが漂った。
     ■
 工場が操業を停止してから1カ月になるが、技術系の元社員、今野英司さん(55)=仮名=はお盆も正月もフル稼働だった工場が消滅しようとしている現実 をいまだに受け入れることができない。

 「この工場の存在意義は何であったのかを自問自答してみると、本当に工場を閉鎖してよいのかという問いがどうしても残る」。今野さんは現在の心境や工場 再生の可能性についてメモをつくり、周囲に配った。

 メモはA4判2枚。「最後の手段としては従業員で工場を購入して再建する道もある」。そんなくだりも見える。工場への愛着は人一倍強い。「自分たちの仕 事が社会を支えてきた」という自負もある。
 例えば古紙再生事業。古紙は紙質上、新聞古紙、段ボール古紙、雑誌古紙、色上古紙などに分けられるが、茨城工場ではポスターやカタログなどの色上古紙を 購入し、古紙のリサイクルに貢献してきた。関東一円から毎月約1万2千トンの古紙を回収し、良質の再生紙を供給してきた。

 色上古紙の再生ではその過程で顔料を除去するため、大量の汚泥が発生する。工場では最先端技術を活用して汚泥を脱水、焼却し、発生した焼却灰はセメント の原料などとして再利用される。「ゼロエミッションを実現している」というのが自慢だった。

 日本加工製紙の経営破綻は古紙業界にも打撃を与えている。最も高値で取引されてきた色上古紙の引き取り手を失ってしまったからだ。「色上古紙の再生をう ちのように大々的にやっているところは全国的にも見当たらない。古紙の価格も暴落している」(今野さん)という。

 工場では市内の化学工場や県内の半導体工場から出る廃液の処理も手掛けている。「社会的に貢献してきた部門、環境ビジネスを中心に工場を再生することは できないか。全滅させたくない」。今野さんは訴える。
     ■
 「操業を再開しようとするならここ1カ月が正念場」。解散式に出席した元社員は指摘する。操業停止期間が長引けば、部品が錆びついたりして動かなくなっ てしまうからだ。敷地面積約38万平方メートル。引き取り手がなければ広大な跡地は廃虚と化し、野晒しになってしまう。

2002 年7月3日付『茨城新聞』
(7)煙が消えた 街に広がる閉塞感

 「煙とにおいは高萩のシンボルだった」。高萩市民は口を揃える。同市本町で飲食店を経営する女性(61)は「電車で帰ってきた時、パルプから煙が出てい るのを見るとホッとした。煙も出ない、においもしないというのは寂しい」とそびえ立つ煙突を見やった。

 日本加工製紙は「パルプ」の愛称で市民に親しまれてきた。パルプ製造工場として1956年に操業を開始した高萩パルプを前身としていることから、この呼 び名が定着した。高萩パルプは65年、日本加工製紙などと合併し、日本加工製紙高萩工場と改称、パルプから紙まで一貫して手掛ける大工場になった。

 高萩市はかつて炭鉱の町として栄えた。しかし、60年代後半になると市内の炭鉱は相次いで閉山。地域経済に占める日本加工製紙の重要度は増すことはあ れ、薄れることはなかった。そんな市内一の大企業が破産宣告を受け、高萩での半世紀に及ぶ歴史に幕を下ろした。シンボルの煙突からは白煙が消え、パルプ特 有の鼻をつくにおいも消えた。

 「高萩パルプ時代から市の顔だった。高萩を支えてくれた企業。市にとっても大きな打撃だ」。岩倉幹良市長も突然の工場閉鎖を残念がる。
     ■
 「破産ショック」は商店街にも影を落とし、街には閉塞感が漂っている。工場近くの食品スーパーの営業部長、小泉大さん(28)は「お客さんの中には加工 製紙の人もいたし、社員の家族もいた。市全体がパルプに支えられていた。時間が経てば多かれ少なかれ、反動が出てくるのではないか」と影響を懸念する。

