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境港駅 〜臨港線を活用したラワン材、石油、鮮魚などの各鉄道貨物輸送と港湾機能の移転に伴うその終焉 〜
2010.08.16作成・公開 2012.11.3訂補

<目次>
はじめに
境港駅及び境港の貨物輸送に関する年表
境港駅の貨物取り扱いトン数の推移
「ラワン号」列車について
境港駅からの石油タンク車輸送
山陰くみあい飼料(株)の輸送について
境港駅からの鮮魚輸送・缶詰輸送



■はじめに  
 山陰地方の中心部に位置し、鉄道の要衝である米子駅から境線のディーゼルカーに乗ること約45分で終点の境港(さかいみなと)駅に到着する。境港市は境 港(さかいこう)を中心に発展を遂げた都市で、その境港は山陰地方を代表する歴史ある港湾であり、米子や松江といった山陰地方の中枢部の外港として重要な 役割を果たしている。そして境線はかつて境港で陸揚げされた物資を中心に貨物輸送が盛んに行われていた時期があった。現在の境線はもちろん貨物輸送は全廃 されて いるが、旅客輸送面では近年になって米子空港駅が開業、鉄道が港湾及び空港と都市との間を結ぶインフラとして活用されており、旅客流動上の重要性は一定の 水準を保っていると言えよう。

 人口の希薄なイメージのある山陰地方ではあるが、米子都市圏と松江都市圏にかけては境港、米子、安来、松江、出雲と都市が連 なり、いわゆる「中海・宍道湖経済圏」は約70万人都市圏を形成している。また、その経済的な中心都市は米子であるというのも興味深く、米子が山陰地方の 中 央部に位置するという地理的特性に加えて鉄道や道路の結節点であるという交通の要衝であることが、米子の地位を高めているのは間違いないだろう。ちょうど 福島県の経済の中心が交通の結節点である郡山にある(経済県都と呼ばれる)ことと似たような現象なわけだが、米子の場合は鳥取・島根の両県に跨って中枢性 を発揮しており、共に人口の少ない県ではあるが非県庁所在地がその地方における中枢性の重要な一端を担っていることは非常に興味深い。

 さて話が逸れてしまったが、山陰地方で最も経済活動が盛んな米子には現在も鉄道貨物輸送の拠点としてコンテナ列車が発着し、王子製紙の専用線からの出荷 も盛んである。それに対して、境港駅は広大なヤードは全て撤去、旅客設備も移転したこともあって昔日の面影は微塵も感じない小さな駅になってしまってい る。また周囲に広がっていた 港湾設備も臨港線共々撤去され、公園や商業施設、住宅地に変貌し境港駅の周辺からは物流拠点の佇まいは消えてしまっている。これは境港自体の港湾機能が、 駅か ら離れた場所に新しい埠頭を建設するなどして移転したためで、その移転に際しては鉄道貨物輸送との結節は考慮されることはなく、時はちょうど国鉄の貨物輸 送が縮小を続けていた時代でもあり、境港駅はひっそりと鉄道貨物輸送からは手を引いたわけである。

 かつて境港駅からはラワン材の専用列車や鮮魚列車、石油タンク車の発着など多種多様な鉄道貨物輸送が行われていた。それはかつて港湾と鉄道は不可分な関 係を持っていたからこそなのだが、鉄道貨物輸送の競争力低下と港湾の近代化≠ニいう両面からその関係性は薄れていった。そこで今回の「貨物取扱駅と荷 主」では、港湾と鉄道という切り口でこれら輸送を纏めてみることにした。

昭 和17〜20年頃の境港駅([1]p36)

1976 年当時の境港駅の空中写真
国 土画像観覧システム(撮影年度:昭和51年度、地区名:松江より境 港駅周辺を切抜)
境港駅は大きくカーブした旅客ホームを持ち、その先は東臨港線となっていた。また西側に伸びる公共臨港線沿いには多数の油槽所が存在していた。

