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株式会社日清製粉グループ本社
2001.12.7 作成 2012.11.4大幅に刷新 2012.11.18訂補 2013.1.20訂補 2013.2.2訂補

目次
■1.鞄清製粉グループ本社の概要
■2.トピックス
■3.日清製粉の鉄道貨物輸送について
■4.製粉部門
■5.飼料部門

※下記の社史からの引用は省略して記載している。
『日 清製粉株式会社七十年史』日清製粉株式会社編纂・発行、1970年 『70年史』
『日 清製粉この十年の歩み』日清製粉株式会社編纂・発行、1980年
『80年史』
『チャ レンジこの一〇年−日清製粉創業九〇周年記念史』日清製粉株式会社編纂・発行、1990年 『90年史』
『日 清製粉100年史』日清製粉株式会社編集・発行、2001年 『100年史』


■1.鞄清製粉グループ本社の概要 
 日清製粉鰍フ前身は、1900(明治33)年に群馬県館林町(当時)で設立された館林製粉鰍ナある。その後1908(明治41)年に旧日清製粉鰍ニ館林 製粉鰍ェ合併して、日清製粉鰍ェ発足した。
(『100年史』p654〜655)

 1926(大正15)年2月には、現在も主力生産拠点である鶴見工場が完成し、その後も多くの工場の新設、買収、合併を行い事業を拡大してきた。名実共 に日本の製粉業界のトップに君臨している。

 2001(平成13)年7月には製粉、食品、飼料、医薬、ペットフードの全事業を分社化し新しい日清製粉グループがスタートした。持株会社として「鞄 清製粉グループ本社」が発足し、グループ全体の経営戦略の立案、決定、遂行を行い、そのための経営資源の配分を行っている。

 2012年3月末現在の資本金が171億1,700万円、売上高(連結)が4,419億6,300万円、従業員数(連結)が5,582名となっている。



■2.トピックス 
▼日清製粉、2020年めどに売上高1兆円へ 海外強化 (2011 年11月2日『Fuji Sankei Business i.』

 日清製粉グループ本社は2日、2020年をめどに売上高を2010年度比で2倍以上の1兆円に、営業利益もほぼ2倍の500億円へと増やす経営計画を明 らかにした。
 「国内は少子高齢化でマーケットの拡大は望めない」(同社)として海外でM&A(企業の合併・買収)や業務提携を進め、売上比率を現在の約5%から 30%に大幅に引き上げる。
 国内外ともに主力の製粉、加工食品を強化するほか、成長分野と位置づける中食やバイオ、健康食品、ペットフードなどを伸ばす。
 海外では拠点を持つ北米や中国を引き続き強化することに加えて、ベトナムやインドネシア、インドなど高い経済成長が見込まれる地域での事業展開も検討す る。
 同社の10年度連結決算は、売上高が4,241億円、営業利益が253億円だった。



■3. 日清製粉の鉄道貨物輸送について 
 日清製粉鰍ヘ、製粉部門と飼料部門の両方でホキ2200形を中心に国鉄時代から鉄道貨物輸送を積極的に活用していた。ライバルメーカーの日本製粉や昭和 産業、日東製粉(現、日東富士製粉)などと比べても日清製粉の鉄道貨物輸送への依存度は高かったものと思われる。そこで、まずは日清製粉の鉄道貨物輸送に ついてマクロ的な視点から纏めてみる。

 1984(昭和59)年に始まった国鉄の合理化と、その後の民営化への移行は日清製粉の物流システムにも大きな影響を与えた。1982(昭和 57)年当時、 日清製粉は17工場2荷扱い所専用側線を有し、全輸送量の12%を 鉄道輸送に依存していた。1983(昭和58)年に「国鉄問題連絡会」を設置して、鉄道輸送に代わるトラックやコンテナなど代替輸送問題に対処し、それに よりコスト増 を招くことなくスムーズ に移行することが出来た。
(『100年史』p308)

 さて、1982年当時、専用線を有した17工場と2荷扱い所を「昭和58年版専用線一覧表」を用いて以下の通り確認してみた。

▼17工場の内訳
工 場名
北 見
小 樽
函 館
水 戸
宇 都宮
館 林
高 崎
千 葉
鶴 見
名 古屋
知 多
神 戸
岡 山
坂 出
福 岡
鳥 栖
筑 後
専 用線
所管駅
北見駅
手宮駅
函館駅
※函館市専用線
の第三者利用者

赤塚駅
宇都宮駅
館林駅
高崎駅
食品南駅
大川駅
笹島駅
知多駅
新川駅

西岡山駅
坂出港駅
※坂出市専用線
の第三者利用者

福岡港駅
鳥栖駅
羽犬塚駅
 17工場は見事に専用線一覧表と一致した。
 
▼2荷扱所の内訳
駅 名
岩 沼駅
焼 島駅
高 田駅
備 考
日通商事 鰍フ第三者利用者
小麦粉のバルクステーション
山陽木材 防腐鰍フ第三者利用者
詳細不明。工場は無いので荷扱い所と思われる
日本通運 鰍フ第三者利用者
飼料のバルクセンター
 3つになってしまったが、特に焼島駅は詳細不明である。

 国鉄民営化に伴い従来の輸送方式は抜本的に改められ、効率と採算本位の仕組みに なっていった。1988(昭和63)年には日清製粉の鉄道輸送は7 工場1荷扱い所、全輸送量の3%に激減した。
(『100年史』p308)

 つまり裏を返せば、従来のホキを中心とした鉄道貨物輸送は非効 率で不採算なものに陥っていたとも言える。
 1988年に専用線が残っていた7工場は、水戸、宇都宮、館林、高崎(但し1988年6月末に工場廃止なので微妙)、千葉、鶴見、福岡、鳥栖、羽犬塚の 各駅と思われるが、9工場になってしまう。高崎工場はカウントされていないのかもしれないが、それでも8工場になってしまう。鳥栖工場あたりが1988年 時点で専用線が廃止になっていたかもしれない。

 一方、1荷扱い所は小麦粉のバルクステーションがあった岩沼駅である。この専用線は、1997(平成9)年6月の鶴見工場の大川駅専用線と同時に廃止さ れたと思わ れる。
(『レイル・マガジン10月号』通巻169号、1997年、p117)
1990.10 安善駅
急行越前様から大変貴重な写真をご提供して戴きました (2013.2.2)。ありがとうございます!

 現在、日清製粉グループの専用線は全廃されたが、大川工場を中心に20ft私有タンクコンテナやJRコンテナを用いて鉄道貨物輸送を利用している。


■4. 製粉部門 
 鉄道貨物輸送に関係する各工場・バルクステーションを北から順番に纏めていく。

北見工場 函館工場 岩沼バルクステーション 水戸工場 宇都宮工場 館林工場 高崎工場 川越工場 千葉工場
鶴見工場 名古屋工場 知多工場 神戸工場 岡山工場 宇品バルクステーション 坂出工場 鳥栖工場 筑後工場

1995.3 博多港駅構内に並ぶホキ2200形、九州内の日清製粉の小麦輸送末期の姿
急行越前様から大変貴重な写真をご提供して戴きました (2013.1.20)。ありがとうございます!!

