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住友セメント 株式会社  
2010.10.27作成開始 2012.12.08改訂
<目次>
1.住友セメント(株)の沿革
2.住友セメント(株)の鉄道貨物輸送
3.各工場の鉄道貨物輸送
 ▼3-1 八 戸工場〔八戸セメント(株)〕
 ▼3-2 田村工場
 ▼3-3 四 倉工場
 ▼3-4 栃木工場
 ▼3-5 浜 松工場
 ▼3-6 岐阜工場
 ▼3-7 七 尾工場
 ▼3-8 彦根工場・多賀工場
 ▼3-9 赤穂工場
 ▼3-10 小倉工場〔東洋セメント(株)〕
4.SS配置と鉄道貨物輸送
 ▼4-1 東北地方
  東青森SS 川部SS 白 沢SS 秋田SS 横 手SS 仙北町SS 水沢SS 渡 波SS 仙台港SS 仙台SS 山形SS 鶴 岡SS 笹木野SS 郡山SS 広 田SS
 ▼4-2 関東地方
  神立SS 野 崎SS 氏家SS 宇都宮SS 栗 橋SS 蕨SS 池袋SS 業 平橋SS 隅田川SS 成田SS 大 船SS 下曽我SS
 ▼4-3 甲信越地方
  東花輪SS 南松本SS 伊那福岡SS 西 上田SS 五日町SS 小出SS 新 潟SS
 ▼4-4 東海地方
  富士SS 用 宗SS 浜松SS 西 浜松SS 笠 寺SS 稲沢SS 釜 戸SS 飛騨一ノ宮SS 桑名SS 大 泊SS
 ▼4-5 北陸地方・近畿地方
  西富山SS 新湊SS 津 幡SS 松任SS 南福井 SS 神足SS 西ノ宮SS 姫路SS 宝 殿SS 朝来SS 西 舞鶴SS 江原SS
 ▼4-6 中国地方・九州地方
  東岡山SS 東津山SS 小倉SS 瀬 高SS


■1.住友セメント(株)の沿革  

年  月
内   容










1948(昭23)年12月
我が国最初の生コン工場建設に向けて東京コンクリート工業(株)が設立([1] p180)
1949(昭24)年12月
磐城コンクリート工業(株)を設立し、東京コンクリート工業(株)など 5社と磐城セメント(株)のセメント製品部門も移した([1]p180)
1953(昭28)年03月
磐城コンクリート工業(株)を合併し、業平橋や池袋の生コンクリート工 業所などが磐城セメント(株)直営となる([1]p229-230)
1955(昭30)年04月
富士セメント(株)の操業開始により、磐城セメント(株)は北海道にお ける販売機構を同社に譲渡([1]p333)


1963(昭38)年10月 1日付で磐城セメント(株)は住友セメント(株)に改称([9] p263)


1975(昭50)年07月
石灰類、炭カルを製造していた住友セメント(株)岩水工業所が閉鎖([1] p282)
1975(昭50)年09月
住友セメント(株)は包装所をサービスステーション(略称SS)と改称([1] p226)
1977(昭52)年10月
日鐵セメント(株)の本州進出に伴い、住友セメント(株)は苫小牧SS を設置し北海道地区への供給を開始([1]p333)
1984(昭59)年08月
通産省の認可を受け、住友セメント(株)、麻生セメント(株)、日鐵セ メント(株)、電気化学工業(株)とアンデスセメント共同事業会社が設立([2]p28)
1992(平04)年01月
住友セメント(株)赤穂工場に廃タイヤ等の産業廃棄物燃焼装置が稼働。 我が国のセメント工場では初の導入([2]p45)


■2.住友セメント(株)の鉄道貨物輸送  
 輸送機関別の出荷状況は、戦前は貨車・船舶がそれぞれ40%、トラックその他が20%だったが、1945年には貨車63%、船舶20%、トラックその他 が17%、1957年には貨車46%、船舶32%、トラックその他が22%となっている。([1]p225)


■3.各工場の鉄道貨物輸送  

 住友セメント(株)は八戸工場から小倉工場までピーク時に全国11カ所に生産拠点があった。このうち臨海工場は赤穂工場のみで、残りは全て内陸工場で あった。内陸工場からの出荷は、貨車輸送がメインで包装所(SS)は鉄道路線沿いを中心に展開した。


▼3.1八戸工場  

 住友セメント(株)八戸工場(1977年に八戸セメント(株)として分離独立)から北東北各地の内陸SSにタンク車でセメントを輸送していた。陸奥湊駅 は、1970年代半ばには年間50万トン以上の発送があり、工場全体の出荷量の約3分の1を鉄道輸送が占めていたと思われる。

生産高の推移 (単位:トン)

1957
1960
1961
1963
1965
1968
1970
1972
1973
1974
1975
八 戸工場
279,400
306,300
285,640
245,150
258,800
376,600
449,000
538,400
785,000
740,300
712,714

1977
1979
1980
1981
1982
1984
1985
1986
1988
1990
1993
八戸セメント
554,000
572,970
948,200
1,037,500
1,258,200 1,383,920 1,362,073
1,316,200 1,293,600
1,495,867
1,539,088
(『セメント年鑑』より作成)

 「昭和50年 専用線一覧表」によると水沢、仙北町、東青森、横手、秋田操、白沢、川部の各駅に住友セメント(株)の専用線がある。また野尻氏の論文に おいても1977〜1978年の住友セメント(株)八戸工場の出荷先が上記7駅であることが明らかである([4]p53-54)

▽北東北の住友セメント(株)の各包装所の開設年月
1965 年9月
1965 年10月
1969 年11月
1970 年8月
1972 年10月
1972 年11月
川部包装 所(川部)
秋田包装 所(秋田操)
仙北町包装所(仙北町)
青森包装 所(東青森)
横手包装 所(横手)
白沢包装 所(白沢)
水沢包装 所(水沢)
(『セメント年鑑』より作成)

 1977〜1978年における八戸工場からの鉄道輸送は下記の通りである。
工 場名
発 駅
着 駅数
着 駅あたり
平均輸送距離
最 短輸送距離
(実km)
最 長輸送距離
(実km)
月 間総出荷量
(千トン)
最 大量到着地
(千トン/月間)
八戸
陸奥湊
7
160.7km
東青森 102km
秋田操車場 290km
37.8 川部 7.0
([5]p54より抜粋)

 尚、野尻氏の論文によれば、南東北の拠点である住友セメント(株)田村工場は、大越駅から漆山、郡山、長町、広田、笹木野、渡波、鶴岡、野崎の各駅の専 用線にセメントを鉄道輸送していたようであり、住友セメントは1980年代半ばまで東北地方を北と南に分ける形で、八戸と田村の両工場からの鉄道輸送でセ メントを供給する体制が整っていた。

▽陸奥湊駅の発送量(単位:トン)
年 度
1971
1973
1975
1976
1977
1978
1979
1980
1981
1982
1983
1984
1985
1986
発送量
348,503
497,120
503,305
448,950
364,774
469,646
308,320
267,637
193,535
160,115
101,754
82,798
50,990
21,812

 1970年代は年間30〜50万トンの発送量があった陸奥湊駅だが、1980年代に入ると急激に発送量が落ち込んでいく。そして1986年10月末を もって八戸セメント(株)の専用線は廃止され、陸奥湊駅の貨物取り扱いも廃止となった。末期は、東青森と川部向けの鉄道輸送が残っていたようである。

 鉄道輸送を行っていたセメント各社の主要生産拠点が、1990年代後半から 2000年代初頭まで鉄道輸送を維持したのに比べ、八戸セメントの鉄道輸送廃止は相対的に早かった。内陸SSはそのまま維持されたようであり、鉄道輸送分 はトラック輸送への転換が主だったと考えられるが、冬場の道路事情の厳しさ等を考えると他地区よりも特にトラックが有利とも思えない。廃止は国鉄側の意図 もあったのだろうか。

 八戸セメント(株)からの車扱によるセメント輸送は無くなってしまったが、現在では焼却灰等がセメントの原料として無蓋コンテナによって各地から到着し ている。



▼3.2田村工場  

▽生産高の推移 (単位:トン)

1963
1964
1965
1966
1967
1968
1969
1970
1971
1973
1974
1975
田 村工場
241,900
597,200
577,300
643,200
640,400
725,700
749,600
859,700
863,100
923,700 832,700
661,500

1977
1978
1979
1980
1982
1984
1985
1986
1987
1988
1990
1993
田村工場
788,100
921,700
1,032,798 871,206 776,206 650,189 699,465
755,337
905,688
852,300
804,974
884,483
(『セメント年鑑』より作成)

 1960(昭35)年に住友石炭鉱業(株)は、福島県相馬郡の石灰鉱山の原石を使用するセメント工場の新設に着手した。同じ頃、磐城セメント(株)は同 県田村郡に新工場の計画があり、近隣の重複投資は過剰生産に陥る公算が大きいことから、住友系新会社が「田村郡に」新工場を建設することを申し入れた。こ の申し入れを受け、住友石炭鉱業は相馬郡での工場計画を断念し、磐城セメントの計画を引き継ぐことになった。([2]p15)

 1962(昭37)年6月に住友機械工業を中心に住友銀行など住友系5社の出資による資本金35億円の福島セメント(株)が設立された。一方、住友石炭 鉱業は同年12月に所有する石灰石鉱業権を基盤とする資本金15億円の住友石灰工業(株)を住友系6社で設立し、石灰石事業を分離した。([2] p15)

 以前より磐城セメントは四倉工場に原石を供給していた滝根鉱山隣接の駒ケ鼻地区を開鉱し、ベルトコンベアで山麓の新工場に原石を供給する計画を立ててい た。大 越町田村に立地が決定し、1962(昭37)年4月に着工したが、この建設は設立されたばかりの福島セメントに引き継がれた。原料の石灰石は同年10月か ら滝根鉱山(大越町欠入)を開鉱、粘土は新たに平市(現、いわ き市)上平窪の粘土山を開鉱して磐越東線・小川郷駅まで架空 索道で搬出し、貨車で田村工場へ輸送することになった。([1]p242-243、[2]p15)