『鳥取県万能地図百科』山陰中央新報、1984年、p50


■境港駅及び境港の貨物輸送に関する年 表
年月日
事 項
1902 (明治35).11.01
境港駅が開業
1916 (大正05).07.
境港〜東京間で初めて鮮魚の試験輸送に成功([1]p101)
1952 (昭和27).12.28
ベニヤ用ラワン材がフィリピンより初輸入される([1]p195)
1956 (昭和31).03.
境港駅〜栄町間の東臨港線敷設([1]p195)
1956 (昭和31).03.
境港駅〜外江町間の公共臨港線敷設(県境港湾事務所経営)([1] p195)
1956 (昭和31).03.22
境港駅より京阪神及び東京行きの急送品列車運転開始(伯備線経由) ([1]p195)
1960 (昭和35).10.
境港〜岡山間に鮮魚急送品列車運転開始([1]p196)
1962 (昭和37).
県営水産物地方卸売市場がオープン([1]p92)
1963 (昭和38).07.29
山陰くみあい飼料鰍フ工場竣工([1]p197)
1964 (昭和39).03.
外江木工団地完成、外材輸入が本格化する([1]p197)
1965 (昭和40).03.
境港外港に1万トン級岸壁2バース竣工([1]p198)
1966 (昭和41).02.
境港駅構内の全面舗装に着手、続いて低床上屋も完成([1]p95)
1966 (昭和41).11.01
境港〜宍道・知井宮間で「ラワン号」列車運転開始([1]p119)
1967 (昭和42).03.
外江公共臨港線の整備が進み「ラワン号」の積込み用15トンデリックを 設置([1]p119)
1967 (昭和42).07.
境港外港臨海工業用地完成(1968.1昭和町と命名)([1] p198)
1970 (昭和45).03.
15トンデリック1基を増備し、ラワン材は全て臨港線で積込み可能と なった([1]p119)
1971 (昭和46).07.01
境港〜東京間に鮮魚専用特急列車「山陰トビウオ号」運転(10月末ま で)([1]p200)
1972 (昭和47).08.
昭和町に石油基地造成([1]p200)
1976 (昭和51).
境港駅における鮮魚の取扱いが皆無となる([1]p103)
1977 (昭和52).11.
日本石油(株)境港油槽所が開設([2]p804)
1984 (昭和59).03.
境港外港昭和地区南埠頭に4万トン岸壁竣工([1]p204)
1985 (昭和60).02.
境港駅からの石油タンク車の発送が廃止([1]p120)
1985 (昭和60).03.31
国鉄の貨物駅集約により境港駅通運取扱廃止([1]p204)
1986 (昭和61).08.07
「ラワン号」列車運転廃止。これに伴い臨港線作業中止([1] p205)
1986 (昭和61).10.31
境港駅の車扱の取扱廃止([1]p204)
1991 (平成03).09.30
山陰くみあい飼料(株)の工場閉鎖([1]p96)
1991 (平成03).12.
東西オイルターミナル(株)境港油槽所が開所(同社会社案内より)


1985.8.22 かつての境港駅
 貨物ホームにワムが停まり、奥にはラワン材列車が停車中。 ※「鉄道・四季憧憬」様から大変貴重な写真をご提供して戴きました!


[1]巻頭

■境港駅の貨物取り扱いトン数の推移(単 位:トン)
年 度
車 扱発送
車 扱到着
合 計
1955 (昭和30)年度
127,830
35,947
  163,777
1960 (昭和35)年度
200,200
69,683
269,883
1964 (昭和39)年度
275,222
110,555
385,777
1970 (昭和45)年度
308,774
142,815
451,589
1975 (昭和50)年度
162,718
59,793
222,511
1980 (昭和55)年度
164,149
29,341
193,490
1981 (昭和56)年度
158,112
22,666
180,778
1982 (昭和57)年度
160,288
13,715
174,003
1983 (昭和58)年度
151,468
9,892
161,360
1984 (昭和59)年度
122,847
7,241
130,088
1985 (昭和60)年度
84,451
770
85,221
1986 (昭和61)年度
28,129
240
28,369
[1]p121-122より抜粋



■「ラワン号」列車について  
  境港駅の歴史を語る上で、欠かせないのが「ラワン号」の輸送である。現在では鉄道貨物による原木輸送が行われていたことなど信じられないが、国鉄末期の 1986年11月までこの物資適合輸送としてのラワン材専用列車が境港〜知井宮間で残っていたのである。その始まりから終焉までを纏める。