◆北見工場 
 北海道において小麦増産地として有望視されていた北見およびその周辺(釧路、根室など)に着目して工場を建設することとし、1935(昭和10)年に野 付 牛町の用地を買収した。1936(昭和11)年9月に本館落成、11月には試運転に入り、1937年(昭和12)年1月操業を開始した。操業当初は野付牛 工場と呼ばれたが、1942(昭和17)年から北見工場と名称を改めた。
(『100年史』p116〜117)


北見工場(『70年史』p296)
 「昭和26年版専用線一覧表」には、北見駅に日清製粉鰍フ専用線があ る。
 1967(昭和42)年11月、国鉄のバラ積み貨車が 北海道にも配車され、北見工場は原料小麦30トンを積んで小樽港か ら到着した。(『70年史』p77)
 なお小樽港には日清製粉鰹ャ樽飼料工場があり、手宮駅には1967年1月16日に日清製粉鰍フ専用線が敷設された。(Wikipedia参 照)
 そのため小樽飼料工場内に小麦粉の出荷設備があり、手宮〜北見間でホキ2200による小麦粉輸送が行われていたものと思われるが、手宮駅は1985(昭 和60)年11月5日に廃止されたため、この時点で輸送はトラックに転換されたものと思われ、北見工場の専用線も廃止されたと考えられる。

▼日清製粉 北見工場を閉鎖へ 来年11月末、函館などに集約 (2009 年10月31日付『北海道新聞』

 製粉最大手の日清製粉(東京)は30日、北見市の北見工場を来年11月末で閉鎖すると発表した。コスト競争力強化に向けた工場再編の一環で、北見工場の 生産分は函館工場や本州の大型工場に集約する。正社員13人は他工場などへ配置転換させる方針だ。
 同社は内陸部の小規模工場を閉鎖し、海外から小麦を搬入しやすい臨海部の大型工場への集約を進めている。
 1937年(昭和12年)に操業開始した北見工場は、道内市場向けにめん用や菓子用の中力粉や薄力粉を製造。ただ同社の全国11工場の合計生産能力は1 日約8,000トン(原料ベース)で、北見工場はこのうち120トンと最も 少ない上、内陸部にあり陸送費用がかさむなど他工場より生産コストが割高だった。
 日清製粉は北見工場閉鎖後、工場跡に「北海道小麦センター」を置き、行政や生産者との関係強化を図る拠点とする考え。具体的な業務については「道産小麦 の情報収集や新品種開発研究などが考えられる」としている。


◆函館工場 
 1952(昭和27)年9月、日清製粉は函館製粉鰍ニの合併契約を締結し、12月に業務を引き継ぎその工場を同社函館工場とした。合併後設備を整備し、 日清製粉は北海道に有力な海工場を持つことになった。
 函館工場は函館港に臨み、工場岸壁に約1,000トン級の本船を横付けすることが出来る。合併前には、函館周辺の小麦粉販売には北見・鶴見両工場の製品 を 充てていたが、合併後は函館工場の製品を販売して函館・札幌・小樽および日高・胆振地方、さらには青森市内などに出荷した。
(『100年史』p186〜187)

 「昭和28年版専用線一覧表」には、函館駅に函館製粉鰍笂清製粉鰍フ専用線は存在しない。
 しかし「昭和32年版専用線一覧表」には、函館駅の函館市専用線の第三者使用者に日清製粉鰍ェある。


◆岩沼バルクステー ション 
 1974(昭和49)年10月、日清製粉は岩沼バルクステーションを新設し、我が国初の小麦粉バラ専用私有貨車による輸送を開始した。
 岩沼駅構内に設置されたバルクステーションには、35トン粉タンク3基、30トントラックスケール、ジュニアフィルター、ブロアー室などが設けられ、長 距離バルクハンドリングの中継地点−工場からの貨車輸送と地元ユーザーへのバルクトラック配送の中継−として機能した。
 工場からの貨車輸送には、専用のタキ24700型貨車を使ったが、これは私有貨車として日清製粉が保有する貨車で、内容積50立方メートル、25トンの 粉を積むことができた。
 これに続いて、1974年11月には岡山〜広島間でも粉バラ専用私有貨車による輸送を開始した。
(『100年史』p272)

 尚、タキ24700形については、貨車趣味界の碩学・吉岡心平氏が運営するwebサイトタ キ24705について詳細に解説されている。

 1997(平成9)年6月30日を最後に大川駅の日清製粉専用線が廃止された。最終日は岩沼行 きのタキ24703が1両発送された。岩沼駅の日清製粉のバルクステーションもこの発送の取り扱いの終了と同時に廃止されたと思われる。こ れ により日清製粉の専用線は全廃さ れた。(渡辺 憲「さよなら大川日清製粉」『レイル・マガジン10月号』通巻169号、1997年、p117)

 1998(平成10)年4月に岩沼駅を訪問したが、日清製粉のバルクステーションがあったと思われる場所は既に更地となっていた。
1998.4岩沼駅

 1998年4月の初取材以降、何度も宮城野駅(現、仙台貨物ターミナル駅)を訪れているが必ずと言っても良いほど日清製粉のUT18A形式の小麦粉専用 コンテナを目撃した。運用は隅田川(又は小名木川)〜宮城野で あった。バルクステーション廃止後は、タンクコンテナによるユーザー直送体制となったものと思われる。ユーザーは不明だが、例えば柴田町槻木にある山崎製パン叶蜻芻H場の可能性 が高そうである。岩沼駅にバルクステーションを設置したのは山崎製パン仙台工場の最寄 りの貨物取扱駅だったからではないだろうか。
2011.11 仙台(タ)駅、日清製粉のタンクコンテナが並ぶ


◆水戸工場 
 館林工場では、原料の半ばを茨城県から買う時代がかなり続いていた。茨城県は小麦生産高で全国的にもトップを争う地位を占めていたが、大正初期まで大き な製粉工場はなく、小麦産額の相当部分が他県に出ていた。1913(大正2)年に日清製粉は水戸市大字細谷に工場用地を買い入れ、1917(大正6)年8 月に工場が完成し運転を開始した。(『100年史』p86〜87)

 なお1916(大正5)年2月7日に水戸工場構内の鉄道側線敷設願が提出されている。(『100年史』p656)
 また「大正12年版専用線一覧表」には、那珂川駅に日清製粉鰍フ専用線があるが、赤塚駅には無い。しかし「昭和26年版専用線一覧表」には、那珂川駅と 赤塚駅に日清製粉鰍フ専用線がある。その後、「昭和39年版専用線一覧表」では那珂川駅の同社専用線は使用休止となっており、昭和42年版では無くなって いる。

 那珂川上流の小麦は、船で運ばれて河岸に荷揚げ設備をつくって揚げていた。そのほかは貨車輸送である。販路は地場と東北及び東京で、当時 は用途としては麺用が主であったが、那珂郡の小麦は製菓用薄力品を作るのに適した軟質小麦であったため、後にカナダ小麦を入れて麺用に適する小麦 を作るようになる。(『100年史』p103〜104)


水戸工場(『70年史』p78)
 1966(昭和41)年10月ダイヤ改正から日清製粉 は大川〜赤塚・館林・高崎でホキ2200によ る小麦輸送を 開始した。
(『貨物』第16巻第10号、1966年、p22)

 また1980年代前半当時の輸送として食品南駅千葉共同サイロから赤塚駅への運用があったため、同社からの小麦輸送もあった可能性がある。
(『京 葉臨海鉄道20年史』京葉臨海鉄道株式会社、1983年、p195・p197)

 水戸工場は1990(平成2)年7月末をもって閉鎖した。同工場の小麦粉製造は海工場である千葉工場へ、ライ麦粉製造は館林及びロジャーズ・フーズ へそれぞれ移管した。(『100年史』p439)


◆宇都宮工場 
 日清製粉は宇都宮市に工場を建設していた大日本製粉鰍1910(明治43)年3月に合併した。そして同年8月20日に宇都宮工場が完成し運転を開始 した。宇都宮工場は、有数の小麦産地である栃木県の中央に位置し、いわゆる「山の工場」で東北地方に製粉工場が少なかった関係もあり原料集荷、製品販売 とも有利な位置を占めていた。(『100年史』p42〜43)

 なお1910年10月15日に宇都宮工場の鉄道引込線使用契約が締結されている。(『100年史』p655)
 また「大正12年版専用線一覧表」には、宇都宮駅に日清製粉鰍フ専用線がある。

