宇部興産株式会社 |
年
月 |
項
目 |
1921(T10)年 |
宇部興産(株)が山口県美祢郡伊佐町高ノ峯を購入([1]
p157) |
1943(S18)年05月 |
宇部港駅に宇部興産(株)(セメント)専用線が敷設([2]
p308) |
1946(S21)年09月 |
宇部興産(株)伊佐採石所が発足([1]p157) |
1946(S21)年11月 |
日本石灰石工業(株)から第2石灰工場と伊佐軌道(株)を買収([1] p157) |
1947(S22)年03月 |
宇部港駅に宇部興産(株)(東石灰石)専用線が敷設([2] p308) |
1947(S22)年08月 |
馬車軌道の伊佐軌道を止め、国鉄・吉則駅(現、美祢駅)接続の専用線を 敷設し完成。機関車と専用貨車も購入([1]p157-158) |
1948(S23)年01月 |
於福駅に宇部興産(株)専用線が敷設([2]p308) |
1948(S23)年09月 |
宇部興産(株)伊佐採石所の採掘を開始([1] p158) |
1954(S29)年08月 |
宇部興産(株)が大嶺無煙炭鉱(株)を設立([1] p338) |
1955(S30)年 |
吉則(後に美祢駅に改称)〜宇部港間に石灰石専貨が設定。1日10往復
体制でスタート([7]
p26) |
1955(S30)年06月 |
重安駅に小野田セメント(株)(西線)専用線が敷設([2] p308) |
1958(S33)年06月 |
宇部港駅に宇部興産(株)(西石灰石)専用線が敷設([2] p308) |
年
度 |
1965 |
1966 |
1967 |
1968 |
1969 |
1970 |
輸送量(千トン) |
4,215 |
4,476 |
4,576 |
4,899 |
5,734 |
6,122 |
美
祢〜宇部港 |
重
安〜小野田港 |
重
安〜宇部岬 |
合
計 |
|
1963年10月 |
12
往復 |
5往復 |
1往復 |
18往復 |
1967年04月 |
13
往復 |
〃 |
〃 |
19往復 |
1967年10月 |
14
往復 |
〃 |
〃 |
20往復 |
1968年10月 |
15
往復 |
〃 |
〃 |
21往復 |
1969年04月 |
19
往復 |
〃 |
〃 |
25往復 |
1969年08月 |
21
往復 |
〃 |
〃 |
27往復 |
社
名 |
運
用区間 |
品
名 |
運
転本数 |
1967
(S42)年実績 |
宇部興産
(株) |
美祢〜宇
部港 |
石灰石、
クリンカ |
15
往復 |
2,761
千トン |
宇部興産
(株) |
大嶺〜宇 部港 | 石炭 |
3
往復 |
461
千トン |
小野田セメント(株) |
重安〜小野田港 |
石灰石、生石灰 |
5往復 |
919千トン |
セントラル硝子(株) |
重安〜宇部岬 |
石灰石 |
1往復 |
94千トン |
合
計 |
24往復 |
4,235
千トン |
||
(う
ち石灰石) |
21往復 |
3,774
千トン |
鉄
道 |
船
舶 |
ト
ラック |
|
ピ
ストン輸送 |
コンベアで山陰 から船積み |
地場消費のみ |
合 計 |
252
万トン |
12万トン |
1万トン |
265万トン |
95.1% |
4.5% |
0.4% |
100% |
年
度 |
1970 |
1971 |
1972 |
1973 |
1974 |
1975 |
1976 |
1977 |
1978 |
1979 |
1980 |
輸送量(千トン) |
6,122 |
7,590 |
8,237 |
8,576 |
8,461 |
8,266 |
8,371 |
8,390 |
8,691 |
8,400 |
8,111 |
美
祢〜宇部港 |
重
安〜小野田港 |
重
安〜宇部岬 |
合
計 |
|
1970年08月 |
23
往復 |
5往復 |
1往復 |