 1963(昭38)年3月に磐城セメントは福島セメント及び住友石灰工業を合併した。同年6月下旬に1号キルンと2号キルンが完成、7月初旬に3号キル ンが完成し田村工場は操業を開始した。月産能力は7万トンであった。これら経緯から磐城セメントと住友グループの関係は深まり、緊密な提携関係が生まれて いった。([1]p243、[2]p15)

 田村工場のセメント輸送の95%は磐城セメント(株)のタ キ車を利用し たが、このための工場内の操車場は6万3,000平方メートルに及んだ。([1]p243)



▼3.3四倉工場  
 四倉工場は、住友セメント(株)の前身企業である磐城セメント(株)の発祥工場である。操業当初より原料の搬入から製品の搬出まで鉄道貨物輸送の依存度 が高く、特に石灰石の供給のために敷設された専用鉄道、通称「玉山鉄道」は鉄道趣味界でも著名であった。その石灰石を産出した八茎鉱山は、閉山や再開、経 営母体が磐城セメントから日鉄鉱業(株)に移管されるなど複雑な歴史を辿る。その経緯も含めて纏めておく。

▽生産高の推移 (単位:トン)
年 度
1910
1920
1930
1935
1940
1945
1950
1951
1952
1953
1954
1955
1956
四倉工場
11,144
44,133
91,777
115,386
123,756
24,791
107,530
143,552
202,148
293,884
296,800
237,460
231,100

1957
1958
1959
1960
1962
1964
1965
1967
1968
1969
1970
1971
1973
四 倉工場
330,610
379,170
444,910
488,260
552,970
405,280
350,000
465,535
543,400
624,700
676,500
627,800
689,500

1974
1975
1976
1977
1978
1979
1980
1981
1982
1983
1984
1985
1986
四倉工場
653,500
496,660
404,400
362,800
464,600
508,800
437,700
405,600
312,180
75,231
-
-
-
([2]p160、『セメント年鑑』より作成)


▽四倉工場と八茎鉱山及び玉山鉄道の歴史
 八茎鉱山は8世紀に発見されたとされるが、明治に入っても個人経営で採掘が続いたが、1906(明39)年7月に八茎鉱山合資会社が設立され、近代的な 経営が開始された。
 鉱石の採掘と同時にズリとして大量の石灰石を産出した。この石灰石を利用しセメントを製造するため、八茎鉱山の社長であった広瀬金七と実業家の岩崎清七 は磐城セメント(株)を設立、常磐線四ツ倉駅隣接地にセメント工場(四倉工業所、後の四倉工場)を建設した。四倉工業所が操業を開始したのは1908(明 41)年9月のことである。(Wikipedia「八 茎鉱山」を参照)


([1]p36)
1907(明 40)年11月
八茎鉱山の石灰石採掘のため、磐城採石(株)が創立([6] p279-280)
1908(明 41)年6月
玉山鉱泉〜四倉工業所間6.4kmに軌道を敷設。馬1頭で 1.5トン積トロッコ3台を運搬([1]p36)
同年9月に四倉工業所が試運転に入る予定で、八茎鉱山からの石灰石搬出を直ちに開始([1]p37)
1910(明 43)年9月 八茎鉱山〜玉山鉱泉間5.6kmを結ぶ索道が完成。動力源 は水力([1]p37)
1913(大 02)年12月 玉山鉱山の専用軌道の動力が馬から蒸気機関車による牽引に 切り替え([1]p37)
1日8往復の運転([7]p22)
八茎鉱山の石灰石は、1日 37.5トン以上納入されることになっていたが、運搬事情が悪かったため計画通りにいかなかった。そのため常磐線の鹿島駅・大甕駅の近くの石灰石鉱山か ら、それぞれ1日14トン(7トン車2両)以上の石灰石を四倉工業所へ送った([1]p37)
粘土は、双葉郡久ノ浜町江之網から1日7.5トン、続いて大野村白岩及 び中島から1日3.75トンが搬入されることになった。白岩の粘土は専用軌道の中間駅・砂子田までの別の軌道で運び出して、四倉工業所へ送った([1] p38)

石膏は会津・山形・秋田など東北地 方産のものを入手し、鉄道で搬入した
([1]p38)

回転窯などに使用する燃料炭は、常磐炭(入山・磐城・好間・ 三星などの炭坑)と北海道炭(夕張・歌志内など)を購入。常磐炭は湯本駅や内郷駅から鉄道輸送し、北海道炭は海上輸送し塩釜経由で搬入した
([1] p38)
鉄道による諸原料の搬入と製品の 出荷に備えて、四倉工場建設と同時に四ツ倉駅から専用線が敷設さ れた([1]p38)



([1] p56)
1917(大 06)年12月
滝根採石所が開設。
1913年に四倉工業所の2号回転窯稼働により、原料の石灰石の確保が問題になり、国鉄・平郡線を用いて滝根村の石灰石を
輸送する計画を立て、1916年には石灰石鉱山の開発に着手していた([1]p55-56)
1918(大 07)年2月
滝根採石所〜神俣間の専用鉄道が完成し、1,000トン/ 月の出荷を開始。以下の輸送方法を取った。
(1)釜山地区の原石山から神俣駅まで専用鉄道で運び、(2)神俣駅より貨車で四倉工業所へ輸送する([1]p56)
1918(大 07)年5月 滝根採石所からの石灰石の出荷が1,500トン/月に増加([1] p56)
1919(大 08)年3月
認可前から試運転を兼ねて輸送を行っていたが、滝根採石所 〜神俣間の専用鉄道に正式使用許可が下りた([1]p56)
1925(大 14)年 第一次世界大戦後の恐慌による経営の行き詰まりと、 1920年の山火事により製錬所消失により銅鉱山の八茎鉱山が操業中止。
磐城採石(株)が石灰石採掘を継続([6]p279)
1926(大 15)年 磐城セメントが磐城採石より鉱業権を買収([6] p280)
1932(昭 03)年
滝根鉱山の石灰石の出荷量は年々増加し、1万1,000ト ン/月を記録([1]p56)
1939(昭 14)年 磐城セメントは自家工場用原料として石灰石の採掘を続ける かたわら、旧坑内より銅鉱を少量採掘し日立製錬所に売鉱([6]p280)
1946(昭 21)年 磐城セメントは常磐鉱業(株)八茎営業所を設置、委託の形 で石灰石を採掘([8]p23)
1951(昭 26)年4月
磐城セメント四倉工場はキルン1基増設([1] p479)
1952(昭 27)年 神俣の滝根鉱山に石灰石の大鉱床を確保したため、八茎の石灰石は良質だが表土 が 厚く採掘が困難であるほか、
輸送費が嵩むため採掘を中止([6]p175-176)
1953(昭 28)年2月
玉山鉱泉〜四倉工業所間の専用軌道が廃止([8] p23)
石灰石受け入れ体制を増強するため四ツ倉駅〜工場間の専用 線を増設([8]p24)
1953(昭 28)年3月
磐城セメントは八茎鉱山を休山、山元設備の大部分を撤去([6] p280)
1954(昭 29)年7月
磐城セメントは日鉄鉱業(株)に八茎鉱山の鉱業権を譲渡([6] p175)
1954(昭 29)年 この頃の四倉工場への 石灰石は滝根鉱山から搬入。また 石炭は近隣の常磐砿を利用。
当時の四倉工場は増強計画が完了し、国鉄四ツ倉駅の発着貨物は月間9万トンを越えるものと予想されるものの、
同駅構内 側線は狭隘で、せいぜい100輌程度の操車能力に過ぎないので、平〜四ツ倉間、または草野駅に至急貨物側線を
敷設することを切望していた([7])

1955(昭 30)年10月
日鉄鉱業(株)は八茎鉱山調査事務所を新設([6] p280)
1957(昭 32)年4月
日鉄鉱業は八茎鉱業所と改称し、本格的な開発に取り組むこ とになった([6]p280)
1957(昭 32)年9月 日鉄鉱業によって、銅や鉄鉱石と共に石灰石の採掘が可能と なったため、磐城セメントは石灰石に着目し、専用鉄道による輸送を日鉄鉱業に申し入れた。
それに対して、日鉄鉱業も国鉄線を利用して鉱石を全国へ発送したい意向があり、レールなどの資材を日鉄鉱業、工事は磐城セメントが行う事で合意に至った。
このため、玉山〜四倉工場6,142mの専用鉄道並びに原田地内の分岐点〜四ツ倉駅構内640mの専用線敷設が承認された([8]p24)

▽住友セメント(株)の専用鉄道(通称:玉山鉄道
動 力
軌  間
区   間
km 程
免 許
年月日
運 輸開始
年月日
連 絡駅
運 転
管理者
敷 設目的
目 的外使用
内燃
1,067 o
石城郡四 倉地内
(玉山、原田)
6.1km

33.2.3

33.8.11
四ツ倉
自社
石灰石、 鉄及び
銅鉱石に運搬
日鉄鉱業 八茎鉱業所の
鉱山用資材、鉄鉱石、
銅鉱石輸送
(『昭和53年度 民鉄要覧』p152)
1958(昭 33)年3月
磐城セメント(株)四倉工場のレポールキルン1基増設([1] p479)
1958(昭 33)年8月
日鉄鉱業(株)八茎鉱業所は3基のグローリーホールで毎月3万トンの石灰石を磐城セメント(株)四倉工場に出荷を開始([6] p176)
1963(昭 38)年3月
玉山鉄道は途中の急カーブで国鉄の大型貨車が乗り入れでき ないため改修を行い、輸送力増強が図られた([8]p26)
1963(昭 38)年度
同年度以降、日鉄鉱業(株)八茎鉱業所は長期売鉱契約のも と月間5万トンの石灰石を四倉工場へ供給([6] p176)
1963(昭 38)年10月
磐城セメント(株)が住友セメント(株)に社名変更
1964(昭 39)年4月
日鉄鉱業(株)八茎鉱業所は毎月5,000m3の砕石の生 産を開始([6]p284)
1964(昭 39)年8月
住友セメント(株)四倉工場は重油焼成に転換([1]p478)
1967(昭 42)年
1〜3月にかけてレポールキルン1基増設、キルン3基廃棄([1] p478)
昭和40 年代後半
以降
日鉄鉱業(株)八茎鉱業所は銅鉄鋼、タングステン鉱、石灰 石、タンカル、砕石を生産する多角的な鉱山として体制を完成。
しかし主力の銅鉄鋼は徹底的な探鉱活動をしたものの、鉱量の増加は期待できず1977(昭52)年度末で終掘することになった([6] p286)

