日本の鉄道貨物輸送と物流: 目次へ
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王子製紙株式会社  2007.12.16作成開始 2010.5.4公開  2010.5.17訂補


=目次=
1.会社概要
2.年表
3.王子製紙グループのトピックス
4.王子製紙グループの鉄道貨物輸送について
5.工場別の状況
5−1.王子製紙(株)釧路工場・・・鉄道貨物輸送と物流
5−2.王子製紙(株)苫小牧工場・・・鉄道貨物輸送と物流
5−3.王子製紙(株)富士工場・・・鉄道貨物輸送と物流
5−4.王子製紙(株)春日井工場・・・鉄道貨物輸送と物流
5−5.王子製紙(株)神埼工場・・・鉄道貨物輸送と物流
5−6.王子製紙(株)米子工場・・・鉄道貨物輸送と物流
5−7.王子製紙(株)呉工場・・・鉄道貨物輸送と物流
5−8.王子製紙(株)富岡工場
5−9.王子製紙(株)日南工場・・・鉄道貨物輸送と物流
<王子製紙グループ>
5−10.王子板紙(株)名寄工場・・・鉄道貨物輸送と物流
5−11.王子板紙(株)佐賀工場
5−12.王子特殊紙(株)江別工場・・・鉄道貨物輸送と物流
5−13.王子特殊紙(株)中津工場
5−14.王子特殊紙(株)東海工場 岩渕製造所
5−15.王子コーンスターチ(株)・・・鉄道貨物輸送と物流
6.参考文献


1.会社概要  
【本社】 東京都中央区銀座四丁目7番5号
【創業】 1873年(明治6年)2月12日 (財閥解体後の設立 1949年 (昭和24年)8月1日)
【資本 金】 103,880百万円(2008年3月末現在)
【従業員 数】 20,415名(2009年3月期)
【連結業 績】 売上高 1兆2,671億円(2009年3月期)
経常利益 288億円(2009年3月期)


2.年表  
西 暦(元号)
事   項
1873 年(明治06年)
1875年(明治08年)
1876年(明治09年)
1889年(明治22年)
1893年(明治26年)
1910年(明治43年)
1933年(昭和08年)
1949年(昭和24年)
1952年(昭和27年)

1960年(昭和35年)
1962年(昭和37年)
1970年(昭和45年)
1971年(昭和46年)
1975年(昭和50年)
1979年(昭和54年)
1989年(平成元年)
1993年(平成05年)
1996年(平成08年)
2001年(平成13年)

2002年(平成14年)
2003年(平成15年)
2004年(平成16年)

2005年(平成17年)
渋沢栄一により「抄紙会社」設立、日本の洋紙産業の始まり
東京府下王子村に工場完成、破布を原料に抄造開始
商号を「製紙会社」と変更
静岡県に日本で初めて木材パルプを原料とした気田工場を開業(1923年廃止)
創業地の名を冠し、商号を「王子製紙」と改称
北海道に新聞用紙の国内自給を目的とする苫小牧工場完成
富士製紙、樺太工業を合併、全国洋紙生産高80%を生産
王子製紙、過度経済力集中排除法により苫小牧製紙(後に王子製紙)、本州製紙、十條製紙(後に日本製紙)の3社に分割
商号を「王子製紙工業(株)」と変更
愛知県に上質紙製造の春日井工場開設
商号を「王子製紙(株)」と変更
春日井工場においてクラフト紙および塗工紙の生産を開始
北日本製紙(株)と合併
春日井工場にティシュペーパー抄紙機新設
苫小牧工場に新聞古紙脱墨設備新設
日本パルプ工業(株)と合併
東洋パルプ(株)と合併
神崎製紙(株)と合併し、商号を「新王子製紙(株)」と変更
本州製紙(株)と合併し、商号を「王子製紙(株)」と変更
王子板紙(株)設立
王子コンテナー(株)発足 (現 王子チヨダコンテナー株式会社)
段ボール原紙の生産・販売体制を一元化
家庭用紙販売会社である(株)ネピアに、当社家庭用紙製造部門とホクシー(株)を統合し、商号を「王子ネピア(株)」と変更
特殊紙および白板紙の生産販売会社である富士製紙(株)に、
王子製紙(株)特殊紙およびフィルム事業部門を統合し、商号を「王子特殊紙(株)」と変更
段ボール子会社である、王子コンテナー(株)とチヨダコンテナー(株)が合併し、「王子チヨダコンテナー(株)」と商号を変更
段ボール業界第3位(生産量)の森紙業グループ各社の株式を取得


3.王子製紙グループのトピックス  

▼王子製紙が特殊紙事業を統合へ (2004年4月24日付 『FujiSankei Business i.』)
http://www.business-i.jp/news/chemical/art-20040423214832- ZIIYFVANXU.nwc
 王子製紙は23日、超軽量印刷紙や食品用包み紙など特殊紙の事業統合をグループ内で検討すると発表した。特殊紙・フィルム事業を10月をめどに分割し、 全額出資子会社の富士製紙(静岡県富士市)に統合する。
 多様化する市場ニーズに迅速に対応するとともに、事業の効率化を図る。
 王子紙の特殊紙カンパニー特殊紙事業本部と、江別(北海道江別市)、岩渕(静岡県富士川町)、中津(岐阜県中津川市)、滋賀(滋賀県甲西町)の各工場を 分割。富士製紙を継承会社として事業統合し「王子特殊紙」を発足させる。新会社の規模は、2003年度業績見込みを基に試算すると、売上高が1,000億 円、従業員1,600人。
 王子紙は、生産効率の向上や人件費の削減など統合効果を、年間約30億円と見込んでいる。

▼王子製紙、岡山製紙の筆頭株主に 段ボール事業を強化 (2009 年11月10日付『日本経済新聞』)
 王子製紙は10日、段ボール原紙の中堅メーカー岡山製紙の筆頭株主になったと発表した。岡山製紙の発行済み株式の32.4%を糖質原料製造の林原(岡山 市)などから同日付で譲り受けた。取得金額は計13億6,100万円。王子製紙はグループの工場がない中国地域で段ボール事業の基盤強化を狙う。
 王子製紙は、林原が保有する岡山製紙株19.7%のすべてと、林原グループの不動産管理会社、太陽殖産(岡山市)が持つ16.7%のうち12.7%を取 得した。
 岡山製紙は段ボール原紙の生産能力シェアで国内14位。本社工場の年産能力は9万7,000トンで、09年5月期の売上高は89億円。王子製紙は段ボー ル原紙のシェアで国内首位の王子板紙(東京・中央)を傘下に持つが、中国地域には工場がなかった。段ボール原紙2位のレンゴーや同3位の日本大昭和板紙 (東京・千代田)との競合が激化するなか、岡山製紙との連携で製造・販売の効率化を進める。

▼王子製紙 印刷・情報用紙2基停止へ 内需低迷で減産2割に拡大  (2010年2月3日付『Fuji Sankei Business i.』)
http://www.sankeibiz.jp/business/news/100203/bsc1002030508010-n1.htm
 王子製紙は2日、チラシやカタログなどに使われる塗工紙などの印刷・情報用紙について、国内2工場の一部製造設備を、7月までに停止すると発表した。景 気低迷などによる需要減に対応するが、人員削減はしない。減産効果は1割弱で、設備停止による減産は昨年の1割強から約2割に拡大する。
 まず、富岡工場(徳島県)の塗工紙の製造設備1基を3月に停止する。7月には、呉工場(広島県)のクラフト紙の製造設備1基を停止して印刷・情報用紙の 生産を縮小し、年産で計21万トン規模の生産を停止する。
 同社は昨年にも、富士工場(静岡県)の1基と釧路工場(北海道)の2基を合わせ、年産規模約29万トンの生産をストップしている。同社は「思った以上に 印刷・情報用紙の需要環境は厳しい」として、今年も引き続き、設備停止に踏み切る。
 同時に発表した09年4〜12月期連結決算は、売上高が前年同期比13%減の8,737億円になった。印刷用紙が低調だったほか、包装用紙や段ボール原 紙などが大幅に落ち込んだことが響いた。
 ただ、原燃料価格の下落や生産体制の見直しといったコスト削減の徹底などにより、営業利益は534億円(83.5%増)、最終利益は167億円 (127.2%増)などと増益を確保した。
 業界第1位の王子製紙以外でも、第2位の日本製紙グループ本社は今年度中に国内の製造設備12基を停止する方針だ。景気低迷や人口減少で、紙・板紙の内 需は低迷が続いている。日本製紙連合会によると、2010年の紙・板紙の内需は、09年見込み比で0.9%減の2,761万7,070トンになる見通し。 特に、印刷用紙などの紙部門では1.9%減少する見込みで、今後も各社の生産集約の動きが予想される。(中村智隆)


4.王子製紙グループの鉄道貨物輸送について  

 王子製紙グループは、主力工場の苫小牧工場において国鉄時代の紙輸送専用列車「おうじ号」やJR貨物後の30Aコンテナ導入など、鉄道貨物による紙輸送 の歴史において業界トップ企業らしい革新性を発揮してきた。現在でもその苫小牧工場を始め春日井工場や米子工場は専用線による鉄道貨物輸送を維持している 一方、釧路工場、富士工場、神崎工場、呉 工場、日南工場などは専用線が廃止されてしまっており、ライバルの日本製紙グループよりも鉄道貨 物輸送への依存度が低い印象がある。しかし米子工場におけ る九州、名古屋向けの鉄道コンテナ輸送への転換など鉄道貨物輸送を積極的に活用する姿勢はあり、薬品などの原料の搬入にも鉄道貨物輸送が利用され、研究対 象と しては非常に興味深い荷主企業の1つである。
 現在までに多くの合併と再編を経て王子製紙グループは成立しており、全国各地に工場は散らばり、拠点の数は多い。各工場ごとをまとめる前に全体的なト ピックスをま とめる。

▼物流の近代化 [1]
 紙の物流問題について業界を挙げて取り組むため、1970(昭和45)年2月に流通対策委員会を発足させ、1年がかりで検討を重ねた。その結果翌年4月 紙パルプ8社(大昭和商事、十條製紙、中越パルプ工業、本州製紙、大王製紙、国策パルプ工業、東海パルプ、王子製紙)と国鉄及び通運関係2社(日通、関東 通運事業協同組合)との共同で株式会社飯田町紙流通センターを設立した。社 長には王子製紙の田中社長が就任した。1972年10月、東京都内の飯田町貨物 駅構内に、紙専用列車の到着基地と倉庫を建設した。これは、輸送と保管と配送という一連の流れを直結させたもので、年ごとに紙の取扱量が増加するなかで流 通の迅速化と円滑化を図るものであった。当時、都内の紙の消費量は全国生産総量の約50%にものぼり、その半分以上が鉄道によって国鉄の貨物取扱駅に運び 込まれていた。貨物取扱駅の設備能力がすでに限界に近く、国鉄の輸送体制の改善が求められるなかで、紙の最大消費地である東京の中心地に紙専用のターミナ ルが完成したのである。

神奈川県に新聞巻取配送拠点 [1]
 東京に配送拠点をもつ新聞各社は、1988(昭和63)年から神奈川県を中心に首都圏各地での分散印刷を相次いで開始し、この印刷体制は近畿圏にも波及 した。新印刷 工場建設は、大都市の慢性的な交通渋滞による新聞輸送の遅滞を解消するのとあわせて、印刷能力の増強、設備更新が目的であった。
 神奈川県には1988年3月の読売・横浜工場(横浜市瀬谷区)をはじめとして、朝日・座間ステーション(座間市)、日経・横浜別館(横浜市瀬谷区)、毎 日・厚木セン ター(厚木市)、中日・横浜工場(横浜市瀬谷区)などが次々に稼動した。
 こうした動きに対応して、王子製紙は新聞巻取配送拠点を神奈川県座間市に新設した。朝日・座間ステーションに隣接したこの新拠点は、オカモト株式会社の 所有する土地と新築倉庫を土地付きで借用したもので、保管能力は約4,400トンであった。保管・配送業務は王子運輸倉庫に委託した。

物流体制の整備 [1]
 1991(平成3)年12月、新聞用紙用の大型倉庫として建設を進めてきた瀬谷倉庫(横浜市瀬谷区)が完成した。同倉庫は、読売新聞社、日本経済新聞 社、中日新聞 社東京本社が横浜市瀬谷区に相次いで印刷工場を完成・稼動させたことにともない、3社への長期・安定的な供給体制を確立するために、最寄地に王子製紙が建 設したものである。なお、同倉庫の管理・運営は王子運輸倉庫が一括して行っている。
 また1993(平成5)年2月、王子運輸倉庫が東京都江東区有明埠頭で同社有明倉庫を完成させた。この倉庫は東京都が所有する有明埠頭の敷地の一部約 2,184坪 を貸借して、建設したものである。王子運輸倉庫は海上輸送の受入れ基地と倉庫の集約というきわめて重要な課題を抱え、かねてから新倉庫の適地を探してい た。当初は、王子製紙呉工場と中越パルプ工業川内工場の製品を預かるこ とからスタートしたが、最大保管能力約2万トンの大型倉庫であるうえ埠頭に隣接し、湾岸高速道路有明ランプのすぐ近くという好立地から利便性が高く、現在では王子製紙の貴重な物流拠点として機能している。

→「貴重な物流拠点」という意味は、現在では苫小牧工場で生産された新聞用紙の保 管にも使われていることを示唆しているのでは。


▼鉄道輸送体制の変遷 [1]
 飯田町紙流通センター(IPC)は1971年の設立以来、全国から東京へ鉄道輸送されてくる製品を受入れ、ここから主なユーザーである大手新聞社や印刷 会社に納入する役割を果たしてきた。
 それから四半世紀、時代の進展とともに輸送手段や物流経路も次第に変化していった。すなわちトラック輸送が増え、また都心に集中していた輸送先の印刷会 社が次々と郊外に移転していった。これにともなってIPCも移転を余儀なくされ、そのうえ主力ターミナル倉庫を東西2か所に分散することになり、1999 (平成11)年6月に埼玉県新座市(新座貨物ターミナル駅)にIPC新座、東京都荒川区(隅田川駅)にIPC隅田川が設立された。王子製紙の主な製品の中 では、苫 小牧か ら首都圏に送られてくる新聞用紙はIPC隅田川に保管 され、また米子工場の塗工紙はIPC新座で保管されるようになった。

王子物流 渡邊則利社長 100億円コスト削減めざす (2004 年4月12日付『物流ウィークリー』No.855)  http://www.weekly-net.co.jp/backnumber/2004/04/post-21.php
 王子製紙の物流子会社5社が統合し、王子物流が誕生してから2年6か月が過ぎた。5社がそれぞれ行っていた機能を一本化させることで、大幅なコスト削減 を実現。統合から8か月後に就任した渡邊則利社長は、「5年間で100億円のコスト削減」という目標を掲げ、コスト削減とともにこれまでにない高品質な サービスを提供していく。
 01年、王子製紙の物流子会社5社(王子運輸倉庫、KSウイング、神崎物流センター、本州物流センター、北海道王子物流)が統合し、王子物流が誕生。統 合した最大の目的は、徹底したコストの見直しである。
 同社では、年間約700万トンといった王子製紙グループの 製品輸送を一手に担う。船舶48%、トラック43%、鉄道9%の内訳で、年間の物流コストは王子製紙製品のみで約 460億円にのぼる。これらの製品をタイムリーにかつ安定的に輸送した上で、コスト削減を実施していかなければならない。
 統合から8か月、大規模なコスト削減計画の遂行中に渡邊社長が就任。目標は、グループ全体の物流費削減と王子物流の収益改善効果合算で、5年間で100 億円のコストを削減することだ。「王子製紙の分身会社としての役割を果すのが王子物流。グループの物流合理化を図ることが第一の目標」と語る。王子製紙で は新技術、新製品、新サービスの『3S』を掲げている。王子製紙で常務取締役でもある同社長は3Sを重要視する。「3つのSの中に物流を当てはめると、新 サービスの部分に入る。グループ会社として、新しいサービスを提供していかなければならない」。(植竹裕子記者)


5.工場別の状況  

5−1.王子製紙(株)釧路工場  

▼釧路工場の品種別生産量の推移(単位=トン)[3]

新 聞巻取紙
印 刷・情報用紙
板 紙
合 計
1996 (平成08) 年
74,780
246,147
 440,172
 761,099
1997 (平成09) 年
76,927
211,686
 444,623
 733,236
1998 (平成10) 年
73,158
206,984
 420,367
 700,509
1999 (平成11) 年
66,142
211,418
 421,798
 699,358

▼釧路工場の設立と増強 [2]
 本州製紙鰍ヘ1957(昭和32)年4月に新工場大綱を決定し、わが国初の長網Kライナーに決定した。これは当時、耐久消費財の普及に伴い段ボールの登 場が待望され始 め、実用化のメドが立ったためであった。
 釧路市が熱心な誘致活動を行ったことから、同市大楽毛地区を建設地として正式に決定した。
 1958(昭和33)年4月には整地工事が開始され、8月以降工場建物、構内道路、専用側線、原木土場、石炭搬入線などの工事が順調に進み、11月には建物がほぼ完 成した。1959(昭和34)年2月にはマシン等の据付が始まり、6月にパルプ部門の試運転に入った。
 第2期計画のセミ中芯マシンは1961(昭和36)年2月に営業運転を開始した。
 段ボール原紙は成長分野であったため、先陣を切った本州製紙釧路工場に続き、1960年秋頃より大昭和製紙、東海パルプ、天塩川製紙などが段ボール原紙 の大型マシンを建設し、激しく追い上げてきた。Kライナーとセミ中芯を組み合わせた段ボールの需要は急速に拡大。Kライナーの先駆者の本州製紙は、全農、 日園連と協力して青果物用の段ボールを開発し、包装材の木箱からの切り替えに積極的な役割を果たした。
 1963(昭和38)年10月にはKライナー増設の機運が高まり、釧路工場第3期建設本部が発足した。工事の完了は1965(昭和40)年9月末で、こ れにより釧路工場は、Kラ イナー2系列、セミ中芯1系列という当初の構想を成就し、名実ともに東洋一 の段ボール原紙工場となった。
 1969(昭和44)年8月には、生産能力が限界に達したため、2号マシンのKライナー増産工事を実施した。これで、1970年における本州製紙の段 ボール原紙生産 高は、Kライナー32万2,000トン、セミ中芯12万5,000トンに拡大した。

  1999(平成11)年3月、北海道知事より産業廃棄物(石炭灰)再生利用業の個別指定を受ける。[1]
  2001(平成13)年1月、OPC(段古紙離解パルプ)生産能力100トン/日増強。[1]

▼書籍用に軽〜い紙 王子製紙釧路工場 100トン首都圏に出荷  (2005年4月16日付『北海道新聞』)
http://www.hokkaido-np.co.jp/Php/backnumber.php3?&d=20050416&j=0024&k=200504163399
 【釧路】王子製紙釧路工場(釧路市大楽毛三)は、同社の既存製品と比べ、同じ厚さで重さが約10%軽い書籍用紙「OKサワークリーム」を開発し、15 日、新製品100トンを首都圏に向けて初出荷した。新製品は、文庫本などに主に使われる「セミ上質紙」の一種。紙の原料となる機械パルプと化学パルプの配 合を変え、紙の繊維結合を緩める特殊な薬品を投入するなど、製造上の改良を重ね、一立方センチあたりで既存製品より約0.05グラム軽い0.55グラムま で軽量化を実現した。
 密度が低くなったことから、従来の厚さを保ったままで軽量化に成功、ページがめくりやすい柔らかな紙腰を実現。同時に、原料に堅い繊維を加えたことで強 度も増した。また、日焼けや退色といった耐候性の面も強化された。紫外線を五時間照射した実験では、既存製品の10倍の耐候性を示した。同工場によると、 出版市場では軽い本に人気が集まっており、需要は十分期待できるという。同工場は「年間4千−5千トンの新製品の販売を目指す」と話している。

▼王子製紙釧路工場 新書籍用紙の出荷順調 4カ月で40冊に採用 軽くしなやか  評判上々 (2005年8月22日付『北海道新聞』)
http://www.hokkaido-np.co.jp/Php/backnumber.php3?&d=20050822&j=0042&k=200508221249
 王子製紙釧路工場(近藤晋一郎工場長)が開発した、軽くてしなやかな書籍用紙「OKサワークリーム」の出荷が順調だ。商品化した今春から約4カ月間で、 ライブドア社長の堀江貴文さんの単行本など40冊に採用され、これまでに約150トンを首都圏に出荷。採用した出版社からの評判も上々という。
 OKサワークリームは、一定の厚さがありながらも軽い本に人気が集まる出版市場のニーズを見据えて、同工場が約1年かけて開発。
 機械パルプと化学パルプの配合を変え、紙の繊維結合を緩める特殊な薬品を投入することなどで、1立方センチあたりで既存製品より約0.05グラム軽い 0.55グラムまで軽量化した。ページをめくったときに反動で紙がはねない柔らかさや、日焼けによる劣化を抑えたことも特徴だ。
 これまでに採用されたのは、堀江さんの「僕が伝えたかったこと」(マガジンハウス社)や、作家の椎名誠さんの「全日本食えば食える図鑑」(新潮社)のほ か、「完全ビジネスマナー」(河出書房新社)などジャンルはさまざま。しなやかな紙質が出版社や作家から好評という。
 以前開発した同様の書籍用紙がベストセラーとなった「電車男」(新潮社)に使われ、一気に販売量が伸びたこともあり、同工場では「OKサワークリームも 採用された本がベストセラーになれば、一気に需要が増えるはず」と期待をかけている。(舟崎雅人)

▼厚くて軽い書籍用紙 王子・釧路工場が4年がかり商品化  (2007年3月6日付『北海道新聞』)
http://www.hokkaido- np.co.jp/Php/backnumber.php3?&d=20070306&j=0024&k=200703060397
 【釧路】王子製紙釧路工場は、従来の厚さを維持しながらより軽量化した書籍用上質紙「OKミルクリーム」を開発し、12日から市場投入する。表面の滑ら かさ、くすみの少なさなどの点でも既存製品より優れた特徴を持ち、正式販売に先立ってすでに東京の2つの出版社が採用しているという。
 出版業界では近年、読み応えをアピールするため、厚みのある書籍用紙に人気が集まっており、製紙各社は「より厚くて軽い書籍用紙」の開発にしのぎを削っ ている。
 紙に厚さを持たせ、軽く仕上げるには、木材をすりつぶして作る「機械パルプ」だけを原料にした中質紙が一般的。だが、化学薬品で木材の繊維を抽出して作 る「化学パルプ」だけを原料にした上質紙に比べると、退色しやすく、平滑度が低い。
 今回の新製品は、上質紙ながらも厚さの維持や軽量化を実現させたのがポイント。
 書籍に用いられる0.12−0.15ミリの厚さで、一立方センチ当たりの重さを既存製品の0.6グラムから0.55グラムへ低減させた。平滑度を従来の 2倍にし、手触りをよくしたのも特徴だ。さらには、裏の文字を透けづらくする不透明性を既存製品の90%から92%へ上げる一方、相反する白色度も76% から79%に高めるなど、同工場に蓄積された技術力が投入された。
 開発を始めたのは2004年から。平滑度を増す機器を06年5月に導入してから、開発が加速したという。同社は月産100トンを想定していたが、2つの 出版社が採用した結果、3月は250トンの生産が決まる好調な滑り出しとなった。

▼輸出向け上質紙製造へ、王子製紙釧路工場 (2008年1月13日付『釧路新 聞』) http://www.news-kushiro.jp/news/20080113/200801131.html
 王子製紙釧路工場は今夏にも、古紙を配合しない100%パルプ使用の上質紙の製造ラインを稼働させる。釧路港に入っている外貿コンテナ定期航路に載せ、 年 間「3、4万トン」(同工場)を東南アジア方面へと輸出する方針。アジア向けの上質紙の製造は、同社の徳島県阿南市の富岡工場が拠点だったが、富岡工場に チ ラシなどの原料になる微塗工紙を製造する新マシンを導入したことで、コンテナ船が行き来し、パルプ製造の余剰ラインがある釧路工場へと移すことにした。大 手4社が国際競争力強化に向けて増産体制を敷く中、業界最大手の同社釧路工場がその一角として、さらに存在価値を増すことになりそうだ。

▼王子製紙、釧路工場の製紙機械2基を停止、最終利益予想を下方修正  (2009年3月2日) http://www.nikkeibp.co.jp/article/news/20090302/135474/
 王子製紙は2009年2月27日、釧路工場(所在地:北海道釧路市)の製紙機械4基のうち2基を9月までに停止すると発表した。すでに停止を発表してい る富士工場(日産250t)に追加して、新たに日産600tの削減となる。あわせて2009年3月期の連結最終利益予想を従来の120億円から10億円に 下方修正した。
 釧路工場は印刷用紙、新聞用紙、段ボール用紙を4基で製造しており、このうち1号マシン(日産能力280t)を9月、3号マシン(同320t)を3月に それぞれ停止。印刷用紙の製造を取りやめる。ほかにクラフトパルプ製造設備と回収ボイラ他付帯設備を9月までに停止する。  
 設備関係では、同時に日南工場ORラミネーター、王子特殊紙江別工場3号マシンについても停止を決定。計約320人の人員が一時的に余剰となるが、自然 減や配置転換などで2011年度までに解消するという。
 連結決算予想の下方修正は、これらの措置に伴い構造改善費用の引当額約120億円や固定資産の評価引下げ額約40億円を特別損失に計上するため。また、 期末配当予想を2月3日時点の6円から4円に引き下げた。(田中 武臣=Infostand)

▼王子の釧路工場、月内に一部停止 4カ月前倒し (2009年5月 20日付『北海道新聞』) http://www.hokkaido-np.co.jp/news/economic/166194_all.html
 王子製紙(東京)は19日までに、釧路工場の生産設備2基を今月中に停止することを決めた。紙需要の急減を受けて、当初予定から4カ月前倒しする。
 2月の発表では、印刷用紙やちらし用の塗工紙を生産している2基(計日産600トン)を3月と9月に分けて停止するとしていた。
 4月以降も2基体制で生産を続けていたが、「当初予想より需要が減少した」(同社)ため、そろって設備を停止することとした。併せてパルプ製造設備も停 止する。