 境港にフィリピンからラワン原木1万石を積載した住吉丸が初入港したのは1952(昭和27)年12月28日のことであった。昭和20年代は1ヵ月に1 隻程度の入港で量も少なかったのだが、徐々に出雲方面の工場に向けて発送が始まった。水切後の往路は、境線から米子駅中継で、着駅の宍道、知井宮へは翌朝 の着貨が予定されていたのだが、輸送量の増加につれて、長物車(チキ)の配車不足により誤算を生じ、残貨の発生で工場の生産体制にも支障をきたす事態が発 生した。([1]p118)

 この頃、島根県内の合板など大手3社の増産設備が進捗して、従来のような輸送システムでは到底需要に応じ切れぬことが明らかになり、専用のラワン列車の 運行が計画された。([1]p118)

▼ラワン列車の実施状況([1]p119)
1.期間 1966(昭和41)年11月1日〜1986(昭和61)年8月7日
2.発駅 境港駅
3.着駅 知井宮宍道鳥取益田の4駅(のち知井宮、宍道の2駅となる)
  *知井宮には、(株)大一商店 出雲工場〔のちの(株) 第一ウッド〕がある。
  *宍道には、日新林業(株)がある。
  *鳥取には、大同木材があったが、外江木工第2団地に工 場移転したため取扱廃止。
  *益田には、西日本木材工業があったが、1960(昭和 35)年頃からラワン材が浜田港に入るようになったた め取扱が漸減したのち廃止。
4.列車編成 チキ(長物車)13両 運賃割引制度適用
5.輸送数量 月間7,500トン
6.境港海陸運送(株)の作業態勢
  当初積込みは内港岸壁で行われ5トンデリックを使用したが、1967(昭和42)年3月、外江公共臨港線の整備が進み、15トンデリックを設置 (1978年1月20トンに改造)、
  さらに1970(昭和45)年3月、15トン1基を増備したので、ラワン材は全て臨港線で積込み可能になった。
  積込作業は15時頃完了、列車の編成を行ったのち、17時頃発車、山陰線経由で翌朝には各駅に到着した。
臨 港線でのラワン材の貨車積込み作業(昭和50年代後半)

([1]p119)

1985.8.22 境港駅に佇むラワン材を積んだチキ
※「鉄道・四季憧憬」様から大変貴重な写真をご提供して戴きました!

『'85貨物時刻表』p201

 ラワン列車の廃止に伴い、それ以後のラワン材の輸送はトラック(トレーラー)によって引き継がれた。トラック輸送への転換時に荷主の都合によって、荷物 の半量は荷主直引取りとなり、境港海陸運送鰍フ取扱数量は減少したが、業務上のウエイトは依然高いものがある。([1]p119)

▼境港駅の車扱によるラワン材発送実績(単位:トン) ([1] p120)
年度
数量
年度
数量
1962 (昭和37)年度
41,775
1978 (昭和53)年度
147,600
1963 (昭和38)年度
43,979
1979 (昭和54)年度
137,600
1964 (昭和39)年度
45,849
1980 (昭和55)年度
119,900
1965 (昭和40)年度
49,800
1981 (昭和56)年度
121,700
1966 (昭和41)年度
70,300
1982 (昭和57)年度
132,500
1967 (昭和42)年度
90,200
1983 (昭和58)年度
128,200
1968 (昭和43)年度
  101,300
1984 (昭和59)年度
106,600
1969 (昭和44)年度
111,200
1985 (昭和60)年度
84,400
1970 (昭和45)年度
140,400
1986 (昭和61)年度
28,100
1971 (昭和46)年度
128,200
1986 (昭和61)年度
 62,929(自動車)
1972 (昭和47)年度
143,500
1987 (昭和62)年度
66,895(自動車)
1973 (昭和48)年度
169,700
1988 (昭和63)年度
63,590(自動車)
1974 (昭和49)年度
116,800
1989 (平成元)年度
66,679(自動車)
1975 (昭和50)年度
103,100
1990 (平成02)年度
66,263(自動車)
1976 (昭和51)年度
140,000
1991 (平成03)年度
74,568(自動車)
1977 (昭和52)年度
136,300
1992 (平成04)年度
66,366(自動車)
1986年度以降は自動車輸送数量、米子鉄道管理局『貨物輸送概況』より



■境港駅からの石油タンク車輸送  

 境港駅にはかつて、日本石油(株)、エッソ石油(株)、シェル石油(株)、丸善石油(株)の専用線が存在した。それら専用線及び輸送については、拙 web「石油輸送基地」に境港駅として纏めた。
 さらに現在これらの油槽所の一部は移転され東西OTとなり現役である(境港参照)が、鉄道貨物輸送とは もちろん縁が切れている。