 高萩市市長公室によると、市内に住む日本加工製紙関係者は約430人だが、これに下請け企業や取引企業の社員、さらに家族まで含めると3千人近い人たち が何らかの影響を受ける。市の人口は約3万4千人、その1割近くがしわ寄せを受ける。

 破産宣告を受けた翌日の5月30日、市は岩倉市長を本部長とする日本加工製紙問題対策本部を設置した。県も6月4日、日本加工製紙の自己破産関係連絡会 議を設置、雇用対策や連鎖倒産防止などに万全を期すよう関係部局に指示した。一企業の経営破綻で行政がこうした組織を立ち上げるのは異例だ。事の重大さを 認識し、行政もいち早く対応に乗り出した。
     ■
 「被害を最小限に食い止めないと…」。中小企業の実情を知る高萩市商工会の平井均事務局長は自らに言い聞かせるように語る。「絶対に潰れない」と信じて 疑わなかった大企業が消滅の時を迎えた。街を覆う梅雨空は、今年は例年にも増して暗くどんよりとしているように見える。

 (終り)

 高萩工場の跡地は長年放置され、廃墟マニアの間では有名な物件となっていた。

2016 年2月18日付『茨城新聞』
高萩・日本加工製紙 跡地にメガソーラー 18年春にも稼働  2万5000キロワット
【写真説明】大規模太陽光発電施設の整備が予定されている日本加工製紙高 萩工場跡地=高萩市安良川

 高萩市安良川の旧日本加工製紙高萩工場跡地に、都内の企業が大規模太陽光発電施設(メガソーラー)の整備を計画していることが17日、分かった。計画に よると、工場跡地の大部分を占める約33ヘクタールに、最大出力2万5千キロワットの施設を設ける。同製紙は2002年に破綻し、その後、JR高萩駅から 約800メートルの市の中心市街地にある同工場跡地の活用が課題になっていた。

 太陽光発電施設の整備に乗り出すのは、大手総合商社の双日(東京都千代田区)で、4月以降に用地内の建物の解体などに着手し、早ければ18年4月の稼働 を目指す。敷地内に11万2800枚の太陽光パネルを設置し、一般家庭約8100世帯分に相当する年間発電量を見込んでいる。

 市などによると、双日は14年11月、跡地を所有するインドネシア財閥系の日本法人「オール・ペーパー・アンド・プリンティング・プロダクツ (AP&PP)」(東京都品川区)に太陽光発電事業を提案し、昨年6月からは市を交えて本格的な協議を進めていた。

 工場跡地は全体が約36ヘクタールで、双日はこのうち約33ヘクタールを所有者から借り受けて発電施設を整備する。施設の運営期間は20年を見込む。現 在、双日は金融機関などと発電事業の運営会社を設立する方向で調整を進めている。発電施設の整備に当たっては、周辺に住宅地が広がり市街地に位置すること から常緑樹帯を設けるなど周辺住民に配慮する計画という。解体に着手する前に住民説明会を行う方針。

 同製紙は02年5月に自己破産し、04年1月にAP&PPが土地と既存建物を購入して機械など設備の一部をインドネシア、中国の自社工場に売却した。東 日本大震災で煙突が崩れるなど、敷地内の建物は年々傷みが激しくなっていた。

 工場跡地の利用は同市の長年の懸案だっただけに、市は「住民への配慮などを引き続き協議していきたい」と説明している。(市毛雅奈子、小室雅一)

★県内の大規模太陽光発電施設(メガソーラー)
再生可能エネルギー固定価格買い取り制度が始まった2012年7月以降に稼働したメガソーラーは242件で、最大出力は計約46万8千キロワット(昨年 10月末時点)。住宅団地「水戸ニュータウン」(水戸市、城里町)内に整備された最大出力4万キロワットが最大とみられ、大子町のゴルフ場跡地では昨年、 最大出力2万6千キロワットの施設が稼働した。