■釧路工場の鉄道貨物輸送と物流 について  
 釧路工場の輸送手段の主力は、現在では釧路西港からのRORO船による船舶輸送である。鉄道輸送は、大楽毛駅に接続する専用線があったのだが、同駅の貨 物取り扱いが1984(昭和59)年2月に廃止されており、同時に専用線も廃止されたと思われる。その時点で、新富士駅からのコンテナ輸送へと転換された と予想され る。ちなみにJR貨物の北海道支社のweb(2010年4月閉鎖)では、王子製紙が新富士駅から紙を発送している記述がある。しかし、鉄道輸送はあくまで も船舶輸送の補助的な役 割に過ぎないと思われる。

▼釧路工場の専用線概要の推移
専 用線一覧表
所 管駅
専 用者
第 三者利用者
作 業方法
作 業キロ
総 延長キロ
備 考
1957(昭和32)年版
大楽毛
本州製紙(株)
日本通運(株)
三ツ輪運輸(株)
渡辺建設(株)
私有機
1.5


1961(昭和36)年版
大楽毛
本州製紙(株)
日本通運(株)
三ツ輪運輸(株)
渡辺建設(株)
手押
2.5


1964(昭和39)年版
大楽毛
本州製紙(株)
日本通運(株)
三ツ輪運輸(株)
渡辺建設(株)
私有機
2.5


1967(昭和42)年版
大楽毛
本州製紙(株)
日本通運(株)
三ツ輪運輸(株)
渡辺建設(株)
私有機
2.5


1970(昭和45)年版
大楽毛
本州製紙(株)
日本通運(株)
三ツ輪運輸(株)
渡辺建設(株)
私有機
2.5
8.4
1975(昭和50)年版
大楽毛
本州製紙(株)
日本通運(株)
三ツ輪運輸(株)
渡辺建設(株)
私有機
2.5
7.8

1983(昭和58)年版
大楽毛
本州製紙(株)
日本通運(株)
三ツ輪運輸(株)
渡辺建設(株)
私有機
2.5
4.6


王 子製紙葛路工場(本州コーポレーション当時)の専用線(『都市地図 北海道E釧路市』昭文社、1995年)

▼パルプ材とその輸送について ([6]p53〜55)
 1959(昭和34)年7月、釧路工場の運転が開始された。当初のパルプ材の使用量は針葉樹8万m3、広葉樹33万m3であった。1958(昭和33) 年9月23日、記念すべき1号トラックが原木を積んで到着したが、当時の輸 送はその大部分を鉄道に頼っていた。その後、道路網の整備が進むとともにトラック輸送へと移行し、1962(昭和37)年頃には過半数を、昭和50年後半にはすべてがトラック輸送でまかなわれることになった。
 搬入された原木は、そのままはい積みされるか、当日使用分は流木水路を経由して、大型チッパーでチップ化された。
 昭和40年代に入ると業界の景気は回復し、同時に3台のマシンはフル稼働を続け、日産1,000tの体制が整って、ここに釧路工場の黄金時代が訪れた。
 当時の原木・チップ使用量は年間120万m3にのぼり、供給を確保するために、釧路、帯広、北見の3山林事務所の強化と旭川地区への進出が図られた。山 林事務所の主な業務は、業者とともに設立したチップ工場の運営管理であった。
 やがて原材料は木材からチップに切り替わってゆき、1979(昭和54)年4月にすべてチップでの集荷となった。
 1962(昭和37)年当時、釧路工場が取引をしていたチップ工場は30以上を数えたが、その企業体質は脆弱で、各社の資金調達力の拡大が必要不可欠で あった。この対策として考えられたのが、「本州チップ協同組合」への組織化であった。
 しかし、やがて工場での抄物の変転、輸入チップと古紙利用の大幅な増加のため、北海道産チップのうち丸太を加工するチップへの依存度は激減し、30年以 上にわたる歴史を持った同組合は1996(平成8)年末で解散した。

▼釧路工場の物流対策 ([6]p193〜194)
 釧路工場の大型設備による大量生産と広域販売には、物流対策が重要な位置を占める。昭和50年代に低成長期を迎えると、段ボール原紙には古紙の利用によ る低グレード化の動きが加速し、価格の低下が進んで物流コストの負担は容易でなくなった。この物流費の圧縮は、コストダウン作戦の大きな柱の1つであっ た。
 釧路製品の輸送は、生産が順調に伸びた1970(昭和45)〜1973(昭和48)年頃、数量約40万トン、内訳は海上80%鉄道15%その他5%であった。鉄道は不正確な輸送時間と高い運賃により、フェリーやコンテナに切り替 わっていき、1975(昭和50)年には全く利用されなくなった。海上輸送には定期航路船が利用されてい たが、輸送量の増加や海員ストの頻発などで、物流管理は十分とは言えなかった。輸送の安定化とコスト節減を図って、1964(昭和39)年から補助的に全 天候型の自動車専用船プリンス丸≠ェ利用された。クルマ輸送の復荷として1船当たり1,000〜2,000tを積み込んだこの方法は、巻取専用船釧路 丸≠ェ就航するまで11年間続けられた。
 1973(昭和48)年のライナー4号マシンの増設により、さらに輸送体制の強化が必要になり、巻取専用船(ロールオンロールオフのRORO船)が導入 されることになった。RORO船は川崎近海汽船、栗林商船が船の建造と運航を行い、本州製紙が10年間の傭船契約をして運航費を保証するものであった。
 1974(昭和49)年10月に釧路丸≠ェ、1976(昭和51)年には第2釧路丸≠ェ就航して、釧路〜東京間の所要時間は従来の55時間が36時 間に、また釧路〜大阪間は82時間が55時間に短縮され、この全天候型荷役により製品の納入と輸送コストは大きく改善されることになった。
 また、東京・大阪地区からの帰り船には、古紙が割安な運賃で釧路に輸送さ れた。釧路工場が内地工場に準じたコストで古紙使用増に対応で きたのは、専用船の効果である。

▼京葉紙埠頭株式会社 ([6]p194〜195)
 RORO船の関東地区における受け手になったのが、専用埠頭と倉庫を備えた京葉紙埠頭株式会社である。1975(昭和50)年12月、釧路では工場に近 接した釧路西港の大型埠頭が完成し、この西港と京葉港及びRORO船の組み 合わせは、物流の構造を基本から変えた。同社は、関東地区の総合物流基地を目指し、王子グループ5社(本州、王子、十條、神崎、日パ)に流 通3社(日本紙パルプ商事、大永紙通商、本州産業)が加わった8社の共同事業として1974(昭和49)年3月に設立された。
 専用埠頭は1973(昭和48)年7月に着工、1年後の翌74年7月に完成をみた。その規模は、5万トン及び5,000トンの船舶が同時に接岸できる全 長395m、水深12m、幅30mの大型設備である。197511月には、A号倉庫(1万5,993m2)とランプウェイ、事務所が完成し、12月には、 釧路丸≠ナ巻取が初入荷し、翌年には第2釧路丸≠煢チわって本格的な輸送業務を開始したのである。
 一方、1977(昭和52)年から始まった釧路工場のダンボール原紙マシンの洋紙転換により、首都圏の販売ウェイトが高まり輸送量の増加が見込まれた。 これに対応して、同年4月B号倉庫(7,930m2)が完成、さらに1986(昭和61)年8月にはC号倉庫(7,930m2)が加わって、紙類の収容能 力は約4万トンに増大した。
 その後、王子グループ各社はそれぞれの物流会社を育成し、京葉紙埠頭を活 用する機会は少なくなった。このため、株主各社の了承と王子グループ各社からの株式譲受により、1991(平成3)年1月、本州製紙直轄の 物流会社として「株式会社本州物流センター」に社名変更された。

 尚、2001(平成13)年10月に王子運輸倉庫鰍ェ王子物流鰍ノ社名変更され、同時に「竃{州物流センター」を含む王子系物流会社4社を合併した。

▼釧路港 西港区 第1埠頭 (釧路開発建設部(釧路港湾事務所)のwebサ イトより)
 釧路の三大基幹産業の一つである製紙業・製紙工場の生産規模は、年間約125万トンで、ロール状の紙がパルプとなってRORO船で東京や宮城など日本各 地 に運ばれている。
 内訳は、日本製紙が年間約42万トン(うち新聞用紙が37万トン)、王子 製紙では、年間約83万トン(うちダンボール原紙50万ト ン、印刷用紙22万トン、新聞用紙11万トン)となっている。

⇒1999年の釧路工場の生産量が約70万トンであったため、この記事の約83万トンというのがいつの時点の生産量かが分からないものの、近年生産量が増 加したようだ。そして更に生産 量の殆どが船舶輸送されていることも同時に予想される。


5−2.王子製紙(株)苫小牧工場  

▼苫小牧工場の品種別生産量の推移(単位=トン)[3]

新 聞巻取紙
印 刷・情報用紙
合  計
1975 (昭和50) 年
632,431
174,977
   807,408
1980 (昭和55) 年
753,493
221,099
974,592
1985 (昭和60) 年
773,482
159,495
932,977
1990 (平成02) 年
987,310
227,569
1,214,879
1991 (平成03) 年
996,010
212,186
1,208,196
1992 (平成04) 年
866,423
180,485
1,046,908
1993 (平成05) 年
746,157
183,650
929,807
1994 (平成06) 年
768,045
184,826
952,871
1995 (平成07) 年
825,676
227,582
1,053,258
1996 (平成08) 年
817,043
245,643
1,062,686
1997 (平成09) 年
845,577
217,813
1,063,390
1998 (平成10) 年
851,128
220,407
1,071,535
1999 (平成11) 年
865,630
206,913
1,072,543

▼苫小牧工場の誕生 [1]
 明治30年代、経営悪化に見舞われた王子製紙は、三井銀行の経営参画などで経営再建を目指した。王子製紙首脳陣は整理案を株主総会で何とか通したが、そ の案を作成中から王子・中部・気田3工場体制のままでは利益を生み出すことはできなくなると、将来性に危惧を抱いていた。抜本的解決のためには、最新鋭の 大型工場を建設しなければならないと考え、百年先を見越した将来構想をまとめるための準備として新工場にふさわしい最適地を求め各地を調査して回った。本 州では魅力ある候補地を見出せないまま1904(明治37)年に北海道に渡り、理想を満たす場所を発見した。苫小牧である。
 当時はまだ一漁村に過ぎなかった苫小牧を工場用地に選んだのは、
@支笏湖を背後に控え、水力発電に必要な豊富な水量に恵まれていた
A当時は出力・電圧ともその規模は小さくとも、15〜20マイルの近距離送電が可能になった
B付近一帯が原始林に覆われ、原材料の入手に不自由しない
C北海道炭鉱鉄道など、交通の便が比較的良い
D広大な用地を安価に得ることができる
など好条件に恵まれていたことによる。
 工事は当初大幅に遅れていたが、工事の体制の改革を行った結果、その後は驚くほど順調にはかどり、1910(明治43)年6月水力電気工事完成、8月抄 紙機稼動、翌9月営業活動開始、12月竣工、翌5月18日に落成式を挙行する運びとなった。特筆されるのは、142インチ抄紙機を採用したことである。導 入される抄紙機の網幅は操業開始時には70〜80インチであったのが、この頃には98インチ幅へと移行していたが、王子製紙はこの常識を破り、142イン チ幅とした。これは後のA巻2丁取142インチ普及の先駆けとなったものである。
 こうして最新鋭の機械と技術を導入した超大型の苫小牧工場が完成し、わが国の新聞用紙分野で、最初でしかも本格的な国内自給体制が整った。これにより当 時のアメリカ製を中心とした外国製新聞用紙の国内市場における恒常的な優位性に歯止めをかけ、その後の輸入紙を含めた国内紙パルプ他社との競争で優位に立 つことになった。

▼苫小牧製紙(株)の発足から王子製紙(株)苫小牧工場へ [1]
 1949(昭和24)年8月1日、財閥解体に伴い旧王子製紙を前身として生まれる3社のうち、苫小牧工場は苫小牧製紙(株)としてスタートした。同社の 概要は、資本金4億円、従業員3,949名、工場は苫小牧工場1工場であった。戦後の混乱と復旧の真っ只中という厳しい経営環境の中で発足した苫小牧工場 の生産能力は、当時のわが国製紙工場の中では群を抜く規模であった。設備能力をみると、最大出力4万4,200kWの水力発電設備を有し、保有抄紙機10 台のうち8台が稼動していた。操業率は能力の約75%に過ぎなかったが、それでも業界他社の主要工場がエネルギー事情の悪さから実際の生産能力をはるかに 下回る操業を強いられていたなかで、当時としてはきわめて高いものであった。また十條製紙、本州製紙の旧王子系2社と比べても、資本、資産、生産規模、い ずれの面でも上回り、経営上有利な立場に置かれた。
 しかし、群を抜く規模とは言っても、製品は新聞用紙のみの単一品種を大量 生産しているのが実情で、しかも主要消費地から遠く離れているため、経営上決し て万全とは言い難かった。このような背景もあって、創業の時点で、いち早く本州に第2工場を建設することを構想し、後に愛知県内に春日井工場を建設するこ とになる。
 苫小牧製紙(株)が発足した1949年度の全国の新聞用紙の生産計画は12万2,500トンで、同社はその7割を超えるシェアを有していたが、需要は計 画を大幅に上回る19万9,600トンに達し、供給不足は深刻なものとなっていた。新聞用紙については直売方式をとっていた同社は、新聞社側の要望にいち 早く応えるべく、苫小牧工場の手持ちマシン10台のフル稼働を目指した。発足後間もない1949年9月に早くも2号マシンを復旧させるとともに、休転中 だった6号マシンの改修を急いだ。6号マシンは苫小牧工場を開設した1910年に稼動したもので老朽化が甚だしかった。これに徹底的に若返り工事を施して 新聞用紙の専抄マシンに改修、翌1950年12月に運転を再開した。このほか大型ドラムバーカーの増設で原木の剥皮作業の効率アップを図ったほか、発電能 力の増強等も実施した。こうした設備の増設や改修により、1950年12月には、日産450トンの水準まで高まり、翌年2月には498トンを生産するまで になり、早くも戦前の最高記録であった1941年の日産475トンを更新し、その後も毎月のように平均日産記録を塗り替えていった。
 また、グラビア紙、教科書洋紙製造のため、1951年10月スーパーキャレンダーを新設、さらに1953年10月には市場の要請に応えて、SP(サル ファイトパルプ)晒設備を新設、上更紙の白色度向上を図った。

▼量的拡大への対応により世界最大の新聞用紙専抄工場へ [1]
 1963(昭和38)年8月、苫小牧工場に大型新聞用紙専抄機を設置する建設工事に着手した。貿易の自由化にともなう市場の国際化に備えるとともに、翌 年の東京オリンピックによる新聞用紙の需要増に対応するためのものであった。当初は、北海道内に新工場を建設することも選択肢として視野に入れていたが、 通産省の増設許可が急遽下りたのを受けて、苫小牧工場の南土場一帯に新工場を建設することとし、抄紙機を新1号マシン(N-1マシン)と命名した。能力は 265トン/日で、当初の予定通り、1964(昭和39)年8月に操業を開始した。
 N-1マシン建設に伴う原質設備の増強で最も注目されるのが、カラマツを活用できるRGP製造設備の開発と導入である。それまで枕木以外にはあまり使い 道がないとされていたカラマツもチップ化してパルプ化するのに成功した。これによって、あらゆる針葉樹チップのパルプ化が可能となった。1964年8月最 初の設備100トン/日が稼動した。1966(昭和41)年2月にはダブル・ディスク・リファイナーを6台増設し、生産量を250トン/日と高め、苫小牧 工場の原料コスト削減に大きく寄与するようになった。一方、広葉樹を用いるCGPについても、1962年と1964年の増設により300トン/日に拡大し た。
 東京オリンピック後の40年不況も1965(昭和40)年10月には底を打ち、我が国経済は急速に回復へと向かい、紙パルプ市況も好転していった。通産 省は1965年12月、1967年に実施される第1次資本取引の自由化、新聞用紙の関税引き下げを控え、企業間の国際競争の激化に鑑み、紙パルプ設備投資 調整要領を改めることにし、紙の製造設備については規制を解除した。
 折から王子製紙が策定した1966〜1970年度にわたる長期5ヵ年計画において、この規制解除を受けて新2号マシン(N-2マシン)を増設しトップ メーカーとして需要増に対応し、生産性の飛躍的な向上と企業体質の改善、ひいては国際競争力の充実・強化を進める方針を打ち出した。1967(昭和42) 年4月に着工、1968(昭和43)年3月にN-2マシンが完成した。能力は264トン/日で既設のN-1マシンに並設された。
 今回も原質設備が増強され、パルプ製造に従来のCCGP(コールドCGP)に加え、新たにHCGP(ホットCGP)法をを採用したことだ。HCGPは従 来のCCGPに比べ強度があるうえ不透明度がすぐれ、歩留まりも高く、リファイニングが容易であるといった特徴がある。この増設によりCGP生産能力は合 計480トン/日に高まった。またRGPについては、リファイナーを2台増設し、カラマツにダグラスファー(米松)を加えた原料で、既存設備分と合わせ約 310トン/日を製造することとなった。
 長期間持続した好況に支えられて新聞用紙の需給も逼迫する一方だったことから、王子製紙は苫小牧工場に新3号マシン(N-3マシン)を増設することを決 定。1968(昭和43)年10月に通産省の認可を受け、翌年4月に起工した。当時、日本一のワイヤー幅を誇ったN-3マシンの能力は348トン/日で、 工事期間わずか1年、1970(昭和45)年4月には全て完了した。N-3マシンの稼動により、苫小牧工場の能力は2,000トン/日を超え、カナダのマ クミラン・ブローデルのパウエルリバー工場を抜き、世界最大の新聞用紙専抄 工場となった。また、新聞用紙の国内シェアでも、王子製紙は十條製紙を抜いてトップに立ち、以後その座を保っている。
 その後も新聞用紙の需要は相変わらず活発で、翌年以降の需給の逼迫も確実視されたことから、N-3マシンが稼動して半年後の11月には早くも新4号マシ ン(N-4マシン)の増設を決定、1972(昭和47)年5月に完成させた。能力は348トン/日で既設の新3号マシンに並設し、オペレーターサイドを共 有した。苫小牧工場の生産体制はマシン15台による2,400トン/日もの規模となった。

▼苫小牧工場におけるチップ利用の増大と海外チップの輸入開始  [1]
 我が国の製紙産業にとって、戦後のパルプ材価格の高騰は重大問題であり、紙の需要が急速に増大するなか、業界各社はこれまで利用してこなかった広葉樹の パルプ化に取り組み、針葉樹から広葉樹への転換を図った。原料もより廉価なものを求めて廃材チップに着目、利用の中心を丸太から廃材チップへ次第に移して いった。
 王子製紙においても、1957(昭和32)年から針葉樹チップ、翌年から広葉樹チップの購入を始めた。1963年時点では、苫小牧工場はGP用の丸太の 使用量が多いため、原木65%チップは35%にとどまっていた。苫小牧工場に新設したN-2マシンの 原料対策と生産拡大による将来の原料使用量増大に備 えて、1963年度にソ連材の長期輸入を開始したのに続き、 1966年12月に北米産チップの10年間の長期輸入契約を 締結、翌年末から輸入を開始するこ とになった。
 こうしたチップの大量輸送を効率的に進めるため、1967年9月には、王子製紙初のチップ専用船「王子丸」(船倉容積172万6,000立方フィート) を建造・進水した。処女航海に出た王子丸はチップ2万立方メートルを積み込んで米オレゴン州のクースベイ港を出港し、1968年1月、室蘭港に初入港し た。

苫小牧港の活用 [1]
 苫小牧港は、明治以来築港への動きが何度か挫折した後、1963(昭和38)年4月にようやく東埠頭石炭岸壁が完成、石炭の積み出しが始まった。同年 11月に西埠頭雑貨1号岸壁が完成し、ここから王子製紙の新聞巻取紙が出荷されるようになった。また、N-1マシンの稼動を控え た1964年5月には、ソ 連材の第一船約2,000平方メートルが、苫小牧港初の貿易貨物として入港している。
 苫小牧港は当初、関税法による開港指定を受けていなかったため、このソ連材の第一船は暫定措置として認められた荷揚げであった。このあと、1966年に は王子製紙のソ連材をはじめとする輸入実績により開港指定を受け国際港となり、以後取扱量が増加していった。
 王子製紙では1960年代に相前後して、米国産とソ連産のチップの輸入を開始したが、苫小牧港にはまだ大型船の入港ができなかったため、当初は室蘭港に 陸揚げしていた。やがて、苫小牧港の整備が進み、1969年12月には王子 製紙のチップヤードが完成した。そして、翌年1月には北米・クースベイからダグ ラスファーチップを積んだ王子丸が初めて苫小牧港に入港した。
 1973年、南3号埠頭を王子製紙の資金で建設し、港管理組合に寄付したことで、同埠頭は王子製紙の専用バースとなり、4万トン級のチップ専用船も入港 できるようになった。

▼DIPの製造開始 [1]
 回収した古紙を脱墨してつくるDIPは、機械パルプの使用量を大幅に減らせるうえ、エネルギーの消費量も少ないことから、石油危機をきっかけとして利用 が急速に増えていった。1975(昭和50)年4月、回収した新聞古紙から異物を選別除去したあと、脱インクしてパルプ化する古紙脱墨設備(1系・100 トン/日)が苫小牧工場で初めて稼動した。その後、設備増強を重ね、苫小牧工場のDIPの生産能力は1979年には550トン/日となった。
 やがて、新聞古紙の使用量が増大してくると、北海道内では集荷量に限界に達し、1976年後半から新たに集荷地を関東地区に設けて、ルートを拡大し、 月 間7,000トンの古紙集荷体制を確立した。これら関東地区の古紙の輸送は、当初、カーフェリーを利用していたが、1978年4月に神正丸が就航してから は、東京で巻取荷下ろしをした後、その帰路を有効利用して苫小牧まで運べるようになり、輸送効率を飛躍的に高めることができた。

苫小牧工場の体質改善 [1]
 苫小牧工場では1979(昭和54)年時点で、1〜11号およびN-1〜N-4の15台のマシンが稼動していたが、業界の構造改善計画にのっとり体質改 善の大枠を以下のように決めた。
@老朽化が進む3〜8号マシンをスクラップする
A10号マシンを中質紙専抄機に転換する
B3〜8号マシンと10号マシンで生産していた一般紙は、1・2号マシンに順次移抄する
C1・2号マシンへの一般紙転抄にともなう新聞用紙の供給不足分を補うため、新マシンを設置する
 マシンの設備年齢は平均42年とかなり老朽化が進んでいたが、以下のように老朽マシンの操業停止・撤去、それにともなう抄物の転換を実施したことにより 大幅に若返った。
1980年06月 5号、7号マシン停止
1980年10月 6号マシン停止
1981年03月 3号、4号マシン停止
1984年01月 10号マシン系列にスーパーキャレンダーを設置して、新聞用紙から中質紙生産へ転換
1984年10月 8号マシン停止
 丸太の貨車卸し・払出し用として1930年に建造された北土場(貯木場)のケーブルクレーンは、丸太の貨車輸送がトラック輸送へと変わったうえ、老朽化が進んだため 1983年にその役目を終えた。
 1979(昭和54)年9月、N-5マシンの建設に着工し、翌1980年10月に竣工した。N-5マシンは、生産能力は580トン/日(後に普通新聞用 紙640トン/日)で、当時、世界最高レベルのマシンであった。関連設備として日産150トンのDIP製造設備、日産50トンのNBKP溶解設備を設置し た。総工費は約152億円であった。
 このN-5マシンは、要員面で3〜8号マシンに比べ95名の減員を実現しながら、日産能力は1.5倍以上で、生産性が大幅に高まった。N-5マシンの稼 動で、苫小牧工場のマシンは、1、2、9、10、11号およびN-1〜N-5の合計10台となり、うち6台がツインワイヤーを備え、効率が大幅に向上し、 工場全体ベースで1人当たりの生産性を15%も高めた。
 第2次石油危機に対応して、利用エネルギー源の多様化を図るため、休止していた2号、3号、4号の石炭ボイラーを1981(昭和56)年4月から再稼動 させるとともに、貯炭場を新たに設けた。これによって、年間、重油5万キロリットル(当時の使用量の約10%)の節減を果たした。
 さらに、1982年10月には重油専焼だった7号ボイラーを石炭専焼に転換した。使用石炭は年間約20万トンで、そのうち15万トンをオーストラリアか らの輸入炭で賄うこととした。この7号ボイラーの稼動によって年間10万キロリットルの重油を節減、工場で使用するエネルギーの重油依存率を、4基の石炭 ボイラー稼動前に比べて70%にまで下げることができた。