国 土画像観覧システム(撮影年度:昭和51年度、地区名:松江より境 港駅周辺を切抜)

国 土画像観覧システム(撮影年度:昭和51年度、地区名:松江より境 港駅周辺を切抜)



■山陰くみあい飼料(株)の輸送について   

 1963(昭和38)年7月29日、外江木工団地内に山陰くみあい飼料(株)が竣工した。同社は飼料原料を輸入して、配合飼料を製造、これを鳥取、島根 両県 下の養鶏・養豚・牛飼育業者用の家畜飼料に当てるため設置された。竣工後1年は準備期間として調整段階にあり、1964(昭和39)年夏から本格的に稼働 した。主要原料はメイズ(とうもろこし)、マイロ(高梁)で、既に境港にはこの年2船が入港していて輸入体制もできていた。([1]p94)

 発送は1日10車〜15車の貨車積込みが主で、多品種であ ることも飼料の特徴であった。製品の紙袋は1968(昭和43)年頃からフレコンに変わり、区域輸送は入港した原料飼料の倉庫〜工場間の地場輸送が主で、 ほかに若干の製品輸送があり、大部分の製品は鳥取・島根両県経済連や農協が引き取った。([1]p95)

 飼料は海上輸送で到着するほか、国鉄貨車による到着貨物も増加した。駅頭には、メイズ、マイロ、大麦(60kg麻袋詰)、大豆粕、ふすま、米糠、魚粉な どの袋物(20kg〜30kg詰)で、ホッパ車によるばら物は無かった。一度に貨車30両〜40両の入線があり、境港駅に入り切れぬ状態が続き、やむ なく米子駅や大篠津駅などに入線待機させる措置がとられたが、駅構内作業設備の不備と相まって大きな問題になった。当時の境港駅構内は未舗装の上、高床 ホームで上屋も無かったため、作業はトラックを貨車に接続し、肩荷役に頼る積卸しが通常で、降雨・降雪時には構内が泥地と化し、荷物を濡損させるおそれも あり、作業能率への影響が大きかった。やむなく外江臨港線で積卸した時期もあったが、臨港線使用料の荷主負担問題もあり、一時的措置に過ぎなかった。 ([1]p95)

 境港海陸運送(株)は、1965(昭和40)年春、米子鉄道管理局はじめ各方面に精力的な活動を展開した。国鉄でも境港駅の実態をよく認識の上、駅構内 の改 良工事は緊急施策と認めて計画年度を繰り上げ、1966(昭和41)年2月、まず構内の全面舗装に着手、続いて低床上屋も完成して駅は面目を一新すること ができた。([1]p95)

 しかし1972(昭和47)年頃から、鉄道からトラック輸送への転換が はじまり、国鉄利用度は低減の傾向をたどった。また飼料工場は経済連の合理化推進のため、中国地方4工場(山口、広島、岡山、山陰)のうち岡山工場を残し て他は閉鎖となり、山陰くみあい飼料は1991(平成3)年9月30日限りで製造を停止した。([1]p96)

▼境港駅の配合飼料及び原料輸送実績(車扱)([1]p96)
年 度
発 送数量
到 着数量
合 計
1964 (昭和39)年度
23,241
8,599
  31,840
1967 (昭和42)年度
33,000
19,971
52,971
1970 (昭和45)年度
22,900
34,172
57,072
1972 (昭和47)年度
16,500
16,920
33,420
1974 (昭和49)年度
2,100
5,180
7,280
1976 (昭和51)年度
2,400
5,135
7,535
1978 (昭和53)年度
1,600
4,246
5,846
1980 (昭和55)年度
900
3,048
3,948
1981 (昭和56)年度
200
1,253
1,453
1982 (昭和57)年度
0
602
602
1983 (昭和58)年度
0
386
386
米子鉄道管理局『貨物輸送概況』より



■境港駅からの鮮魚輸送・缶詰輸送  

 国鉄は、鮮魚の貨車輸送について古くから努力を重ねてきており、1916(大正5)年7月、境駅〜東京間ではじめて鮮魚の試験輸送に成功したという。当 初は冷蔵車両も不備の時代であったので、おそらく途中駅で氷の補給を続けながら運送したと考えられる。([1]p101)