採掘量のピークは、銅鉱石が1969(昭44)年度の61.5万トン、 石灰石が1972(昭47)年度の87.5万トンであった([8] p26)

石灰石は住友セメント(株)四倉工場と運命共同体であり、その大部分は坑内採掘でコスト高であった。
タンカルや砕石は地域需要に根差す地場産業の域を出ないものであり、日鉄鉱業(株)は新しい経営形態に移行する経営判断を下した([6] p286-287)
1978(昭 53)年3月 日鉄鉱業(株)八茎鉱業所が閉鎖。全額出資の八茎鉱山 (株)に移行([6]p287)
1979(昭 54)年9月
住友セメント(株)四倉工場はキルン1基廃棄([1] p478)
1980(昭 55)年1月
住友セメント(株)四倉工場が石炭焼成に転換([1]p478)
1982(昭 57)年 玉山鉄道が廃止。八茎鉱山(株)は既にトラック輸送に切り替えていた([8] p26)
書類上の廃止は専 用線と同様に1985(昭60)年3月31日付([8]p26)
1983(昭 58)年3月
住友セメント(株)四倉工場は生産休止([1]p478)
1983(昭 58)年12月
四ツ倉駅の貨物取り扱い廃止(『いわき小名 浜の鉄道のあゆみ』福島臨海鉄道、1999年、p115)
1986(昭 61)年9月 住友セメント(株)四倉工場閉鎖([1] p478)

 現在は日鉄鉱業グループの八茎砕石(株)(所在地:いわき市四倉町玉山)により、砕石の採掘が行われている。(2021年2月現在の日鉄鉱業webサイトより)
 また玉山鉄道の廃線跡については、「浪江森林鉄道〜古の鉄道を訪ねて〜」 に詳細あり。

▽四倉工場からの貨車輸送
着 駅
SS 名
開  設
貨  車
備   考
長町
仙台SS
1960(昭 35)年8月1日
タキ 1900形、19000形
(『セ メント年鑑 1973』p132)
渡波
渡波SS
1969(昭 44)年4月11日
タキ 1900形、19000形 (『セ メント年鑑 1973』p132)
神立
神立SS
1965(昭 40)年7月21日
タキ 1900形、19000形 (『セ メント年鑑 1973』p132)
隅田川
隅田川SS
1965(昭 40)年8月5日
タキ 1900形、19000形 東京セメント運輸(株)を参照。四倉工場廃止後 は田村工場(大越駅)、
栃木工場(上白石駅)発送に切り替えられたと思われる。



▼3.4栃木工場  

▽生産高の推移 (単位:トン)

1957
1959
1960
1961
1963
1964
1965
1966
1968
1970
1972
1973
1974
栃 木工場
454,250
515,200
578,200
594,600
645,800
534,400
440,700
513,400
626,200
668,550
705,500
731,100
970,400

1975
1977
1979
1980
1982
1984
1985
1986
1988
1990
1991
1992
1993
栃 木工場
866,597
984,000
1,107,670
1,183,928
1,115,542
1,204,976
1,126,880
1,079,713
922,621
958,349
957,710
1,462,800
1,622,813
(『セメント年鑑』より作成)





1944(昭19)年05月
栃木工場でドロマイトクリンカーの生産開始、終戦まで鉄鋼業界に供給([1] p230)
1949(昭24)年04月
鉄鋼業界の要望に応えドロマイトクリンカーの生産を再開、月産 1,500〜2,000トンを供給([1]p230)
1951(昭26)年12月
磐城セメント、日鉄鉱業、富士製鐵、川崎製鐵、八幡製鐵などの共同出資 で不二ドロマイト工業(株)を設立([1]p230)
1953(昭28)年04月
常盤村に月産能力7,500トンの不二ドロマイト工業(株)羽鶴(はね づる)工場が完成([1]p231)
日鉄鉱業(株)羽鶴鉱山から原石の供給を受け、製品を鉄鋼各社に供給した
([1] p231)
1955(昭30)年07月
磐城セメント(株)は不二ドロマイト工業(株)を合併し、同社羽鶴ドロ マイト工場と改称([1]p231)
1959(昭34)年12月
羽鶴ドロマイト工場の名称が廃止され、磐城セメント(株)栃木工場に包 括された([1]p231)
1973(昭48)年11月
増設工事が完成し、月産能力が6万5,000トンから10万トンに増加([1] p296-297)
同時に唐沢鉱山の増産計画が立てられ、月間13万トンの採掘体制を整えた
([1] p297)
1991(平03)年11月
1年の期間と150億円を投資し、栃木工場の近代化工事を実施。年産能 力が約100万トンから150万トンに増加([2]p44-45)
1992(平04)年03月
栃木工場の石灰石ミキシング設備が完成し、唐沢鉱山の石灰石の品位が安 定化した([2]p45)




▼3.5浜松工場  

▽生産高の推移 (単位:トン)

1957
1959
1960
1961
1963
1964
1965
1966
1967
1968
1969
1970
1971
浜 松工場
508,900
577,900
584,500
580,700
526,400
506,100
458,900
607,900
611,600
735,679
694,500
678,900
664,000

1972
1973
1974
1975
1976
1977
1978
1979
1980
1981
1982
1983
1984
浜 松工場
730,700
863,500
717,600
643,800
686,500
618,700
713,400
646,201
645,490
595,460
489,550
394,300
154,073
(『セメント年鑑』より作成)

 磐城セメント(株)の斎藤社長は、電源開発(株)の高碕総裁とは旧知の間柄であり、佐久間ダムへのセメント供給は電源開発の発足早々にまとまった。当 時、磐城セメントは岐阜県に新工場を建設する計画を進めていたが、同ダムへのセメント納入決定を受けて、急遽計画を変更し静岡県浜松市付近に新工場を建設 することになった。原料・環境面で立地条件の良い引佐郡井伊谷村に、日本初の大型レポール式工場として浜松工場を1953(昭28)年1月に着工した。翌 54(昭29)年7月、月産能力2万5,200トンのレポールキルン2基を備えた浜松工場が完成した。さらに1955(昭30)年7月には3号キルンが完 成した。([3]p108-109)

 磐城セメントは佐久間・秋葉両ダムの建設に総使用セメント量の8割を供給し、中庸熱セメント約40万トン、普通セメント約40万トンを完納した。 佐久間ダムには、計画輸送のために専用バラ積貨車で浜松工場からピストン輸送した。電源開発(株)が所有する30トン積みホッパ車で、川崎車輛が製作し た。秋葉ダムには、トラックに箱型タンクを載せ、現場に設けた吊り上げ装置でこのタンクを持ち上げて、傾斜させて一気に放出する方法を取った。このトラッ ク輸送に天竜運送(株)という別会社を設立した。([1]p207)

 尚、佐久間ダムの着工は1953(昭28)年4月、基礎工事の後にダム本体のコンクリート打込開始が1955(昭30)年1月18日、佐久間発電所含め た全ての完成は1956(昭31)年10月15日であった。(建設記録映画『佐久間ダム』電源開発、1958年)

 重点工場生産への移行の中で、四倉・浜松両工場の閉鎖に踏み切ることになった。浜松工場の生産休止は、四倉工場生産休止後に会社から労組に説明があり、 1984(昭59)年8月1日生産を休止、同年11月30日をもって閉鎖された。([3]p231-232)

 浜松工場閉鎖に伴い、金指駅に連絡する専用線からのセメント出荷を1984年8月8日の1便で取り止めた。(『鉄道ピクトリアル』通巻第 439号、1984年、p93)



▼3.6岐阜工場  

生産高の推移 (単位:トン)

1960
1961
1962
1963
1964
1965
1966
1967
1968
1970
1972
1973
1974
岐 阜工場
487,450
712,700
901,300
1,112,900
1,132,200
1,101,750
1,118,430
1,149,760
1,380,310
1,231,400
1,318,400
1,457,300
1,285,400

1975
1977
1979
1980
1981
1982
1984
1985
1986
1988
1990
1991
1993
岐 阜工場
1,110,200
1,306,300
1,428,900
1,094,100
1,377,900
1,432,500
1,607,700
1,578,699
1,567,868
1,493,334
1,716,922
1,845,854
1,722,008
(『セメント年鑑』より作成)

 川崎重工業(株)は、川崎式余熱キルンによるプラント建設のノウハウを習得するために、パイロットプラントの建設を決定。1958(昭33)年7月に川 崎セメント(株)を設立した。磐城セメント(株)は、キルンの全てを川崎重工業に発注していた関係から、原石の供給を承認し、工場建設に技術面から協力し た。1960(昭35)年1月に月産能力4万トンの川崎セメント大垣工場が完成した。同年3月に磐城セメントは川崎セメントを吸収合併し、同社岐阜工場と した。製品の出荷には樽見線・美濃本巣駅から工場まで1.5kmの専用線を敷設した。([2]p14)



▼3.7七尾工場  

生産高の推移 (単位:トン)

1957
1958
1959
1960
1961
1962
1963
1964
1965
1966
1967
七 尾工場
158,825
205,080
225,580
284,226
259,600
273,100
209,100
146,300
100,200
129,300
130,700

1968
1969
1970
1971
1972
1973
1974
1975
1976
1977
1978
七尾工場
195,400
193,800
200,200
176,100
203,200
337,100
267,900
107,318
-
-
-
(『セメント年鑑』より作成)