苫小牧工場のKP転換と生産品種の新展開 [1]
 1984(昭和59)年7月、新聞用紙の軽量化と高速抄紙という時代の要請に応えるため苫小牧工場のSP生産を停止して、自製KPへ転換することを決定 した。自製SPを基盤としてきた苫小牧工場は、新聞社からの品質要求に応えるため1979年頃からKPの配合を開始し、1982年度にはKPの使用量が 235トン/日となり、SPの184トン/日を上回るようになった。このKPは江別工場からの供給と輸入に依存していたが、江別工場自体のKP使用量も次 第に増えており、同工場への供給量をこれ以上増大させることは難しかった。かといって、輸入パルプは、量的にも価格的にも常に不安定要因を抱えていた。
 1984年12月、KP製造設備建設工事が始まった。パルプ蒸解釜や晒設備など一連の装置に最新鋭の制御方式を採用するとともに、世界最新の公害防除技 術の導入を計画した。建設に先立ちSP設備を撤去してその跡地にKP設備をレイアウトすることにしたため、1984年11月に運転を停止した。こうして 1910年の苫小牧工場創設以来のSPは、その長い歴史に終止符を打った。工事は順調に進捗し、1985年11月にはKP製造設備建設工事が完成した。
 苫小牧工場は世界有数の新聞用紙工場として、マシンのみならずパルプ設備 でも最先端をいく工場に生まれ変わり、生産性・効率・品質・原価のいずれをとっても業界をリードする体制となった。良質・低廉な自製KPを 使用することは、新聞用紙の軽量化への対応が求められるなかで、品質・コスト両面での競争力を格段に強化しただけでなく、グラビア・マガジン・中質軽量塗 工紙など収益基盤を強化する高付加価値製品の生産を可能にした。新KP製造設備は、連続蒸解釜、半晒設備、回収ボイラー、集中管理制御システムを装備し、 日産500トンの生産能力を有する当時最高水準の一貫プラントであった。
 出版界の雑誌のビジュアル化、商業印刷物の多色化の進展にはめざましいものがあり、中質微塗工紙、中質軽量紙の需要増が見込まれたため、1986(昭和 61)年6月、この分野へ参入するため、9号マシンを総工費約140億円で改造、更新した。この9号マシンの日産は268トン/日である。
 1960年稼動を開始した11号マシンは、1988(昭和63)年2月、新聞の増頁による需要増と軽量化の要求に積極的に対応し、あわせて電話帳用紙の 本格的な生産体制を確立するためスクラップ&ビルドした。旧11号マシンの設備のうち活用したのは、天井クレーンとコンプレッサーのみで全くの新設備と いっても差し支えなかった。投資額は総額約150億円で、日産は425.5トン/日であった。
 さらに、新11号マシンの生産能力増強に対応するため、DIP1系で100トン、PGWで50トン、それぞれ日産能力を増強した。
 苫小牧工場で使用しているSC紙および一般紙用NBKPは、酸素晒後の新聞用半晒KPの一部を江別工場に移送し、漂白処理を行った後、苫小牧工場に返送 していた。NBKP使用量は、1986年度2万3,000トンであったが、5年後の1991年度には3万7,500トンと大幅な増加が見込まれた。そこ で、苫小牧工場にNBKP晒設備を新設してNBKPの原価低減を図ることを決定した。晒設備能力は、更新した11号マシンによる中質紙抄造にも対応するこ とも織り込んで、日産200トンとした。
 1988年2月に竣工し、これにより江別工場のC列晒設備を停止したため、同工場で使用するNBKPはこれまでとは逆に苫小牧工場から供給されることに なった。

▼苫小牧工場の主力マシン改造 [1]
 新聞用紙の軽量化は年を追うごとに進行し、1993(平成 5)年にはSL化率が約78%と急速に超軽量化が進展した。このSL化に加えて新聞のカラー化にともなう オフセット輪転機の増加に対応して、強度アップと紙粉防止の対策として、TMPを高配合した外添サイズ紙の使用量が増加する傾向にあった。この動きに対応 して、苫小牧工場の新聞用マシンにゲートロール設備を設置するとともに、TMP設備をはじめとする原質系設備の増強工事を相次いで行った。
 1990年5月にN-2マシンに、また1993年2月から9月にかけてN-3、4、5マシンにゲートロールサイズプレスを設置した。この4台改造工事の 投資総額は付帯設備を含め約100億円にのぼった。11号マシンを含めて新聞用紙用主要マシン6台のうち5台のゲートロール化が完了した。
 SL紙の強度と紙粉対策のためTMPを増配できるよう自製TMPラインの改造を行い、1993年5月に完成した。これにより、自製TMP生産能力は 530トン/日から760トン/日に増強された。
 同年4月には、新聞のカラー化にともない新聞用紙の白色度アップへの要求が強くなったため、それまでの過酸化水素晒設備をもっていなかったTMPライン に12億7,500万円をかけて高濃度の過酸化水素晒設備を 設置した。
 また9月には、不透明度対策としてホワイトカーボンの増添が必要となったため、その原料である珪酸ソーダの溶解設備の増強を行った。

苫小牧工場の生産体制の整備、充実 [1]
 1996(平成8)年2月、約62億円を投入して苫小牧工場のN-1マシンの改造工事に着工し、5月に完成させた。
 この工事ではまず、ゲートロールサイズプレスを設置し、これにより一連のNマシンのゲートロール化をすべて終え、新聞用紙の超軽量化への対応を完了させ た。一連の改造により、N-1マシンは8万3,000トン/年の増産が可能となった。
 1995年5月には、高白色度の軽質炭酸カルシウムが低コストで製造できる自製設備を導入した。この完成により、微塗工紙、中質紙のコスト低減とマガジ ンペーパーの中性紙化が可能となった。

▼苫小牧工場に世界最大級マシン建設 [1]
 1997(平成9)年1月、苫小牧工場にN-5マシン以来18年ぶりの大型設備投資となる新聞用紙専抄マシン(N-6マシン)の建設に着手し、あわせて 付帯の DIP設備や新事務所を順次着工した。
 このN-6マシンの増設は、年率3〜4%伸び続けている新聞用紙の国内需要の増加に対応するとともに、1,500m/分以上で操業する最新鋭の大型新聞 用紙マシンが欧州や韓国で稼動し始めるなかで、王子製紙も世界最先端の技術を駆使し、国際的にもトップレベルの生産体制を保持するのが目的であった。
 鉄骨造り2階建て約1万5,000平方mの建屋を増設し、そこに建設されたN-6マシンは、抄速最高1,700m/分、日産能力720トンと世界でも最 大級の生産能力誇るもので投資額は約230億円にのぼった。
 同マシンの本格稼動にともなう古紙使用量の大幅な増加に対応し、総工費約60億円をかけて設置を急いでいたDIP設備が1998年2月に完成した。同設 備の稼動により、DIP生産能力は350トン/日増強され、既設ラインと合わせて1,350トン/日体制となった。
 また、それまでC重油を使用していた9号ボイラーの燃料を苫小牧市勇払で天然ガス採取の副産物として産出する原油(勇払原油)に切り替えるための改造工 事を行い、2000年1月に完了した。この地場原油はC重油に比べて価格が安いというメリットに加えて、硫黄分や窒素分が少ないことから環境対策において も成果をあげている。

▼過剰設備の廃棄および停止 [1]
 苫小牧工場では、1998年4月のN-6マシンの稼動に先立ち、前年12月に10号マシンを廃棄したが、さらに中下級紙を主に生産していた2号マシンを 翌年10月に停止した。これに伴い、2号マシンの抄物は、11号とN-2マシンに移抄した。

▼製造・開発 ズームイン 王子製紙・苫小牧工場 (2001年5月 22日付『日経産業新聞』18面)
新鋭の脱墨設備稼働 古紙配合率7割めざす
 王子製紙の苫小牧工場(北海道苫小牧市)が古紙リサイクル事業を強化している。循環型社会の到来で「素材メーカーも従来以上に環境に配慮したモノづくり を迫られる」(長岡剣太郎王子製紙副社長)。来春から約70億円をかけた新鋭の脱墨パルプ(DIP)設備が稼働、既存設備と合わせて新聞用紙向けでは最大 級の規模となる。1工場では世界最大の新聞用紙生産拠点の苫小牧工場だが、地道な環境対策が今後を支えていく。

作りっぱなしを反省
 王子製紙の中核、苫小牧工場は新聞用紙生産が全体の約8割を占める。残りは非塗工、微塗工の印刷用紙など。
 紙のもととなるパルプは、チップを原料とする化学パルプ製造工程と、古紙パルプ製造工程に大別される。「作りっぱなし」を改め、資源の有効利用として注 目されるのが古紙パルプ製造工程だ。
 DIP設備は苫小牧工場の西側に位置する。新聞、雑誌などの古紙からインクを抜き取り、古紙から再生紙を製造するうえで要の設備となる。フォークリフト で運ばれた古紙の固まりを薬品で繊維状にほぐし、留め具、ビニールなどの不用物を取り除く。その後漂白し、インキが上昇する泡に付着する特性を利用して脱 墨するのが一連の流れだ。
 同工場は一目見ると、閑散施設と見間違えるほど合理化が進む。DIP設備の生産能力は日産1,350トンだが、運営するのは4人。今回の設備増強で日産 1,700トンに増え、新聞用紙の古紙配合率は50%から60%に上昇する。古紙回収状況などを見極めながら、将来は日産2,050トン、配合率70%に まで高める計画だ。
 王子製紙は工場ごとの研究技術部門を持つ。苫小牧では、DIPの研究開発を続け「今ではフレッシュパルプに近い品質を得られるようになった」(中村総兵 苫小牧工場長)。

「浮き球」を利用
 環境保全・改善の動きはDIPだけではない。高性能電気集塵機などによる排煙処理、独自開発した脱臭塔のほか、全国の王子製紙の工場でも苫小牧でしか見 られないのがポリプロピレンでつくられた「浮き球」の利用だ。
 北海道のいてつく寒さと排水の温度差、薬品を使用する関係で臭気対策は同工場の重要な案件の1つだ。しかも、苫小牧工場は駅前の市街地にある。紙製造で 使われた水の処理設備で、攪拌棒の邪魔をせず、臭気を防ぐために設備に蓋をする役目を果たすのが、50万個の浮き球だ。
 同社は1998年4月、メーン抄紙機「N-6」を導入した。これは最高速度が1分間1,700メートル、日産が720トンだ。こうした最新鋭機器も環境 対策に支えられてこそ生きてくる。

利益だけを追わず
 戦後の分割で苫小牧工場1工場から再出発した王子製紙。N-6マシンに象徴されるようにこれまで積極的に経営資源を投入してきたが、中村工場長は「国内 産業が成熟期を迎える中、利益増に直結しない部分の重要性が高まる」とみる。王子製紙の苫小牧工場は、素材メーカーの生産現場の使命がスピード、低コスト 追求だけではないことを表している。(黒沢裕)
《王 子製紙・苫小牧工場の概要》
▽従業員数 1,072人
▽敷地面積 約144万平方メートル
▽操業開始 1910年9月
▽生産品目 新聞用紙、出版本文用紙、中質紙、微塗工紙
▽新聞用紙生産量 年間約92万トン

無塩素でパルプ漂白 有害物質を抑制 王子製紙・苫小牧工場  (2006年4月8日付『北海道新聞』)
http://www.hokkaido- np.co.jp/Php/backnumber.php3?&d=20060408&j=0024&k=200604088187
 王子製紙苫小牧工場(佐伯節夫工場長)は4月から、木材パルプの漂白ラインを、塩素を使わずにパルプを漂白する無塩素漂白(ECF)方式に切 り替えた。従来、空気中に微量発生していたクロロホルムなどの有害物質を大幅に削減することができ、環境負荷を抑える。
 パルプを作る際、木材の色素を抜くことが必要なため、漂白ラインを設ける。これまで塩素を使っていたが、ECFは、二酸化塩素を使うことで、漂白時に出 る有害物質を抑制できるという。同工場は昨年4月から13億円を投じ、二酸化塩素を製造するプラント建設などを行っていた。
 同工場によると、ECF化により、製造コストは数%上がるものの、漂白工程で副次的に発生するクロロホルムが従来の数十分の一に、有機塩素化合物も数分 の一に、それぞれ削減できるという。
 松尾洋二研究技術部長は「ECFの導入で、環境負荷をゼロに近づけられた」と話している。
 同社は2000年から釧路、江別両工場を含む全国の8基幹工場のECF化を推進。苫小牧工場の導入で、すべての切り替えを終えた。
 同工場は国内の新聞用紙の約3割に当たる年間約100万トンを生産単一工場としては世界最大の生産量を誇る。


■苫小牧工場の鉄道貨物輸送と物 流について  
 苫小牧工場の鉄道貨物輸送の歴史は古く、工場開設当時から原料の原木の輸送と製品の紙の輸送に鉄道が活躍してきた。そして時代の変遷と共にその輸送体系 は変化し続ける。東京や大阪向けの輸送はワキ5000形の専用列車による大量輸送が開始されると同時期に船舶による大量輸送が始まり鉄道貨物輸送のシェア は低下、原料の原木・チップはトラック輸送や輸入チップへの転換によって貨車輸送は廃止、ワキ5000形の輸送は30Aコンテナによる輸送に引き継がれ た。王子製紙鰍ノとって苫小牧工場は今でも主力工場であり、同社を象徴する存在であると言って構わないと思うが、同時に同社の鉄道貨物輸送を象徴する工場 でもあると思う。恐らく現在の輸送量や輸送機関別シェアを考慮すると、春日井工場や米子工場の方が鉄道貨物輸送の位置付けは重要視されていると予想される が、苫小牧 工場の鉄道貨物輸送にはそれとは違った歴史の重み≠竍独特の風格≠ェ含有されているように感じる。

2008.3 苫小牧駅に接続する王子製紙鞄マ小牧工場の専用線

▼苫小牧工場の専用線概要の推移
専 用線一覧表
所 管駅
専 用者
第 三者利用者
作 業方法
作 業キロ
総 延長キロ
備 考
1923(大正12)年版
苫小牧
王子製紙(株)

手押
手押
1
1

東側線
西側線
1930(昭和5)年版
苫小牧
王子製紙会社




王子製紙会社




王子製紙会社
三井物産会社
山本由松
苫小牧運送社


三井物産会社
山本由松
苫小牧運送社
省機関車
手押



省機関車
手押



省機関車
手押
A線0.1
B線0.7
C線0.1
D線0.7
E線0.2
F線0.1
G線0.5
H線0.1
I線0.3
J線0.5
K線0.2
L線0.5
M線0.7

東側線




西側線




北側線
1951(昭和26)年版
苫小牧
苫小牧製紙(株)

苫小牧製紙(株)
日本通運(株)
苫小牧運送(株)
苫小牧運送(株)
日本通運(株)
国鉄機

国鉄機
1.0

A=0.5
B=0.7
C=1.0
D=0.9
E=1.4
F=1.3


1953(昭和28)年版
苫小牧
王子製紙工業(株)



王子製紙工業(株)
日本通運(株)
苫小牧運送(株)


日本通運(株)
苫小牧運送(株)
菱中興業(株)
内外輸送(株)
国鉄機
手押


国鉄機
手押
A 1.0
B 0.7
C 0.8
D 0.3
A 0.6
B 0.7
C 0.3
D 0.3
E 0.1
F 0.3
G 0.4
H 0.3
 I 0.3
J 0.4


1957(昭和32)年版
苫小牧
王子製紙工業(株)



王子製紙工業(株)
日本通運(株)
苫小牧通運(株)
菱中興業(株)
王子醗酵(株)
日本通運(株)
苫小牧通運(株)
菱中興業(株)
内外輸送(株)
王子醗酵(株)
国鉄機
手押


国鉄機
手押
A線1.0
B〃0.7
C〃0.8
D〃0.3
A線0.6
B〃0.7
C〃0.3
D〃0.3
E〃0.1
F〃0.3
G〃0.4
H〃0.3
 I〃0.3
J〃0.4


1961(昭和36)年版
苫小牧
王子製紙工業(株)



王子製紙工業(株)
日本通運(株)
苫小牧通運(株)
菱中興業(株)
王子醗酵(株)
日本通運(株)
苫小牧通運(株)
菱中興業(株)
内外輸送(株)
王子醗酵(株)
苫小牧林産加工(株)
弥生ブロック(株)
国鉄機
手押


国鉄機
手押
A線1.0
B〃0.7
C〃0.8
D〃0.3
A'線1.0
A〃0.5
B'〃0.1
B〃0.6
C'〃0.1
C〃0.1
D〃0.3
E〃0.1
F〃0.2
G〃0.4
H〃0.3
 I〃0.7
J〃0.4
K〃0.2


1964(昭和39)年版
苫小牧
王子製紙工業(株)



王子製紙工業(株)
日本通運(株)
苫小牧通運(株)
菱中興業(株)
王子醗酵(株)
日本通運(株)
苫小牧通運(株)
菱中興業(株)
内外輸送(株)
王子醗酵(株)
苫小牧林産加工(株)
弥生ブロック(株)
国鉄機
手押


国鉄機
手押
A線1.0
B〃0.7
C〃0.8
D〃0.3
A'線0.0
A〃0.5
B'〃0.1
B〃0.6
C'〃0.1
C〃0.1
D〃0.3
E〃0.0
F〃0.2
G〃0.4
H〃0.3
 I〃0.7
J〃0.5
K〃0.2


1967(昭和42)年版
苫小牧
王子製紙工業(株)



王子製紙工業(株)
日本通運(株)
苫小牧通運(株)
菱中興業(株)
王子醗酵(株)
日本通運(株)
苫小牧通運(株)
菱中興業(株)
内外輸送(株)
王子醗酵(株)
苫小牧林産加工(株)
弥生ブロック(株)
国鉄機
手押


国鉄機
手押
A線1.0
B〃0.7
C〃0.8
D〃0.3
A'線0.0
A〃0.5
B'〃0.1
B〃0.6
C〃0.2
D〃0.3
E〃0.0
F〃0.2
G〃0.4
H〃0.4
 I〃0.6
J〃0.5
K〃0.3


1970(昭和45)年版 苫小牧 王子製紙工業(株)



王子製紙工業(株)
日本通運(株)
苫小牧通運(株)
菱中興業(株)
王子醗酵(株)
日本通運(株)
苫小牧通運(株)
菱中興業(株)
内外輸送(株)
王子醗酵(株)
苫小牧林産加工(株)
弥生ブロック(株)
国鉄機
手押


国鉄機
手押
A線1.0
B〃0.7
C〃0.8
D〃0.3
A'線0.0
A〃0.5
B'〃0.1
B〃0.6
C〃0.5
     0.3
     0.0
     0.2
G〃0.4
H〃0.4
 I〃0.2
J〃0.5
K〃0.2
L〃0.2
M〃0.3
3.5



6.2
北側線



西側線
1975(昭和50)年版 苫小牧
王子製紙(株)



王子製紙(株)
日本通運(株)
苫小牧通運(株)
王子建材(株)

日本通運(株)
苫小牧通運(株)
王子建材(株)
国鉄機
手押


国鉄機
手押
A線1.0
B〃0.7
C〃0.8
D〃0.3
A'線0.0
B'〃0.1
B〃0.5
C〃0.5
G〃0.4
H〃0.4
 I〃0.5
J〃0.5
K〃0.1
3.0



5.2
北側線



西側線
1983(昭和58)年版
苫小牧
王子製紙(株)
日本通運(株)
苫小牧通運(株)
王子建材(株)
国鉄機
手押
A'線0.0
B〃0.5
C〃0.5
G〃0.5
H〃0.4
 I〃0.5
J〃0.5
K〃0.1
3.9
西側線

苫小牧工場の地図

1960年「陸路の王者へ」 (2000年5月2日付『苫小牧民 報』) http://www.tomamin.co.jp/kikaku/50kinen/k000502.html
 大量貨物輸送はなお鉄道による。その後、苫小牧駅の貨物取り扱い実績が1965(昭和40)年から連続4年間全国一になるなど活況を呈するに至る。しか し、1960(昭和35)年には苫小牧で画期的な大型トラック輸送が始まっている。同年9月14日、王子製紙苫小牧工場を、巻取り紙(新聞用紙)を満載し た12台の大型トラックが 出発する。ボディーには「道南輸送」の文字。同工場が鉄道輸送からトラック輸送へと切り替えを図った第1便であった。
 「巻取り紙は、すべての工程で製品を横に寝かせて生産している。貨車輸送ではそれを縦に起こして積み込むので荷傷が絶えなかった」という。この荷傷が、 新聞社では「紙切れ」の原因になった。「道南輸送」は「作った横向きの形のまま新聞社の輪転機にかける」ために設立された。トラックは当時の主流の6トン をはるかに超える10トン車。その運転手は特別扱いされ背広にネクタイ、金モールの付いた帽子に白手袋で運転席にすわった。室蘭港まで1日2回のピストン 輸送。自動車時代の幕開けによって、人々の生活はより便利に、しかし、より忙しくなっていく。

 1963(昭和38)年11月15日、苫小牧港西埠頭雑貨1号岸壁が完成し、新聞用紙の出荷を開始した。[1]
 1964(昭和39)年12月1日、大阪中之島倉庫の竣工式が開催された。[1]
 1965(昭和40)年3月、新聞巻取紙積載トラック輸送船が就航した。[1]

「おうじ号」の運転開始 [4]
 1970年4月、王子製紙苫小牧工場の生産設備の増強に合わせて紙製品専用の地域間急行列車「おうじ」号の運転を苫小牧から越中島向けに開始した。輸送 時間は苫小牧・越中島間を33時間で結び、従来より43時間も短縮して、年間16万トンを輸送した。その後、工場の増産体制にあわせて苫小牧・越中島間 苫小牧・梅田間に毎日ワキ5000形式17両編成の専用列車を85km/hで運転し高速運転を行ってきた。
 王子製紙は、苫小牧工場から東京向けの製品輸送の輸送費用の引下げと輸送の安定化を図るために1974年頃より海上輸送の拡大の検討を始めた。1978 年に東京湾臨海部の品川に省力・自動化システムを導入した品川製品倉庫を完成させ、同時にロールオン・ロールオフ式でトレーラー・シャーシをそのまま積込 む専用船を就航させ、海上輸送体制を強化した。このような変化もあり昭和53年から60年代初まで紙の鉄道貨物輸送量は減少傾向をたどるようになった。

晴 海埠頭におけるワキ5000形の荷役風景(『東 京港貨物専用鉄道のあゆみ』(社)東京都港湾振興協会・東京みなと館、発行年不詳)

2008.11 梅田駅 30C-14コンテナ、運用区間が表示してある

紙輸送ワキのコンテナ化 (渡辺 一策「貨車運用の興味」『鉄道ピクトリアル』第44巻第4号、通巻第589号、1994年)
 1970年、新聞用紙生産では世界最大といわれる王子製紙苫小牧工場からワキ5000形式17両編成、越中島、梅田行の初の紙専用急行貨物列車「おうじ 号」がスタートした。工場専用線で紙を積んだワキ群がそのまま列車編成となり消費地側線倉庫へ直行する拠点間直行車扱輸送の代表的な姿である。このための ワキ5000形は150両が苫小牧に配置された。以来約20年、この紙輸送ワキ列車は東京、大阪の2大消費地へ向け長駆本土の半ばを縦断して走り続けてき た。
 ところが合理的と思われたこのワキ列車もJR貨物によるリストラが手がけられることになる。青函トンネル開通により北海道〜本州間のコンテナ貨物は往復 とも大幅に伸びたのに対し、紙輸送ワキ列車は車扱であるがゆえに殆どが片荷輸送、返路は空車回送という状態になっていた。一方、ワキ5000形も老朽化が 進んでおり、この際列車高速化も加味し、ワキのコンテナ転換が計画されたのである。但し5tコンテナではワキに比べ紙の積載効率がかなり落ちること、また 返送ワキに一部積まれている水道管などの長物貨物が載らないことから20ftコンテナを開発することになった。専用線内でコキに載ったままの荷役も考慮 し、当初試作ウイングルーフ型U28Aの応用も考えられたが、結局JR初の20ft型で初の両側全面開き30Aコンテナの誕生となった。
 30Aコンテナは1990年から現在まで207個が製作され1991年3月まず小名木川行150レが、そして1993年には梅田行550レがそれぞれワ キ編成から30A積コキに転換された。ここでも車扱→コンテナ化というJR貨物の基本姿勢が1つ大きく進んだわけである。207個の30Aコンテナは全て このルート専用(往路は紙積、返路は雑貨積)で、このうちマルーンにJRFマークの新塗装で現れた1993年製作の28個(180〜207)は主に梅田行 に使用されている。
 東京向の30Aは小名木川→隅田川、札幌タ→苫小牧と空回も含め現在のところ全てコキに載ったままという実質ワキ時代と変わらない特異な運用をされ てい る。

荷 役線に入線したコンテナ(『MONTHLY JRかもつ』2007年1月号、11頁)

物流の近代化 [1]
 1973年当時、苫小牧工場から東京向けの製品輸送の約60%以上を 占めていた海上輸送について、営業管理部を中心に輸送コストの引下げと安定化を主な ねらいとして物流合理化の検討を進め、品川地区再開発計画と専用船新造計画を立案した。これは、品川埠頭の近接地に製品倉庫を建設し、あわせてオン・ シャーシー船、セミ・トレーラー船(バラ積みおよびシャーシー積み併用)を建造しようという計画であった。
 この計画に基き、1976(昭和51)年3月に王子品川倉庫株式会社を設立し、1978(昭和53)年4月には、省力・自動化システムを大幅に取り入れ た同社の品川製品倉庫が完成した。倉庫にはA巻取を1万6,000本収容するスペースがあり、搬入搬出の自動化によって作業時間を短縮、作業費の節減を実 現した。新倉庫は、王子製紙の製品だけでなく、営業倉庫として、広く紙パルプ業界の利用に供することとなった。
 倉庫が完成した4月には、新聞巻取専用船としてシャーシー船の「神正丸」(3,100トン)が就航した。新聞巻取のバラ積み1,000トンと、トレー ラー・シャーシーのまま運ぶ500トンの計1,500トンを一度に運ぶことができ、巻取を積んだトラックやフォークリフトが船尾から直接船に入って荷役が できるロールオン・ロールオフ方式を採用、作業性の大幅向上と、荷痛み発生の防止、品質維持に大きく貢献した。
 その後、1979(昭和54)年8月には、神正丸と同型の「神加丸」「王公丸」の2隻の最新鋭シャーシー船を就航させ、これら3隻の最新鋭シャーシー船 の運航開始により、天候に左右されない経済的で安定した海上輸送体制を確立した。
 1975年のDIP製造開始、設備増強を重ねたため新聞古紙の使用量が増大してくると、北海道内では集荷量に限界に達し、1976年後半から新たに集荷 地を関東地区に設けて、ルートを拡大し、月 間7,000トンの古紙集荷体制を確立した。これら関東地区の古紙の輸送は、当初、カーフェリーを利用していたが、1978年4月に神正丸が就航してから は、東京で巻取荷下ろしをした後、その帰路を有効利用して苫小牧まで運べるようになり、輸送効率を飛躍的に高めることができた。

海上輸送のスピードアップ [1]
 1979年8月、製品輸送船として「神加丸」(積載量1,350トン、栗林商船)と「王公丸」(積載量850トン、佐藤国汽船)の2隻を就航させた。2 隻とも航行速度の速い新鋭船で、東京−苫小牧間の海上輸送に要する日数をこれまでの1往復6〜7日間から4日間に短縮し、輸送力を30%近く向上させて流 通コストの削減に貢献した。両船とも、復路は苫小牧工場向けの古紙原料を輸送した。