 原料小麦の輸送用のホキ車の使用は、1966(昭和41)年7月初めから鶴見工場〜宇都宮工場
に登場した。(『70年史』p68)
 また赤塚駅同様に1980年代前半当時の輸送として食品南駅千葉共同サイロから宇都宮駅への運用があったため、同社からの小麦輸送もあった可能性がある。
 (前掲『京葉臨海鉄道20年史』p195・p197)

 宇都宮工場は1996(平成8)年11月30日をもって操業停止、同年12月31日をもって閉鎖した。小麦粉生産は海工場の鶴見工場へ移管した。ま た1997年9月には宇都宮工場跡地に駐車場をオープンした。(『100年史』p443)


◆館林工場 
 1907(明治40)年に東武鉄道の館林駅が開業した。これにより原料及び製品の大量輸送が可能となった。そして館林駅の西側に新工場を建設し、専用側 線 を引くことを決定した。この新工場が現在の同社館林工場である。
 この新工場は当時「分工場」と呼称され、旧工場の諸設備等をこの分工場に移転し、1908(明治41)年5月3日に分工場落成式が挙行された。そして同 年8月13日には専用側線敷設願を差し出しており、操業当時から貨車輸送を利用していたことがわかる。(『100年史』p24〜26)

 1966年10月ダイヤ改正から日清製粉は大川〜赤塚・館林・高崎でホキ2200による小麦輸送を開始した。(『貨物』 第16巻第10号、1966年、p22)

 大川からは小麦が到着し、1993(平成5)年度の館林駅の1日あたり平均取扱量は約150トン(筆者註、ホキ車5両)である。(『鉄道ダイヤ情報  No.125』通巻140号、1994年、p29)
 1996(平成8)年10月に館林駅着の日清製粉のホキ2200による原料輸送は廃止された。(『鉄道ピクトリアル 臨時増刊号』、通巻第647号、 1997年、p152)

 館林工場での小麦粉生産は2002(平成14)年12月に中止することになった。同工場は日清製粉発祥の製粉工場であったため小麦粉の生産を続けて いた。同工場の原料処理能力は230トン(筆者註、ホキ車8両弱)。これは日清製粉の全体生産量の3%程度で,鶴見工場と千葉工場に移管する。日清製粉の 国内製粉工場は12カ所になる。また同工場は空揚げ粉などプレミックス商品の生産工場も併設しており、今後はそれら加工食品の食品工場として存続するとし ている。
(『日経産業新聞』2001年11月14日付19面、『日刊工業新聞』2001年11月14日付22面)


◆高崎工場 
高崎工場(『創業100年史』古河鉱業株式会社、1976年)
 1918(大正7)年3月に高崎市に上毛製粉鰍ェ設立された。同社は創立当初から日清製粉との合併を意図し、1919(大正8)年に合併した。高崎市は 信越線、上越線、高崎線、両毛線、八高線が集まる交通の要衝で、原料の集荷及び製品販売に有利な条件を備えていた。合併時に上毛製粉は工場敷地を購入して あっただけなので、工場は日清製粉が建設し、1919年12月に完成して運転を開始した。
(『100年史』p88)

 「大正12年版専用線一覧表」には高崎駅に日清製粉鰍フ専用線がある。
 1966(昭和41)年に原料ホッパ車の受入れ設備が完成した。(『70年史』p76)
 1966年10月ダイヤ改正から日清製粉は大川〜赤塚・館林・高崎ホキ2200による小麦 輸送を開始した。(『貨物』第16巻第10号、1966年、p22)
 
 1988(昭和63)年6月末をもって高崎工場を閉鎖し、同工場の製造は海工場である千葉工場及び鶴見工場に移管した。(『100年史』p438)


◆川越工場 
 小麦の産地として埼玉県は、茨城県や群馬県と並んで昔から有名であり、小麦粉の消費も多い地域であるが、機械製粉工場としては松本米穀製粉所(日東製粉 の前身)があったくらいで、原料の多くは近県に移出され、製品は他県から搬入する状況であった。これに着目し、1919(大正8)年10月に武蔵製粉鰍ェ 設立され、1921(大正10)年4月に製造を開始した。1935(昭和10)年12月には社名を愛国製粉鰍ニ改めたが、経営不振のため日清製粉と合併す ることとな り、1937(昭和12)年12月に合併契約が締結され、1938(昭和13)年3月から同社川越工場となった。(『100年史』p117)

 「昭和26年版専用線一覧表」には、川越市駅(東武鉄道)に日清製粉鰍フ専用線がある。しかし「昭和42年版専用線一覧表」からは専用線が無くなってい る。また西武鉄道には一貫して日清製粉の専用線は無いが、実際には以下の通り本川越駅を利用して工場廃止直前までホキ2200や有蓋貨車を用いて輸送が続 いていた模様。

 川越工場は操業を続けていくうえでいくつかの問題が生じていた。
@東武鉄道の側線が廃止され、そのうえ1973(昭和48)年3月には西武鉄道側線へのホキ車乗り入れ中止について国鉄 当局より強い申し入れがあり、ゆくゆく中止の公算が大となっ た。
Aかつて内麦主産地であった埼玉県及びその周辺の減産傾向が目立ち、内麦生産地に立地することの意義がなくなった。
B工場本館が老朽化し、改修・増設も難しく、現有能力(1日原料挽砕能力140トン:筆者註ホキ5両弱)では将来の競争に耐えられなくなっ た。
C工場敷地が居住区域に指定され、将来工場適地ではありえなくなった。
 これらの問題を検討した結果、千葉の新工場をすぐに操業するために要員は川越工場の全員をこれに充て、川越工場を千葉工場に移転する形の スクラップ・アンド・ビルドを行うこととした。
 川越工場は、1974(昭和49)年10月1日に製粉製造設備が廃止され、東京営業所所属の川越配送センターとして製品の保管、配送、倉庫営業、ファリ ネッタ(パン 粘土)製造等の業務を行うようになった。(『100年史』p268〜269)

 その後、高崎工場の閉鎖に伴い川越配送センターは1988(昭和63)年3月末をもって閉鎖された。(『100年史』p439)


◆千葉工場 
 日清製粉は1966(昭和41)年10月に千葉市新港の食品コンビナート内に工場用地を取得していた。その後、京葉地区の人口増加は著しく、それに伴い 小麦粉消費は増加、また二次加工メーカーの京葉地区進出が盛んになり、小麦粉出荷の能力不足が懸念された。1972(昭和47)年になって、千葉の工場用 地に専 用側線を引くことができる見通しが立ったため、同年 秋、輸送立地の観点から千葉新工場建設を決めた。 1974(昭和49)年9月に千葉工場は完成した。原料小麦は隣接の千葉共同サイロからチェーンコンベアで直接搬入された。
(『100年史』p268〜269)


食品南駅配線図(前掲『京葉臨海鉄道20 年史』p315)
 京葉臨海鉄道の食品南駅は1975(昭和50)年5月10日に営業を 開始した。同駅には日清製粉鰍フ専用線があった。

 京葉臨海鉄道の食品線は、1979(昭和54)年度を境として輸送量は次第に減少し、1989(平成元)年度以降は取扱量は皆無となった。
 食品線(南)の発送トン数のピークは1979年度の10万1千トンで、その内「麦」が7万8千トンを占めた。到着トン数のピークは1976(昭和51) 年度の1万6千トンで、その内「飼料」が7.5千トン、肥料が6.7千トンであった。また取扱のあった最終年度である1988(昭和63)年度は発送が6 千トンで全量が「麦」、到着は一足早く1987(昭和62)年度から皆無であった。
(『35年のあゆみ』京葉臨海鉄道株式会社、1999年、p25-26)

 食品南駅の日清製粉の専用線の廃止は、1989年5月であった。(前掲『35年のあゆみ』p109)