1926(大15)年11月 磐城セメントの子会社として七尾セメント株式会社設立
1929(昭04)年04月 七尾工場操業開始
1941(昭16)年11月 七尾セメントが親会社の磐城セメントに合併
1953(昭28)年頃 親不知の大日本セルロイドの鉱山より石灰石の供給を受けていた[6]
1956(昭31)年 操業を開始した青梅の日本石灰石開発からの石灰石輸送を開始
日本石灰石開発は日本カーバイド工業、信越化学工業、昭和電工3社 の合弁企業。日本石灰石開発が操業していた田海鉱山近隣に予定していた
明星セメントの工場建設が同じ青梅町内にセメント工場を有する電気化学工業の猛反対で頓挫し、明星セメントへ供給予定の石灰石が余剰となったため[9]
1958(昭33)年 同じく日本カーバイド工業、信越化学工業、昭和電工により明星セメント 設立[9]
1962(昭37)年 日本セメントが明星セメントに資本参加[9]
1964(昭39)年 青梅の日本石灰石開発からの石灰石輸送終了(日本石灰石開発社の本来の 目的である明星セメントの4月操業開始に伴う)[9]
1965(昭40)年04月 野沢石綿セメント(株)が津幡 SSを開設
1969(昭44)年06月 荷重50トンの3軸ボギーの大型貨車ホキ5500が七尾〜津幡間で運用 開始 「ホ キ5500形5503」(『吉岡心平氏のウェブサイト』内コンテンツ)
1978(昭53)年 住友セメント七尾工場閉鎖。ホキ5500及び5501は昭和53年8月 に廃車、残る5502、5503は昭和57年12月に廃車 「ホ キ5500形5503」
(七尾セメント関連に関してはWikipedia, 住友大阪セメント参考)

 同工場で使用される石灰石は主に索道で供給された七尾市内の石動山からのものであったと思われるが、海上輸送もあったようであり、また昭和20年代には 親不知の大日本セルロイド、昭和30年代には青梅の日本石灰石開発からの供給も確認されている。



▼3.8彦根工場・多賀工場  

生産高の推移 (単位:トン)

1959
1960
1961
1962
1963 1964
1965
1967
1968
1969
1970
1971
彦 根工場
247,516
267,475
270,493
282,119
256,992
245,396
782,439
774,200
782,900
930,000
863,800
1,018,800
多 賀工場
-
133,268
576,170
815,278
848,795
812,588
594,570
374,100
432,900
447,400
418,900
309,500

1972
1973
1974
1975
1976
1977
1978
1979
1980
1981
1982
1983
彦 根工場
1,132,400
1,178,000
1,094,506
991,400
998,500
1,038,600
1,251,800
1,208,000
1,192,981
1,006,315
856,588
659,938
多 賀工場
513,800
741,200
459,700
107,100
-
-
-
-
-
-
-
-

1984
1985
1986
1987
1988
1989
1990
1991
1993
1994
1995
1996
彦 根工場
733,741
701,574
657,405
575,177
683,729
673,550
752,838
748,599
814,787
759,124
680,343 99,386
(『セメント年鑑』より作成)

 日本石綿盤製造(株)は、1933(昭8)年8月末に昭和セメント(株)を設立し、彦根に工場を建設した。彦根工場の操業開始は1935(昭10)年7 月で、石綿盤の主原料の1つであるセメントの自給が達成された。([4]p84)

 原石山は滋賀県犬上郡芹谷村大字後谷、工場敷地及び粘土山は彦根市古沢町及び里根町である。原石山と工場間は約5kmに及ぶ索道で原石を搬入した。また 東海道本線・彦根駅より引込線を敷設し、原料、資材、製品の搬出入に利用した。工場事務所は1934(昭9)年10月竣工したが、製造は翌年7月に試運転 を行い、同年10月より本格的生産に入った。([4]p92-93)

 セメント製造業において、一本窯は無理な形態で1936(昭11)年には増設を決定し、月産能力1万トンのキルンを増設することになった。2号キルン は、1938(昭13)年1月に火入れを行い、順調に増産体制に入った。([4]p94)

 しかし戦時体制下の1940(昭15)年10月にキルン1基を満州の石油会社に売却し、1基体制に戻った。戦後、その代わりに第二号キルンを新設するこ とになり、1953(昭28)年3月に火入れを行った。並行して第1号キルンに改装を加え、クレーン、ミル等の増設により、2基並列運転に入ったのは同年 10月であった。生産能力増加に伴い、輸送力拡大のため彦根駅側線拡張工事を行い、上り線が1954(昭29)3月末に完成し、下り線も4月に開通した。([4] p218-219)

 1960(昭35)年3月に野沢石綿セメント(株)の全額出資で東亜セメント(株)が設立された。多賀セメント工場建設に伴い、1957(昭32)年5 月より原石山の買収から着手し、同年8月より建設に取り掛かった。操業開始は1960(昭35)年4月であったが、正式稼働に入ったのは同年7月からで あった。更に第二期工事を実施し、翌1961(翌36)年5月完成し稼働した。これによりキルン2基となり、月産能力8万トンを有するに至った。工場と多 賀駅間の2.8kmは専用線が敷設され、近江鉄道を経由して東海道本線より出荷された。([4]p257-258)

 多賀工場を建設以降、積極経営を推進し、1965(昭40)年に彦根工場の大規模増設を行った結果、1948(昭23)年当時にセメント15社中最下位 であった生産能力のシェアは、22社中8位にまで躍進した。しかし設備過剰に陥ったセメント業界において、野沢石綿セメント(株)は業績の悪化が目立ち、 経営の合理化を図るためセメント・生コン部門を新会社に移す構想を打ち出した。そのため東亜セメント(株)を吸収合併した上、住友セメント(株)に業務提 携を申し入れた。([1]p265-266)

 その結果、野沢石綿セメント60%、住友セメント25%、神戸銀行10%、日本興業銀行5%の共同出資で、資本金80億円の滋賀興産(株)を1965年 12月に設立した。1966(昭41)年1月に彦根・多賀両セメント工場、名古屋・大阪・滋賀の3生コン工場、浜松・名古屋・津幡・大阪・姫路の5包装所 などの資産一切を野沢石綿セメントから譲り受けた。しかし滋賀興産は、住友セメントとの業務提携だけでは独立企業としての存続に不安があることから同社と の合併を希望し、住友セメントとしても生産体制の強化、関西地区における販売網の拡充というメリットがあることから合併に同意した。([1] p266)

 この合併によって住友セメントのセメント月産能力は81万9,000トン、シェアも16.2%となり、業界1位の日本セメントの同82万トン、 16.2%にほぼ追いついた。([1]p266)



▼3.9赤穂工場  

▽生産高の推移 (単位:トン)

1966
1967
1968
1969
1970
1971
1972
1973
1974
1975
赤 穂工場
150,750
908,010
1,083,800
1,238,200
1,227,600
1,283,500
1,373,000
1,404,300
1,188,000
1,105,100

1976
1977
1978
1979
1980
1981
1982
1983
1984
1985
赤穂工場
1,722,098
2,302,152
2,956,364
3,594,484
3,389,447
2,995,561
3,148,679
3,198,886
3,315,047
3,013,541

1986
1987
1988
1989
1990
1991
1992
1993
1994
1995
赤 穂工場
3,274,973
3,305,675
3,404,638
3,348,921
3,455,080
3,924,757
3,663,931
3,757,070
3,798,355
3,633,463
(『セメント年鑑』より作成)

 赤穂工場の建設は、西浜地区予定地の確保の見通しがついた昭和40年代初め、旧塩田の埋立工事から始まった。工場敷地35万平方メートルは、住友セメン トが入手した234万平方メートルの土地の未利用地に、将来大規模工場を誘致することを考慮して、赤穂線北側と南側に選定し、播州赤穂駅からの引込線も将 来の工場誘致に備えて中間地点に貨物取扱駅を設置、そこから工場に引き込むことにした。また赤穂工場は原料の全部と製品の大半を海送することになるため、 工場に隣接して国鉄の南側用地に岸壁を設置することにした。([1]p256)

 新工場の規模は、レポールキルン3基・月産能力12万トンと決まり、1965(昭40)年2月に着工、1966(昭41)年9月25日に1号キルンが稼 働した。続いて10月に2号キルン、12月に3号キルンが稼働し、住友セメントとしては11番目ながら臨海工場としては初の赤穂工場が操業を開始した。([1] p258)

 原料の石灰石は山口県の秋芳鉱山から、粘土は香川県大川郡引田町から、それぞれプッシャーバージで搬入することになった。一方、セメントの出荷設備とし て瀬戸内海沿岸の臨海包装所(堺、春日出、高松、西条、小松島、神戸、和歌山)、内陸包装所(江原、宝殿、東岡山、東津山、西舞鶴)に供給するためのサイ ロをそれぞれ新設した。([1]p258)



▼3.10小倉工場〔東洋セメント(株)〕  

生産高の推移 (単位:トン)

1957
1958
1959
1960
1961
1962
1963
1964
1965
1966
1967
1968
1969
1970
小 倉工場
323,650
343,940
335,408
366,930
357,840
395,690
381,500
394,507
335,050
308,620
235,700
252,000
299,200
342,400

1971
1972
1973
1974
1975
1976
1977
1978
1979
1980
1981
1982
1983
1984
小倉工場
379,500
389,500
405,500
334,300
339,800
293,452
363,810
327,832
388,632
338,261
303,146
262,360
222,962
43,562
(『セメント年鑑』より作成)

 小倉工場の前身である東洋セメント工業(株)は1934(昭9)年5月に浅野セメント出身者によって設立されたが、1943(昭18)年6月に宇部興産 (株)に買収されキルン2基のうち1基が海外に移設された。戦後の1947(昭22)年2月に関西財閥の援助で東洋セメント工業が設立され、小倉工場のキ ルン1基で再出発した。その後、1949(昭24)年8月に東洋セメント(株)に社名変更した。([3]p100)

 磐城セメント(株)は、1950(昭25)年11月1日をもって東洋セメントを合併し、同社小倉工場となった。磐城セメントは、それまで多少の輸出は 行っていた八戸・栃木・七尾の3工場は、立地条件から輸出には消極的にならざるを得なかった。しかし小倉工場は内陸立地であったが、門司港に隣接した接岸 荷役施設を持っていたため、輸出専用工場として即戦力となっ た。同工場は1951(昭26)年12月にキルン1基を新設した。その1基は七尾工場の休止キルンを移設したものである。([3]p101 -102)