王子岸壁と専用貨物船を披露 (1999年11月29日付『苫小牧 民報』) http://www.tomamin.co.jp/1999/tp991129.htm
 王子製紙(本社東京、大國昌彦社長)が苫小牧港・西港に建設した「晴海ふ頭」のしゅん工と、栗林商船(同、栗林宏吉社長)、川崎近海汽船(同、吉田啓一 社長)がそれぞれ建造した大型貨物船の就航を祝うセレモニーが29日、苫小牧市内のホテルなどで開かれた。王子製紙が進める物流合理化策で、苫小牧工場の 製品や原料輸送の拠点完成を祝った。 
 この日は、王子晴海ふ頭と隣接する公共岸壁(晴海ふ頭)を使って、川崎近海汽船の「王公丸」(9,925t)、栗林商船の「神王丸」(10,990t) がそれぞれ並んで披露された。船会社を代表して吉田川崎近海汽船社長が「安全運航で定時発着が使命。宝船になることを祈っている」とあいさつ。王公丸の船 内で大國社長や鳥越市長らがテープカットを行い、安全運航の最新設備を備えた船内を見学した。 
 専用ふ頭と専用船の就航は、消費地の関東までの距離にかかる輸送コストを集約化と効率化で削減するのが狙い。工場が生産する108万tのうち、約50% 強にあたる東京向け製品を、工場から船積み、顧客までオールシャシーで輸送する。途中の荷役や保管を省き、専用船は集約輸送の受け皿だ。年間約20億円の コスト削減を目指している。 
 二隻の大型貨物船は、いずれも128台のシャシーを積載でき、苫小牧−東京間を約30時間で運航する。来年2月には近海郵船の「王郵丸」 (8,600t)が就航、3隻で毎日運航する。東京までの上りは苫小牧工場を中心に江別工場、北陽製紙などグループ工場の製品を輸送。下りはスペースの約 60%を古紙原料で埋め、残りは雑貨を運ぶ予定。

王子物流(株) 世界最大の新聞巻取紙生産工場、苫小牧工場の物流を担う  (『MONTHLY JRかもつ』2007年1月号、10〜11頁)
 王子製紙(株)苫小牧工場の発祥は、1906(明治39)年に北海道支笏湖の水利権を獲得したことに始まる。発電所建設のための水路工事に伴う資材輸送 を行うため、苫小牧から支笏湖まで鉄道が施設され、4年後の1910(明治43)年春、千歳第一発電所から苫小牧まで4万ボルトの送電に成功、同年秋から 洋紙製造が開始された。その後、1949(昭和24)年に苫小牧製紙(株)、1952(昭和27)年に王子製紙工業(株)、1960(昭和35)年に王子 製紙(株)に社名変更、さらに合併を経て現在の王子製紙(株)となっている。王子物流(株)は同工場の物流を一手に担っている。
 同工場の生産の殆どが新聞巻取紙で、1999(平成11)年10月苫小牧港に専用岸壁・埠頭と400台分のシャーシ係留ヤードが完成されたことによっ て、輸送方式が一変、製品を積載したシャーシが高速専用船で運ばれるようになった。
 同工場では月間約10 万トンの新聞巻取紙が製造され、原材料はチップの他、脱墨パルプを作る技術の確立によって古新聞紙の再利用が大幅に増加している。 鉄道コンテナ輸送はまだ総輸送量の約10%に過ぎないが、武田芳明・東日本事業本部部長代理(北海 道担当)、宮野伸司苫小牧事業所所長は、「関東・関西方 面には20ftコンテナを使用しているが、荷崩れ事故は最近少なくなった。関西方面は日本海縦貫線経由の列車を利用しているが、気象条件の厳しい冬期は雪 害による列車の運休や遅れが気掛かりだ。現在紙の積込みに適したコンテナの 確保が課題で、そうした条件が解決すればもっと鉄道コンテナ 輸送を増やしたいと 考えている」と話してくれた。

入 換作業(『MONTHLY JRかもつ』2007年1月号、11頁)

▼苫小牧駅に発着する王子製紙鞄マ小牧工場が荷主の鉄道貨物輸送
発 駅
発荷主
輸 送品目 着 駅
着 荷主
貨車・コンテナ
備  考
苫小牧
王子製紙

越中島
日本通運鰍ゥ?
ワキ5000形
1989 年2月10日に東京都専用線(晴海線)が廃止
東京都専用線の第三者利用者に日本通運梶A
鈴江組倉庫鰍り。
苫小牧
王子製紙

小名木川

ワキ5000形
→30A
1989年2月に越中島着から小名木川着に変更か?
1991年3月に30Aコンテナに転換。
1998.12.12長町では30Aコンテナ積載5両を確認。
苫小牧
王子製紙
新聞用紙
隅田川
IPC隅田川([1]p447)
30A、30B、30C、30D
1999年6月に隅田川駅にIPC隅田川が営業開始
苫小牧
王子製紙

飯田町
→隅田川
株ム田町紙流通センター
ワム80000形
→JRコンテナ
1993年3月時点ではワム80000形15両の輸送計画。
1994年10月にコンテナ化、隅田川駅着で飯田町コンテナ
営業所に移送[5]、IPC隅田川に移転。
苫小牧
王子製紙梶H
新聞紙
新座(タ)
東紅
18D
1998.6.30長町で目撃、多数あり。
東紅流通センター叶V座営 業所
新座市野火止7-2-19、巻取紙・平版紙等の倉庫保管
苫小牧
王子製紙

梅田
椛蜊纉S道倉庫
30A、30B、30C、30D
1998年に王子製紙鰍フ新聞巻取紙の取扱い開始。
(『MONTHLY JRかもつ』2007年5月号、14頁)
千葉貨物
三井化学
茂原工場?
アクリルアマイド
水溶液
苫小牧
王子製紙梶H
UT10C-5070、5071
潟Gム・ティー・ビー
1998.12.12長町で「返空」を目撃。
四日市?
JSR梶H
ラテックス
苫小牧
王子製紙梶H
ISOタンクコンテナ
JOT所有
苫小牧駅にはラテックス専用ISOタンクコンテナが
多数並ぶ。JSR且l日市工場は王子製紙兜ト子
工場にラテックスを供給。

大阪鉄道倉庫、苫小牧から同社倉庫に到着したコンテナ列車(『MONTHLY JRかもつ』2007年5月号、14頁)

2008.3 苫小牧(貨)駅 ラテックスコンテナが並ぶ



5−3.王子製紙(株)富士工場  

▼富士工場の品種別生産量の推移(単位=トン)[3]

印 刷・情報用紙
板 紙
合 計
1996 (平成08) 年
215,523
 183,945
 399,468
1997 (平成09) 年
187,028
 193,107
 380,135
1998 (平成10) 年
192,542
 186,049
 378,591
1999 (平成11) 年
187,426
 195,982
 383,408
2009.5 富士工場

▼富士工場の設立 [2]
 1908(明治41)年に富士製紙第8工場として操業を開始し、翌1909年には東海道本線富士駅も開設された。
 明治末期には4台のマシンを保有し、富士地区の主力製紙工場となっていた。1920年代にはSP・GP設備を完備し、一貫生産体制を確立した。1933 (昭和8)年、3社合併により王子製紙富士第3工場となり第2次世界大戦を迎えた。戦後の1948(昭和23)年10月、7年ぶりにSP木釜1基を復旧 し、原材料や石 炭・電力不足に悩みながらGPならびに5台のマシンの生産を維持していた。

▼富士工場の発展 [2]
 戦後の本州製紙(株)発足直後には、1950(昭和25)年10月に板紙用5号マシンへのチャンピオンコーター設置、1951(昭和26)年6月に SP15トン木釜 2基の増設、 1951年8月に中質紙用6号マシンの増設、1952(昭和27)年8月に新聞巻取用7号マシンの増設などの第1次設備拡張工事に取り組んだ。
 1954(昭和29)年6月は15トン木釜1基増設によるSP月産900トン増産、1954年9月に晒設備を4段晒に増強、1954年11月に砕木機2 台増設による GP月産1,800トン増産などの工事を実施した。
 1956(昭和31)年9月、清水港製材製函協同組合から廃材チップを購入し初めて原料として使用した。
 1958(昭和33)年2月、日本で初めてフローテーターを有する新聞古紙脱墨処理設備を開発して運転を開始した。当時、日産50トン規模のDIP生産 は画期的で あった。
 SP木釜、GP用グラインダーは順次停止し、1963年7月をもって全面停止に至った。これにより富士工場のチップによるパルプ生産の歴史は幕を閉じ、 購入パルプならびに古紙パルプに全面的に切り替わることになった。
 1950年代後半に入ると、新聞用紙マシンは大型・高速化が進み、小型で取幅のよくないマシンの競争力が急速に低下した。このため、富士工場7号マシン を白板紙マシンへ転換することになり、1960(昭和35)年11月に新聞用紙の抄造を中止した。

▼白板紙マシンのスクラップ&ビルド [1]
 1999(平成11)年5月時点で、王子製紙グループには白板紙マシンがボール系、マニラ系合わせて12台あったが、全体的に設備の老朽化が進み、生産 性も競合他社 に比べて低いことから、グループ会社も含めて4台の老朽化マシンを停止・廃棄し、新たに富士工場に白板紙マシンを設置するスクラップ&ビルドを実施するこ ととした。
 富士工場では2001(平成13)年10月の営業運転を目指し、最新鋭マシン本体ほかパルプ調成設備、平判および巻取製品用仕上設備を含む白板紙生産体 制再構築工事 に着工した(投資額約265億円)。このスクラップ&ビルドの実施後は新マシンの日産能力650トンに対し、廃棄マシンの日産能力は合計645トンと、生 産能力はほとんど変わらないものの、約200名の要員が削減され生産性は飛躍的に向上することになる。


■富士工場の鉄道貨物輸送と物流について  
 富士駅のコンテナ基地は王子製紙兜x士工場に接しており、あたかも王子製紙鰍フ専用線コンテナ基地のような佇まいをしている。しかし実際には、同工場の 専用線は別の場所に存在したのだが、現在は廃止されてしまっている。ただ専用線廃止後も富士駅の荷主として同工場は鉄道貨物輸送を継続しているようだ。し かし富 士地区では、日本製紙グループが富士、吉原、岳南原田、比奈の各駅で専用線を残して鉄道貨物輸送を車扱・コンテナの両方で行っているのに対して、王子製紙 は 専用線を廃止したことに象徴されるように、鉄道貨物輸送を大きく縮小させてしまった印象が強い。

▼富士工場の専用線概要の推移
専 用線一覧表
所 管駅
専 用者
第 三者利用者
作 業方法
作 業キロ
総 延長キロ
備 考
1923(大正12)年版
富士
富士製紙(株)

手押
1


1930(昭和5)年版
富士
富士製紙会社

省機関車
手押
0.6


1951(昭和26)年版
富士
本州製紙(株)
富士運送(株)
手押
国鉄機
0.6


1953(昭和28)年版
富士
本州製紙(株)
富士運送(株)
国鉄機
(分岐点から
400メートルまで)
相手方機
0.6


1957(昭和32)年版
富士
本州製紙(株)
富士運送(株)
私有機
又 は
国鉄機
0.6


1961(昭和36)年版
富士
本州製紙(株)

本州製紙(株)
富士運送(株)

富士運送(株)
国鉄機
富士運送動車
国鉄機
富士運送動車
東線0.7
(機)0.3
西線0.6
(機)0.4


1964(昭和39)年版
富士
本州製紙(株)

本州製紙(株)
富士運送(株)

富士運送(株)
国鉄機
富士運送機
国鉄機
富士運送機
0.6
(機)0.4
0.7
(機)0.3

専用鉄道
西線と称す
専用鉄道
東線と称す
1967(昭和42)年版
富士
本州製紙(株)(西線)

本州製紙(株)(東線)
富士運送(株)

富士運送(株)
国鉄機
富士運送機
国鉄機
富士運送機
0.5
(機)0.2
0.4
(機)0.3

専用鉄道

専用鉄道
使用休止
1970(昭和45)年版
富士
本州製紙(株)(西線)

本州製紙(株)(東線)
富士運送(株)

富士運送(株)
国鉄機
富士運送機
国鉄機
富士運送機
0.5
(機)0.2
0.4
(機)0.3
2.8

0.6
専用鉄道

専用鉄道
1975(昭和50)年版
富士
本州製紙(株)(西線)

本州製紙(株)(東線)
富士運送(株)

富士運送(株)
国鉄機
富士運送機
国鉄機
富士運送機
0.5
(機)0.2
0.4
(機)0.3
2.8

0.6
専用鉄道

専用鉄道
1983(昭和58)年版
富士
本州製紙(株)(西線)

本州製紙(株)(東線)
富士運送(株)

富士運送(株)
国鉄機
富士運送機
国鉄機
富士運送機
0.5
(機)0.2
0.4
(機)0.3
2.8

0.6
専用鉄道

専用鉄道

▼運輸省鉄道局監修『民鉄要覧 昭和53年度版』より
動力
軌間(米)
区  間
km
免許
年 月 日
運輸開始
年 月 日
連絡駅
運転管理者
敷設目的
目的外使用
蒸気
内燃
1,067
東海道線
富士駅、富士工場
富士起点852米、工場


2.30
0.14
2.44

昭41.4.6
昭30.5.13

昭42.6.12
昭30.8.25
富士
国鉄
製紙原料、燃料品運搬
なし
 富士駅の専用鉄道がいつ廃止されたのか?このことは拙web『貨物取扱駅と荷主』の「富士駅」の富士駅に接続する専用線の推移≠ナも考察し たか、1990年頃ではないかと予想している。また上記の『民鉄要覧』を各年度ごとに確認していけば廃止された年度がわかりそうだ。

▼富士駅に発着する王子製紙潟Oループが荷主の鉄道貨物輸送
発 駅
発 荷主
品 目
着 駅
着 荷主
コ ンテナ
備 考
富士
王子加工
加工紙
八代
酒井物産
18D
1998.2.17富士
富士
王子富士

札幌(タ)

18D
1998.2.17富士 複数
1998.12.26富士
富士
王子富士宮紙器
加工紙
広島(タ)
明治乳業
18D
1998.2.28富士
京葉久保田
日本エイアンドエル
ラテックス
富士
王子製紙梶H
日本製紙梶H
UT1、UT5A
JOT所有
2006.5.6富士 写真はこちら
2006.12.2富士
2009.5.2富士
西岡山
同和カルファイン
石粉 フレコン
富士
王子製紙
V18C
1998.2.28富士
鞄ッ和カルファインは現在潟Jルファイン
 王子製紙兜x士工場から発送されるコンテナ輸送は上記の通り目撃例は僅かだ。やはり日本製紙グループと比べて、富 士工場の鉄道貨物輸送への依存度は低そ うだ。
 富士市と需要先の首都圏との距離は約150km、大阪圏との距離は約400kmであり特に首都圏とは近い。そうなるとコンテナの横持ちコストが運賃に比 べて相対的に割高になり、鉄道コンテナ輸送のコスト競争力が低下する。もし専用線があればこの横持ちコストが不要で、鉄道貨物輸送のコスト競争力が維持で きたと考えられる。日本製紙グループが富士地区で専用線を維持して対首都圏についても鉄道貨物輸送を継続できているのも、こういった観点からすれば当然と 言えよう。やはり王子製紙兜x士工場は専用線を廃止した時点で対首都圏という観点では鉄道貨物輸送を殆ど使わない物流体系になったと思えるのである。


5−4.王子製紙(株)春日井工場   

▼春日井工場の品種別生産量の推移(単位=トン)[3]

印 刷・情報用紙
包 装用紙
衛 生用紙
雑 種紙
合  計
1975 (昭和50) 年
129,542
118,887
24,954
16,852
  290,235
1980 (昭和55) 年
153,872
143,098
45,654
41,286
383,910
1985 (昭和60) 年
228,020
125,075
64,499
34,579
452,173
1990 (平成02) 年
374,705
113,565
97,994
11,244
597,508
1991 (平成03) 年
417,155
123,515
117,220
7,276
665,166
1992 (平成04) 年
419,351
111,929
129,271
2,956
663,507
1993 (平成05) 年
455,777
100,026
132,948
2,422
691,173
1994 (平成06) 年
464,921
95,557
145,250
1,190
706,918
1995 (平成07) 年
512,320
105,382
134,573
1,708
753,983
1996 (平成08) 年
515,533
106,735
154,754
836
777,858
1997 (平成09) 年
526,201
116,923
168,142
1,324
812,590
1998 (平成10) 年
519,163
107,454
153,370
880
778,867
1999 (平成11) 年
517,412
110,042
114,320
612
742,386

2009.1 春日井工場と専用線

第2工場としての春日井工場の建設 [1]
 苫小牧製紙(株)は1949(昭和24)年の発足当初から本州に第2工場を建設することが最大かつ緊急の課題であった。1950年7月から現地調査を開 始し、製紙工 場に必要不可欠な用水や電力事情、原材料の集荷や製品の出荷に便利な交通立地条件、それに地元の理解度・協力度など様々な面から候補地を比較検討して、同 年10月、愛知県春日井市の旧陸軍造兵廠名古屋工廠千種兵器製造所の鳥居松分工場跡地を選定。同月7日には、大蔵省東海財務局から使用が認可され翌51年 には、売渡しを受けた。
 同社は、晒高級紙、中級紙など年産4万トン(第1期2万トン)工場建設の基本計画をまとめた。そのポイントは、
@世界で最も新しい設備を有し、かつ将来にわたって安定して原料が得られる工場とする
A針葉樹の需給が一層逼迫していくことを考慮して、原料には中部山岳地方から得られる広葉樹を使用する
Bそのパルプ化にはクラフト法を採用し、試案であるが製造設備として最新鋭の連続蒸解釜、多段連続漂白設備を導入する
というもので、これをもとに、当時としてはきわめて先進的な新工場建設計画を決定した。
 1951年11月には起工式を挙行し、原資・抄造・動力関係など設備本体工事と並行して工場建物・付属建物の建設、用水路工事、専用側線工事、送電線工事を急ピッチで進めていった。1952年6月1 日に1号マシンが、9月1日には2号マシンがそれぞれ稼動を開始した。連続蒸解釜は運転開始に至るまでに、数多くのトラブルを経験し、操業条件を固めるま でに大変な苦労を重ねたが、ようやく1953年1月初のブローを行い、2月には9段連続晒設備の稼動を開始した。そして、1号マシンの稼動から10ヵ月後 の1953年4月には、春日井工場建設当初の目的であった晒クラフト法によるパルプの製造から抄紙まで年産2万トンの一貫体制を確立し、本格的な操業に 入った。
 こうして苫小牧製紙発足時からの懸案であった本州における第2工場の構想が実現し、従来の苫小牧工場1工場による新聞用紙と下級印刷用紙のみという脆弱 な生産体制を大幅に拡充して待望の2工場体制が整った。これは紙パルプ市況の厳しい変動にもフレキシブルに対応できる生産体制構築へ向けた第一歩ともいえ るものであり、同社の発展を支える基盤となるものであった。

▼春日井工場の設備拡張 [1]
 春日井工場の上質紙は品質が優れ、発売当初から高く評価され好調に販売量を伸ばした。年間販売量は、1954(昭和29)年度に2万トンを超えた。パル プ生産量も、前年度の1万6,552トンから2万3,429トンと、紙の生産量の伸びを上回るペースで増大していった。そのため1954年10月マシンの 増設を決定した。必要なパルプは、それまで余剰分として他社に販売していたものを充当することとした。新マシンは、上質紙のほか中質紙も抄造可能なもの で、1955(昭和30)年6月に3号マシンとして稼動、8月から薄物専抄機として本格操業に入った。
 この結果、1955年度下期には紙の生産量が1万5,067トンとパルプの生産量1万3,155トンを上回った。春日井工場のパルプが不足するのは、連 続蒸解釜の稼動後初めての事態であった。
 春日井製品の販売好調と市況の好転、そしてパルプ不足への対策などから、1955年10月、春日井工場設立当初からの目標であった原質4万トン体制の確 立に向けて、2基目の連続蒸解釜をはじめとする設備の増設を決定し、1957年1月に据付を終え、5月に稼動を開始した。
 原質増設工事が進むなか、春日井工場の品揃えを充実させるため、1956年3月にさらに4号マシン新設を決定、翌1957年4月に中質紙と上質紙の抄造 を開始した。これに伴い苫小牧工場における中質紙の抄造は中止した。パルプの日産が向上して185トンになると回収ボイラーの能力不足から蒸解釜の生産が 制約を受けることになったため、回収ボイラー1基と6,000kWタービン発電機を増設することとした。これにより、原質は4万トンから6万トンに能力増 強が可能となったことから、5号マシンの増設を決定した。1958年5月には、5号マシンを完成・稼動し、春日井工場の6万トン体制が整った。

クラフト紙事業、塗工紙事業へ参入 [1]
 新聞用紙、上質紙に次ぐ新しい経営の柱として、成長性の高いクラフト紙と塗工紙に着目した。
 特にクラフト紙は、セメント袋として戦前から使用されていたもので、戦後はセメント需要が増大したのに加え、肥料用の袋が開発されたこともあって、 1949年から1959年までの10年間に生産量を10倍以上に伸ばし、洋紙部門の最有望品種に成長、ここへきてさらに大きな需要が見込まれる米麦袋用と しても使用されるようになっていた。このように市場が急速に拡大しているにもかかわらず、1959年の両更クラフト紙の全国生産量は27万9,300トン に過ぎず、早晩供給不足になることは確実とみられた。
 王子製紙はこのクラフト紙の成長性に期待し、80億円を投じて春日井工場に最新鋭の年産10万トンの大型クラフト紙製造工場を建設する計画を策定、 1960年3月に産業用紙部門に本格的に参入することを決定し翌年1月に起工式を挙行、同年12月にクラフト紙1号マシンが稼動、翌年4月には2号マシン も稼動し、同社は早くも新聞用紙、上質紙に加え、クラフト紙においても一躍、わが国のトップメーカーとなった。
 次いで、クラフト紙への参入決定から8ヵ月後の1960年11月には塗工紙への進出を決定した。これは印刷用紙の高級化志向の高まりを背景に、品種の多 様化と付加価値の増大を図り、弾力性ある生産体制を整えるためのもので、塗工紙に着目した理由としては、
@上質紙はこれまで再三生産制限の対象となっており、その一部を塗工紙に転換することで上質紙の需給不安定が緩和できる
A上質紙を加工することによってその付加価値を高めることができる
B品種が多様化し、販売面でも柔軟に対応できる
などが挙げられた。
 1961年7月、春日井工場に建設費6億8,000万円を投入して塗工紙製造設備の建設に着手し、翌年2月にはコーターが稼動、6月にはクラフト紙工場 とともに竣工式を挙行した。

▼生産規模の拡大 [1]
 1962(昭和37)年6月に完成した両更クラフト紙工場が画期的だったのは、調木設備を持たず、原料は全量購入チップを賄ったことと大型高速マシンの 導入であっ た。このいずれもがそれまでのわが国クラフト紙工場の常識を破るものであった。
 両更クラフト紙工場を立ち上げた頃、クラフト用の原料には主として針葉樹(マツ)の丸太が使用されていた。しかし、丸太の需給逼迫が進むなか、輸入品を 含む他社製品との競争に打ち勝つため原料のコストダウンが求められ、全量を安価な廃材チップで賄うことになった。その頃、春日井工場では、既に廃材チップ を1日当たり334立方メートル使用していたが、それをもとに換算すると、原料を全量チップで賄うにはその約4倍の1,390立方メートルが必要になると 見込まれた。中小の製材工場に併設されたチップ工場の組織化にはいち早く着手し、1959年1月には、王子チップ懇談会を結成していた。その後チップ調達 量が増大し、チップ工場数が増加したためこれを発展させ、地区ごとに王子チップ協議会を設置していた。そして1961年4月には各地区の協議会を連合会組 織に改め、静岡県から岡山県まで広範囲に散在する200以上のチップ工場を系列化した。
 また5月には、春日井工場の山林部にチップ調達の専管部署としてチップ課を新設し、チップヤードなど工場の受入れ設備を整備拡充してチップの集荷体制も 確立した。着々と手を打った結果、クラフト紙1号マシンが試運転を開始した1961年12月には、春日井工場のチップ調達量は、1工場としてはわが国最大 級の月間約2万9,000立方メートルに達した。
 塗工紙に進出したほぼ同時期、十條製紙や日本パルプ工業が参入したことや、塗工紙のトップメーカーである神埼製紙が増産体制に入ったことなどによって市 場はたちまち供給過剰となり、王子製紙が期待したほどには販売量が伸びなかった。コート紙の需給バランスが是正されつつあった1966年3月、半幅のコー ターを、さらに1971年11月には全幅のコーターを増設して、塗工紙の生産拡大に取り組んだ。
 高度経済成長を背景に、高成長・高付加価値分野の拡大を目指して1970年1月に策定した創業百年記念長期綜合計画の目玉として、王子製紙はティッシュ 事業への参入を打ち出し、春日井工場に大型ティッシュ製造設備を新設することを決定し、翌年1月には建設を開始した。
 十條キンバリー、山陽スコットの先発2社が外資との合弁で出発したのに対し、王子製紙はあえて独自技術で参入することとした。コスト面を考慮して自製の スラッシュパルプを使用することを決定、ティッシュマシンも大型機を導入して生産性を高め、後発のハンデを克服することを目指した。そして1971年10 月には62.3トン/日の我が国最大のティッシュマシンが稼動した。
 1969年6月、春日井工場は6号マシンが竣工した。これは当初、両更クラフトマシンとして増設承認を受けていたが、需要増が期待された上質紙・連続伝 票用紙などを抄造することに変更したものである。この変更は、重包装が伸び悩み、軽包装が伸長するなど、クラフト紙の市場構造が変化し、1968年11月 に北日本製紙株式会社と業務提携して半晒軽包装を同社の江別工場に集約したことなど、王子製紙のクラフト紙事業をめぐる環境が大きく変化したことがその理 由である。なお、両更クラフト紙の生産は、既存の4号・5号マシンで対応することにした。6号マシンは、約152トン/日と当時として世界最大級の抄紙機であった。
 なお、6号マシンの稼動に先立つ1968年2月に発足した近代化調査委員会の答申を受け、春日井工場では工場全体の近代化・合理化に取り組んだ。その結 果、6号マシン稼動後も、要員を増加させることなく操業を維持できるようになるなど、生産性において業界最高レベルを誇る工場となった。