 食品線は1994(平成6)年1月20日に廃止された。

 食品南駅の日清製粉からの輸送は下記の通りである。
主 なる着駅
宇 都宮・金指・石巻埠頭・高田
主 要発送品目
小麦粉、 皺、配合飼料
(前掲『京葉臨海鉄道20年史』p195・p197)

 宇都宮駅は宇都宮工場向けに小麦粉を輸送していたものと思われる。
 一方、金指駅(静岡県経済連か?)、石巻埠頭駅(全国酪農協同組合連合会か?)、高田駅(日清製粉バルクセンターか?)向けの輸送は配合飼料だった可能 性が高いが、千葉工場は飼料生産をしていないと思われるので、謎≠ナある。他工場・他メーカーで生産された飼料の出荷拠点として千葉工場が活用されてい のだろうか。


◆鶴見工場 
1996.1大川駅から鶴見工場を望む

 鶴見工場は1926(大正15)年2月16日に試運転を開始し、同月24日に製品を製造し始めた。
 日清製粉は鶴見臨港鉄道梶i現JR鶴見線)の設立に尽力し、1926年3月には浜川崎〜弁天橋と同社鶴見工場に通じる大川支線が開業した。
 鶴見工場には、6万3,000トンを貯蔵できる小麦貯蔵槽があり、この原料小麦は鶴見工場で使用されるのみではなく、ここから臨港鉄道を経由して 「山の工場」にまで送られるものもある。
(『100年史』p81〜84)

 原料小麦の輸送には関東の工場向けに穀物専用バラ積み貨車(通称ホキ車)の使用を開始した。1966(昭和41)年7月初めか ら鶴見工場〜宇都宮工場に登場し、その後各工場向けに使用されている。バラ発送量は一段と増加して、鶴見工場の荷役設備は関東の工場の共有物たる がごとき観を呈してきた。(『70年史』p68)
 1966年10月ダイヤ改正から日清製粉は大川〜赤 塚・館林・高崎ホキ2200による小麦輸送を開始した。(『貨物』第16巻第10号、1966年、p22)
 
 1974(昭和49)年10月に岩沼バルクステーションを新設し、我が国初の小麦粉バラ専用私有貨車(タキ24700形) による輸送を大川〜岩沼で開始した。(『100年史』p272)
1990.10安善駅に停車するタキ24700
急行越前様から大変貴重な写真をご提供して戴きました (2013.2.2)。ありがとうございます!

 1997(平成9)年6月30日を最後に大川駅の日清製粉叶齬p線が廃止された。最終 日は岩 沼行きのタキ24703が1両発送されたほか、廃車のためタキ24700とタキ24706が半田埠頭へ向かった。これにより日清製粉の専用線は全 廃された。
(渡辺 憲「さよなら大川日清製粉」『レイル・マガジン10月号』通巻169号、1997年、p117)
1996.1大川駅の日清製粉樺゚見工場専用線

 日清製粉は小麦粉専用のUT18A形式を多数使用しており、大川〜岩沼のホキ車輸送の代替として始まった隅田川〜宮城野の小麦輸送以外に も隅田川〜八戸貨物への小麦粉輸送も目撃した。
2009.9 隅田川駅


◆名古屋工場 
 名古屋地区は中京工業地帯として人口及び人口密度が我が国上位に位置し、有数のうどんの消費地であり、また織物の糊にも小麦粉が相当量消費されるなど、 小麦粉の大消費地であった。名古屋地区には製粉会社としては当時、名古屋製粉所があっただけであった。
 1913(大正2)年に当時名古屋市の郊外であった愛知郡中村大字則武に用地を確保した。まだ内地小麦が主要原料で、小麦粉輸出の少ない時代であったた め、差し当たり小麦粉消費地域に近い場所に工場を設けることとした。名古屋駅の南隣で鉄道の便はあるが、築港からは遠かった。そして1914(大正3)年 10月1日に名古屋工場は運転を開始した。(『100年史』p72〜73)

 なお1914年2月6日に名古屋工場の貨物側線敷設願が提出されている。(『100年史』p656)
 また「大正12年版専用線一覧表」には、名古屋駅に日清製粉鰍フ専用線がある。
 
 1934(昭和9)年に名古屋駅が拡張されることになり、名古屋工場がその敷地の一部となるため、名古屋工場を移転することになった。1935(昭和 10)年に 名古屋市中川区長良町に用地を確保し、工場建設に着手した。そして新工場は1936(昭和11)年7月に竣工し、運転を開始した。この工場の原料は、内麦 は愛知、三重、岐阜、静岡、兵庫、岡山など広範囲の地域から集め、外麦は三菱商事鰍ニ取引して輸入した。(『100年史』p74)

 「昭和26年版専用線一覧表」から「昭和58年版専用線一覧表」に至るまで、笹島駅には日清製粉鰍フ専用線がある。笹島駅は1986(昭和61)年11 月1日に廃止された。
1996.3名古屋工場の専用線跡

 1985(昭和60)年度の名古屋貨物ターミナル駅の荷主別発送量において、日清製粉(名古屋工場発)は3,400トンで第3位となっ ている。
(種村 直樹「国鉄名古屋に見る貨物輸送の刷新」『鉄道ジャーナル』通巻240号、1986年所収、p44)

 袋詰め製品を国鉄コンテナで発送していたものと思われるが、現在でもJRコンテナ輸送を継続しているのだろうか。


◆知多工場 
 1968(昭和43)年11月1日に飼料工場である名古屋第二工場(1987年知多工場と改称)が竣工した。(『100年史』p212〜213)

 東海3県、北陸3県、静岡県西部、長野県南部への小麦粉供給は名古屋工場が担当してきたが、中京地区を中心にこの地域の小麦粉消費は増加し、同工 場は全国一の高操業状態に達していたのに加えて、同じ地区の 半田工場(政策ふすま用小麦加工専用工場)の老朽化が進んでいた。こうした背景から、名古屋第 二工場内に製粉工場(日産500トン)を建設することが計画され、1981(昭和56)年9月に完成、10月から本格稼働した。なお半田工場が行っていた 政策ふすまの製造は名古屋工場に移管し、半田工場は1981年8月に閉鎖された。(『100年史』p317〜318)

 知多工場には1969(昭和44)年6月専用側線が開通したが、飼料輸送以外の小麦粉輸送が行われていたかどうかは不明である。


◆神戸工場 
 神戸には1906(明治39)年に増田製粉所が創立され、日本製粉も同社有力工場の1つとして1907(明治40)年操業開始の兵庫分工場があった。兵 庫県は近畿地方最大の小麦産地であるばかりでなく、消費地として京阪神をはじめ四国・中国地方が控えていたため、水陸の便に恵まれていた神戸に大製粉 工場が集まっていた。
 日清製粉は1919(大正8)年に神戸市兵庫区住吉通りに工場用地を取得した。1925(大正14)年1月に神戸工場は落成して運転を開始した。 (『100年史』p87)

 「昭和26年版専用線一覧表」には新川駅に日清製粉鰍フ専用線があり、「昭和58年版専用線一覧表」まで存在し続けている。
 新川駅は1984(昭和59)年2月1日に廃止された。


◆岡山工場 
 昔から中国・四国地方では、岡山、香川、兵庫の3県の小麦が産額・品質ともに群を抜き、「三県小麦」といわれてきた。とりわけ岡山県は中国地方第1位の 小麦生産地で、全国的に見ても屈指の地位を占めていた。
 ところが大正初め頃まで、神戸と九州には大きな製粉会社の工場があったが、岡山地方にはなかったため、日清製粉は岡山に工場建設を企図して1917 (大正6)年7月、岡山市桑田町に工場敷地を買収した。1920(大正9)年2月に工場は落成し運転を開始した。
 岡山工場は「海工場」ではないが、水陸ともに交通は便利である。四国との交通は宇高連絡船があり、鉄道は山陽本線を幹線に県内は津山線により津山方面と 連絡し、山陽と山陰を結ぶ支線もある。岡山市中央を流れる旭川には京橋まで河口から船が出入りできるため、小豆島の小麦は船で京橋まで運ぶことが出来た。 (『100年史』p86)
 また「大正12年版専用線一覧表」には、岡山駅に日清製粉鰍フ専用線がある。