 小倉工場は1966(昭41)年から慢性的に採算割れが続いていた。当時の小倉工場は、生産部門労働者一人当たりのクリンカー生産量が住友セメントの工 場平均の2分の1にも満たなかった。またSPキルンの約2倍の熱量を要する乾式キルンであるうえ、公害対策上、低硫黄分の重油を使用せざるを得ないことなどから、燃料費は同工場平均 の40%高となっていた。([3]p200)

 そのため小倉工場は、1976(昭51)年8月に閉鎖され、東洋セメント(株)として分離された。しかし乾式キルンの低生産性はいかんともし難く、 1978(昭53)年4月にNSP化工事が完了した。東洋セメントは受託生産を行い、販売は従来通り住友セメントが実施した。([3] p201)

 その後、住友セメントの主力工場による重点生産への移行に伴い、東洋セメントは1984(昭59)年3月31日をもって生産を休止した。同年8月のアン デスセメント共同事業会社の設立に際して、東洋セメントは同グループの構成メンバーとなったが、生産を再開することなく同年11月30日に解散した。([3] p232)



■4.SS配置と鉄道貨物輸送  
 住友セメント(株)は最大生産能力を有する赤穂工場は臨海工場ではあるが、八戸工場や田村工場、栃木工場、岐阜工場、彦根工場など主力工場は内陸工場 で、製品輸送の鉄道貨物輸送への依存度が高かった。そして貨車によるバラ積み輸送を他社に先駆けて実施しており、太平洋戦争による包装資材の不足を補うた めという事情があったのだが、早くも1944(昭19)年に実施している。

 当時の磐城セメント(株)は、八戸・四倉両工場の製品を、陸奥湊・四ツ倉の両駅から郡山・喜多方・会津坂下の各駅まで普通有蓋車にバラ積みして送るとい うもので、1945(昭20)年3月末まで継続された。
 バラ積みの方法は、貨車の内部をクラフト紙かセメント空袋で完全に覆ってセメントを積み込み、そのセメントが貨車の扉を圧迫しないように戸口に袋入包装 品を積み、着駅でに荷下ろしは紙製品を下してから、空樽にセメントを詰めて運び出した。([1]p147)


タキ17374([1]p226)
 バラ積み輸送の利点は、(1)荷役費が節約できる、(2)容器費が節 約できる、(3)天候に関係なく荷役できる、(4)セメントの滅損が無い、などによ り出荷コストげ軽減されることである。更にセメント需要そのものが急増したこと、ダム建設や生コンなどで単一の消費拠点で大量のセメントが継続的に消費さ れるようになり、バラ積み輸送の進展に拍車をかけた。本格的なバラ積み輸送は昭和20年代後半に始まり、1951(昭26)年には全輸送量の4%に過ぎな かったものが、1958(昭33)年には25%に急増した。([1] p226)

 バラ積み輸送には中継基地として包装所が必要である。磐城セメントはこの時期、臨海工場が無かったため包装所は専ら内陸に設置し、貨車やトラックによる バラ積み輸送が行われた。またタキ車の充実を図り、1952(昭27)年以降13 両にすぎなかったものを1959(昭34)年には一挙に294 両増車して、急速にバラ積み輸送が進展した。([1]p226)

 1966(昭41)年には住友セメントの工場は、北は八戸から南は小倉まで全国にほぼ等距離で配置され、極めて合理的な布陣となった。同社の包装所は 1964(昭39)年度までは14カ所に過ぎなかったが、1965(昭40)年度から1969(昭44)年度にかけて42カ所を新設した。このうち臨海包 装所は、赤穂工場に近い近畿・四国を中心とする7カ所だけである。([1]p278)
 
 内陸包装所は「ゴールデントライアングル方式」という住友 セメント独自の構想によって配置された。この方式は、工場からの最大輸送距離を120km前後とし、60km間隔の正三角形の頂点上に包装所を設置す るというものである。サイロの貯蔵能力は平均3,000トンで、1969年度末の全包装所の貯蔵能力は20万トンを超えた。([1] p278)

 工場から包装所へはバラ積輸送が中心であったが、当時は鉄道輸送が主流のため40トンタキ車を大量に増備し、ゴールデントライアングル方式の円滑な運営 を図った。1969年度末には35トン積み、40トン積みのタキ車の保有数は765 両に達した。([1]p278)

 1969年には工場から包装所を経て需要家に至る輸送を、一貫した体系で行う包括運送契約を国鉄と結び、浜松工場などで実施したが、これはセメント 業界では初の試みであった。([1]p278-279)
 1971(昭46)年には、国鉄との包括運送契約を四倉・岐阜・彦根の3工場でも実施した。([1]p298)

 この間にもセメントのバラ積み輸送は一段と進展し、1972(昭47)年にはセメント総需要量の73.3%を占める生コン・コンクリート製品用の殆どが バラで受け入れられた。一部の包装所では、専用のバラ積み貨車を使って圧縮空気によりサイロへの収納が行われるようになった。([1] p298)

 『セメント年鑑 1973』によると、1973(昭48)年現在の住友セメントの包装所は63カ所だが、そのうち臨海包装所は9カ所に過ぎず、9割弱の 54カ所が内陸包装所である。その内陸包装所のうち茨木包装所(大阪府茨木市)を除いて全て搬入方法が貨車となっており、鉄道輸送への依存度は極めて高 い。ちなみに同時期の宇部興産(株)は全国28カ所のセメントセンターの全てがタンカー搬入(1カ所のみタンカー及びトラック)、三菱鉱業セメント(株) は全国38カ所のサービスステーションのうち33カ所がタンカー搬入と船舶輸送を中心とする供給体制を整えたメーカーもあった。

 この差は、国鉄の相次ぐ運賃値上げやスト権スト等による輸送の不安定さといった要因で、住友セメントの相対的な競争力低下に繋がることになる。

 1975(昭50)年9月1日に包装所をサービスステーション(SS)と改称したが([1]p226)、同年11月に海送SS 建設推進本部が発足、赤穂第二工場の完成に合わせて臨海SSの建設を積極的に推進することになった。([1] p333)

 1976(昭51)年には小名浜、仙台港、佐渡、千葉、加治木、1977(昭52)年に高知の各SSが全国各地に開設された。赤穂第二工場の完成を契機 に、住友セメントの弱点の1つであった陸上輸送偏向から海上輸送へと流通体制の変革が始まり、1976年4月には流通経費合理化委員会を設置して、海送比 率の拡大と陸上運賃の節減を強力に推進した。
([1]p333)

 1977(昭52)年度には秋田港・境港・豊橋、1978(昭53)年度には伊万里・天草、1979(昭54)年度には八戸港・酒田、1980(昭 55)年度には大分・八代、1981(昭56)年度には新宮・鹿児島の各臨海SSが開設され、海送体制が急速に充実していった。
([1] p349)




▼東北地方  

▽東青森SS (東青森駅)
【沿 革】
1969(昭44)年11月1日 青森包装所開設([10] p277)
2005(平17)年10月 東青森SS廃止([3]p372)
【鉄 道輸送】 「1983年版 専用線一覧表」:東青森駅 所管の住友セメント(株)専用線 (作業キロ:0.2km)あり
1985(昭60)年3月ダイヤ改正で は、陸奥湊〜川部間のセメント 専用列車が東青森駅で解放
【現 況】

【備 考】


2001.8東青森駅

2007.10東青森駅


▽川部SS (川部駅)
【沿 革】
1965(昭40)年9月1日 川部包装所開設([10] p267)
【鉄 道輸送】 「1983年版 専用線一覧表」:川部駅所 管の住友セメント(株)専用線 (作業キロ:0.7km)あり
1985(昭60)年3月ダイヤ改正で は、陸奥湊〜川部間にセメント 専用列車あり
【現 況】

【備 考】


2001.8川部駅

2006.11川部駅


▽白沢SS (白沢駅)
【沿 革】
1972(昭47)年10月1日 白沢包装所開設([10] p284)
【鉄 道輸送】
「1983年版 専用線一覧表」:白沢駅所 管の住友セメント(株)専用線 (作業キロ:0.2km)あり
【現 況】

【備 考】
白沢包装所([1]p297)

1975.11白沢駅 地図・空中写真閲覧サービス」より


▽秋田SS (秋田操駅)
【沿 革】
1965(昭40)年10月22日 秋田包装所開設([10] p267)
【鉄 道輸送】 「1983年版 専用線一覧表」:秋田操駅 所管の住友セメント(株)専用線 (作業キロ:0.8km)あり
【現 況】 

【備 考】


2006.8秋田貨物駅

2010.10秋田貨物駅


▽横手SS (横手駅)
【沿 革】
1970(昭45)年8月1日 横手包装所開設([10] p278)
2004(平16)年3月 横手SS廃止([3]p372)
【鉄 道輸送】
「1983年版 専用線一覧表」:横手駅所管 の住友セメント(株)専用線(作 業キロ:0.3km)あり
東北開発(株)と共有線
【現 況】

【備 考】


2005.5横手駅


▽仙北町SS (仙北町駅)
【沿 革】
1965(昭40)年10月10日 仙北町包装所開設([10] p267)
【鉄 道輸送】
「1983年版 専用線一覧表」:仙北町駅所 管の住友セメント(株)専用線 (作業キロ:0.3km)あり
【現 況】

【備 考】


1976.9仙北町駅 地図・空中写真閲覧サービス」より


▽水沢SS (水沢駅)
【沿 革】
1972(昭47)年11月1日 水沢包装所開設([10] p284)
【鉄 道輸送】
「1983年版 専用線一覧表」:水沢駅所管 の住友セメント(株)専用線(作 業キロ:0.3km)あり
【現 況】

【備 考】


2010.10水沢駅


▽渡波SS (渡波駅)
【沿 革】
1969(昭44)年4月11日 渡波包装所開設([10] p275)
【鉄 道輸送】
「1983年版 専用線一覧表」:渡波駅所管 の住友セメント(株)専用線(作 業キロ:0.1km)あるが、使用休止
【現 況】

【備 考】
渡波SS(1977年)(『石巻海陸運送三十年史』 1980年、p121)