▼春日井工場におけるチップ利用の増大と海外チップの輸入開始  [1]
 苫小牧工場の項でも述べた通り、王子製紙では1960年代から本格的なチップ利用が始まった。春日井工場のクラフト紙工場が竣工した翌年の1963年時 点で、春日井工場ではチップの使用比率が高く、原木21%、チップ79%となっていた。
 1968年2月、王子製紙初のチップ専用船「王子丸」に続く「きゃすりん丸」(172万6,000立方フィート)を建造・進水した。きゃすりん丸は、主 として春日井工場向けのチップを輸送することとし、1968年7月、1万9,000立法メートルのチップを積み、クースベイ港からの初航海を終え名古屋港 西部の公共埠頭に接岸した。
 1966(昭和41)年12月、王子製紙は造成中の名古屋港西部臨海工業地帯西4区に33万2,000平方メートルの土地を購入し、翌年6月には、隣接 する南側岸壁に至る土地を追加購入した。そこで春日井工場向けの輸入チップ受入れ基地を建設することとなり、手始めに、1968年7月、西4区にスタック リクレーマーを設置した野積場と、コンベアを備えたチップ受入れ設備を完成、きゃすりん丸が名古屋港西部の公共埠頭に第一船として入港した。
 以後、王子製紙のチップ専用船がほぼ月1回の割合で入港していたが、1969年2月にこの西4区の同社用地の南側に、5万トン級の船を横付けすることが できる同社専用埠頭と、護岸設備などの付帯工事に着手した。同年8月、完成した専用埠頭にきゃすりん丸が初めて接岸した。
 なお、専用埠頭の建設に伴い、この名古屋港用地を、木材を中心とした流通センターとして活用することを計画、1969年7月に、埠頭と貯木場の運営を行 う王子埠頭株式会社を設立した。

▼ティッシュ2号マシンの増設 [1]
 家庭用紙事業への参入当初、王子製紙製品は知名度も低く、流通チャネルも限定されていたため苦戦を強いられ、全国的に過剰在庫をかかえていたが、折から の石油危機で紙パニックが発生し、在庫は一掃された。立ち上がりの苦戦に一息ついたあとは、ティッシュの需要は安定した伸びをみせていった。そこで 1978(昭和53)年11月、56億円を投じて春日井工場にティッシュ2号マシンを増設した。
 王子製紙のティッシュ生産能力は、既設の1号マシンと合わせて124.6トン/日となり、新聞用紙、上質紙、クラフト紙に続いて、ティッシュでも我が国 のトップメーカーの仲間入りを果たした。

春日井工場の製品ラインアップ強化と新コーターの設置 [1]
 春日井工場は中質紙を新たに生産品目に加えて、古紙利用を促進するとともに、上質紙の一部を江別工場に移して、上質紙、クラフト紙、コート紙、中質紙、 ティッシュの5品種を需要状況に応じて計画的に生産する体制を確立することとした。
 これら5品種のうち、クラフト紙は同工場の生産量の40%以上を占めていたが、すでに需要の伸びは頭打ちがはっきりし、しかも1978(昭和53)年末 から3次にわたる不況カルテルが実施され、生産制限を余儀なくされていた。これに対し、中質紙は、不況を背景に上質紙からグレードダウンによってコスト削 減を図る需要家のニーズにマッチしたほか、品質の向上もあって急成長を遂げ、しかも生産制限を免れていた品種であった。また、江別工場で生産していた半晒 クラフト紙を春日井工場に移せば、輸送費その他のコストダウンを実現できることから、既設のK-2マシンで半晒クラフト紙と中質紙を併抄することを計画、 K-2マシンの改造に着手し、1979(昭和54)年8月に完成した。併抄直後の生産量は250トン/日であった。
 その後、新コーター(現、1号)の設置工事に1984(昭和59)年11月に着手し、翌年8月に完成した。新コーターは、塗工幅最大5,300mm、設 計速度は1,200mm/分、300トン/日を誇る国内最大級・最高速の設備であった。この新コーターは、雑誌やチラシの分野で需要が増えた薄物コート紙 の生産増に対応したものであった。
 一方、DIP設備は、1979年10月に30トン/日のプラントを完成し、その後90トン/日に増強されていたが、さらに増強を図ることになった。 DIP設備を1系列増設し、既設ラインと合わせてDIP日産能力を180トン/日とした。総工費は16億円で、1985(昭和60)年4月に完成した。こ のほか、 1986年6月に、旧資材倉庫跡地に王子製紙初の塗工紙平判自動倉庫が完成した。

▼春日井工場の第1次近代化 [1]
 中下級印刷紙、塗工紙、微塗工紙の国内需要は1987年後半からさらに旺盛になり、1988年度の出荷量はいずれも対前年度で2桁%台の高い伸び率を示 した。春日井工場の近代化工事を計画したのは、こうした動向を踏まえてのことで、工事は総額1,100億円に及ぶ春日井工場としては史上最大の投資額で、 第1次(1988〜1989年)、第2次(1990〜1991年)の2期に分けて実施した。
 第1次近代化工事の主な内容は、MCC蒸解を採用した新連釜など原質設備と回収ボイラーなど関連設備の更新、ティッシュ3号マシンの増設、紙おむつ製造 設備の新設などであった。
 1989(平成元)年2月に完工した新しいKP蒸解設備は、独立した浸透釜と蒸解釜からなるカミヤ式2ベッセル液相釜蒸解設備と呼ばれ、当時としては国 内最大で あった。
  石灰焼成キルンには、スウェーデン・アールストローム製のロングキルンを採用した。直径4m、長さ135mの仕様は当時としては我が国最長・最大で、生石 灰焼成量も日産能力450トン、UKP換算で1,550トンであった。
 苛性化装置にも新たな技術を導入した。新型苛性化装置は白液生産量が日産5,110立方mで、当時国内最大であった。
 ティッシュの需要は順調に伸びていたため、1987年11月にT-3マシン及び加工設備の増設に着手し、1988年11月に完成した。投資額は約92億 円であった。

▼春日井工場の第2次近代化 [1]
 春日井工場では、第1次に引き続き、1990年から1991年にかけて第2次の近代化を行った。主な新設設備は、9号マシン、10号マシンおよび3号 コーターなどであった。
 この結果、同工場の紙の生産能力は12台のマシンで日産2,315トン(年産能力80万トン)、塗工紙ベースでは日産2,475トン(年産86万トン) となり、新聞用紙を除く印刷用紙の主力工場としては十條製紙(現、日本製 紙)石巻工場と並ぶ日本最大級の洋紙工場に生まれ変わった。
 1952(昭和27)年に春日井工場の1号機として建設されたヤンキーマシンをスクラップして建設した9号マシンは1990(平成2)年9月に操業を開 始した。日産は130ト ン/日でワイヤー幅5,800mmという日本最大のプレドライヤー付ヤンキーマシンで、純白ロールと片艶晒クラフト紙を抄造する最新鋭機である。
 第2次近代化工事の主力設備である10号マシン(日産454トン/日)及び3号コーター(日産510トン/日)は1991(平成3)年1月に稼動した。
 従来DIPはコピー用紙、フォーム用紙などの情報用紙と、未晒クラフト紙、純白包装紙などの包装用紙には全く使用されていなかったが、再生紙の需要増へ の対応と、あわせて省資源の見地からもこれらの紙に積極的にDIPを使用していくことにした。そこで1991年5月、春日井工場に、新たに日産能力180 トンのDIP設備と抄上げ設備を配備し能力を倍増した。これはDIP設備を もたない江別、日南、米子、呉の各工場の再生紙生産用にDIPを供給するためであった。
 1992(平成4)年5月には約100億円をかけた最新鋭ティッシュマシン(T-4マシン)の増設に着手、翌年8月に稼動した。

名古屋化学事業所の移転 [1]
 1998(平成10)年10月、春日井工場6号マシン北側で進めていた名古屋化学事業所移転工事が完了した。それまで同事業所は名古屋市港区にあった が、春日井工場 の敷地内に移転・統合されてことにより、要員の効率化が図られ、収益性も大幅に向上した。

 1999(平成11)年3月、DIP増産対策工事完了。120トン/日増強。[1]

▼王子製紙 新塗工紙を開発 (2002年10月10日付『日経産業 新聞』16面)
 王子製紙は雑誌・書籍向けの新塗工紙を三種類開発した。雑誌や書籍に使う紙の種類が多様化していることに対応、紙の白色度や不透明度を従来の製品に比べ 高めた。春日井工場(愛知県春日井市)で生産を始め、初年度は3種類で合計6,000トンの販売を間目指す。
 開発した塗工紙はビジュアル雑誌向け「OKオプトグロス」、女性誌やファッション誌向け「OKアストロ・マット」、ムック向け「OKバルーニー」。「オ プトグロス」は従来製品に比べ白色度を7ポイント、不透明度を1.4ポイント高めた。「アストロ・マット」は光沢度を抑え、文字を読みやすくしたのが特 徴。「バルーニー」は微塗工紙で、少ないページ数で雑誌に厚みを持たせることができるとしている。


■春日井工場の鉄道貨物輸送と物 流について  
 春日井工場の鉄道貨物輸送は今でも車扱とコンテナが残っており、春日井駅の年間の発送トン数も約10万トンレベルを維持している。同工場の年間生産量が 約70万トンであることから、鉄道輸送のシェアは14〜15%となり、苫小牧工場の10%よりも若干ながら高いことになる。これは春日井工場が内陸工場で 船舶輸送に適さないことから相対的に鉄道貨物輸送の競争力があるということであろう。そしてより一層の鉄道貨物輸送へのモーダルシフトを期待したい工場で あると個人的には考えている。

1997.3 春日井工場 専用線

▼春日井工場の専用線概要の推移
専 用線一覧表
所 管駅
専 用者
第 三者利用者
作 業方法
作 業キロ
総 延長キロ
備 考
1951(昭和26)年版
春日井
苫小牧製紙(株)

手押
相手方機
国鉄機
第1.0.4
第2.1.1

旧軍用線
1953(昭和28)年版
春日井
王子製紙工業(株)
日本通運(株)
日通動力車
1.8


1957(昭和32)年版
春日井
王子製紙工業(株)
日本通運(株)
日通動車
1.8


1961(昭和36)年版
春日井
王子製紙(株)
日本通運(株)
日通動車
2.2


1964(昭和39)年版 春日井
王子製紙(株)
日本通運(株)
日通機
2.2


1967(昭和42)年版
春日井
王子製紙(株)
日本通運(株) 日通機
2.2


1970(昭和45)年版
春日井
王子製紙(株)
日本通運(株) 中部梱包機
2.2
8.5

1975(昭和50)年版
春日井
王子製紙(株)
日本通運(株)
日通愛知運送機
2.2
8.3

1983(昭和58)年版
春日井
王子製紙(株)
日本通運(株)
日通愛知運送機
2.2
8.2


春日井工場の地図


1997.3春日井工場 専用線
液化塩素の荷役設備

2009.1春日井工場 専用線
左奥に青ワムがチラッと見える

2009.1春日井工場 専用線
左記の液化塩素の荷役設備は撤去済(右端)であった

▼春日井駅の貨物取扱量の推移
年  度
発 送トン数
到 着トン数 合 計
1999 (平成11)年度
102,928
15,770
  118,698
2000 (平成12)年度
104,096
12,854
116,950
2001 (平成13)年度
104,050
13,091
117,141
2002 (平成14)年度
101,009
8,827
109,836
2003 (平成15)年度
95,785
5,232
101,017
2004 (平成16)年度
95,345
4,525
99,870
2005 (平成17)年度
105,940
4,670
110,610
2006 (平成18)年度
120,040
4,644
124,684
2007 (平成19)年度
114,155
9,046
123,201
 発送は2000年度から2004年度まで暫減傾向にあったのが、近年盛り返したのが興味深いところだ。鉄道へのモーダルシフトが行われたのであろうか。
 到着は2002年度から2003年度にかけて大きく落ち込んでいる。タンク車による液化塩素輸送が廃止されたのはこの時期なのであろうか。2007年度 が2006年度の2倍弱に増加したのも気になるところだ。
 尚、1999 年10月26日付『日本経済新聞』11面によると、王子製紙鰍ヘ2000年から春日井工場で無塩素化パルプの生産に踏み切るとあり、2006 年4月8日付『北海道新聞』によると2006年4月から苫小牧工場で無塩素漂白(ECF)方式に切り替えたことで全国8基幹工場の全てのECF化 を終えたとのことで、2003年度には春日井工場向けの液化塩素の輸送が消滅したと考えても矛盾は生じない。

1997.3 春日井駅構内 左は飯田町駅行き19両編成

▼春日井駅に発着する王子製紙鰹t日井工場が荷主の鉄道貨物輸送
発 駅
発 荷主
品 目
着 駅
着 荷主
貨 車・コ ンテナ
備 考
春日井
王子製紙
ちり紙
仙台埠頭
協和運輸倉庫梶H
ワム80000形
1994.4仙台埠頭駅(『トワイライトゾーンマニュアルV』)
春日井
王子製紙
ちり紙
宮城野

ZC1
1998.4.28宮城野駅で目撃。
春日井
王子製紙
新聞紙
飯田町
株ム田町紙流通センター
ワム80000形
1997.3.6春日井駅で19両編成を目撃。
春日井
王子製紙
印刷紙
新座(タ)
IPC新座
ワム80000形
1999.6新座(タ)駅にIPC新座が完成、春日井からは貨車23両 が到着。
(『交通新聞』1999年10月5日付2面)
昭和町
東亞合成
液化塩素
春日井
王子製紙
タキ5450形
所有者確認を失念
1997.8.15東港駅で返空を目撃。
また1997.3.6清洲駅でこの輸送用と思われるタキ165490(昭和町駅常備、
東亞合成鰹蒲L)を目撃した。
吉永
不明
白土液
春日井
王子製紙
タキ18000
王子製紙鰹蒲L
1984.2改正後は片上駅に積込駅が変更されたが半年後に輸送廃止
吉 岡心平氏のwebサイトより
新南陽
東ソー梶@又は
潟gクヤマ
液化塩素
春日井
王子製紙
タキ165469
JOT所有
1997.3.6春日井駅で目撃。
 筆者は、これまで春日井駅から発送される紙製品のコンテナ輸送の目撃が上記の通り少ない。全国各地に発送されているかと思うのだが、なぜ だろうか・・・。

※上記の春日井→仙台埠頭のちり紙輸送≠ヘ、急行越前様が何と情報源!でいらしたと言うことで、大変貴重な写真をご提供して戴きました。ありがとうござ います!!


1994.4.9仙台埠頭駅
※急行越前様より大変貴重な写真をご提供して戴きました。

1994.4.9仙台埠頭駅  左の写真の手前のワムの 荷票
ハワム286847 ちり紙:春日井→仙台埠頭(協和)
※急行越前様より大変貴重な写真をご提供して戴きました。


1997.3春日井駅に停車中のJOT所有のタキ165469(液化塩 素専用)

1997.3清洲駅に停車中の東亞合成鰹蒲Lのタキ165490(液化 塩素専用)

▼春日井工場向けの鉄道によるチップ輸送
 チップ輸送全般に関しては、かつてとはずがたり≠フ手によって「チップ輸送・材木」というページが作ら れ、その中で王子製紙鰹t日井工場についてもある程度詳述されている。
 しかし今回、改めて筆者の手で春日井工場のチップ輸送に関して纏めてみた。
([7]p61〜63より抜粋)
 春日井工場の1977年納入チップの原材構成は海外材54.5%、国内材45.5%の比率である。国内だけでもチップ納入工場は700工場におよび、関 東・中部・近畿にかけての広い範囲から集荷している。この集荷範囲は中部地方の他のパルプ工場に比べて広い。
 春日井工場へのチップ搬入手段をみると搬入量のうちの85%がトラック(これには名古屋港からの輸入チップの輸送を含む)であり、わずか15%のみが鉄道に過ぎない。 しかし、1977年当時春日井駅は月 平均1万5千トンのチップが到着し、純国内産チップの最大到着量を示した。それらを発送する17発駅は、新潟・群馬・長野・岐阜(飛騨)・ 京都・奈良・和歌山などの府県に所在し、チップ集荷範囲の周縁部から鉄道で発送されていることがわかる。
 チップの輸送手段の選択については、荷受人であるパルプ工場の意向が強く反映されている。春日井工場はパルプ工場の中ではチップ原料の鉄道輸送への依存 が最も大ではあるが、しかしその鉄道依存率は次第に小さくなってきている。
 春日井工場の社有林は、飛騨地方には広葉樹の天然林を中心として、京都府丹波地方には針葉樹を中心にして卓越している。社有林の原木はパルプ会社所有 で、それをチップ工場に分散させて委託加工し、再び集荷して発送するという形をとっている。このことは飛騨・丹波地区からの鉄道による納入率を高くしてい る。また距離的に春日井から最も遠い新潟県下では、在地の有力チップ工場や通運業者がチップの発送を完全に鉄道に依存している。

▽1977年当時の春日井工場へチップを発送する駅([7] p71〜72を基に作成)
発 駅
1977〜78 年の
月間平均輸送量
(千t)
備考・
荷主のチップ会社・
など
北長野
2.1
パルプ会社系列の集材業者がサイロを設置し集荷発送している
下諏訪
0.5
有力チップ工場がサイロを設置して集荷発送している
森 口(松本電鉄)

当駅のみ[7]で挙がっていない駅(=1977年当時春日井工場への チップ輸送を廃止していた)である。
春日井工場向けに1日1〜2両の発送があった。松本電鉄は1973年12月に貨物営業を廃止した。([12]p47、p50)
三岡(小海線)
0.9
有力チップ工場がサイロを設置して集荷発送している
飛騨一ノ宮
2.3
パルプ会社が駅にチップサイロを設置
『1975年版専用線一覧表』では、王子製紙叶齬p線あり
飛騨古川
1.6
パルプ会社系列の集材会社が駅にチップサイロを設置
奥田
0.4
『1975年版専用線一覧表』では、富山県木材倉庫協同組合、小池木材 梶A蔵島木材鰍フ専用線あり
金沢
0.1

直江津
0.3
通運業者が集荷発送している
黒井
0.3
在地の有力チップ工場が集荷発送している
来迎寺
0.3
在地の有力チップ工場が集荷発送している
新津
0.3
在地の有力チップ工場が集荷発送している
新潟港
0.3
在地の有力チップ工場が集荷発送している
川端
1.1
パルプ会社系列の集材業者がサイロを設置し集荷発送している
『1975年版専用線一覧表』では、王子木材叶齬p線あり
日高川
1.0
パルプ会社系列の集材業者がサイロを設置し集荷発送している
殿田
1.9
パルプ会社が駅にチップサイロを設置
1967年7月に殿田駅に王子製紙叶齬p線が敷設された。([13]p530)
同年同月から定形貨物として殿田〜春日井でチトラ6両のチップ輸送が開始された。([13]p530)
『1975年版専用線一覧表』では、王子製紙叶齬p線あり。
武州中川
0.2

渋川
1.5
『1975年版専用線一覧表』では、関東ぶな材工業叶齬p線あり



5−5.王子製紙(株)神崎工場   

▼神崎工場の品種別生産量の推移(単位=トン)[3]

印刷・情報用紙
1993(平成05)年
135,591
1994(平成06)年
138,920
1995(平成07)年
143,479
1996(平成08)年
141,110
1997(平成09)年
130,589
1998(平成10)年
57,308
1999(平成11)年
21,544

▼神崎工場の発足と発展 [2]
 1894年4月、神崎川のほとり、兵庫県川辺郡小田村(現、尼崎市)常光寺に真島製紙所が設立された。これが後の神崎工場である。その後、経営不振から 会社の経営母体が変わるなどの変化があり、第一次世界大戦中の1915年11月、買収によって富士製紙神崎工場となった。
 1922年にアート紙の加工設備が据え付けられた。このアート紙の生産により神崎工場の性格が特徴づけられ、加工紙の分野を開く第一歩となった。当時、 アート紙の先発メーカーは三菱製紙、日本紙器製造、日本加工製紙の3社であったが、アート紙に代表される加工紙は、第一次世界大戦による輸入の途絶を転機 に競って国産化された花形商品であった。
 1937年の全生産高は、1933年に比べて2割弱の伸びであったが、アート紙だけは2倍半に伸び、2万8,600トンと戦前の最高を記録した。しかも 神崎工場は、アート紙全国総生産量の46.3%(1万3,240トン)を占め、38.2%の日本加工製紙十條工場、15%の三菱製紙高砂・中川両工場を大 きく引き離し、戦前におけるアート紙の黄金時代を築いた。
 太平洋戦争中には原料の入手困難からアート紙の生産は中止に追い込まれ、さらに1945年6月には米軍による空襲で工場は消失、灰燼に帰した。
 戦後、神崎工場は王子製紙から分離、神崎製紙(株)が設立され、1948年10月には工場が復旧され1号塗工機が稼動した。また1949年9月には抄紙 機が復旧、稼動しアート紙の生産は漸次上昇し、1949年11月には全国生産総量の50%を占めるに至った。しかしパルプ不足が深刻化したため、1950 年5月、月産1,000トンの能力を持つ木釜2基からなるSP設備の建設に着工。1951年4月、SP工場は全面稼動した。これにより、日本で唯一のアー ト紙の完全一貫工場をもつことになった。


■神崎工場の鉄道貨物輸送と物流 について  
 神埼工場は尼崎駅に接続する専用線でワム80000形による鉄道貨物輸送を長年行ってきたのだが、1995年に専用線は廃止されてしまった。その後、神 崎工場の「生産量」の推移をみると1998年以降急激に減らしており、1999年には1995年比15%程度の年間2万1,500トンにまで減少した。つ まり神崎工 場は生産拠点としては大幅に規模が縮小されたわけで、鉄道貨物輸送の廃止はその点からも不可避だったと思われる。

▼神崎工場の専用線概要の推移
専 用線一覧表
所 管駅
専 用者
第 三者利用者
作 業方法
作 業キロ
総 延長キロ
備 考
1953(昭和28)年版
尼崎
神崎製紙(株)
合名会社平田組
相手方機(平田組)
1.5

日本通運(株)線に接続
1957(昭和32)年版
尼崎
神崎製紙(株)神崎工場
(株)平田組
平田組機
1.2

日本通運(株)線に接続
1961(昭和36)年版
尼崎
神崎製紙(株)神崎工場
(株)平田組
平田組機
1.2

久保田鉄工会社線に接続
1964(昭和39)年版 尼崎
神崎製紙(株)神崎工場
(株)平田組
平田組機
1.2

久保田鉄工会社線に接続
1967(昭和42)年版
尼崎
神崎製紙(株)神埼工場
(株)平田組 平田組機
1.2

久保田鉄工(株)線に接続
1970(昭和45)年版
尼崎
神埼製紙(株)神埼工場
(株)平田組 平田組機
1.2
1.8

1975(昭和50)年版
尼崎
神埼製紙(株)神埼工場
神埼港運(株) 私有機
1.2
1.8

1983(昭和58)年版
尼崎
神埼製紙(株)神埼工場
神埼港運(株)
私有機
1.2
1.8


 1953(昭和28)年6月18日、国鉄尼崎駅から神崎工場までの専用線が開通した。([2]p324)
 1973(昭和48)年10月現在では、尼崎駅から株ム田町紙流通センターへの紙輸送は行われていなかったようである([8]p18)。しかし1993 (平成5)年3月ダイヤ改正では尼崎駅発飯田町駅着の紙輸送用ワム車18両の設定があり、これは1994(平成6)年12月ダイヤ改正でも変化していない ([5])。
 しかし、1995(平成7)年9月29日、神埼工場の貨車輸送が終わった。([1]p561)
 ワム車18両で週5日、年間50週の輸送量があったと仮定すると、15t×18両×5日×50週=67,500tとなる。これは1994年の生産量 138,920tの48.6%に相当するので、神崎工場は鉄道貨物輸送への依存度が非常に高い工場だったと言えよう。例えば日本製紙活ョ川工場伏木工場(2008年 9月工場閉鎖)もそうだったが、船舶輸送に適さない中規模製紙工場で、鉄道貨物輸送用に専用線があり、需要地の首都圏から遠いといういくつかの条件に当て はまると、鉄道貨物輸送への依存度が高くなるよう だ。しかし生産量が中途半端なことが致命的な欠陥で、工場自体のコスト競争力に乏しく、工場閉鎖や生産品目の立て替えなどによって鉄道貨物輸送が突然廃止 されてしまうという点でも似ている。



5−6.王子製紙(株)米子工場   

▼米子工場の品種別生産量の推移(単位=トン)[3]

印 刷・情報用紙
雑 種紙
板 紙
合  計
1980 (昭和55) 年
171,486

 35,748
 207,234
1985 (昭和60) 年
200,486

47,597
248,083
1990 (平成02) 年
227,243

64,585
291,828
1991 (平成03) 年
243,181

69,752
312,933
1992 (平成04) 年
265,437

69,626
335,063
1993 (平成05) 年
220,725
 22,742
59,256
302,723
1994 (平成06) 年
165,985
92,770
67,053
325,808
1995 (平成07) 年
187,180
95,201
60,245
342,626
1996 (平成08) 年
173,079
89,905
63,600
326,584
1997 (平成09) 年
207,826
96,387 71,064
375,277
1998 (平成10) 年
264,945
91,785
63,715
420,445
1999 (平成11) 年
369,150
93,979
66,800
529,929


▼米子工場の増強 [1]
 米子工場は、上級塗工紙および高級白板紙の拠点として位置づけられ、アート紙、上質コート紙を主力製品としていた。しかも、すでに合併前に近代化工事を 完了していたため、合併後の課題は、新設備を活用し、生産性の向上と品質の安定・向上を図ることに置かれた。しかし、第2次石油危機によって、エネルギー 関連設備の見直しを余儀なくされ、改造・改善を実施した。まず、重油依存の状況を改めることになり、1981(昭和56)年3月、5号ボイラーを重油・ バーク混焼型から石炭・バーク混焼型に改造し、16年ぶりに石炭の使用を再開した。引き続き4号ボイラーを新型回収ボイラーに更新することを決定、 1983(昭和58)年3月、総工費32億円で完成し、9号回収ボイラーと称した。
 上級塗工紙の拠点として、より製品を充実させるため米子工場に1982年、月産400トンの5号コーターを設置し生産を開始した。塗工紙のなかでも最高 級品に位置づけられるキャストコート紙を加え、米子工場の製品ラインナップは厚みを増した。キャストコート紙の生産は順調に軌道に乗り、1988年8月に は倍幅のコーターに更新した。