 1955(昭和30)年頃までは、サバがもっとも多かった。積込み作業は殆ど人力に依存し、歩み板を貨車に渡して、2名が天秤でトロ箱を担送していた が、昭和30年代に入ってから、コンベア、フォークリフトなどが導入され、作業の合理化が図られた。大漁時には、たちまち保冷車が不足し、有蓋車(ワム) や無蓋車(トム)にシートをかけて発送し、なお不足の際には岸壁に魚を一時シートがけしたまま2日〜3日待機させたこともあった。1日の発送で最高貨車 100両以上も積んだこともあった。([1]p101)

 当時は、境港に冷蔵設備が無く、トラック輸送も発達せず、国鉄に依存するほかなかったが、貨車不足、荷役能力、氷不足など悪条件が多く、魚の鮮度が低下 し、やむなく養鰻飼料として浜名湖方面(静岡県)に送られたこともあった。([1]p101,103)

 このような窮状を打開するために、境港海陸運送(株)は再三米子鉄道管理局に増車を要請すると共に、さらに国鉄本社に陳情を重ねるなどした。1955 (昭和30)年11月頃にも国鉄本社に陳情し、漁船入港時間に合わせて列車運行を図るなどの折衝が実を結び、翌1956(昭和31)年3月から急送列車運 転が実 現した。この鮮魚用臨時急送列車21両編成で、漁船入港に合わせ、午前10時、午後2時の2回編成さ れ、東京名古屋横浜京都神戸大阪の各魚市場で翌朝のせり売りに間に合わせることができた。([1] p103)

 1959(昭和34)年、1960(昭和35)年度の境港における水揚量とその処理状況は以下の通り。この時期が鉄道輸送の最盛期にあたっている。 ([1]p103)

処理状況
年  度
総 数量
鉄 道
自 動車
缶 詰
魚 肥
干 魚
地 場消費
1959 (昭和34)年度
111,885
  44,756
16,683
 19,578
 22,457
 8,086
325
1960 (昭和35)年度
88,429
27,342
6,111
19,889
25,330
7,240
2,517
(単位:トン)

 道路の整備、車体の改良とその高速性、ドアツードアの集配体制など自動車の利点は数多く、遠隔大量輸送のメリットを持つ鉄道も自動車を凌ぐことができな くなった。1970(昭和45)年以降、漁獲高の急増と対照的に、貨車扱の発送は低調となり、昭和50年代早々には自動車にイニシアティブを奪われ、1976(昭和51)年以降においては境港駅の鮮魚の取扱いは皆無と なった。([1]p103)

 1962(昭和37)年には県営水産物地方卸売市場がオープンし、流通面での整備拡充が軌道に乗った。漁港、港湾施設が整備され、缶詰などの水産加工品 もこの頃から出荷されるようになった。境港の流通加工基地としての役割は、1965(昭和40)年にかけて缶詰加工、煮干、塩干魚などの製造業者の進出が あって、加工団地の内外合わせて70を超える業者が操業した。中でもイワシ、サバを主とする缶詰業は、輸出を中心に数工場が設立され、1969(昭和 44)年には弓浜地域の業者によって協同組合も組織された。輸出は境港で直接通関手続きが可能なため、メリットが大きい。([1]p92-93)

 原料魚については地元魚類が優先されるが、不漁時には原料不足となることもあり、全国各地よりの鮮魚の到着は、昭和30年代後半から40年代にピークを 迎え、缶詰の生産も盛んになり、同時に缶詰用缶の需要が増え、東洋製罐、大和製缶などが進出して工場を設立し、製缶用ブリキ板と合わせて貨車で到着するよ うになった。缶詰の発送(車扱、着駅:神戸港)では、境港海 陸運送(株)の取扱いは全体の60〜70%の占有率であった。([1]p93)

 順調な発展をみた缶詰の発送、鮮魚の到着も、昭和50年代に入ってトラック輸送への転換が進み、缶詰業界も50年代後半の円高が進むにつれて輸出が不利 となり、撤退する業者も多く不振が続いている。([1]p93)



[1]『境港海陸運送五十年の歩み』境港海陸運送株式会社、1994年
[2]『日本石油百年史』日本石油株式会社、1988年

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