 1966(昭和41)年10月ダイヤ改正
から日清製粉は西埠頭〜岡山ホキ2200に よる小麦輸送を開始した。(『貨物』第16巻第10号、1966年、p22)
 水島臨海鉄道・西埠頭駅には、日清製粉鰍フ専用線は専用線一覧表を確認する限り存在しない。
 発送は日清製粉鰍ナはなくて、日本興油工業(現、日清オイリオグ ループ)だったようである。と言うのも日本興油は西埠頭駅から大豆から精製した食用油、精製過程で生じた肥料及び飼料を貨車で出荷するだけでなく、小麦を輸入の上貨車で出荷 していたからである。(水之江 季彦・竹下 昌三『水島工業地帯の生成と発展』風間書房、1971年、p245)
 
 また水島臨海鉄道からの小麦の出荷量は下記の通りである。
年  度
1964 年度
1965 年度
1966 年度
1967 年度
1968 年度
1969 年度
輸送量 (d)
21,219
33,264
13,015
19,943
17,517
10,292
(上掲『水島工業地帯の生成と発展』p244)

 この輸送量が全て西埠頭〜岡山間の日清製粉の小麦粉輸送というわけではないだろうが、ただいずれにせよ1969(昭和44)年度で年間約1万トンという 輸送量は、車扱輸送としては少ないと言わざるを得ない。
 西埠頭〜岡山間は約25kmほどの距離であり、鉄道貨物輸送がトラック輸送に対して競争力を維持できなかったと考えられる。早期に鉄道輸送は廃止されて しまったのではないだろうか。

 先述の大川〜岩沼間の輸送に続いて、1974(昭和49)年11月より岡山〜広島でも粉バラ専用私有貨車による輸 送を開始した。これに関連する粉バラ貨車発送設備バルクステーション(広島県宇品)を新設した。(『100年史』p272)
 この輸送は、宇品4者協定線が廃止された1986(昭和61)年11月1日まで続いたものと思われるが、この輸送が廃止されると同時に岡山工場の専用線 も廃止されたと考えられる。


◆宇品バルクステーション  

1986.9宇品4者協定線、右のサイロが日清製粉のバルクステーションと思われる(Wikipediaよ り転載)


 岡山工場の項で述べたように1974(昭和49)年11月より岡山〜広島でも粉バラ専用私有貨車による輸 送を開始した。これに関連する粉バラ貨車発送設備、バルクステーション(広島県宇 品)を新設した。(『100年史』p272)

 なお「昭和50年版専用線一覧表」「昭和58年版専用線一覧表」には、東広島駅の宇品4者協定線に日清製粉鰍フ名は一切出てこない。上記写真から想像す ると国鉄の側線扱いで、専用線は無かったということであろうか。岡山〜広島のこの小麦粉輸送は、宇品4者協定線が廃止された1986(昭和61)年11月 1日まで続いたものと思われる。


◆坂出工場 
 日清製粉は1925(大正14)年に讃岐製粉鰍ニ合併し同社坂出工場となった。讃岐製粉の前身は、1916(大正5)年に坂出町で綾商会が製粉業を開始 したのに始まり、1919(大正8)年には組織を変更し讃岐製粉鰍ニなった。当 時四国で唯一の大型機械製粉工場であった。(『100年史』p88〜89)

 「昭和42年版専用線一覧表」には、坂出港駅の専用線に日清製粉は無いが、「昭和45年版専用線一覧表」には坂出港駅の坂出市専用線の第三者利用者に日 清製粉鰍ェあり、「昭和58年版専用線一覧表」まで存在する。
 坂出工場内には1968(昭和43)年1月に飼 料のバルクセンターが設置され、神戸飼料工場から飼料が到着していた(詳細後述)。そのため このバルクセンター設置に合わせて専用線が設置されたものと思われる。一方、小麦輸送には鉄道貨物輸送は殆ど使用されなかったのではないか。坂出工場設立 以来、長年専用線が敷設されなかったのはそのためではないだろうか。

 尚、坂出港駅は1984(昭和59)年2月1日に駅としては廃止されたが、その後も坂出駅の貨物取扱いとして残り、1986(昭和61)年11月1日に 最終的に廃止された。
(川波 伊知郎「四国にあった臨港線の記録」『鉄道ピクトリアル』通巻第714号、2002年所収、p33)


◆鳥栖工場 
 日清製粉は明治の終わり頃には、九州を有望な市場として九州各地を調査していた。そして1910(明治43)年に工場立地に最も適当とされた福岡県大里 町 (後に門司市に編入)に土地を買収したが、この土地が九州鉄道管理局の用地に編入されることとなり工場建設計画は中断された。
 同地には、神戸の合名会社鈴木商店が1910年に椛蝸「製粉所を設立していたが、1920(大正9)年に日本製粉が合併し同社大里工場とした。
 九州で小麦の産額が多いのは福岡と熊本であるが、大きな製粉工場としては当時日本製粉の大里工場及び久留米工場、それに九州製粉鰍フ鳥栖工場があっ た。九州製粉は1920年5月に佐賀県鳥栖町に設立されたが、1925(大正14)年に日清製粉と合併し同社鳥栖工場となった。
(『100年史』p89〜90)

 「大正12年版専用線一覧表」には鳥栖駅に九州製粉の専用線はない。「昭和26年版専用線一覧表」には鳥栖駅に日清製粉鰍フ専用線があり、「昭和58年 版専用線一覧表」まで存在している。
 鳥栖工場に備蓄用小麦の1万トンサイロが、1979(昭和54)年3月に完成した。付帯設備としてバラトラックからの切込み口を設け、ホキ車輸送と並行してト ラック輸送を可能にした。またトラック出庫設備を作り、筑後工場向けの出庫ができるようにした。(『80年史』p27)

 鳥栖工場の専用線が、いつまで使用されたのかは不明なのだが、先述した通り1988(昭和63)年時点では専用線が 廃止されていた可能性 が高い。下記の筑後工場と同様に博多港の須崎公共臨港線からホキ2200形で小麦が到着していたよう だが、筑後 工場よりも福岡に近いという立地条件から同工場より早く鉄道からトラックへの転換が行われたと考えられる。


◆筑後工場 
 福岡県は九州第一の小麦産地である。筑後平野の中心にある八女郡は県下でも有数の小麦産地であった。この地に1926(大正15)年に松延製粉鰍ェ設 立された。同社は1933(昭和8)年には常磐製粉鰍ェ経営するようになったが、1938(昭和13)年4月に日清製粉はこの常磐製粉と合併し、羽犬塚工 場とした。1944(昭和19)年には鹿児島本線の専用鉄道側線を新設した。1954(昭和29)年4月に羽犬塚工場は筑後工場と改称され た。(『100年史』p117〜118)
 「昭和26年版専用線一覧表」には、羽犬塚駅に日清製粉鰍フ専用線がある。

 筑後工場は、1966(昭和41)年7月、原料サイロを本館南側に新設した。収容力は570トンであった。1967(昭和42)年3月11日、九州では初めてホ キ車による作業を行った。(『70年史』p76)
 このホキ車の発送は福岡港駅の須崎公共臨港線と思われる。須崎公共 臨港線は、1966年10月に完成し、1967年から本格的に共用を開始した。須崎公共臨港線からは博多港サイロ鰍ェ扱う小麦を中心に、鳥栖、羽犬塚、上熊本、呉、諫早等に輸送された。その後、須崎公共臨港線は、1975 (昭和50)年の28万トンをピークに取扱量は減少し、1991(平成3) 年3月に廃止された。
(『博多港史』福岡市港湾局、2000年、p114〜116)