▼境港チップ荷役設備の完備 [1]
 境港の新岸壁築造に合わせてチップ荷役設備を建設した。新岸壁は全長455mで、うち270mに4万トン級、185mに1万5,000トン級の大型船舶 が接岸できる大岸壁であり、米子工場は、其の完成に照準を合わせチップヤードと荷役設備の建設を進め、1984(昭和59)年6月に竣工した。その後、 1988年4月にはチップヤードに旋回式スタッカーを設置し、チップを自動的に積み付けできるようにした。

▼米子工場の設備改善 [1]
 米子工場では、1982年に5号コーターを設置し、以来、王子製紙で唯一キャストコート紙の生産を行ってきた。1988年当時、キャストコート紙の市場 規模は、輸出も含め推定で8,500トン/月前後で、このうち60%が紙ベース、40%が板紙ベース、伸び率は年10%前後と高かった。需要の伸びに対応 して、コーターの塗工幅を広げ、塗工速度を上げて生産能力を増強することとし、5号コーターをスクラップ&ビルドし、1988年8月、新5号コーターを完 成させた。
 3号マシンは主として高板紙を生産し、余力でコート紙を併抄していたが、高板紙・コート紙ともに販売増が見込まれ、生産能力が不足することが懸念され た。このため1988年に同マシンの増産ならびに品質向上対策工事を実施した。これにより高板紙とコート紙の生産能力は、それぞれ463トン/月、 1,333トン/月へと拡大した。

▼米子工場の原質近代化工事 [1]
 カミヤ式連続蒸解釜は操業開始以来30年近く経過して老朽化が進み更新の必要に迫られていた。業界こぞっての設備投資ラッシュのさなかにあった1990 年1月に総額200億円を投じ、L専煮用に最新鋭連続蒸解釜と酸素晒を含む漂白設備、石灰キルンの新設など原質近代化のための工事に着手し、翌年9月に完 成した。この蒸解釜は同方式の春日井工場を凌ぐ国内最大の設備であった。これによりLパルプ生産能力は、当面LBKP1,000トン/日にアップ、米子工 場飛躍のための基盤整備が実現した。
 また、ダイオキシン対策として、MCC蒸解と2段酸素晒を採用、塩素の一部を二酸化塩素に代替するとともに、廃水処理の徹底などを実施した。

▼米子工場の近代化工事 [1]
 1995年に入り、塗工紙業界においては需要が大幅な伸びが示したことから設備余力が急減し、市場に逼迫感が強まった。そこで同年12月、総額650億 円をかけて米子工場の塗工紙製造設備を中心とする一連の近代化工事の実施を決定した。これは同工場にとっては23年ぶりの大規模工事となった。
 1996年6月、第1期工事としてN-1マシン(生産能力540トン/日)、N-1コーター(生産能力770トン/日)、仕上設備、排水処理設備の新設 工事に着工し、翌年6月、まずN-1マシンが試運転を開始した。また10月には、同時に建設を進めていたN-1コーターが完成し、王子製紙の塗工紙の主力工場となった。
 これに合わせて全社ベースで塗工紙の生産体制を見直し、1997年12月から順次富岡工場の1号マシン、神埼工場の4号コーターおよび5号マシンを停止 した。
 1997年7月、第2期工事となる回収ボイラーとN系連続蒸解釜の建設に着手した。新回収ボイラーは、翌年8月に火入れ式が行われ、11月にはタービン 発電機とともに本格稼動した。米子工場の開設以来40年余りにわたって操業を支えてきた木釜は停止され、これに代わってN系連続蒸解釜が1998年10月 に稼動した。新設備の晒パルプ(NBKP)生産能力は、既存設備の190トン/日に対して270トン/日と大幅に向上した。
 また、塗工紙生産設備の増設により輸入チップの使用量が大幅に増加することに備えて、1997年1月、境港チップヤードの拡張工事に着手し、同年7月に 完工した。
 今回の近代化工事の一環として、1998年7月に酵素キシラナーゼのオンサイト製造設備と同酵素による酵素漂白設備を建設し、L系クラフトパルプ漂白工 程の全量に適用した。このような工程を採用したのは、世界の紙パルプ工場の中でも初めてのことであった。
 この酵素漂白設備の稼動以後、酵素無添加に比べて塩素が約30%程度削減さ れるなど、顕著な効果が出た。酵素生産および酵素漂白設備はその後も順調に稼動しており、工場で生産される製品はすべて酵素処理を経たパルプを原料として いる。
 このようにして、第1期、第2期の一連の近代化工事が完了し、高級塗工紙 の専抄工場としては世界最大で、環境対策でも最先端の技術を備えた工場となった。


■米子工場の鉄道貨物輸送と物流について  
 米子工場は全国の王子製紙鰍フ工場の中で、最も鉄道貨物輸送を積極的に活用している工場だ。1999年には大々的に鉄道へのモーダルシフトを行い、話題 となった。同工場は王子製紙の高級塗工紙の主力生産拠点に位置付けられており、積極的な設備投資が行われている。そういった工場が鉄道貨物輸送への依存度 を高めているという点を非常に重視すべきであろう。山陰地方へ立地していることから首都圏等には船舶輸送は不向きであり、専用線の存在も含めて鉄道貨物輸 送が競争力を持っていると思われる。発送面だけでなく、以前はラテックスなどの薬品類もタンク車で到着していたのだが、これが現在もISOタンクコンテナ 化されるなどして鉄道貨物輸送が継続しているかどうか、非常に気になるところである。

1998.8 米子工場 専用線

▼米子工場の専用線概要の推移
専 用線一覧表
所 管駅
専 用者
第 三者利用者
作 業方法
作 業キロ
総 延長キロ
備 考
1953(昭和28)年版
伯耆大山
日本パルプ工業(株)米子工場
松井(株)
日本通運(株)
相手方機
原木線1.3
製品線1.1
石炭線2.4


1957(昭和32)年版
伯耆大山
日本パルプ工業(株)米子工場
松井(株)
日本通運(株)
私有機
原木線1.3
製品線1.1
石炭線1.4


1961(昭和36)年版
伯耆大山
日本パルプ工業(株)米子工場
日本通運(株)
松井組(株)
私有機
原木線1.3
第一製品線1.1
石炭線1.4
第二製品線1.1


1964(昭和39)年版 伯耆大山
日本パルプ工業(株)米子工場



日本パルプ工業(株)米子工場
(高級印刷塗工紙製造工場)
日本通運(株)
米子作業(株)


日本通運(株)
荒川林産化学工業(株)
日通機



日通機
原木線1.3
第一製品線1.1
石炭線1.4
第二製品線1.1
0.7


1967(昭和42)年版
伯耆大山
日本パルプ工業(株)米子工場



日本パルプ工業(株)米子工場
(高級印刷塗工紙製造工場)
日本通運(株)
米子作業(株)


日本通運(株)
荒川林産化学工業(株)
日通機



日通機
原木線1.3
第一製品線1.1
石炭線1.4
第二製品線1.1
0.7





大形コンテナによる
小口扱貨物も取扱う
1970(昭和45)年版
伯耆大山
日本パルプ工業(株)米子工場
日本通運(株)
米子作業(株)
荒川林産化学工業(株)
日通機
原木線1.1
第一製品線1.1
石炭線1.5
第二製品線1.1
CP線0.7
6.6
コンテナによる小口
扱貨物も取扱う
1975(昭和50)年版
伯耆大山
日本パルプ工業(株)米子工場 日本通運(株)
米子作業(株)
荒川林産化学工業(株)
日通機
原木線1.1
第一製品線1.1
石炭線1.5
第二製品線1.1
CP線0.7
6.6
コンテナ貨物も取扱う
1983(昭和58)年版
伯耆大山
王子製紙(株)米子工場
日本通運(株)
米子作業(株)
荒川林産化学工業(株)
日通機
原木線1.1
第一製品線1.1
石炭線1.5
第二製品線1.1
CP線0.7
6.6
コンテナ貨物も取扱う

米子工場の地図

米子工場の物流体制の整備 [1]
 物流合理化対策として、1998年10月、境港チップヤードの隣接地に境港物流センターを建設した。同センターは、徹底した物流コスト低減を目指して、 輸入原材料や輸出製品、または内航船による製品出荷、原材料受入れ等の拠点として建設したもので、KSウイングが保管作業や入出庫作業にあたっている。

▼伯備線の貨物列車4往復全てがコンテナ化 [16]
 1997(平成9)年9月30日をもって、米子(操)〜湖山間に1往復運転されていた貨物列車5560・5563列車が廃止された。これに関連して倉敷 (タ)〜米子(操)間の専貨5964・5967列車が廃止され、新王子製紙 兜ト子工場の増産に対応するため、コンテナ列車に立て替えら れたので、伯備線の貨物列車は4往復全てがコンテナ列車となった。

王子製紙米子工場の製品 1日にコンテナ60個 JR貨物 中部、九州へ輸送ス タート (1999年5月17日付『交通新聞』1面)
 パンフレットなどに使う上質紙を生産する王子製紙米子工場で、12日から貨物列車を使った中部、九州地区向けの輸送がスタートした。JR貨物関西支社と 同社米子営業支店による、環境にやさしい鉄道輸送のメリットを前面に打ち出した粘り強い営業努力が実り、1日コンテナ60個に上る貨物のオンレール化に成 功。輸送開始に合わせて13日朝には、JR貨物の金田好生社長が東京都中央区の王子本社を訪れ、一番列車に取り付けられた特製ヘッドマークをプレゼントし た。
 鳥取県米子市と日吉津村にまたがる王子製紙米子工場は、旧日本パルプ工業時代の1952年(昭和27年)創業で、通常の紙に特殊薬品を塗布した塗工紙の 生産施設としてはわが国の製紙業界有数の規模。製品輸送については、これまで首都圏向けには鉄道コンテナが利用されていたものの、中部と九州はトラックが 主流だった。
 そうした中で、今回の鉄道輸送開始のきっかけになったのが、同工場による環境管理システムの国際規格・ISO14001取得に向けた取り組み。王子では 既に神崎(大阪府)、日南(宮崎県)の両工場が認証を受け、米子工場もこれに続き今秋の取得を目指しているが、審査に当たっては輸送手段に環境負荷の小さ い鉄道を利用することがプラス評価されるため、レールへのシフトの決め手に。併せて、昨春にはJRの金田社長自らが工場に足を運んで誘致に弾みをつけると ともに、コスト面もトラックに遜色ない体系を整えつつ、時間に正確というもう1つの利点も強力にアピールした。
 列車は「王子製紙環境号」と名付けられ、コンテナ貨車12両(300トン積載)を連ね、山陰線米子貨物駅を出発。伯備線経由で山陽線岡山駅に着いた後、 東西両方向に分割。通常のコンテナ列車に併結して東海道線名古屋貨物ターミナル、鹿児島線福岡貨物ターミナル駅まで輸送する。同工場では、従来から1日コ ンテナ110個に上る製品を鉄道輸送していたが、今回新たに 60個が加わったのに伴い、出荷量の63%がレールで 運ばれることになった。
 王子側は「環境行動計画21」を定め、植林や紙のリサイクルを全社挙げて推進中で、将来的には鉄道利用率を70%程度まで高める方針。名古屋からの帰り の列車では、一部紙の原料になる澱粉も運び、輸送の双方向性を持たせたのも特徴だ。
 初列車の出発セレモニーは12日、米子貨物駅で開かれ、翌13日にはJRの金田社長が北出忠則鉄道事業本部副本部長、米本亮一関西支社長の両常務を伴っ て王子本社を訪問し、大国昌彦社長にヘッドマークを贈呈。両社長は「輸送を請け負ったからには期待に応えられる高品質なサービスの提供を目指し、今後も JR貨物をご利用いただけるよう努めていきたい」(金田社長)、「コスト面などの課題をクリアできれば、引き続き鉄道による輸送を増やしたい。いただいた ヘッドマークは社内に展示し、大切に保管していく」(大国社長)と、相互にエールを交換した。

「王子製紙環境号」の出発式が盛大に JR貨物が米子貨物駅で  (1999年5月23日付『カーゴニュース』)
 JR貨物は12日、鳥取・米子貨物駅で「王子製紙環境号」の出発式を行った。
 ISO14001の取得を目指す王子製紙米子工場(渡邊則利工場長)が、これまでの東京向けの出荷に加えて、比較的距離の短い名古屋、九州向けにもJR コンテナを使うことを決め、専用列車に仕立てることになった。これを「王子製紙環境号」として、ヘッドマークをつけて運行することにしたもの。これによっ て、環境負荷が低減されるだけでなく、米子工場の輸送費も年間約1千万円コストダウンされる。
 2期にわたる増強工事を行った米子工場では、現在、年間42万トンの紙製品を生産している。このうち35万トンが国内向けで、既にこの一次輸送の63% を鉄道利用している。これまでは、大消費地であり、米子から遠距離にあって鉄道利用のメリットが出しやすい東京向けを主体に1日、110個を12フィート コンテナで出荷していたが、これを他の地域向けにも拡大する。フルに切り替わるのは7月からだが、それ以降は、120個が関東20個が名 古屋5個が福岡15個が大阪向けとなり、その他の地域向けの10個を加えて170個と なる(年間で計25万トン)。今後、需要が伸びる部分につ いても、原則として鉄 道を利用していき(米子工場の生産能力は最大59万トン)、米子工場の鉄道利用比率は70%を超えることになる。
 出発式では渡邊工場長が「このような晴れがましい出発式を開いてくれたJR貨物に感謝したい。米子工場は鳥取県の環境アセスメントを受け、地域と環境に 優しい工場づくりを目指している。今秋ISO14001を取得する予定だが、設備の近代化による環境対策の徹底とともに、物流面での改善も重要だと考え、 トラックと比べ環境負荷が6分の1以下という鉄道輸送を増やすことにした」と挨拶。これを受けて、JR貨物の米本亮一常務取締役関西支社長が「今や環境問 題は、孫子の代までを考えなければならない課題となっている。今回、王子製紙さんの特別の配慮によって『環境号』の出発式を迎えられることになったが、単 に環境に優しいというだけではなく、サービスやコスト面でも選択してもらえるよう努力していきたい」と述べた。
 この後、米子工場で物流を元請する物流子会社、KSウイングの米村公作社長、取扱い通運である日本通運の細越雅雄米子支店長、王子製紙の小林昭忠物流合 理化推進本部部長なども加わりテープカット。全員で一番列車を見送った。王子製紙の小林社長は「王子製紙全体では鉄道利用比率は約10%だが、今後は新し い列車を増やしていきたい」と語っていた。

1998.8 米子工場 専用線

JR貨物米子営業支店 (『MONTHLY JRかもつ』2005 年9月号、16〜17頁)
 1日の取扱列車本数は、コンテナ高速列車が上下各4本、発送だけで約240個のコンテナが稼動している。王子製紙が増産体制にあることから、 190〜200個のコンテナが必要で、毎日休みなく運転して いるにもかかわらず、コンテナ不足が悩みの種になっている。
 王子製紙(株)米子工場は製品の50%を鉄道輸送してい る。専用線では日本通運(株)米子工場事業所が製品及び原料のコンテナへの積卸し、貨車の入換え 等、全ての業務を行っており、伯耆大山駅から伯備線経由で西岡山駅を通り、東 京(タ)新座(タ)、そして隅田川駅へと運ばれていく。

▲引込み線を走る列車

▲王子製紙米子工場におけるコンテナの積込み

王子製紙(株)米子工場 (『MONTHLY JRかもつ』 2006年4月号、10頁)
 王子製紙米子工場は1952(昭和27)年11月に日本パルプ工業(株)として操業を開始し、1979(昭和54)年3月王子製紙と合併し、現在に至っ ている。アート紙、コート紙、高級白板紙、キャストコート紙など塗工紙の塗工技術に高い評価を得ており、さらに品質向上の研究を深めながら順調な生産を続 けている。鉄道利用の歴史は古く、旧国鉄時代には既に伯耆大山駅から引込線が敷かれていた。
 船越製品担当課長は「地球環境保全対策に常に万全を期しており、専門的な研究機関も設けている。輸送手段も環境に優しい鉄道コンテナを選択している。関 東・九州方面に、月平均2万5千トンの製品が伯耆大山駅から 出荷されている」と環境保全対策について力説している。1999(平成11)年5月には、専用 列車「王子製紙環境号」を運行させるなど、米子工場と鉄道輸送の関係は大変に深くなっている。またコンテナ輸送の今後の取り組みについて同課長は「輸送品 質の向上にも力を入れている。輸送中の貨物事故を限りなくゼロに近づけるために、コンテナへの積込み、取卸しの作業などを含め、荷主も一体となって取り組 むことにより、コンテナ輸送をさらに拡大したいと考えている。また、異常時の速やかな対応などを望む」と話している。
引込み線からコンテナの引き上げ(『MONTHLY JRかもつ』 2006年4月号、11頁)

▼専用線ルポ 福田晴仁 王子製紙米子工場と伯耆大山駅 (『JR貨 物ニュース』2008年4月15日号)
○王子製紙米子工場の概要
 王子製紙米子工場は、1951年4月に日本パルプ工業米子工場として建設が開始され、翌年11月より生産が開始されています。1979年3月には合併に より王子製紙米子工場となりました。54万5千平方メートルという広大な敷地に従業員400人が従事している大規模な工場で(2006年1月現在)、高品 質の印刷用紙を生産しています。
 環境保全対策にも熱心に取り組んでおられるようで、約1千9百万平方メートルにも及ぶ広大な社有林の所有、使用済み割り箸の回収と塗工紙への再生、リサ イクルできない古紙と廃プラスチックからなるRPF(Refuse Paper and Plastic Fuel)を主な燃料とする発電用ボイラーの使用等が実施されています。
 従来、発電用ボイラーに使用する燃料の37%は化石燃料(重油)によって占められていたそうです。これをRPF、木質燃料、タイヤ燃料に転換することで CO2の年間排出量を75%も削減されたそうです。

○専用線の沿革と現状
 同工場の専用線については、事務部の塩澤実副部長と森崇調査役、そしてJR貨物の藤原静雄米子営業支店長にも同席いただいて、お話をお伺いしました。
 「専用線は同工場の建設開始とほぼ同時期の1951年7月に敷設が開始され、同工場の生産開始よりも10ヵ月早い1952年1月に竣工しています。竣工 当時の専用線の総延長は2,030メートルで、生産開始時には5,250メートルに増設し、その後も貨物取扱数量の増加に伴って増設した結果、1977年 4月には6,130メートルに達しました。
 1968年度の貨物取扱数量は発送約4万4千トン、到着約5万トンでしたが、1976年度には発送約10万トン到着約11万3千トンに増加しています。しかしその後は、トラック輸送 への転換や車扱輸送のコンテナ輸送への全面転換に伴う車扱貨車仕訳線の撤去等によって専用線の総延長は縮小し、2006年12月現在では3,199メート ルとなっています。2007年度(2008年3月分を除く)の 貨物取扱数量は発送約5万5千トン到着約4千トンとなっており、発送貨物は紙製品とパルプ、到着貨物はコーンスターチカットタイヤ等となっています」
 到着貨物の取扱量がかつてに比べて非常に小さくなっている理由をお尋ねすると、「化学薬品、石灰石等がかつての主な到着貨物でしたが、トラックの方が輸送費用が小 さいので切り換えました」とのこと。しかし発送貨物については「輸送量が大きく、また近年、生産量が比較的安定していますので、今後も定型大量輸送に有利 な鉄道の方が利便性は高く、またコスト面でも有利と考えています」と、鉄道貨物輸送にとって明るいお話もいただきました。
 同工場の専用線には、かつて車扱貨物を取り扱っていた高床ホームが現在も活用されており、「コンテナ貨車の車上荷役ができるので便利」だそうです。ただ し、専用線が竣工してから56年が経ち、老朽化していることから補修費がかさむこと、また大規模な更新が必要な時期になってきており、その費用の捻出に頭 を痛めているとのお話も。

※発送約5万5千トンという数字は、上述した複数の記事の数字と大きく乖離してお り矛盾する。年間で5.5万トンはやはり少なすぎるだろう。年間25万〜30万トンは鉄道コンテナ輸送で発送しているはずだ。
(『JR貨物ニュース』2008年4月15日号)

▼伯耆大山駅に発着する王子製紙兜ト子工場が荷主の鉄道貨物輸送
発 駅
発 荷主
品 目
着 駅
着 荷主
貨 車・コ ンテナ
備 考
伯耆大山
王子製紙
アート紙
宮城野

18D
1998.7.18宮城野駅で目撃、複数あり
伯耆大山
王子製紙

田端操
東京食品ターミナル
JRコンテナ
コキ3両が到着(『JR貨物ニュース』2001年9月1日号、1面)
伯耆大山
王子製紙

隅田川
IPC隅田川?
JRコンテナ
(『MONTHLY JRかもつ』2005年9月号、16頁)
伯耆大山
王子製紙

飯田町
株ム田町紙流通センター
ワム80000形
1973年10月時点では飯田町行き列車の設定無し([8]p18)
1993年3月時点では伯耆大山発飯田町着でワム車18両の設定
1994年12月改正でも変更無し[5]
伯耆大山
王子製紙

東京(タ)

JRコンテナ
(『MONTHLY JRかもつ』2005年9月号、16頁)
伯耆大山
王子製紙

新座(タ)
IPC新座
JRコンテナ
1999年6月に完成したIPC新座には、米子と呉からコンテナで
1日合わせて約60個が到着(『交通新聞』1999年10月5日付2面)
伯耆大山
王子製紙
アート紙
北長野

C35
1998.8.10米子駅で目撃
伯耆大山
王子製紙
高級白板 紙・
塗工紙

名古屋(タ)

JRコンテナ
1日にコンテナ20個輸送(『カーゴニュース』1999年5月23日 付)
区間数量月間2,650tのうち2,500tを鉄道輸送へシフト
『モー ダルシフト事例集』国土交通省 中国運輸局
伯耆大山
王子製紙
アート紙
新守山

18D
1998.8.10米子駅で目撃、複数あり
伯耆大山
王子製紙

福岡(タ)

JRコンテナ
1日にコンテナ5個輸送(『カーゴニュース』1999年5月23日付)
名古屋南貨物
王子コーンスターチ
コンス
伯耆大山
王子製紙兜ト子工場
18D
1998.8.10米子駅で目撃、多数あり
名古屋南貨物
王子コーンスターチ
スターチTBS
伯耆大山
王子製紙兜ト子工場
18D
2002.2.20名古屋南貨物駅で目撃、多数あり
南四日市
JSR且l日市工場
ラテックス
伯耆大山
王子製紙兜ト子工場
タキ7919
JOT所有
1998.8.8四日市駅で返空を目撃、
現在はタンクコンテナ化されたか?
安治川口
荒川化学工業
液体サイズ剤
伯耆大山
王子製紙兜ト子工場
タム8301
荒川化学所有
1997年3月に廃車(吉 岡心平氏webサイトより
丹後山田

チップ
伯耆大山
王子製紙兜ト子工場
チトラ2両
1970年10月からの定形貨物([13]p528)

1998.8 四日市駅 タキ7919は伯耆大山駅から南四日市駅への返空



5−7.王子製紙(株)呉工場  

▼呉工場の品種別生産量の推移(単位=トン)[3]

印 刷・情報用紙
包 装用紙
雑 種紙
合  計
1990 (平成02) 年
107,858
161,462
5,403
 274,723
1991 (平成03) 年
104,059
155,664
5,304
265,027
1992 (平成04) 年
119,137
146,683
4,690
270,510
1993 (平成05) 年
106,634
150,305
4,417
261,356
1994 (平成06) 年
103,267
152,999
4,348
260,614
1995 (平成07) 年
122,726
163,071
4,525
290,322
1996 (平成08) 年
102,465
175,092
3,908
281,465
1997 (平成09) 年
113,576
177,772
4,918
296,266
1998 (平成10) 年
116,251
168,496
3,973
288,720
1999 (平成11) 年
109,889
161,430
4,723
276,042

呉工場の工場地先海面埋立工事 [1]
 約80億円を投じ、臨海部にある呉工場の隣接海域を埋め立て、荷役ターミナルなどを建設する事業に着手し、1990年4月に起工式を行った。軟弱な地盤 を強固なものに改良しながらという手間のかかる工事となり、約3年の工期をかけて1993年3月に竣工した。
 埋立面積は、従来の同工場敷地面積の約5分の1にあたる5万平方mであり、その結果、工場敷地面積は約30万平方mとなった。それまでの同工場は、王子 製紙が擁する6工場の中で最も面積が小さく、紙パルプ一貫生産の工場としては手狭感が否めなかった。臨海工場としての優位性を発揮し更なる発展をするため にも敷地面積の拡張は不可欠のものであった。民間企業単独による埋立事業の例は少なかったが、地元産業浮揚の起爆剤にしたい呉市の後押しもあり実現したも のであった。
 完成した埋立地は、約2万9,700平方mをチップヤードに、約6,600平方mを排水処理設備に、また約1,400平方mを約2,000トン級の船舶 が接岸できる埠頭に、その他1万2,300平方mを道路や緑地、護岸敷地として活用することとした。
 それまでの同工場のターミナル設備は700トン級の船舶しか接岸できなかったため、海上輸送は同工場の出荷量全体の3割程度にとどまり、残りはトラック、鉄道コンテナといった陸運に依存していた。新たに 2,000トン級の船舶が接岸できる埠頭が完成したことにより、海上輸送比 率が約6〜7割に高まり、大量輸送・コスト引き下げの体制が整った。
 このほか1992年2月、1号マシンのオントップフォーマー化などの品質向上対策工事、1994年6月には2代目のクラリファイヤー設置工事が完了し た。