▽仙台港SS (仙台埠頭駅)
【沿 革】 1976(昭51)年5月 仙台港SS開設([1] p333)
【鉄 道輸送】
専用線計画あるものの実現せず
【現 況】

【備 考】
住友セメント、宇部興産、小野田セメント、秩父セメント、東北開発の各 社SSが集中立地

1998.5仙台埠頭駅

2007.5仙台埠頭駅


▽仙台SS (長町駅)
【沿 革】 1960(昭35)年8月1日 磐城セメント(株)仙台包 装所開設([10]p257
【鉄 道輸送】
「1975年版 専用線一覧表」:長町駅所管の住友セメント(株)専用 線(作業キロ:0.2km)あり
【現 況】
「長町副都心」として再開発済み
【備 考】
1976(昭51)年5月の仙台港SS開設により、仙台SSが閉鎖され たと思われる

1975.9長町駅 地図・空中写真閲覧サービス」より


▽山形SS (漆山駅)
【沿 革】
1963(昭38)年8月1日 磐城セメント(株)山形包装所開設([10]p263
【鉄 道輸送】
「1983年版 専用線一覧表」:漆山駅所管 の住友セメント(株)専用線(作 業キロ:0.4km)あり
1985(昭60)年3月ダイヤ改正では、大越〜漆山間にセメント列車あり
【現 況】

【備 考】


1998.4漆山駅

1998.4漆山駅


▽鶴岡SS (鶴岡駅)
【沿 革】
1967(昭42)年12月1日 鶴岡包装所開設([10] p271)
1985(昭60)年4〜9月 アンデスセメント設立による交換出荷に伴い鶴岡SS閉鎖([2]p28- 29)
【鉄 道輸送】
田村工場からセメントを貨車で搬入『セ メント年鑑 1973』p132)
「1983年版 専用線一覧表」:鶴岡駅所管 の住友セメント(株)専用線(作 業キロ:0.2km)あり
【現 況】

【備 考】


1976.10鶴岡駅 地図・空中写真閲覧サービス」より


▽笹木野SS (笹木野駅)
【沿 革】
1969(昭44)年8月 笹木野包装所開設(『セメン ト年鑑 1975』p291)
2001(平13)年10月 笹木野SS廃止([3]p372)
【鉄 道輸送】
田村工場からセメントを貨車で搬入『セ メント年鑑 1973』p132)
「1983年版 専用線一覧表」:笹木野駅所 管の住友セメント(株)専用線 (作業キロ:0.3km)あり
【現 況】

【備 考】


1975.9笹木野駅 地図・空中写真閲覧サービス」より


▽郡山SS (郡山駅)
【沿 革】
1964(昭39)年4月25日 郡山包装所開設([10] p264)
1985(昭60)年4〜9月 アンデスセメント設立による交換出荷に伴い郡山SS閉鎖([2]p28-29)
【鉄 道輸送】
田村工場からセメントを貨車で搬入(『セメント年鑑  1973』p132)
「1983年版 専用線一覧表」:郡山駅所管 の住友セメント(株)専用線(作 業キロ:0.8km)あるが、使用休止
【現 況】

【備 考】


1975.11郡山駅 地図・空中写真閲覧サービス」より


▽広田SS (広田駅)
【沿 革】
1965(昭40)年9月23日 広田包装所開設([10] p267)
【鉄 道輸送】
田村工場からセメントを貨車で搬入(『セメント年鑑  1973』p132)
「1983年版 専用線一覧表」:広田駅所管 の住友セメント(株)専用線(作 業キロ:0.2km)あり
【現 況】

【備 考】


2006.11広田駅

2006.11広田駅

2006.11広田駅

2006.11広田駅



▼関東地方  

▽神立SS (神立駅)
【沿 革】
1965(昭40)年7月21日 神立包装所開設 ([10]p267)
【鉄 道輸送】
「1983年版 専用線一覧表」:神立駅所管の住友セメント(株)専用 線(作業キロ:0.3km)あり
【現 況】

【備 考】


1975.1神立駅 地図・空中写真閲覧サービス」より

2013.6神立駅

2013.6神立駅

2013.6神立駅


▽野崎SS (野崎駅)
【沿 革】
1968(昭43)年11月1日 野崎包装所開設([10] p274)
2001(平13)年10月 野崎SS廃止([3]p372)
【鉄 道輸送】
田村工場からセメントを貨車で搬入(『セメント年鑑  1973』p132)
「1983年版専用線一覧表」:野崎駅所管 の(株)シモレン専用線(作業キ ロ:0.3km)の第三者利用者に住友セメント(株)あり
【現 況】

【備 考】


1976.9野崎駅 地図・空中写真閲覧サービス」より


▽氏家SS (氏家駅)
【沿 革】
1971(昭46)年6月28日 氏家包装所開設([10] p281)
【鉄 道輸送】
田村工場からセメントを貨車で搬入(『セメント年鑑  1973』p132)

「1983年版専用線一覧表」:氏家駅所管 の(株)シモレン専用線(作業キ ロ:0.2km)の第三者利用者に住友セメント(株)あり

1985(昭60)年3月ダイヤ改正では、大越〜氏家間にセメント列車あり
【現 況】

【備 考】


2005.12氏家駅

2005.12氏家駅


▽宇都宮SS (雀宮駅)
【沿 革】
1963(昭38)年6月1日 磐城セメント(株)宇都宮 包装所開設([10]p262)
2001(平13)年10月 宇都宮SS廃止([3]p372)
【鉄 道輸送】
田村工場からセメントを貨車で搬入(『セメント年鑑  1973』p132)
「1975年版専用線一覧表」:雀宮駅所管 の(株)シモレン専用線(作業キ ロ:0.3km)の第三者利用者に住友セメント(株)あり
【現 況】

【備 考】


1975.1雀宮駅 地図・空中写真閲覧サービス」より


▽栗橋SS (栗橋駅)
【沿 革】
1965(昭40)年9月2日 栗橋包装所開設([10] p267)
【鉄 道輸送】
田村工場からセメントを貨車で搬入(『セメント年鑑  1973』p132)
「1975年版専用線一覧表」:栗橋駅所管 の(株)シモレン専用線(作業キ ロ:0.4km)の第三者利用者に住友セメント(株)あり
【現 況】

【備 考】


1975.1栗橋駅 地図・空中写真閲覧サービス」より


▽蕨SS (蕨駅)
【沿 革】
1964(昭39)年4月12日 蕨工業所(SS)開設 ([10]p264)
1985(昭60)年 蕨SS廃止(『セメント年鑑 1986』p43)
【鉄 道輸送】
田村工場からセメントを貨車で搬入(『セメント年鑑  1973』p132)
「1983年版専用線一覧表」:蕨駅所管の 住友セメント(株)専用線(作業 キロ:0.1km)あり
【現 況】

【備 考】


1975.1蕨駅 地図・空中写真閲覧サービス」より

▽池袋SS (板橋駅)
【沿 革】
1951(昭26)年4月 磐城コンクリート工業(株)池袋工場が完 成。日産能力360m3([1]p184)
1953(昭28)年4月1日 磐城セメント(株)池袋生コンクリート工業所となる([1]p230)
1960(昭35)年3月16日 磐城セメント(株)池袋 生コンク リート工業所(包装所)開設([10]p255)
【鉄 道輸送】
田村工場からセメントを貨車で搬入(『セメント年鑑  1973』p132)
「1983年版専用線一覧表」:板橋駅所管 の住友セメント(株)専用線(作 業キロ:0.3km)あり
【現 況】

【備 考】
池袋生コンクリート工場(1951年頃)([1] p185)

1975.1板橋駅 地図・空中写真閲覧サービス」より

1984.10板橋駅 地図・空中写真閲覧サービス」より


▽業平橋SS (業平橋駅)
【沿 革】
1949(昭24)年11月 業平橋駅構内に東京コンクリート工業 (株)業平橋工場が完成、日産能力150m3([1]p180、182)
1953(昭28)年4月1日 磐城セメント(株)業平橋生コンクリート工業所となる([1]p230)
1956(昭31)年5月10日 磐城セメント(株)業平 橋生コンク リート工業所内にセメントサイロ並包装設備新設([10]p247)
【鉄 道輸送】
田村工場からセメントを貨車で搬入(『セメント年鑑  1973』p132)
「1983年版専用線一覧表」:業平橋駅所 管の住友セメント(株)専用線 (作業キロ:0.1km)あり
【現 況】

【備 考】
業平橋生コンクリート工場(1951年頃)([1] p181)


▽隅田川SS (隅田川駅)
【沿 革】
1965(昭40)年8月5日 隅田川包装所開設([10] p267)
2003(平15)年3月 隅田川SS廃止([3]p372)
【鉄 道輸送】
浜松工場からセメントを貨車で搬入(『セメント年鑑  1973』p132)
【現 況】

【備 考】


1998.3隅田川駅

2006.3隅田川駅


▽成田SS (成田駅)
【沿 革】
1970(昭45)年度開設([1]p298)
1970(昭45)年4月28日使用開始(『ちばの鉄道一世紀』白土 貞夫、1996年、p297)
1984(昭59)年3月 空港工事完了後に閉鎖
([1]p298)
【鉄 道輸送】
栃木工場からピストン輸送([1]p298)
【現 況】

【備 考】
日本セメント(株)と共同で成田空港用地に2,000トンサイロ3基を 建設して開設([1]p298)


▽大船SS (大船駅)
【沿 革】
1965(昭40)年5月1日 大船包装所開設([1] p266)
【鉄 道輸送】
浜松工場からセメントを貨車で搬入(『セメント年鑑  1973』p132)
「1983年版 専用線一覧表」:湘南貨物駅 所管の住友セメント(株)専用線 (作業キロ:0.3km)あり
【現 況】

【備 考】
大船包装所([3] p159)

2009.9大船駅

2009.9大船駅


▽下曽我SS (下曽我駅)
【沿 革】
1967(昭42)年10月1日 下曽我包装所開設 ([1]p271)
【鉄 道輸送】
浜松工場からセメントを貨車で搬入(『セメント年鑑  1973』p132)