 須崎公共臨港線廃止後は、小麦のホキ2200への積込みを旧福岡港駅構内(博 多港駅の構外側線扱い)の低床ホーム(貨物4番線)で行われていた。末期は羽 犬塚上熊本向けの輸送が残っていたようであ る。(田中 大介「博多港駅・福岡港駅探訪日記」『トワイライトゾ〜ン・マニュアルV』1994年所収、p77〜79)
 この当時の旧福岡港駅の風景は、うしやんさんのwebサイト「炭鉄別館」 にある「福岡港 のアント」が詳しい。小麦サイロと直結しない非効率な輸送が、公共臨港線廃止後に続けられたという事実には些か驚かされる。荷主サイドにはそれで もホキ2200を原料小麦輸送に使い続けるメリットがあったということなのだろうか。

1995.3 博多港駅構内、ホキ2200形が並ぶ。福岡市中心部のすぐそばにこんな風景があった
とは今となってはとても信じられない…。

1995.3 ホキ2200形への小麦積込み装置とアント。須崎公共臨港線廃止後にこのような積込
み装置を設置したのであろう。

急行越前様から大変貴重な写真をご提供して戴きました (2013.1.20)。ありがとうございます!!

 しかしこのような輸送は長続きはせず、羽犬塚駅の貨物取扱いは1996 (平成8)年3月ダイヤ改正で廃止された。
 また旧福岡港駅に該当する御笠川左岸以西も1996年3月に廃止された。(前掲『博多港史』p80)

▼日清製粉、筑後・鳥栖工場閉鎖へ (『朝 日新聞』2011年2月1日
閉鎖される日清製粉筑後工場=筑後市山ノ井

■従業員「聞いてない」
 製粉最大手の日清製粉が31日に発表した筑後工場(筑後市)と鳥栖工場(佐賀県鳥栖市)の閉鎖は、地元に衝撃を与えた。2014年、福岡市に立地する新 工場の稼働と同時に撤退する予定だが、長く地元経済に貢献していただけに、行政関係者は戸惑うばかり。両工場の社員は新工場や本州の工場に配置転換される というが、従業員からは不安の声が漏れた。
(岡田玄、上山崎雅泰、小浦雅和)

●筑後市長「寝耳に水」
 JR羽犬塚駅の西側に広がる筑後工場は1937(昭和12)年から操業を続けてきた。敷地内にはレンガ造りの建物などが並び、レトロな雰囲気が漂う。
 同日夕、構内は終業時間が近いためか静かだった。守衛は同社の発表を知らず、「初めて聞いた。いつ閉鎖されるんですか。発表があったんですか」と驚いた 様子で記者に尋ねた。
 突然の発表に驚いたのは、地元自治体も同じだ。筑後市の中村征一市長は「寝耳に水」とコメントした。というのも、同社が筑後市と鳥栖市に工場閉鎖を伝え たのは午後2時ごろ。それぞれの工場長らが市役所を訪ね、経緯を説明したという。
 中村市長はこの後、「雇用確保の観点からも今の時期に閉鎖されるのは大変厳しい。跡地への関連企業立地など十分配慮してほしい」との談話を出した。
 日清製粉広報部と両市によると、筑後工場はパン、めん、菓子用の小麦粉を1日190トン生産。正社員31人が在籍している。鳥栖工場が操業を始めたのは 1924(大正13)年。正社員は33人おり、1日450トンの小麦粉を製造している。
 両市とも、固定資産税など数千万円単位の税収があっただけに、工場閉鎖が与える影響は深刻だ。計64人の雇用について同社は、新工場や本州の別の工場へ の配置転換となると説明したという。
 鳥栖市商工振興課の担当者も「突然の閉鎖の連絡で驚いている」とする一方で、「(工場は)国道3号沿いにあり、九州自動車道の鳥栖インターチェンジに近 いなど、流通面で良い立地。新たな企業を閉鎖後の跡地に誘致をしていくことになるだろう」と話した。

●新工場立地の福岡市は歓迎
 新工場の立地が決まった福岡市は、同社の決定を歓迎している。
 同市国際経済部によると、進出の可能性について昨夏に問い合わせがあったという。担当者は「必ずしも九州に限らない複数の候補地が検討されたと聞いてい る」。
 新工場は博多港の須崎ふ頭に建設される計画だ。九州で輸入食用小麦を陸揚げしているのは同港のみ。須崎ふ頭には複数の製粉会社や飼料業者の施設が置かれ ている。
 担当者は「穀物船の大型化に対応して岸壁や航路の整備が進められており、その点が評価されたのだろう。いずれ雇用や税収面でも波及効果が見込まれる」と 喜んだ。(田中久稔)



■5. 飼料部門 
 飼料部門について、前身の中外興業鰍ゥら日清飼料鰍ワでを簡単に纏め、鉄道貨物輸送に関係する工場を北から順に纏める。更に飼料業界は、1980年代後 半から同業他社との共同出資の飼料工場設立が相次いでおり、それらの企業も纏めておく。

中外興業叶ン立から日清飼料株ュ足まで 小樽飼料工場 石巻工場 鶴見飼料工場 知多工場 神戸飼料工場 福岡飼料工場
バラ輸送とバルクセンター 日本飼料ターミナル ジャパンフィード 西日本飼料 八代飼料 日本農産工業との業務提携

◆中外興業叶ン立から日 清飼料株ュ足まで 
 1940(昭和15)年に日清製粉の正田会長の発起で中外興業鰍ェ設立された。戦後になって同社は、日清製粉の外地引揚者を集めて飼料の製造販売を開 始し、日清製粉川越工場内にいわゆる新興飼料の製造工場を設置した。さらに水戸・館林・幸手・名古屋の日清製粉の工場のそれぞれ一部を賃借し、また山口市 に嘉川工場、横浜市に神奈川工場を設置して、新興飼料の製造販売を行った。
 1950(昭和25)年に統制解除されると、鶏用の飼料の製造を始めた。その後、幸手工場は日清製粉に返還して川越工場に生産を統合、さらに横浜市鶴見 区大黒町に新 たに工場を建設してこれを保税工場とした。ついで水戸・館林・川越の工場を日清製粉に返還、神奈川工場は閉鎖した。
 1958(昭和33)年5月、中外興業は飼料工場としては日本最初のニューマ方式による神戸工場を建設し、製造販売の伸長に努めた。
(『100年史』p209〜210)

 飼料業界においては需要増加とともに設備の近代化が促進されており、中外興業は今後とるべき方策について検討した。その結果、配合飼料の製造及び研究部 門を日清製粉に譲渡し、社名を日清飼料鰍ニ改め、飼料の販売と畜産の仕事に専念する方針を1960(昭和35)年に決定、日清製粉に申し入れた。
 日清飼料より製造・研究部門の譲渡を受ける日清製粉は1960年11月飼料部を設置し業務を開始した。1961(昭和36)年2月、日清飼料より譲渡を 受け、横浜 飼料工場、名古屋飼料工場、神戸飼料工場、中央研究所飼料研究室を設置した。
 配合飼料の需要は1957年頃から増え始めていた。特に1960〜65年には年平均26%という高度成長であった。日清製粉は鶴見飼料工場、福岡飼料工 場、小樽飼料工場、名古屋第二工場(後の知多工場)、鹿児島飼料工場といった最新鋭の飼料 工場を建設していった。
(『100年史』p210〜213)