▼中質微塗工紙増産対策工事 [1]
 需要が大きく伸びつつあったチラシ、カタログ用途の中質微塗工紙の増産へ向けて、さらに総額74億円を投じて行っていた5号マシンの改造工事(4万 3,000トン/年増産)ならびにDIP設置工事(100トン/日)が、1996年3月に完了した。これら一連の工事と回収ボイラー更新工事の完成によっ て、1993年3月に竣工した工場地先海面埋立工事から続いた呉工場の一連の近代化工事は完了した。

▼王子製紙、呉工場の抄紙機1台を停止 (2004年11月29日付 『日経産業新聞』)
 王子製紙は呉工場(広島県呉市)で紙袋用紙を生産していた抄紙機1台を12月で停止させる。設備が老朽化したため。同マシンが生産していた品目を他のマ シンに移管することで工場全体の生産能力は落とさない。
 停止するのは3号抄紙機で、1955年からセメント袋などに用いられるクラフト紙を生産していた。生産能力は日産76トンと小規模。今後、3号機で生産 していたクラフト紙を同工場の1号抄紙機と4号抄紙機に移管させる。年間1億円程度のコスト削減効果を見込む。呉工場の年間生産量は約28万トン。


■呉工場の鉄道貨物輸送と物流について  

▼呉工場の専用線概要の推移
専 用線一覧表
所 管駅
専 用者
第 三者利用者
作 業方法
作 業キロ
総 延長キロ
備 考
1961(昭和36)年版

東洋パルプ(株)
日本通運(株)
国鉄機
A線0.5
B線1.5

広駅分岐より1,252メートル以遠は
大型貨車及び三軸車の入線禁止
1964(昭和39)年版
東洋パルプ(株)
日本通運(株)
国鉄機
A線0.5
B〃1.4


1967(昭和42)年版

東洋パルプ(株)
日本通運(株) 国鉄機
A線0.5
B〃1.4


1970(昭和45)年版

東洋パルプ(株)
日本通運(株) 国鉄機
A線0.5
B線1.4
0.4

1975(昭和50)年版

東洋パルプ(株)
日本通運(株) 国鉄機
1.4
0.4
米軍専用線と共用(1.2キロ)
1983(昭和58)年版

東洋パルプ(株)
日本通運(株)
国鉄機
1.4
0.4
米軍専用線と共用(1.2キロ)
 広駅に接続する東洋パルプ(株)の専用線は1959(昭和34)年4月に敷設された。[14]p308

▼広駅の1日平均貨物取扱量(t)
年  度
  発送
  到着
  合計
備考
1975(昭和50)年度
464
62
526

1976(昭和51)年度
465
69
534

1977(昭和52)年度
330
62
392

1978(昭和53)年度
296
61
357

1979(昭和54)年度
339
81
420

1980(昭和55)年度
175
76
251

1981(昭和56)年度
102
61
163

1982(昭和57)年度
116
56
172

1983(昭和58)年度
139
51
190

1984(昭和59)年度
58
57
115
1984年2月ダイヤ改正でヤード系輸送廃止
1985(昭和60)年度
139
54
193

1986(昭和61)年度
67
31
98
1986年11月ダイヤ改正で広駅はコンテナセンター化
1987(昭和62)年度




1988(昭和63)年度
103
26
129

1989(平成元)年度
129
30
159

1990(平成02)年度
117
44
161

1991(平成03)年度
121
53
174

1992(平成04)年度
121
47
168

1993(平成05)年度
106
46
152
1993年3月に呉工場の埠頭整備完成、海上輸送比率が高まる
1994(平成06)年度
91
46
137

1995(平成07)年度
89
43
132

1996(平成08)年度
94
42
136

1997(平成09)年度
118
47
165

1998(平成10)年度
103
47
150

1999(平成11)年度
94
42
136

2000(平成12)年度
106
40
146

2001(平成13)年度
83
34
117

2002(平成14)年度
75
31
106

2003(平成15)年度
70
33
103

2004(平成16)年度
64
31
95

2005(平成17)年度
68
30
98
2005年秋に名古屋・大阪向けをトラックから一部船舶輸送へ転換
2006(平成18)年度
60
30
90

2007(平成19)年度
54
29
83

 1974(昭和49)年度荷主別輸送量(広島鉄道管理局)によると、東洋パルプは149千トン(車扱)であった。[15]p127
 1990年代前半までは、発送量は1日当たり120tレベル(5tコンテナ換算で24個/日)あったのが、ここ数年で凋落が激しい。2007年度には1 日当たり54tなので、5tコンテナ換算で11個/弱の発送しかないことになる。広ORSの取扱量なので、当然王子製紙褐熏H場以外の荷主があってこの程 度の輸送量というのは非常に少ないと言わざるを得ない。下記の記事においては、鉄道輸送へのモーダルシフトをある程度推進しているかのような印象があった のだが、海運へのシフトが進み鉄道の輸送量が激減したのかもしれない。

王子製紙呉工場長代理 井上 徹・・鉄道と海運で関東向け9割  (1999年5月11日付『交通新聞』2面)
 王子製紙呉工場は、年間出荷量は約30万トン。輸送モード別のシェアは10年前の時点で、トラックが57%、海運と鉄道が合わせて43%。それが現在は トラックが51%に減少。逆に鉄道と海運は49%に増えた。特に関東向けでは、海運と鉄道の割合が9割を超 えている。海運と鉄道を使うメリットは何といっ てもコストだが、反対に欠点は輸送時間が長くかかること。鉄道コンテナにつ いては、列車の揺れによる荷痛みがまれにある点も改善が望ましい。

(社)鉄道貨物協会 広島支部主催 「モーダルシフト推進懇談会」開催  (『MONTHLY JRかもつ』2006年11月号)
*三枝弘和 王子製紙(株)呉工場 事務部調査役
@「鉄道貨物輸送を選択する上での輸送条件」
 工場からユーザーまでのトータルコストを勘案して、鉄道貨物及び東京方面では船輸送を実施しているけれども、そこでのコスト比較という意味では、どうし てもターミナル駅から最終ユーザーへの納入先までの距離が遠いところでは、やはりコスト的には不利となる場面が多くなり、この辺りの最終のコストの削減方 法があったらヒントを聞きたい。
A「鉄道貨物輸送を利用しての問題点・改善点」
 特に問題点、改善点はない。
B「今後、鉄道へのモーダルシフトを進めるに当たっての意見・展望」
 CO2削減を目的にモーダルシフトを推進。現状のモーダルシフト率はトン・キロで77%(うち鉄道11%)。今後もCO2削減に向けてモーダルシフト率 を向上させたい。
C「その他・意見・要望」
 モーダルシフトの推進というのは当社1社だけが声高々叫んでもなかなか進められるものではないと考えているので、荷主及び広い意味ではユーザーとも協力 体制を取りながら、是非とも進めたいと考えている。

*杉野彰 JR貨物執行役員営業部長
 王子製紙呉工場の意見に対し、トータルコスト削減の方策ということでは、例えば着駅から倉庫までの一次配送、さらには届け先への二次配送を縮減するため に鉄道倉庫、あるいは駅にある荷捌き上屋を活用して、トータルコストで下げるような方法、逆に最終ユーザーに向けての直送化という形でコストも削減できる のではないかと思う。メーカー、利用運送事業者、JR3者の連携した取り組みで改善提案もできるのではないかと思う。

大 阪港利用する海上輸送、補助利用相次ぐ──陸運からシフト (日 経ネット関西版 2005年8月18日) http://www.a-kantei.co.jp/v2- body/info/hl/hl278.html
 物流会社などが大阪港を利用し、輸送手段を環境負荷のより少ない方法に移す「モーダルシフト」の試みを相次いで始める。京都議定書の発効を受け、大阪市 は大阪港の海運を利用したモーダルシフトに最高1000万円を補助する支援事業を始めており、これを利用するのが特徴だ。
 王子製紙系の運輸会社、王子物流(東京・中央)は従来トラックを使っていた王 子 製紙呉工場(広島県呉市)から大阪・名古屋向けのクラフト紙などの輸送を、今秋にも一部船に転換する。具体的には呉から大阪まで船を使い、大阪―名古屋間はトラックを利用する。貨物量 は年5万4000トン程度を想定。市の補助金で近く呉港に船 積み用テントを設ける。「環境負荷を減らすことで、企業イメージを向上できる。船は時 間はかかるが、コストもある程度削減できる」(王子物流)と見る。
 名門大洋フェリー(大阪市)は子会社のフェリックス物流(同)を通じて、リサイクル燃料になる廃プラスチックの輸送を始める。三重県伊賀市から大分市ま での搬送のうち、大阪―北九州間をフェリー便で運ぶ。名門大洋フェリーは補助金で、近く配送用の専用荷台(20トン積み)を3台購入する。貨物量は年 4800トンを予定。「フェリーにはトラックの運転手は 乗らず、荷台だけ運ぶので、全経路をトラックで運ぶより安くつく」(営業統括部)という。
 大阪市は「大阪港の利用が増えるメリットも大きい」(港湾局)とみている。


5−8.王子製紙(株)富岡工場  

▼富岡工場の品種別生産量の推移(単位=トン)[3]

印 刷・情報用紙
衛 生用紙
雑 種紙
合  計
1993 (平成05) 年
461,109

90,130
  551,239
1994 (平成06) 年
474,997

94,965
569,962
1995 (平成07) 年
515,171

88,432
603,603
1996 (平成08) 年
539,448

90,105
629,553
1997 (平成09) 年
577,364

84,170
661,534
1998 (平成10) 年
552,779
2,262
36,216
591,257
1999 (平成11) 年
571,278
31,065
39,304
641,647

▼富岡工場の整備 [1]
 1993年10月の王子製紙と神埼製紙の合併によって、新王子製紙が発足した。それに伴い、春日井・米子・神崎・富岡の4工場における塗工紙生産体制の 効率化を実施した。
 購入DIPを使用している富岡工場のオフセット用中質コート紙については、DIPを自製し一貫生産メリットのある春日井工場へ生産集約することとし、ま た1995年10月には神埼工場のキャストコート紙の生産を原紙から一貫生産している富岡工場へ集約した。
 品質格差の是正、生産体制の効率化、能力増強などの近代化を図るため、1994年から1996年にかけて、富岡工場に対して約120億円を投資し整備を 行った。
 まず塗工紙の品質統合のため、カラー処方の変更を行うとともに、約28億円を投入して富岡工場10号コーターのダブル塗工化工事を1994年2月に完成 した。この設備増強により、10号コーターの生産能力は1,100トン/月に高まった。
 引き続いて、1996年1月には、約19億円を投入して9号マシン、9号コーターの増産・品質対策工事を実施し、これにより一連の改造工事は完了した。
 一方、パルプ生産効率化については、1995年7月、約60億円を投入して洗浄機やエバポレーターの増設工事に着手した。

 2000年12月、生産能力50トン/日のDIP設備新設。古紙利用拡大に対応。[1]

▼神崎物流センターの浦安物流基地が完成 [1]
 2000年1月、富岡工場製品の首都圏向け海上輸送の受入れ拠点である神崎物流センター(KBC)物流基地を千葉中央港から浦安市に移転した。千葉中央 港が行政側の再開発計画地区に含まれたことから移転を余儀なくされたものであった。
 KBCの移転は行政側の計画への対応に迫られてのものではあったが、新基地は従来に比べ立地上のメリットをもたらした。まず第一にバース(私有岸壁)と 倉庫を大型化したことにより、従来の富岡工場製品のほかに呉工場製品の受入 れも可能となった。さらには千葉市よりも首都圏に30kmほど近くなったことに より、首都圏向け製品輸送費の削減という効果に加えて、よりきめ細かくユーザーの要望に応えられるようになった。


5−9.王子製紙(株)日南工場  

日南工場の品種別生産量の推移(単位=トン)[3]

印 刷・情報用紙
雑 種紙
合  計
1980 (昭和55) 年
95,657
66,123
  161,780
1985 (昭和60) 年
76,291
95,440
171,731
1990 (平成02) 年
204,338
17,202
221,540
1991 (平成03) 年
191,029
16,888
207,917
1992 (平成04) 年
170,860
13,618
184,478
1993 (平成05) 年
164,071
14,885
178,956
1994 (平成06) 年
180,240
14,512
194,752
1995 (平成07) 年
195,613
14,737
210,350
1996 (平成08) 年
203,426
14,872
218,298
1997 (平成09) 年
221,722
16,835
238,557
1998 (平成10) 年
204,470
13,660
218,130
1999 (平成11) 年
217,113
14,085
231,198

▼日南工場の近代化 [1]
 日南工場は設備の老朽化が進んでいたため生産効率の向上を重点課題とし、まず原質工程の近代化を進めた。さらに第2次石油危機後とあって大型回収ボイ ラーの設置などエネルギー関連の設備改善にも力を入れた。
 そして1982年に策定された中長期計画では、オフセットマスター(軽印刷製版用紙)や静電記録紙、アルミ蒸着基紙などの特殊紙、感熱記録紙など情報用 紙の生産能力の拡大を計画。上質紙を主力としていた日南工場は以降、上質紙を主力にしながらも高付加価値品種の新製品開発拠点として成長していくこととな る。
 日南工場の長年のテーマである「オイルレス工場」を実現するため、1985(昭和60)年10月、1号回収ボイラーを新設した。既存の補助バークボイ ラーに古タイヤを燃料として活用するなどして、日本で初めてのオイルレス工 場を実現した。総工費59億円を投じた一連の新設備は、その後の王子製紙のボイラー大型化の原型となったのである。
 FAXやPOSシステムの普及に伴い、情報用紙分野の需要が急速に伸びていることに着目し、1982(昭和57)年10月、感熱記録紙専用の3号コー ターを設置した。その後、感熱記録紙の販売量は急増し、同工場の主力商品に育っていった。

▼日南工場の体質改善と高付加価値化 [1]
 写真印画紙用原紙(RC原紙)は、1980年代前半の5年間に平均年率18%という高成長を遂げ、中でもカラー印画紙は22%と高い成長率を示した。
 RC紙は、日本国内では富士写真フィルムと三菱製紙の2社がシェアを独占しており、世界でも6社しか製造していない寡占製品であった。王子製紙は、成長 著しいこの分野に参入する方針を固め、写真フィルムメーカーの小西六(現、コニカ)に購入の意思があることを打診したうえで開発に着手した。
 1985(昭和60)年、日南工場は総工費29億5,000万円で2号マシンを大改造し、1号マシン撤去跡にラミネーター設備を新設した。RC原紙は非 常に厳しい品質特性を満たす必要があったが、先行の各原紙メーカーとも製造技術は企業秘密としていたため、研究開発は王子製紙が独自に行った。全社一丸と なった開発努力の結果、1987年下期から営業生産に移行した。
 またOA機器がオフィスのみならず家庭にも急速に普及していたことから感熱記録紙の国内外の需要が急増していたため、感熱記録紙専用の新コーター増設を 決め、投資総額約55億円をかけて1989年10月に竣工した。4号コーターの増設により、日南工場の塗工製品の生産能力は2.5倍にアップした。

酸素晒設備の導入 [1]
 日南工場では1992年3月、漂白工程に酸素晒設備を導入、これにより塩素使用量を半減させることができた。その他の環境対策設備を含めて、今回の設備 投資額は約40億円であった。
 このほか、1990年9月、3号マシンの増速工事を行い、また12月には平判断裁設備の増設と平判断裁用中間巻取自動倉庫の新設を行った。

 1997年7月、小判断裁設備(現、1号)増強。PPC用紙の断裁能力9,000トン/月となる。[1]

1998年11月、油津港チップヤード完成 [1]
 外材チップの荷揚げは、大型船の場合工場から45km離れた鹿児島県志布志港に、小型船の場合5km離れた油津港で行われていた。この油津港東埠頭チッ プヤードの完成により、4万トンクラスの大型船が満船で入港できるようになり、チップ輸送のコスト低減につながった。

 1999年11月、生産能力200トン/日のDIP設備新設。古紙入り製品の拡大に対応。[1]


■日南工場の鉄道貨物輸送と物流について  
 日南工場の専用線は『1983年版 専用線一覧表』には存在せず、製紙工場としては比較的早期に専用線が廃止されてしまったということになる。
 一方、日南工場の生産量をみると、1980年の時点で約16万トン/年という規模で大きくない(むしろ小さいというべきか)。1999年でも増えてはい るが約23万トン/年であり、主力工場とは呼べない水準だ。そういった点では海運の発達によって鉄道貨物輸送の活躍できる余地が他の工場以上に限られてお り、早期に専用線廃止という結果に至ったと想像される。

▼日南工場の専用線概要の推移
専 用線一覧表
所 管駅
専 用者
第 三者利用者
作 業方法
作 業キロ
総 延長キロ
備 考
1951(昭和26)年版
吾田
日本パルプ工業(株)日南工場
日本通運(株)
国鉄機
日通動車
製品線0.6
石炭線0.3
原木線0.4


1953(昭和28)年版
日南
日本パルプ工業(株)日南工場
日本通運(株)
日通動車
国鉄機
製品線0.7
石炭線0.3
原木線0.4


1957(昭和32)年版
日南
日本パルプ工業(株)日南工場
日本通運(株)
私有機
製品線0.9
石炭線0.3
原木線0.4


1961(昭和36)年版
日南
日本パルプ工業(株)日南工場
日本通運(株)
私有機
製品線0.9
石炭線0.3
原木線0.4


1964(昭和39)年版 日南
日本パルプ工業(株)日南工場 日本通運(株)
日通機 製品線0.9
石炭線0.3
原木線0.4


1967(昭和42)年版
日南
日本パルプ工業(株)日南工場 日本通運(株) 日通機
製品線0.9
石炭線0.3
原木線0.4


1970(昭和45)年版
日南
日本パルプ工業(株)日南工場 日本通運(株) 日通機
製品線0.9
石炭線0.3
原木線0.4
2.3

1975(昭和50)年版
日南
日本パルプ工業(株)日南工場 日本通運(株)
日通機
製品線0.9
石炭線0.3
原木線0.4
2.3


日南工場の物流合理化 [1]
 日南工場の近くの油津港に大型船が就航可能な東埠頭が建設されたことを受けて、1999年12月にシャーシー126台積載のRORO船「南王丸」を就航 させた。同船は日南−大阪−東京を結んで往路で日南・神崎両工場製品を輸送し、復路では東京・大阪から古紙を積んで戻るという三角航路をとっている。これ は日南工場にDIP製造設備が新設されたことによるもので、製品を運び原料を積んで戻るという合理的な物流体制ができあがった。


<王子製紙グループ>

5−10.王子板紙(株)名寄工場  


王子板紙竃シ寄工場について
概 要
名寄工場は、包装および輸送合理化のために段ボールの果たす役割の将来 性に着目し、
広葉樹パルプを主原料とする中芯の専抄工場として、1960年種々の立地条件に恵まれた
北海道名寄市に建設された。
所 在地
北海道名寄市字徳田20-6
年 間板紙生産量 約22万トン
従 業員数
103名

■王子板紙竃シ寄工場の鉄道貨物輸送と物流について  

 同工場の鉄道貨物輸送については、1998年12月に長町駅で発 荷主が不詳ながら、名寄→水戸で「原紙」の輸送を19Dコンテナで複数あったのを目撃しており、これは同工場からのコンテナ輸送 と考えられる。名寄駅にとって貴重な荷主の1つであろうし、古くは専用線を介してチップ、重油、薬品類の到着もあったようであるし、鉄道貨物輸送との付き 合いは長いものと思われる。

▼王子板紙(株)名寄工場の専用線概要の推移
専 用線一覧表
所 管駅
専 用者
第 三者利用者
作 業方法
作 業キロ
総 延長キロ
備 考
1961(昭和36)年版
名寄
天塩川製紙(株)
日本通運(株)
国鉄機
私有機
木材線0.8
石炭線0.4
製品線0.4


1964(昭和39)年版 名寄
天塩川製紙(株)
日本通運(株)
国鉄機
私有機
木材線0.8
石炭線0.4
製品線0.4


1967(昭和42)年版
名寄
天塩川製紙(株)
日本通運(株) 国鉄機
私有機
A線0.4(連絡)
B線0.3(木材)
C線0.5(入)
D線0.3(チップ)
E線0.1(動力車庫)
F線0.3(薬品)
G線0.1(重油)
H線0.4(製品)


1970(昭和45)年版
名寄
天塩川製紙(株)
日本通運(株) 国鉄機
私有機
A線0.4(連絡)
B線0.3(木材)
C線0.5(差入)
D線0.3(チップ)
E線0.1(動力車庫)
F線0.3(薬品)
G線0.1(重油)
H線0.4(製品)
3.5

1975(昭和50)年版
名寄
天塩川製紙(株)
日本通運(株)
国鉄機
私有機
A線0.4(連絡)
B線0.3(木材)
C線0.5(差入)
D線0.3(チップ)
E線0.1(動力車庫)
F線0.3(薬品)
G線0.1(重油)
H線0.4(製品)
3.5

1983(昭和58)年版
名寄
北陽製紙(株)
日本通運(株)
国鉄機
私有機
A線0.4(連絡)
B線0.3(木材)
C線0.5(差入)
D線0.3(チップ)
E線0.1(動力車庫)
F線0.3(薬品)
G線0.1(重油)
H線0.3(製品)
8.2




5−11.王子板紙(株)佐賀工場  

佐賀工場の品種別生産量の推移(単位=トン)[3]

板紙(合計)
1996 (平成08)年
326,912
1997 (平成09)年
329,185
1998 (平成10)年
314,739
1999 (平成11)年
316,972

▼王子板紙(株)佐賀工場の専用線概要の推移
専 用線一覧表
所 管駅
専 用者
第 三者利用者
作 業方法
作 業キロ
総 延長キロ
備 考
1953(昭和28)年版
久保田
佐賀板紙(株)
日本通運(株)
手押
0.3


1957(昭和32)年版
久保田
佐賀板紙(株)
日本通運(株)
私有機
手押
0.3


1961(昭和36)年版
久保田
佐賀板紙(株)
日本通運(株)
私有機
手押
0.4

車扱貨物と共載する発送
小口扱貨物も取扱う
1964(昭和39)年版 久保田
佐賀板紙(株)
日本通運(株)
日通機
手押
0.4

車扱貨物と共載する発送
小口扱貨物も取扱う
1967(昭和42)年版
久保田
佐賀板紙(株)
日本通運(株) 日通機
手押
0.4


1970(昭和45)年版
久保田
佐賀板紙(株)
日本通運(株) 日通機
手押
0.4
0.7

1975(昭和50)年版
久保田
佐賀板紙(株)
日本通運(株)
日通機
手押
0.4
0.7

1983(昭和58)年版
久保田
佐賀板紙(株)
日本通運(株)
日通機
手押
0.4
0.7




5−12.王子特殊紙(株)江別工場  

江別工場の品種別生産量の推移(単位=トン)[3]

印 刷・情報用紙
包 装用紙
雑 種紙
合  計
1975 (昭和50) 年
61,538
43,622
4,053
 109,213
1980 (昭和55) 年
85,857
39,725
8,757
134,339
1985 (昭和60) 年
74,740
36,360
26,027
137,127
1990 (平成02) 年
130,338
15,450
33,602
179,390
1991 (平成03) 年
133,239
7,031
38,775
179,045
1992 (平成04) 年
114,981
5,501
32,465
152,947
1993 (平成05) 年
97,695
5,261
33,031
135,987
1994 (平成06) 年
98,853
5,054
40,765
144,672
1995 (平成07) 年
134,202
4,953
36,024
175,179
1996 (平成08) 年
143,262
4,248
33,982
181,492
1997 (平成09) 年
146,032
4,660
44,217
194,909
1998 (平成10) 年
146,958
3,906
39,156
190,020
1999 (平成11) 年
144,755
3,341
45,432
193,528

▼江別工場の近代化 [1]
 江別工場では、北日本製紙株式会社時代以来の老朽化した設備の近代化が最重要課題となっていた。このため王子製紙は、原質から抄造、動力、用排水、それ に環境設備に至るまで、総額470億円を投入して同工場の大近代化工事を行うことを決定したが、第1次オイルショックによるインフレ、紙市況の低迷などの 経営環境の悪化から、工事の中断を余儀なくされた。
 その後、苫小牧工場のKP購入量が増大するにつれて、江別工場はKPの供給基地としての役割が大きくなっていった。そこで、改めて江別工場の原質設備の 拡充・近代化を先行実施することとして、1977年4月、連続蒸解釜と多段式置換漂白設備を柱とする近代化工事に着手し、翌年6月にこれを完成させた。付 帯設備を含め、建設には総額100億円を要した。

江別工場の第2次近代化 [1]
 江別工場の第1次近代化工事完成後、主力製品である上質紙が不況カルテルに組まれるなど厳しい状況が続いていた。そのため、積層板原紙、PPC用紙、連 続伝票用紙の高付加価値製品を3本柱に位置づけ、設備の改造・新設を進めた。
 まず、1979(昭和54)年4月積層板原紙の生産体制強化を目的する4号マシンの改造を行った。積層板原紙は、家電製品などに使われるプリント基板用 の原紙である。1986年2月には3号マシンも積層板原紙専抄マシンに改造して生産量は急拡大し、原紙市場を先発の山陽国策パルプと二分するに至った。
 またPPC用紙については、1980年にゼロックス用紙の生産を開始した。1981年2月には小型裁断設備が稼動し、1984年下期には1,500トン /月とフル稼働となった。
 1980年6月、1号マシンの増産と苫小牧工場からのパルプ増量要請に応えるため、生産能力を700トン/日に増強した。しかしその後、苫小牧工場が KPの自製化を決定したことによって、同工場向けN半晒クラフトパルプの生産は不要となった。これに伴い、江別工場のエネルギーコストは約1.9倍に上昇 すると試算されたため、一連の第2次近代化工事を実施し、コスト低減を図ることとなった。
 まず、1985年11月に、流動層ボイラーと復水タービンを新設した。この流動層ボイラーは、重油より安価な選炭スラッジや輸入炭で運転できるため、大 幅なコスト低減効果がある。
 12月には、スンズバル製酸素晒設備の運転を開始した。この設備により漂 白用の塩素系薬品を減らすことが可能となった。