「1983年版専用線一覧表」:下曽我駅所 管の住友セメント(株)専用線 (作業キロ:0.4km)あり

1985(昭60)年3月ダイヤ改正で、東鷲宮〜下曽我間にセメント列車あり
【現 況】

【備 考】


2004.3下曽我駅

2004.3下曽我駅



▼甲信越地方  

▽東花輪SS (東花輪駅)
【沿 革】
1968(昭43)年8月10日 東花輪包装所開設 ([10]p274)
【鉄 道輸送】 浜松工場からセメントを貨車で搬入(『セメント年鑑  1973』p133)
「1983年版専用線一覧表」:東花輪駅所 管の住友セメント(株)専用線 (作業キロ:0.3km)あり
【現 況】
【備 考】


1995.9東花輪駅

1995.9東花輪駅

2021.7東花輪駅

2021.7東花輪駅


▽南松本SS (南松本駅)
【沿 革】
1965(昭40)年10月13日 南松本包装所開設 ([10]p267)
【鉄 道輸送】
岐阜工場からセメントを貨車で搬入(『セメント年鑑  1973』p133)

「1983年版専用線一覧表」:南松本駅所 管の住友セメント(株)専用線 (作業キロ:0.3km)あり

1985(昭60)年3月ダイヤ改正では、大垣〜南松本間にセメント列車あり
【現 況】

【備 考】


1997.3南松本駅

1997.3南松本駅

2011.4南松本駅

2011.4南松本駅


▽伊那福岡SS (伊那福岡駅)
【沿 革】
1969(昭44)年6月10日 伊那福岡包装所開設 ([10]p276)
2001(平13)年6月 伊那福岡SS廃止([3]p372)
【鉄 道輸送】
岐阜工場からセメントを貨車で搬入(『セメント年鑑  1973』p133)
「1975年版専用線一覧表」:伊那福岡駅 所管の住友セメント(株)専用線 (作業キロ:0.1km)あり
【現 況】

【備 考】


2002.10伊那福岡駅

2002.10伊那福岡駅


▽西上田SS (西上田駅)
【沿 革】
1965(昭40)年8月1日 西上田包装所開設([1] p267)
【鉄 道輸送】
岐阜工場からセメントを貨車で搬入(『セメント年鑑  1973』p133)
「1983年版専用線一覧表」:西上田駅所 管の住友セメント(株)専用線 (作業キロ:0.2km)あり
【現 況】

【備 考】


1996.8西上田駅

1996.8西上田駅

2010.11西上田駅

2010.11西上田駅


▽五日町SS (五日町駅)
【沿 革】
1970(昭45)年9月4日 五日町包装所開設([10] p278)
【鉄 道輸送】
栃木工場からセメントを貨車で搬入(『セメント年鑑  1973』p133)
「1983年版専用線一覧表」:五日町駅所 管の住友セメント(株)専用線 (作業キロ:0.2km)あり
【現 況】

【備 考】


2003.5五日町駅

2003.5五日町駅


▽小出SS (小出駅)
【沿 革】
1965(昭40)年12月2日 小出包装所開設([10] p267)
【鉄 道輸送】
「1970年版専用線一覧表」:小出駅所管 の電源開発(株)専用線(作業キ ロ:1.1km)の第三者利用者に住友セメント(株)あり
【現 況】

【備 考】


1976.11小出駅 地図・空中写真閲覧サービス」より


▽新潟SS (焼島駅)
【沿 革】
1963(昭38)年7月25日 新潟包装所開設([10] p263)
2000(平12)年11月 新潟SS廃止([3]p372)
【鉄 道輸送】
田村工場からセメントを貨車で搬入(『セメント年鑑  1973』p133)
「1983年版専用線一覧表」:焼島駅所管 の住友セメント(株)専用線(作 業キロ:1.1km)あり
【現 況】

【備 考】


2003.5焼島駅

2003.5焼島駅



▼東 海地方  

▽富士SS (富士駅)
【沿 革】
1964(昭39)年12月 富士包装所開設(『セメン ト年鑑 1975』p291)
1986(昭61)年 富士SS廃止(『セメン ト年鑑 1987』p45)
【鉄 道輸送】
浜松工場からセメントを貨車で搬入(『セメント年鑑  1973』p133)
「1983年版専用線一覧表」:富士駅所管 の住友セメント(株)専用線(作 業キロ:0.3km)あり
【現 況】

【備 考】


1976.1富士駅 地図・空中写真閲覧サービス」より


▽用宗SS (用宗駅)
【沿 革】
1965(昭40)年11月25日 用宗包装所開設([10] p267)
1986(昭61)年 用宗SS廃止(『セメン ト年鑑 1987』p45)
【鉄 道輸送】
浜松工場からセメントを貨車で搬入(『セメント年鑑  1973』p133)
「1983年版専用線一覧表」:用宗駅所管 の住友セメント(株)専用線(作 業キロ:0.9km)あり
【現 況】

【備 考】
岩堀春夫氏のwebサイトに1980年4月時点の専用線の写真あ り

1976.2用宗駅 「地図・空中写真閲覧サービス」より
【用 宗駅のセメント到着量の推移 (単位:トン)
年 度
  到 着 
年 度
  到 着 
年 度
  到 着 
1964
-
1971
89,904
1978
48,146
1965
19,956
1972
82,812
1979
47,308
1966
90,001
1973
80,239
1980
46,075
1967
104,009
1974
73,344
1981
26,706
1968
90,074
1975
63,042
1982
28,449
1969
82,774
1976
50,070
1983
21,508
1970
79,433
1977
41,182
1984
1,368
(『静岡市統計書』より作成)


▽浜松SS (天竜川駅)
【沿 革】
1965(昭40)年6月1日 野沢社、 浜松SS開設(浜松市龍光町130-1)([1]p266)
【鉄 道輸送】
彦根工場からセメントが貨車で到着と思われる
【現 況】

【備 考】
拙web「貨物取扱駅と荷主」の「天竜川駅」における「野沢石綿セメント(株)のセ メント輸送」を参照


▽西浜松SS (西浜松駅)
【沿 革】
1973(昭48)年10月開設([1]p298)
【鉄 道輸送】
1985(昭60)年3月ダイヤ改正では、大垣〜西浜松間にセメント列 車あり
【現 況】
セメントターミナル(株)浜松営業所として現役
【備 考】
CT参加社:住友セメント、大阪セメント、小野田セメント、秩父セメン ト


▽笠寺SS (笠寺駅)
【沿 革】
1959(昭34)年2月1日 磐城社、笠寺生コンクリー ト工業所 (名古屋・生コン工場)操業開始([1]p252)
【鉄 道輸送】
「1983年版専用線一覧表」:笠寺駅所管 の住友セメント(株)専用線(作 業キロ:0.3km)あり

1985(昭60)年3月ダイヤ改正では、大垣〜笠寺間にセメント列車あり
【現 況】

【備 考】


1996.3笠寺駅

1996.3笠寺駅


▽稲沢SS (稲沢駅)
【沿 革】
1960(昭35)年5月 野沢石綿セメント(株)名古屋生コンクリー ト工場が稼働。サービス・ステーションを併設([4]p261-262)
1966(昭41)年度開設([1]p279)
【鉄 道輸送】
「1983年版専用線一覧表」:稲沢駅所管 の住友セメント(株)専用線(作 業キロ:0.3km)あり
【現 況】

【備 考】


1997.3稲沢駅

2002.2稲沢駅

2007.2稲沢駅

2017.5稲沢駅


▽釜戸SS (釜戸駅)
【沿 革】
1968(昭43)年8月10日 釜戸包装所開設([10] p274)
【鉄 道輸送】
岐阜工場からセメントを貨車で搬入(『セメント年鑑  1973』p133)

「1983年版専用線一覧表」:釜戸駅所管 の住友セメント(株)専用線(作 業キロ:0.2km)あり

1984年1月10日 貨物取り扱い廃止(Wikipediaの釜戸駅よ り)
【現 況】

【備 考】


2005.8釜戸駅

2005.8釜戸駅

【釜戸駅の到着量の推移】 (単位:トン)
年 度
  到 着 
年 度
  到 着 
年 度
  到 着 
1968
44,068
1974
49,843
1979
42,138
1969
51,660
1975
28,866
1980
42,712
1970
71,000
1976
29,541
1981
36,180
1971
63,000
1977
23,976
1982
31,160
1973
56,946
1978
42,476
1983
4,710
(『岐阜県統計書』より作成)


▽飛騨一ノ宮SS (飛騨一ノ宮駅)
【沿 革】
1969(昭44)年10月1日 飛騨一ノ宮包装所開設([10] p276)
【鉄 道輸送】
岐阜工場からセメントを貨車で搬入(『セメント年鑑  1973』p133)

「1983年版専用線一覧表」:飛騨一ノ宮 駅所管の住友セメント(株)専用 線(作業キロ:0.2km)あり

1985(昭60)年3月ダイヤ改正では、大垣〜飛騨一ノ宮間にセメント列車あり
【現 況】

【備 考】
拙web「高山都市圏の貨物取扱駅」にて飛騨一ノ 宮駅及びセメント輸送について考察

2004.8飛騨一ノ宮駅

2004.8飛騨一ノ宮駅


▽桑名SS (東方駅)
【沿 革】
1964(昭39)年3月1日 住友セメント(株)桑名生 コンクリー ト工業所(SS)開設([10]p263)
【鉄 道輸送】 1964(昭39)年3月10日 東方(貨)駅が開業

「1983年版専用線一覧表」:東方駅所管 の住友セメント(株)専用線(作 業キロ:0.4km)あり

1986(昭61)年10月末 近鉄養老線の大垣〜東方間の定期貨物列車廃止
【現 況】

【備 考】


2011.11東方(貨)駅跡

2011.11東方(貨)駅跡


▽大泊SS (大泊駅)
【沿 革】
1969(昭44)年9月21日 大泊包装所開設([10] p276)
1985(昭60)年 大泊SS廃止(『セメント年鑑 1986』p43)
【鉄 道輸送】
彦根工場からセメントを貨車で搬入(『セメント年鑑  1973』p133)
「1983年版線専用線一覧表」:大泊駅所 管の住友セメント(株)専用線 (作業キロ:0.1km)あり
【現 況】

【備 考】


2017.7大泊駅



▼北陸地方・近畿地方  

▽西富山SS (西富山駅)
【沿 革】
1964(昭39)年4月21日 西富山包装所開設 ([10]p264)
【鉄 道輸送】
彦根工場からセメントを貨車で搬入(『セメント年鑑  1973』p133)
「1983年版専用線一覧表」:西富山駅所 管の住友セメント(株)専用線 (作業キロ:0.4km)あり
【現 況】