■4.日本加工製紙の鉄道貨物輸送  

『紙 パ技協誌』第46巻第12号、1992年


 日本加工製紙(株)高萩工場が立地していた場所には、元々は1934(昭和9)年に昭和人絹(株)高萩工場が誘致された。同工場には1936(昭和 11)年9月に専用線が竣工し、使用が開始された。しかし同社は、1940(昭和15)年3月に呉羽紡績(株)と合併したのを契機に高萩工場を閉鎖し、 1943(昭和18)年5月、工場敷地を(株)日立製作所に売却した。戦時下で同社高萩工場として操業を開始したが、軍事工場としての性格を強めていくこ とになった。([1]p200)

 戦後、工場は賠償工場に指定され、1946(昭和21)年7月休止となり、高萩市に売却された。その後、専用線も含め遊休地として放置されたが、高萩市 は石炭産業への依存からの脱皮を図るべく工業誘致を図り、1954(昭和29)年3月に広葉樹のパルプ化を目的とした高萩パルプ(株)高萩工場が操業を開 始した。
 専用線の高萩パルプへの譲渡は、1954年4月で修繕の後、翌1955(昭和30)年4月に使用を開始した。([1]p200)

▼高萩工場の専用線概要
専 用線一覧表
所 管駅
専  用 者
第 三者利用者
真 荷 主
第 三者利用者
通運事業者等
作 業
方法
作 業キロ
総 延長
キロ
記  事
昭和50 年版
高萩
日本加工 製紙(株)
荒川林産 化学工業(株)
新秋木林業(株)
日立地区 通運(株)
国鉄機
私有機
1号機 0.9
(機)0.7
2号機1.2
(機)0.7
3号機1.2
(機)0.7
4号機1.3
(機)1.1
5号機1.2
(機)1.1
5.9
高萩炭礦 線に接続

▼高萩工場の専用線状況(1986年現在)
年  月 日
項  目
距 離(m)
総 延長(m)
1955(昭 30).10.10
既 設線の復起・新設
1,302
1,302
1956(昭 31).03.10
増  設
542
1,844
1958(昭 33).03.19
増  設
1,032
2,876
1961(昭 36).09.15
増  設
332
3,208
1965(昭 40).08.20
増  設
10
3,218
1967(昭 42).06.14
増  設
1,362
4,580
1978(昭 53).08
廃 止(原木受入線)
▲333
4,247
1978(昭 53).12
廃 止(原木受入線)
▲241
4,006
1984(昭 59).08
廃 止(チップ受入線)
▲301
3,705
([1]p200より)

 1978(昭和53)年4月に調木設備の運転を停止し全量購入チップに切り替えた。『紙 パ技協誌』第46巻第12号、1992年

 専用線の入れ換え動力車は、1957(昭和32)年6月より手押しから協三工業製造の10トンディーゼル機関車に切り替えられたが、発着貨車の増加(年 間約35万〜40万トン)に伴い、1960(昭和35)年12月に協三工業製造の20トンディーゼル機関車に切り替えられた。([1] p201)

 以下、紙輸送と原料輸送に分けて纏める。


▼4−1.紙輸送  
 ワム車を利用した紙輸送の印象が薄い日本加工製紙であるが、全く行っていなかったわけではなく、横浜への輸出用の紙輸送でワムを活用して いたとのことだ。しかしその量は1ケ月50〜60両であり、1日あたり2〜3両程度の発送であったようだ。もちろんトラック輸送の発達する以前は、三大都 市圏 向けを中心に ワム車で発送されていた可能性が高いが、紙輸送の鉄道依存度は他の大手紙パルプメーカーと比べて低い水準であった模様。
 紙輸送廃止後の専用線は、原料の薬 品輸送のみで使用された。

日本加工製紙 高萩工場  再利用は輸出回復後 コンテナ輸送で (1996年 3月18日付『運輸タイムズ』3面)

 日本加工製紙は、高萩工場がハワム貨車で輸送していた輸出用紙の鉄道輸送を、1996年3月16日のダイヤ改正から中止した。紙輸出量が減少し、ハワム での輸送実績が最近殆ど無かったため、ダイヤ改正を機にトラック輸送に切り替えたもの。