▼江別工場の収益対策工事 [1]
 苫小牧工場のKP製造設備完成まで、江別工場は1トンでも多く苫小牧工場に供給しようと、KP(半晒NKP)の増産に努めてきた。しかし、1985年 11月に苫小牧工場でKP製造設備が操業を開始、同工場へのKP供給がストップして以後、その収益力は大きく低下した。これをカバーするため、設備近代化 によるコストダウン、情報関連用紙、特殊紙など高付加価値製品の強化、物流の見直しなどさまざまな対策を立て向こう3年間で収支均衡を達成することを目標 に掲げた。
 コストダウン対策の1つとして、1990年3月に新設したC/D晒塔であった。C/D段を置換晒装置の前に出し、温水洗浄したのち、置換装置内で苛性 ソーダ処理をすることとした。これにより薬品原単位は向上し、パルプ生産量も500トン/日から580トン/日に増加した。
 高付加価値製品の増強対策としては、1989年11月、王子製紙としては初めての本格的な特殊紙マシンといえる新2号マシンの建設に着手し、翌年5月に 竣工した。同マシンでは、まずセパレート原紙の開発を進め、江別工場の柱の1つである特殊紙分野に新たな製品を加えた。その後さらに、磁気記録紙、カラー 封筒用紙など各種の特殊紙を商品化し、収益力の向上に貢献した。

▼特殊紙の新たな市場を目指す江別工場 [1]
 江別工場では、付加価値の高い特殊紙のウェイトをさらに高めるため、1991年4月から休転していた5号マシンの改造を行い、特殊紙マシンとして 1997年5月に再稼動した。
 1993年6月には、非木材パルプを蒸煮する1号地球釜(1.1トン/日)を設置し、エクアドル産の麻を使用した麻パルプの自製を開始、同年5月には コーヒーフィルターや孔版用原紙などの生産を始めた。その後、1997年6月に2号(2.9トン/日)を設置し、品種の多様化と需要の拡大に対応した。
 こうして特殊紙比率は生産量ベースで1989年度の19.3%から1997年度には30.6%に向上した。

▼王子製紙江別工場、石狩新港で荷揚げへ チップを06年から 貨物量1割以上増  (2004年7月1日付『北海道新聞』)
http: //www.hokkaido-np.co.jp/Php/backnumber.php3?&d=20040701&j=0024&k=200407017529
 【石狩湾新港、江別】王子製紙江別工場は30日までに、原料のチップ全量の荷揚げ、保管業務を石狩湾新港西地区(小樽市)に建設中の水深14メートル岸 壁と後背のチップヤードで2006年秋から行う方針を固め、道と石狩湾新港管理組合に伝えた。
 現在は苫小牧港から陸送しているが、これにより新港の年間取扱貨物量は1割以上増える見込み。苫小牧への貨物一極集中が進む中、大量の荷揚げが日本海側 に移るのは異例だ。
 新岸壁は5万トン級の大型貨物船が運ぶチップや木材、石炭などの荷揚げを想定し、06年春の供用開始を目指している。チップヤードは岸壁の後背地約7万 平方メートルで、同組合が約25億円かけてベルトコンベヤーなどを整備し、同工場が使用料を払って専用ヤードとする。
 同工場が使うチップは年間約35万トンに上り、苫小牧港に輸入されるチップ全体の約8%を占めていた。新港のヤードは苫小牧の約2倍の広さがあり、在庫 量も1.2倍の6万トンに増える。また輸送距離が現在より30キロ以上近くなるため、荷揚げ、輸送の経費、時間とも大幅に圧縮できるという。
 一方、石狩湾新港の03年の取扱貨物量は約336万トンにとどまっていたことから、同組合は「大手の王子製紙進出により、新港全体の活用に弾みがつく」 と歓迎している。

▼「紙から作る糸」増産 王子ファイバー 来年度、05年度の2.5倍に  (2006年4月4日付『北海道新聞』)
http://www.hokkaido -np.co.jp/Php/backnumber.php3?&d=20060404&j=0024&k=200604046965
 王子ファイバー(東京)は3日、マニラ麻を原料とする紙から作る糸「OJO+」(オージョ)の生産量を、2007年度に05年度実績の約2.5倍、年 200トンに拡大することを明らかにした。原紙製造を全量担っている王子特殊紙江別工場も増産体制をとる。
 オージョは南米産マニラ麻の繊維ですいた紙を幅1ミリ以下の短冊に裁断し、よりをかけた糸。けば立ちがないうえ、軽く吸湿性に富む。マニラ麻は成長が早 く、環境保全面でも優れているという。
 02年の生産開始後、オンワード樫山やレナウンなどが、ジャケットやドレスをはじめとする高級衣料素材として採用、仏ブランド「ランバン」など欧州のア パレルやインテリアメーカーの需要も伸びている。計画では、06年度に前年度比約25%増の100トンを生産、07年度はこれをさらに倍増する。数年後に は年産500トンを目指す。
 王子特殊紙江別工場には日産2トンの製造能力があるため当面、新たな設備投資はしないという。


■江別工場の鉄道貨物輸送と物流について   

▼王子特殊紙(株)江別工場の専用線概要の推移
専 用線一覧表
所 管駅
専 用者
第 三者利用者
作 業方法
作 業キロ
総 延長キロ
備 考
1923(大正12)年版
江別
富士製紙(株)

省機関車
社機関車
手押
機関車1
貨車2


1930(昭和5)年版
江別
富士製紙会社

社機関車
A線0.3
B線1.5
C線1.6
D線1.5
E線2.1
F線1.8
G線2.1
H線2.4

B線以下ノ作業キロハ各之ニ
A線ノキロ程ヲ加フベキモノトス
1951(昭和26)年版
江別
北日本製紙(株)
日本発送電(株)
北日本製紙産業(株)
日本通運(株)
国鉄機
相手方機
発=2.4
A=2.0
B=3.0


1953(昭和28)年版
江別
北海道電力(株)
北日本製紙(株)
日本通運(株)
北日本製紙産業(株)
国鉄機
相手方機
発2.4
A2.0
B3.0


1957(昭和32)年版 江別
北日本製紙(株)
北日本製紙産業(株)
私有機
3.0


1961(昭和36)年版
江別
北日本製紙(株)
日本通運(株)
(授受線のみ)
私有機
3.0


1964(昭和39)年版 江別
北日本製紙(株)
日本通運(株)
(授受線のみ)
私有機
3.0


1967(昭和42)年版
江別
北日本製紙(株)
日本通運(株)
(私有タンク車返送扱のみ)
大協石油(株)
私有機
3.0

専用鉄道
1970(昭和45)年版
江別
北日本製紙(株)
日本通運(株) 私有機
1.0
1.0
専用鉄道
1975(昭和50)年版
江別
王子製紙(株)
日本通運(株)
大協石油(株)
小原加工(株)
私有機
1.0
1.0
専用鉄道
日本通運及び大協石油は
発送タンク車に限る
1983(昭和58)年版
江別
王子製紙(株)
日本通運(株)
大協石油(株)
小原化工(株)
私有機
1.0
1.0
専用鉄道
日本通運及び大協石油は
発送タンク車に限る

▼運輸省鉄道局監修『民鉄要覧 昭和53年度版』より
動力
軌間(米)
区  間
km
免許
年 月 日
運輸開始
年 月 日
連絡駅
運転管理者
敷設目的
目的外使用
内燃
1,067
函館本線
江別駅、工場
0.9
明40.1.12
明42.4.9
江別
丸彦渡辺建設
製紙原木丸太及燃料の運搬
小原化工(株)の濃硫酸、
水酸化アルミ

 1973(昭和48)年9月現在では、株ム田町紙流通センター向けにワム車で紙輸送を行っていた。([8]p18)
 1986(昭和61)年5月6日、江別工場の専用鉄道が廃止された。[1]


5−13.王子特殊紙(株)中津工場  

▼中津工場の品種別生産量の推移(単位=トン)[3]

印 刷・情報用紙
包 装用紙
雑 種紙
合 計
1996 (平成08) 年
3,634
2,139
29,498
 35,271
1997 (平成09) 年
3,287
2,088
31,660
 37,035
1998 (平成10) 年
3,166
2,224
24,362
 29,752
1999 (平成11) 年
3,051
1,893
27,711
 32,655

▼中津工場の設立と体質改善 [2]
 地元素封家が渋沢栄一王子製紙社長に製紙工場の建設を懇請したのが始まりで、一旦挫折したが、1902年に中央線名古屋・中津川間の開通により再燃し、 ようやく1908年に中央製紙として操業を開始した。抄物はロール紙、新聞用紙であった。1926年、中央製紙は樺太工業に吸収合併され、さらに1933 年、3社合併により王子製紙の工場となった。
 戦後は、SP木釜の一部再開を皮切りに、2、4号マシンの整備補修、砕木機へのアランダムストーン採用などにより生産能力をあげ、戦前の最高水準の生産 高を回復した。なお、1948年、国鉄中津川駅との間に宿願であった専用側 線が完成した。
 1960年10月に3号マシン(ロール紙)を停止し、翌1961年には競争力のなくなった新聞用紙を大幅に減産して中質紙の増産を行った。同年1月には 30トン晒設備を新設して1、2号マシン(中質紙・新聞用紙併抄)を中質紙専抄とし、4号マシン(新聞用紙主体、現、1号マシン)も特殊紙マシンに改造す ることになり、同年12月に新聞用紙の生産を全面的に停止した。
 中津工場のSP・GP設備もそれぞれ1962年9月、1968年11月までに全面停止し、購入パルプに切り替わった。
 中津工場は近代的な製紙工場としては敷地が狭く、設備も旧式で小型であったため、さらに抜本的な体質改善が必要とされた。それは付加価値の高い紙の少量 生産とその加工を指向するというものであった。まず、4号マシンの特殊紙転換工事を1962年7月に完成させ、抄物は淀川工場から移抄した白グラシンで あったが、1964年7月から教科書用紙、電話帳本文などの中質紙を併抄した。またコンデンサ紙の需要が急増したので、中津を重点工場として、コンデンサ 紙用マシンを1968年から1970年にかけて相次いで増設した。こうして、グラシン用マシン1台、コンデンサ紙用マシン3台、電解コンデンサ紙用マシン 1台の態勢になり、1959年以来の長期合理化対策を完了し、電気材料用の特殊紙工場に転換を果たした。

 2000年2月、アラミド紙専抄マシンを新設。電気材料用原紙の営業運転に入る。[1]

▼王子特殊紙(株)中津工場の専用線概要の推移
専 用線一覧表
所 管駅
専 用者
第 三者利用者
作 業方法
作 業キロ
総 延長キロ
備 考
1923(大正12)年版
中津川
中央製紙(株)

省機関車
手押
1


1930(昭和5)年版
中津川
樺太工業会社

樺太工業会社

省機関車
手押
手押
0.3

0.1

南側線

北側線
1951(昭和26)年版
中津川
本州製紙(株)
日本通運(株)
国鉄機
3.7

経常費徴収
1953(昭和28)年版
中津川
本州製紙(株)
日本通運(株)
国鉄機
3.7

経常費徴収
1957(昭和32)年版 中津川
本州製紙(株)
日本通運(株)
国鉄機
上土場3.7
下土場1.6

小口扱貨物も取り扱う
(発送に限る。)
1961(昭和36)年版
中津川
本州製紙(株)
日本通運(株)

国鉄機
3.7

小口扱貨物も取り扱う
(発送に限る。)
1964(昭和39)年版 中津川
本州製紙(株)
日本通運(株)
国鉄機
3.7

小口扱貨物も取り扱う
(発送に限る)
1967(昭和42)年版
中津川
本州製紙(株)
日本通運(株)
国鉄機
3.7

1970(昭和45)年版
中津川
本州製紙(株)
日本通運(株) 国鉄機
3.7
4.1
使用休止



5−14.王子特殊紙(株)東海 工場 岩渕製造所  

岩渕工場の品種別生産量の推移(単位=トン)[3]

印 刷・情報用紙
包 装用紙
雑 種紙
合 計
1996 (平成08) 年
37,273
446
3,604
 41,323
1997 (平成09) 年
35,264
57
7,250
 42,571
1998 (平成10) 年
32,155
31
6,662
 38,848
1999 (平成11) 年
34,335
72
5,693
 40,100

▼岩渕工場の設立 [2]
 1919(大正8)年、ライスペーパーの抄造を目的に、東洋加工紙として操業を開始した。しかし経営不振から、創業8ヶ月で親会社の東洋製紙に吸収合併 された。1925(大正14)年、東洋製紙は王子製紙に合併されたが、長期休転を余儀なくされた。
 1934(昭和9)年のライスペーパーなどの製造再開によって同工場は復活し、輸出用のライスペーパーは上海のイギリス系煙草会社に全量輸出され、「岩 渕ライス」 の名を高めた。戦後はライスペーパーのほか、インディアペーパー、タイプライター用紙がともに好調であった。

熊野事業所を閉鎖し岩渕工場に移転・統合 [1]
 熊野事業所は1912(明治45)年3月、紀熊製紙所として創立され、1961(昭和36)年にはコンデンサペーパー生産工場へと転換を図り、経営改善 を進めた。王 子製紙と本州製紙の合併後、薄葉紙事業は熊野事業所の1号および3号マシンでコンデンサペーパーを、岩渕工場の2号マシンでライスペーパーを生産する体制 をとった。しかしコンデンサフィルムへの代替が進み、コンデンサペーパーの需要が減退したことから、同事業所の業績は悪化していた。
 抜本的改善へ向けて検討を重ねた結果、同事業所単独の立て直しは困難と判断し、主力製品であるコンデンサペーパーを岩渕工場2号マシンに移抄し、熊野事 業所は2000(平成12)年12月に閉鎖することとした。

 1999(平成11)年6月、N-3コーターを設置。磁気製品の生産増強。[1]

▼王子特殊紙 年産能力6万トン削減 抄紙機5台停止 富士に新型機  (2007年1月18日付『日経産業新聞』15面)
 【静岡】王子特殊紙(東京・中央、金丸吉博社長)は17日、静岡県内の生産拠点の再編を発表した。県内6事業所にある計14台の抄紙機のうち5台を停止 する一方で、富士事業所(富士市)に35億円をかけて新抄紙機を導入する。需要減に対応して全体の年産能力を6万トンを削減し、生産効率を高める。
 抄紙機の生産停止は2007年7月から始め、白板紙を生産する第一事業所(富士市)の2台と、特殊紙を生産する静岡事業所の3台が対象。5台の生産能力 を合わせると年間7万トン。これに伴い静岡事業所(静岡市)は08年8月に閉鎖する。
 一方、富士事業所に年1万トンの生産能力を持つ、特殊紙用丸網多層抄紙機を導入、08年2月に稼働させる。一連の再編で年間16億円のコスト削減を見込 んでいる。
 集約に伴い166人の余剰人員が見込まれるが、団塊の世代の定年退職も100人規模で発生するため雇用は維持する。静岡県内の工場は旧本州製紙など3社 の生産拠点で、設備も老朽化していた。

▼塗工設備 特種製紙に譲渡 王子特殊紙 提携後の協力第一弾  (2008年1月11日付『日経産業新聞』13面)
 王子製紙子会社の王子特殊紙(東京・中央)は10日、特種東海ホールディングス傘下の特種製紙に塗工設備を譲渡し、10月から特殊紙の一部を特種から OEM(相手先ブランドによる生産)調達すると発表した。昨年資本提携した王子と特種東海の協力の第一弾で、合計で年2億円程度のコストを削減する見込 み。
 王子特殊紙は8月に東海工場静岡製造所(静岡市)を閉鎖し、書籍の表紙や包装用途で使う微塗工ファンシーペーパーで顔料を塗る「N1コ―タ−」を東海工 場岩渕製造所(静岡県富士川町)に移設する予定だった。これを変更し、この製品については特種製紙の三島工場(静岡県長泉町)に塗工作業以降を委託、 OEM調達とする。関連した開発、品質管理の担当者も派遣する方針だ。
 特種の三島工場では現在の小型機3台から大型機1台での塗工に切り替え、効率を上げる。

▼王子特殊紙(株)東海工場 岩渕製造所の専用線概要の推移
専 用線一覧表
所 管駅
専 用者
第 三者利用者
作 業方法
作 業キロ
総 延長キロ
備 考
1923(大正12)年版
岩淵
東洋製紙(株)

手押
1


1930(昭和5)年版
岩淵
王子製紙会社
岩淵合同運送会社
手押
0.1


1951(昭和26)年版
岩淵
本州製紙(株)
日本通運(株)
手押
0.1


1953(昭和28)年版
岩淵
本州製紙(株)
日本通運(株)
手押
国鉄動車
0.1


1957(昭和32)年版 岩淵
本州製紙(株)
日本通運(株)
手押
国鉄動車
0.1


1961(昭和36)年版
岩淵
本州製紙(株)
日本通運(株)

手押
国鉄動車
0.1

パワム入線禁止
1964(昭和39)年版 岩淵
本州製紙(株)
日本通運(株)
手押
国鉄動車
0.1

パワム入線禁止
1967(昭和42)年版
岩淵
本州製紙(株)
日本通運(株)
手押
国鉄動車
0.1

パワム入線禁止
1970(昭和45)年版
富士川
本州製紙(株)
日本通運(株) 国鉄機
手押
0.1

パワム入線禁止
1975(昭和50)年版
富士川
本州製紙(株)
日本通運(株)
国鉄機
手押
0.1
0.1

1983(昭和58)年版
富士川
本州製紙(株)
日本通運(株)
国鉄機
手押
0.1
0.1


2010.5 富士川駅 左奥に専用線の貨物ホームが残っている


5−15.王子コーンスターチ (株) [1]  

 1963(昭和38)年6月、王子製紙は三井物産と共同で王子コーンスターチ株式会社を設立した。トウモロコシを原料とするコーンスターチは、芋澱粉よ りも品質が安定していて、食品加工はもちろん、製紙、段ボール、繊維など幅広い分野で使われ、将来の需要増が期待されていた。同社は資本金3億円で発足、 王子製紙はその60%を出資した。
 1964(昭和39)年7月には千葉県市原市に原料処理量140トン/日の千葉工場を完成、12月には高付加価値製品として製紙用の酸化澱粉の製造を開 始、「王子エース」の商品名で王子製紙をはじめ広く製紙メーカー各社に販売し、高い評価を得た。その後、1971(昭和46)年6月に原料処理量400ト ン/日の名古屋工場が完成、1976(昭和51)年8月には同工場に酸化澱粉の製造設備を設置し、王子製紙春日井工場へローリー車によるスラリー輸送を開 始した。
 当初は工業用澱粉単独の生産体制をとっていたが、1981年になって新たに砂糖の代替甘味料として急成長していた異性化糖を柱とする糖化事業への進出を 決めた。この異性化糖は砂糖と同等の甘さがあり、液状で取り扱いが容易であること、砂糖より価格が安いことから、清涼飲料水などの分野でさらなる需要拡大 が期待されていた。
 その後、日本コカコーラの認証を取得し、1982年、千葉工場に異性化糖製造設備を新設して糖化事業へ本格参入した。これが軌道に乗り、現在では、ビー ル用を含む食品向けコーンスターチ、食品用加工澱粉、異性化糖・ブドウ糖・水飴などの糖化製品を一貫生産しており、特に水飴の一種である糖化スターチは近 年発泡酒の副原料として使用されるなど、食品分野での用途が拡大している。また1988年9月30日には、北海道内唯一の異性化糖工場(北海農産工業)を 買収し北海道工場(砂川市)とした。同工場は道内馬鈴薯澱粉を原料とし、現在北海道における異性化糖需要の70%以上を賄っている。
 現在の売上高別の製品構成は、化工澱粉30%、糖化製品29%、コーンスターチ29%、新製品他12%となっている。

■王子コーンスターチ鰍フ鉄道 貨物輸送  

▼千葉工場の概要 (同社webサイトより)
 千葉工場は1964(昭和39)年、全国有数の工業地帯、京葉地区に建設された当社発祥の工場で、首都圏に隣接した立地条件の良さと、内外技術の粋を集 めた設備によって、さまざまなニーズに対応した生産体制を整えています。ここではコーンスターチ、化工澱粉に重点を置いた生産を行ってきましたが、 1982(昭和57)年6月にコンピューターによる徹底した生産管理システムを備えた異性化糖工場が完成してからは、食品用途への生産が増大しました。現 在では、原料とうもろこし処理量で日産500t、澱粉糖化設備で日産300tの生産力を有し、全量非遺伝子組換えとうもろこしを原料として使用して、ビー ル用を含む食品向けコーンスターチ、食品用加工澱粉、高果糖液糖・異性化糖・ぶどう糖・水飴などの糖化製品を一貫生産しています。更に1998(平成 10)年には工場に隣接して食品用加工澱粉のリパックセンターを建設し、食品用途のきめ細かいニーズに対応しています。当社発祥の千葉工場は、新しい時代 に対応できる工場として今後更に発展を続けていきます。

▼王子コーンスターチ(株)千葉工場の専用線概要の推移
専 用線一覧表
所 管駅
専 用者
第 三者利用者
作 業方法
作 業キロ
備 考
1967(昭和42)年版
京葉市原
王子コーンスターチ(株)
千葉工場
千葉荷役(株) 社機
0.3

1970(昭和45)年版
京葉市原
王子コーンスターチ(株)
千葉工場
千葉荷役(株) 社機
0.3

1975(昭和50)年版
京葉市原
王子コーンスターチ(株)
千葉工場
千葉荷役(株)
社機
0.3

1983(昭和58)年版
京葉市原
王子コーンスターチ(株)
千葉工場
千葉荷役(株)
社機
0.3

 専用線は、1985(昭和60)年6月に廃止された。([9]p109)

発 駅
発 荷主
品 目
主 なる着駅
着 荷主
貨 車
備 考
京葉市原
王子コーンスターチ
ハイガ、ヌカ、コーンスターチ
村崎野
日本飼料ターミナル梶H
ホキ2200形?
([10]p194、p196)
 主なる着駅≠ニのことなので、村崎野以外にも輸送先はあったのかもしれないが、予想外に輸送先が少ない印象だ。名古屋工場のような王子製紙褐けやそ の他の製紙メーカー向けの鉄道貨物輸送は無かったのであろうか?

▼名古屋工場の概要 (同社webサイトより)
 名古屋工場は1970(昭和45)年、愛知県知多市にある三井物産名南コンビナートの一角に建設されました。ここでは製品の一部を隣接するぶどう糖工場 にスラリー(乳液)の状態で供給するとともに、工場内のパワープラントで発生させた蒸気と電力を他社に供給するなど、コンビナートの要としての機能を発揮 しています。原料とうもろこし処理量で日産1,000tの生産力を有し、大規模工場として中央制御方式による徹底した管理のもと、澱粉の生産が効率的に進 められています。特に工場が建設されてから間もなく酸化澱粉製造設備が完成したのに続き、カチオン澱粉製造設備、段ボール用プレミックス糊剤製造設備、更 にはリン酸エステル澱粉製造設備など工業用化工澱粉の生産体制を充実させ、製紙・段ボールをはじめとする工業用のユーザーの期待に応え続けています。

▼王子コーンスターチ(株)名古屋工場の専用線概要の推移
専 用線一覧表
所 管駅
専 用者
第 三者利用者
作 業方法
作 業キロ
備 考
1975(昭和50)年版
知多
三井物産(株)
王子コーンスターチ(株)
日本資糧工業(株)
(株)知多共同輸送センター
日本配合飼料(株)
名古屋臨海通運(株)
社機
1.2

1983(昭和58)年版
知多
三井物産(株)
王子コーンスターチ(株)
日本資糧工業(株)
(株)知多共同輸送センター
日本配合飼料(株)
名古屋臨海通運(株)
社機
1.2

 1971(昭和46)年度に南港駅(現、名古屋南貨物駅)で王子コーンスターチ鰍フ貨物取扱いが始まった。([11]p89)
 1973(昭和48)年度に知多駅に三井物産鰍ェ専用線を設け、王子コーンスターチ鰍フ輸送が始まった。([11]p89)
 1998(平成10)年10月に名古屋南港駅は「名古屋南貨物駅」に改称された。それに合わせて荷役設備の増強などが行われた。そして貨物保管施設を整 備し、王子コーンスターチ鰍フ貨物保管、コンテナ輸送が増えた。(『運 輸タイムズ』1998年9月28日付、鈴木 康弘氏の運営するwebサイト「日本の鉄道貨物輸送」を参照させて戴きました)
 米子工場の「伯耆大山駅に発着する王子製紙兜ト子工場が荷主の鉄道貨物輸送」で記述したように、名古屋南貨物→伯耆大山間で製紙原料のコーンスターチ輸送が行われている。圧倒 的に発送貨物が多い製紙工場において、着貨物の確保は輸送力の活用という観点からも重要であり、王子コーンスターチ鰍フ輸送はそういった意味からも意義深 いと思われる。


6.参考文献  
[1]『王子製紙社史 本編』王子製紙株式会社、2001年
[2]『王子製紙社史 合併会社編』王子製紙株式会社、2001年
[3]『王子製紙社史 資料編』王子製紙株式会社、2001年
[4]『貨物鉄道百三十年史(中巻)』日本貨物鉄道株式会社、2007年
[5]「紙輸送℃ヤ扱列車のコンテナ置換え」『鉄道ジャーナル』第29巻第3号、通巻341号、1995年、95頁
[6]『本州製紙社史−48年の軌跡−』王子製紙株式会社、1999年
[7]野尻 亘『日本の物流−産業構造転換と物流空間−』古今書院、1997年
[8]中津川 亨「物資別共同基地について」『鉄道ピクトリアル』第23巻第12号、通巻第287号、1973年
[9]『35年のあゆみ』京葉臨海鉄道株式会社、1999年
[10]『20年史』京葉臨海鉄道株式会社、1983年
[11]『15年のあゆみ』名古屋臨海鉄道株式会社、1981年
[12]渡辺 一策「記憶に残る貨物列車たち−(1) 梓川開発資材輸送列車」『レイル・マガジン』第13巻第3号、通巻149号、1996年
[13]『福知山鉄道管理局史』福知山鉄道管理局、1973年
[14]『中国支社30年史』日本国有鉄道中国支社、1966年
[15]『広島鉄道管理局この10年史』日本国有鉄道広島鉄道管理局、1976年
[16]石原 裕紀「山陰線の貨物列車全廃」『鉄道ファン』第38巻第2号、通巻第442号、1998年、120頁

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