29往復 |
1970年10月 |
25
往復 |
〃 |
〃 |
31往復 |
1971年04月 |
28
往復 |
4往復 |
〃 |
33往復 |
1971年10月 |
31
往復 |
〃 |
〃 |
36往復 |
1972年10月 |
33
往復 |
〃 |
〃 |
38往復 |
1982年07月 |
26
往復 |
3往復 |
〃 |
30往復 |
![]() 宇部・美祢高速道路(1975年4月現在) [1]p380 |
美祢〜宇部港間で33往復にまで成長した宇部興産の石灰石ピストン輸
送だが、その栄光の時期は短いものであった。引導を渡したのは、私有の高規格道路としては、我が国唯一とも言うべき「宇部・美祢高速道路」の存在である。 頻発する国鉄のストライキによって輸送量が不安定となり、道路は交通渋滞など一般道路の走行が大幅に制約を受けた。当時の宇部興産社長は、早くから長期 的に見て何らかの抜本策が是非必要であるとし、宇部〜伊佐間30kmの物流体制の構想を抱いており、ベルトコンベア、鉄道、道路の3案について検討を命じ た。その結果、経済性から見ればベルトコンベアが最も有利、鉄道がやや劣り、道路はコストが合わないというものであった。([1] p380) しかし社長は、道路案を選択した。社内外から慎重な声が大きかったが道路方式を譲らなかったのは、ベルトコンベアは建設費は安いが貨物の種類が限定さ れ、大型機材の輸送ができず、鉄道の場合は国鉄と競合する。一方、道路は多目的に利用でき、美祢地区の地域振興にも寄与できる。経済性については100年 先まで見据えたものであり、沿道で取れる粘土や珪石をセメント原料に利用できるなど、問題無いと判断した。([1]p380-381) 宇部興産は1967(S42)年11月、石灰石輸送開発部を発足させた。当時、名神高速道路が開通し、東名高速道路が工事中であった。宇部〜伊佐間の道 路も2車線で同様な機能を持ち、しかも総重量70〜100トンの大型車が時速100kmで走行し、安全性等も考慮して、小曲線半径400m以上、縦断勾配 2%以下、途中の公道や鉄道とは立体交差を原則とした。([1]p381) 輸送用車両は、当初大型ダンプカーを予定し、米国ユークリッド社製35トン積みを1台輸入して検討したが、横幅が広過ぎた。そのため三菱自動車工業に 40トン積み、総重量67トンの大型トレーラー8台を発注した。実際に工事を進めると、当初予定の一部を変更せざるを得なかった。2車線を4車線に広げ、 勾配が2%で収まらない部分は3%に改めた。([1]p382) 最初に開通したのは、1972(S47)年9月、宇部市東須恵岡田屋の国道190号から厚狭郡楠木町船木までの9kmであった。全線に亘る工事の中で最 大の難所は堀越峠を貫く全長860mの伊佐隧道であった。1973(S48)年3月に貫通し、同年10月に開通した。([1]p382) 1974(S49)年5月に岡田屋〜伊佐セメント工場間の道路が開通し、「宇部・美祢高速道路」(通称、宇部興産道路)と命名した。岡田屋から西沖干拓 入口までの延長工事が完成したのは1975(S50)年4月であった。総工費は当初計画の100億円を大幅に上回り、240億円に達した。([1] p383) |
年
度 |
1980 |
1981 |
1982 |
1983 |
1984 |
1985 |
輸送量(千トン) |
8,111 |
7,377 |
4,823 |
3,663 |
3,382 |
3,296 |
年
度 |
発送量 |
年
度 |
発送量 |
1986 |
3,109 |
1992 |
1,920 |
1987 |
3,216 |
1993 |
1,920 |
1988 |
1,925 |
1994 |
1,922 |
1989 |
1,925 |
1995 |
1,909 |
1990 |
1,922 |
1996 |
1,894 |
1991 |
1,932 |
1997 |
1,820 |