【備 考】


1975.9西富山駅 地図・空中写真閲覧サービス」より


▽新湊SS (新湊駅)
【沿 革】
1970(昭45)年6月4日 新湊包装所開設([10] p278)
【鉄 道輸送】
彦根工場からセメントを貨車で搬入(『セメント年鑑  1973』p133)
【現 況】

【備 考】


1995.8新湊駅

2011.10高岡貨物駅


▽津幡SS (津幡駅)
【沿 革】
1965(昭40)年4月20日 野沢 社、津幡SS開設([10]p266)
1966(昭41)年度開設([1]p279)
【鉄 道輸送】
七尾工場からセメントを貨車で搬入(『セメント年鑑  1973』p133)
「1975年版専用線一覧表」:津幡駅所管 の住友セメント(株)専用線(作 業キロ:0.4km)あり
【現 況】

【備 考】


1975.9津幡駅 地図・空中写真閲覧サービス」より

2021.8津幡駅


▽松任SS (松任駅)
【沿 革】
1969(昭44)年7月15日 松任包装所開設([10] p276)
【鉄 道輸送】
彦根工場からセメントを貨車で搬入(『セメント年鑑  1973』p133)
「1983年版専用線一覧表」:松任駅所管 の住友セメント(株)専用線(作 業キロ:0.2km)あり
【現 況】

【備 考】
拙web「貨物取扱駅と荷主」の「松任駅」における「住友セメント(株)の鉄道貨物輸送」を参照

1975.10松任駅 地図・空中写真閲覧サービス」より


▽南福井 SS (南福井駅)
【沿 革】
1969(昭44)年11月17日 南福井包装所開設([10] p277)
1994(平06)年10月1日 住友大阪セメント(株)発足に伴い南福井第一SSに改称
2003(平15)年3月 南福井第一SS廃止([3]p372)
【鉄 道輸送】
彦根工場からセメントを貨車で搬入(『セメント年鑑  1973』p133)
「1983年版専用線一覧表」:南福井駅所 管の住友セメント(株)専用線 (作業キロ:0.3km)あり
【現 況】

【備 考】


1998.3南福井駅


▽神足SS (神足駅)
【沿 革】
1960(昭35)年8月1日 磐城セメント(株)神足生 コンクリー ト工業所(包装所)開設([10]p257)
【鉄 道輸送】 彦根工場からセメントを貨車で搬入(『セメント年鑑  1973』p133)
「1983年版専用線一覧表」:神足駅所管 の住友セメント(株)専用線(作 業キロ:0.5km)あり
【現 況】
【備 考】 神足生コンクリート工業 所([1]p232)

1975.1神足駅 地図・空中写真閲覧サービス」より


▽西ノ宮SS (西ノ宮駅)
【沿 革】
1960(昭35)年5月1日 磐城セメント(株)西宮生 コンクリー ト工業所(包装所)開設([10]p256)
【鉄 道輸送】
彦根工場からセメントを貨車で搬入(『セメント年鑑  1973』p133)

「1983年版専用線一覧表」:西ノ宮駅所 管の住友セメント(株)専用線 (作業キロ:1.3km)あり

1985(昭60)年3月ダイヤ改正で、彦根〜西ノ宮間にセメント列車あり
【現 況】

【備 考】


1975.3西ノ宮駅 地図・空中写真閲覧サービス」より


▽姫路SS (飾磨港駅)
【沿 革】
1962(昭37)年6月 野沢石綿セメント(株)姫路SS設置([4] p291)
1966(昭41)年1月 滋賀興産(株)が野沢石綿セメント(株)より姫路SSなど譲り受けた([1]p266)
1966(昭41)年4月 住友セメント(株)は滋賀興産(株)を合併
([1] p266)
【鉄 道輸送】
飾磨港駅に専用線無し
彦根・多賀工場よりセメントを貨車輸送と予想
【現 況】

【備 考】
([4]p291)

『セメント年鑑 1967』の「工場外貯蔵出荷設備一覧表」には「姫路 SS」は存在せず。
滋賀興産(株)合併時に住友セメント(株)は継承せず、閉鎖か?

【播但線のセメント輸送量】(単位:トン)
年  度
発 送
到 着
年  度
発 送
到 着
1961
3,937
16,137
1969
9,931
14,598
1962
6,171
31,583
1970
3,650
36,707
1963
9,061
43,322
1971
4,661
35,348
1965
34,887
58,883
1972
8,741
18,564
1966
24,282
20,211
1973
0
1,066
1968
13,362
8,177
1974
432
764
(『兵庫県統計書』より作成)


▽宝殿SS (宝殿駅)
【沿 革】
1966(昭41)年10月21日 宝殿包装所開設([10] p269)
【鉄 道輸送】 「1983年版専用線一覧表」:宝殿駅所管 の住友セメント(株)専用線(作 業キロ:貨車注入の場合0.3km 貨車引出の場合0.4km)あり
【現 況】
【備 考】 Le Ciel ル・シエル〜いつか見た空〜の 「赤 穂線の貨物列車。」に1993年7月現在の専用線の写真あり

1975.1宝殿駅 地図・空中写真閲覧サービス」より


▽朝来SS (朝来駅)
【沿 革】 1970(昭45)年10月10日 朝来包装所開設([10] p279)
【鉄 道輸送】 彦根工場からセメントを貨車で搬入(『セメント年鑑  1973』 p133)
「1983年版専用線一覧表」:朝来駅所管 の住友セメント(株)専用線(作 業キロ:0.1km)あり
【現 況】
【備 考】

2004.3朝来駅

2017.12朝来駅

2017.12朝来駅

2017.12朝来駅


▽西舞鶴SS (西舞鶴駅)
【沿 革】
1967(昭42)年5月11日 西舞鶴包装所開設([10] p270)
2000(平12)年3月 西舞鶴SS廃止([3]p372)
【鉄 道輸送】
彦根工場からセメントを貨車で搬入(『セメント年鑑  1973』p133)

1967年5月 西舞鶴駅所管の住友セメント(株)専用線(作業キロ: 0.4km)が敷設(『福知山鉄道管理局史』福知山鉄道管理局、 1973年、 p530)

「1983年版専用線一覧表」:西舞鶴駅所 管の住友セメント(株)専用線 (作業キロ:住友1番線0.2km 住友2番線0.1km 住友3番線0.1km)あり
【現 況】

【備 考】


1976.4西舞鶴駅 地図・空中写真閲覧サービス」より


▽江原SS (江原駅)
【沿 革】
1967(昭42)年11月12日 江原包装所開設([10] p271)
【鉄 道輸送】
1967年11月 江原駅所管の住友セメント(株)専用線(作業キロ: 0.5km)が敷設(前掲『福知山鉄道管理局史』p530)
1967年11月から西浜〜江原間でタキ5両(セメント)の定形貨物輸送開始(前掲『福知山鉄道管理局史』p528)
「1983年版専用線一覧表」:江原駅所管 の住友セメント(株)専用線(作 業キロ:0.5km)あり
【現 況】

【備 考】


1995.9江原駅

1995.9江原駅

2019.5江原駅

2019.5江原駅



▼中国地方・九州地方  

▽東岡山SS (東岡山駅)
【沿 革】
1967(昭42)年10月2日  東岡山包装所開設([10]p271)
【鉄 道輸送】
「1983年版 専用線一覧表」:東岡山駅所 管の住友セメント(株)専用線(作業キロ:0.4km)あり
記事には「西浜(信)発セメント積貨車及びその返送空車に限る。」とある

1986(昭61)年6月末 国鉄は 住友セメントとの契約が切れたため西 浜〜東岡山のセメント列車廃止
(飯高 具孝「赤穂線の貨物列車」『鉄道ファン』通巻305号、1986年、p118)
【現 況】

【備 考】


1998.8東岡山駅

2011.9東岡山駅


▽東津山SS (東津山駅)
【沿 革】
1968(昭43)年6月29日 東津山包装所開設([10] p273)
【鉄 道輸送】
赤穂工場からセメントを貨車で搬入(『セメント年鑑  1973』p133)
【現 況】

【備 考】


2020.3東津山駅

2020.3東津山駅


▽小倉SS (東小倉駅)
【沿 革】
1965(昭40)年11月6日 小倉包装所開設([10] p267)
【鉄 道輸送】

【現 況】

【備 考】


1975.3東小倉駅
 地図・空中写真閲覧サービス」より

2009.4東小倉駅
 地図・空中写真閲覧サービス」より

2019.3東小倉駅

2019.3東小倉駅


▽瀬高SS (瀬高駅)
【沿 革】
1968(昭43)年8月1日  瀬 高包装所開設([10]p274)
【鉄 道輸送】
「1983年版 専用線一覧表」:瀬高駅所管 の住友セメント(株)小倉事業所専用線(作業キロ:0.1km)あり

晩年は金田駅からセメントが到着し ていたが、1980(昭55)年〜1984(昭59)年に瀬高駅の貨物取扱い廃止は
明確には不明(弓削 信夫『福岡県JR全駅』1993年、p100)
【現 況】

【備 考】


2007.11瀬高駅




[1]『住友セメント八十年史』住友セメント株式会社、1987年
[2]『たゆまなき挑戦−住友大阪セメント90年史−』住友大阪セメント株式会社、1998年
[3]『住友大阪セメント百年史』住友大阪セメント株式会社、2008年
[4]『いそとせのおもいで』野沢石綿セメント株式会社、1964年
[5]野尻 亘『日本の物流−産業構造転換と物流空間−』古今書院、1997年
[6]『四十年史』日鉄鉱業株式会社、1979年
[7]『東北の地下資源と産業振興(東北の地下資源と産業振興調査報告)』東北電力株式会社・(財)日本経済研究所、1953年5月
[8]小宅 幸一『常磐地方の鉄道-民営鉄道の盛衰をたどって-』平電子印刷所、1987年
[9]『明星セメント25年のあゆみ』明星セメント株式会社、1983年
[10]『セメント年鑑 1995』セメント新聞社、1995年

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