◆小樽飼料工場 
 1967(昭和42)年10月1日に小樽飼料工場が発足した。
 工場建設までは鶴見工場の製品を輸送して販売していた。飼料を鶴見飼料工場から遠距離輸送することには貨車制限、冬期における船便の欠航 等非常な困難が生じたため、小樽進出を決定した。
 1969(昭和44)年3月、小樽飼料工場隣接の旧北王製油鰍フ土地、サイロ、倉庫を購入した。サイロを主原料バラ引取り拡大の対処に活用し、また小樽 港頭サイ ロとしての利点を活かし、貨物の保管も行う。倉庫は政府貨物の保管等を行うようになった。(『70年史』p139〜142)

 「昭和42年版専用線一覧表」には、手宮駅に北王製油鰍フ専用線がある。「昭和45年版専用線一覧表」には日清製粉鰍フ専用線があり、「昭和58年版専 用線一覧表」まで存在する。ホクレン農協連との共有線である。
 手宮駅には1967年1月16日に日清製粉鰍フ専用線が敷設された。(Wikipedia参 照)
 そのため小樽飼料工場内に小麦粉の出荷設備があり、手宮〜北見間でホキ2200による小麦粉輸送が行われていたものと思われるが、手宮駅は1985(昭 和60)年11月5日に廃止された。


◆石巻工場 
 日清製粉は、将来への布石として1968(昭和43)年に石巻臨海工業地帯の食糧飼料団地に飼料工場用地を取得した。しかし東北地方の畜産事情から、当 面 飼料工場の建設は見送っていた。
 1970年代半ばになり、とりあえず包装工場を建設することとし、1975(昭和50)年8月に完成した。包装能力は月間3,000トンである。鶴見 工場から貨車配合飼料バラ(バルク)で運び、石巻工場で袋詰めしたうえ、宮城・岩手両県を 中心に東北地方一円に供給した。
 その後1981(昭和56)年9月に閉鎖し、同年12月全国酪農業協同組合連合会(全酪連)に売却した。(『100年史』p281)

 「昭和50年版専用線一覧表」では、石巻埠頭駅に日清製粉鰍フ専用線がある。しかし「昭和58年版専用線一覧表」では、石巻埠頭駅に日清製粉鰍フ専用線 は無く、全国酪農協同組合連合会の専用線になったようだ。

 尚、1998(平成10)年8月に石巻港の現地で全酪連・石巻飼料工場を調査したところ、工場内には
製造
日清製粉株式会社
販売
日清飼料株式会社
と書かれたフレコンが多数あった。全酪連に売却後も日清製粉が製造した飼料の拠点として機能しているようだった。
 全酪連・石巻飼料工場は石巻飼料叶ン立に伴い2005(平成17)年3月31日に閉鎖された。(『乳業ジャーナル』2005年3月号)


◆鶴見飼料工場 
 1962(昭和37)年5月17日、鶴見飼料工場の竣工披露式が催された。同工場の完成に伴い横浜飼料工場を廃止した。(『100年史』p211)

▼1972(昭和47)年4月 大川駅発ホキ2200形式貨車運用計画
着 駅
品 名
荷 受人
1 日平均
使用車

月 間輸送
トン数

八戸
配合飼料
日本飼料 ターミナル
1.5
1,125
村崎野
配合飼料
日本飼料 ターミナル
0.4
300
内原
配合飼料
日本飼料 ターミナル
1.5
1,125
宇都宮 (タ)
配合飼料
日本飼料 ターミナル
1.0
750
館林
配合飼料
日清製粉
0.8
600
高崎
配合飼料
日清製粉
1.3
975
下土狩
配合飼料
日本飼料 ターミナル
0.7
525
(渡辺 一策『鶴見線貨物回顧』ネコ・パブリッシング、2009年、p36)

 下土狩駅の日本飼料ターミナルの基地は1983(昭和58)年には鉄道入荷が無くなった。(『貨物鉄道百三十年史(中巻)』日本貨物鉄道株式会社、 2007年、p433)

 1990(平成2)年6月現在では、宇都宮(タ)駅の旧日本飼料ターミナル鰍フ縮小されたサイロに、毎週1本だけ日清飼料の トウモロコシ・コウリャン・小麦などがホキ車20両で到着していた。なお当初は宇都宮(タ)駅のサイロを 使っていた大口の飼料輸送は、鹿島臨海工業地帯の神栖 から直接トラック輸送に切り替わり、畜産農家も減少傾向であるという。
(種村 直樹「JR貨物の複合ターミナル 宇都宮貨物ターミナル を見る」『鉄道ジャーナル』通巻287号、1990年所収、p54)

 日清飼料の発駅の記載は無いものの、大川駅の鶴 見飼料工場からの輸送と思われる。

 潟Wャパンフィード(鹿島)の設立に伴って、鶴見工場飼料部を1991(平成3)年3月31日をもって閉鎖した。(『100年史』p476)
 この鹿島のジャパンフィードの設立によって鶴見工場の飼料製造が中止されたたことは、宇都宮(タ)駅にあった飼料サイロの行く末を想像させる。つまりこ の時期に鹿島から直接トラック輸送に切り替わったと考えるのが妥当であろう。


◆知多工場(1987年に 名古屋第二工場から改称) 
 日清飼料竃シ古屋営業所の販売地域は静岡、愛知、岐阜、滋賀、三重、奈良、富山、石川、福井の9県であった。愛知県は養鶏が盛んであり、静岡県は養 豚、養魚があり、その他肉牛の盛んなところもあって、全体として畜産の成長がめざましかった。旧名古屋飼料工場は不足する生産能力をもって、かなり無理な 生産をしていた。
 1968(昭和43)年11月1日に名古屋第二工場が竣工した。同工場は生産性の高さにおいて鶴見工場と並んで東西の要をなしている。また同工場の完成 に 伴い名古屋飼料工場を廃止した。


1981(昭和56)年3月現在の知多駅の配線(抜粋)
(『15年のあゆみ』名古屋臨海鉄道株式会社、1981年、p166)
 1969(昭和44)年6月に専用側線が開通した。(『70 年史』p142〜146、『100年史』p212〜213)

 名古屋工場からの鉄道貨物輸送は、まず奈良県の国鉄高田駅構内に 1969年5月に設けられたバルクセンター(詳細は後述)向けが挙げられる。

 また日本飼料ターミナル(詳細は後述)は、1969年12月に豊橋駅に 基地を開設しており、この基地向けの輸送もあったと想像される。
(前掲『貨物鉄道百三十年史(中巻)』p432)

 専用線廃止の時期は不明だが、日本飼料ターミナルが1986(昭和61)年10月に解散しており、その頃ではないかと思われる。

1995.12 知多駅、直進方向が日清製粉叶齬p線跡


◆神戸飼料工場 
 1958(昭和33)年5月、中外興業は飼料工場としては日本最初のニューマ方式による神戸工場を建設し、製造販売の伸長に努めた。日清飼料株ュ足後、 1961(昭和36)年2月、日清飼料より日清製粉に製造部門が譲られ、神戸飼料工場が設置された。
(『100年史』p210〜211)

 神戸飼料工場は神戸港駅の近く(神戸市中央区小野浜町)に存在したのだが、神戸港駅に日清製粉鰍フ専用線は存在しない。側線扱いだったようだ。
 同工場からは、近畿・中四国に設置された飼料のバルクセンターにバラ輸送されていた。具体的には、高田岡 山坂出八本松の各バルクセンターは神戸飼料工場が発送工場であったことが判明してい る。また和田山にもバルクセンターがあった模様で、ここは神戸港駅〜和田山駅ホキ1車の輸送があったことが判明している。(詳細後述


◆福岡飼料工場 
 中外興業が九州地区に進出したのは、1953(昭和28)年頃で、製品は旧神戸工場から送った。
 その後日清製粉は1961(昭和36)年6〜7月頃に鳥栖工場構内に飼料工場を設置した。なお中外興業時代から福岡市に工場を建設する予定であり、この 頃も用地買収 交渉をしていた。1962(昭和37)年には福岡飼料工場の建設にとりかかり、同年9月20日に本館上棟式を挙行した。そして鳥栖飼料工場から要員が移転 したのが同年12月、鳥栖飼料工場の閉鎖は1963(昭和38)年1月であった。
 その後出荷の順調な伸びに伴い、ラインやサイロの増設が行われた。また1968(昭和43)年6月には専用側線が敷設された。
(『70年史』p136〜139)