 しかし、輸出量が将来増加した場合にはコンテナ輸送を行い、工場〜船積港間の安定輸送を確保する考え。
 輸出用紙の鉄道輸送は、高萩駅分岐の工場専用線から発送して、本牧埠頭駅に 到着していた。かつて生産量の約12%を占め、日立港と横浜 港から船積みし、このうち横浜港への輸送にハワム貨車を1ケ月50〜60両利 用していた。

 最近は輸出量の減少により貨車輸送量が少なくなり、またトラック輸送に一部切り替えたため、ハワムは1ケ月5〜6両の利用となっていた。1996年に入り1月にハワム2両 で30トン輸送したのを最後に貨車輸送はゼロとなった。

 3月16日のダイヤ改正までは、貨車輸送ルート(ダイヤ)が残っていたが、改正を機にJR貨物は車扱貨物のコンテナ化を行い、高萩駅〜本牧埠頭駅間の貨 車輸送ルートを廃止した。このためコンテナ輸送に切り替え鉄道輸送を継続するか、トラックに全面転換するかを検討してきたが、前倒し実施したトラック輸送 することとした。

 これは高萩工場から横浜港への距離が約200kmと近いこと、輸出量が減少したためコンテナで定型的に輸送するほど出荷ロットがまとまらないこと――な どが理由。
 しかし輸出が回復し、工場出荷が増加した場合は、鉄道コンテナ輸送を考えている。トラックへの依存だけでは大量・定型出荷が困難であること、船積港への 輸送の安定を確保する必要があるためだ。同工場ではコンテナ輸送をする場合、荷主のコスト負担増とならないことをJR貨物に求めている。

 輸出量が回復して船積港へのコンテナ輸送が始まれば、日立駅から発送することになる。
 同駅からは、国内向けを以前からコンテナで出荷しており、関西地区(百済 駅着、一部九州)1ケ月180〜190個(最 大230個)の輸送実績がある。


▼4−2.原料輸送  
 原料のチップ輸送は、上記専用線状況からも分かる通り、1984年までは専用線を介して貨車輸送が行われていたようだ。

 経営破綻直前の2001年当時は、原料チップは全量L材で、国内材50%、北米産オーク材30%、マングローブ20%。外材は日立港の専用埠頭に荷揚げ し、配合後に専用トラックで工場へ搬入される。国内材は近隣の市町村及び東 北南部関東北部より集荷して工場へ搬入され る。『紙 パ技協誌』第55巻第9号、2001年

 また工場ボイラー用の燃料の重油や石炭も鉄道を介して搬入されていた可能性はありそうだ。

 一方、原料の薬品がタンク車で各地から到着しており、2001年3月に専用線が休止状態となった時点では薬品輸送のみが残っていたようだ。

発   駅
発 荷主
品   名
貨 車・所有者
備   考
勿来
呉羽化学 工業(株)いわき事業所
苛性ソー ダ液
タキ 7763 呉羽化学工業(株)
1998 年8月高萩駅にて目撃
宮下
東邦亜鉛 (株)小名浜製錬所
濃硫酸
タキ 4000形・5750形
[2]
浜五井
旭硝子 (株)千葉工場
液化塩素
タキ 5450形と思われる
[3]  1996年度実績。苛性ソーダ液の可能性もあり
扇町
昭和電工 (株)川崎事業所
苛性ソー ダ液
タキ 4291 昭和電工(株)
1998 年8月高萩駅にて目撃
安治川口
ダイソー (株)
液化塩素
タキ 125474 ダイソー(株)
1996 年12月豊橋駅にて返空目撃

1998.8高萩駅




[1]小宅 幸一『常磐地方の鉄道−民営鉄道の盛衰をたどって−』1987年
[2]渡辺 一策・藤岡 雄一「臨海鉄道パーフェクトガイド」『鉄道ダイヤ情報』通巻第179号、1999年
[3]『35年のあゆみ』京葉臨海鉄道株式会社、1999年

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