 福岡飼料工場からは、小野田(山口県小野田)・筑後筑後工場内)の飼料 のバルクセンターにホキ2200による飼料輸送が行われていた。(詳細後述
 また九州各地に日本飼料ターミナル詳細後述)の基地が開設され、1969(昭和44)年7月の竹松を皮切りに同年10月に熊本、1970(昭和45)年8月に伊集院高 鍋、1971(昭和46)年4月に東都城、1973 (昭和48)年4月の出水に設置された。これら全てに日清製粉が飼料 輸送を行っていたのかは不明だが、可能性はあるものと思われる。(前掲『貨物鉄道百三十年史(中巻)』p432)

 しかし1986(昭和61)年11月に日清製粉兜汢ェ飼料工場の専用線は廃止された。(前掲『博多港史』p117)

 八代飼料の稼働に伴い、1996(平成8)年3月中旬をもって、福岡飼料工場での畜産用飼料の生産を中止し、八代飼料ほかへ製造委託するとともに同工場 を水 産用飼料専門工場とした。その後、福岡飼料工場は1999(平成11)年12月をもって閉鎖され、2000(平成12)年に解体が終了した。
(『100年史』p479)


◆バラ輸送とバルクセンター  
 飼料工場における製品のバラ出荷は、包装費の削減、受渡し作業の合理化、出荷時間の短縮などの利点があり、実需者も引取りの省力化、給餌の自動化等によ り経費の削減ができるため、1967(昭和42)年度より急速に進み、発送設備、中継設備および実需者の受入れ設備が設置された。
 日清製粉の飼料原料専用サイロは、1969(昭和44)年3月現在では、小樽1万トン、鶴見1万4,500トン、名古屋第二1万2,800トン、神戸 7,500ト ン、福岡7,400トンの計5万2,200トンである。原料のバラ化率はとうもろこし、マイロ等の主原料では100%、副原料も含めて原料全体では80% 以上に進んで いた。製品のバラ輸送は、飼料工場から実需者に直送することもあり、中継基地(バルクセンター)を設けて、そこから実需者に輸送する場 合もある。日清製粉で実需者にバラ輸送をしたのは、1965(昭和40)年12月、鶴見飼料工場の協力工場である千葉県野田市の秦野精麦から行われたのが 最初であっ た。その後1966(昭和41)年には福岡、名古屋、鶴見等に及んだ。(『70年史』p147〜148)
 
 なお秦野精麦鰍ヘ「昭和42年版専用線一覧表」によると野田市駅に専用線がある。

 バルクセンターができたのは、野田が1967(昭和42)年2月、高崎が同年9月であった。高崎では我が国では初め てバ ラ積み貨車「ホキ2200」による配合飼料のバラ輸送を行った。
 神戸飼料工場ではバラ発送設備が遅れていたが、1968(昭和43)年1月末完成し、兵庫、大阪、京都その他に出荷するとともに、岡山、坂出の製粉工場 内にバルクセ ンターを建設して、バラ輸送の増加をはかった。1969(昭和44)年には大和高田(奈良県)、八本松(広島県)にバルクセンターが完成した。大和 高田は国鉄駅 構内に設置した最初のバルクセンターである。
 1970(昭和45)年2月には、館林、筑後の製粉工場構内にバルクセンターが完成した。筑後工場は1968年よりフレキシブルコンテナ基地として運営 してきたもの をタンク化したものである。

▼日清製粉のバルクセンター
基 地名
収 容力   完 成 発 送工場 備    考 廃  止
野田
高崎
岡山
坂出
高田
八本松
小野田
館林
筑後
和田山
135 トン
180 トン
120 トン
160 トン
80 トン
60 トン
80 トン
120 トン
120 トン
不明
1967 年2月
1967 年9月
1968 年1月
1968 年1月
1969 年5月19日
1969 年6月23日
1969 年8月2日
1970 年2月
1970 年2月
1970 年12月
鶴見
鶴見
神戸
神戸
神戸、名古屋
神戸
福岡
鶴見
福岡
神戸
秦野精麦 鰍フ工場内か?
高崎工場内?国内初のホキ2200による配合飼料のバ ラ積み輸送(『70年史』p148)
岡山の製粉工場内(『70年史』p148)
坂出の製粉工場内(『70年史』p148)
国鉄高田駅構内。国鉄駅構内に初設置されたバルクセンター(『70年史』p148〜149)
広島県八本松(『70年史』p828) 八本松駅構内と思われる
山口県小野田(『70年史』p828)
館林の製粉工場内(『70年史』p149)
筑後の製粉工場内(『70年史』p149)
神戸港駅〜和田山駅で定形貨物としてホキ1車設定されていた。
(『福知山鉄道管理局史』1973年、p528)

和田山がバルクセンターかどうかは不明だ が和田山駅に専用線あり。
1984 年2月:野田市駅の貨物取扱い廃止



1984 年2月:高田駅の貨物取扱い廃止
1974 年12月:八本松駅の貨物取扱い廃止
1984 年2月:小野田駅の貨物取扱い廃止


1982 年10月:和田山駅の貨物取扱い廃止
(『70年史』p150、上掲『福知山鉄道管理局史』p530を参考に筆者作成)

広 島八本松のバルクセンターとホキ車

 このほか特約店のバルクセンター(フレキシブル・コンテナ基地)は全国15カ所に設置されている。(『70年史』p149)


◆日本飼料ターミナル梶@
 バラ輸送の拡大に伴い、国鉄は配合飼料会社がそれぞれ各個に建設していたストックポイントを集約して、飼料のバラ共同基地を建設することとし1968 (昭和43)年 頃から有力配合飼料会社と話し合った結果、国鉄と業者の折半出資による「日本飼料ターミナル梶vを設立することとなった。第一次参加会社は13社で あった。第一次計画として倉賀野、石橋、竹松、熊本、下土狩、豊橋、内原に建設することとし、逐次完成した。さらに第二次計画も決定し、基地の建設が進め られており、参加配合飼料会社は15社に増加した。
(『70年史』p150)
 尚、日本飼料ターミナルの詳細については、拙webの物資別適合輸送と物流ターミナルの研究の 「飼料」の日本飼料ターミナルの項を 参照。

 盛岡鉄道管理局内の日本飼料ターミナル鰍ヘ、村崎野駅と尻内駅(現八戸駅)にあった。
 1970(昭和45)年8月26日に村崎野基地が開業した。利用荷主は、日清飼料、アミノ飼料、日本農産工業、日本配合飼料の4社。20 トンサイロ26槽、月間到着トン数は1970年1,500トン、1972(昭和47)年度2,700トン(内日清分:300トン)が見込まれる。
 1970年8月27日に尻内基地が開業した。利用荷主は、日清飼料、アミノ飼料、日本農産工業の3社。 月間到着トン数は1970年2,500トン、1972年度4,080トン(内日清分:1,125トン)が見込まれていた。
(日本国有鉄道盛岡鉄道管理局編集発行『盛岡鉄道管理局25年史』1976年、p63及び渡辺  一策『鶴見線貨物回顧』ネコ・パブリッシング、2009年、p36)

 1984(昭和59)年から物流コストの削減に取り組んだ。遠距離物流コスト削減の観点から、他社などへの委託の拡大を図った。東北地方で石巻、八戸、 四国では香川県の飼料会社などへの委託をした。(『90年史』p108)

 合理的物流の観点からは、ユーザー立地の変動であまり機能しなくなったバルクセンターを廃止し、これを直送や委託に切り替えた。バルクセンターの 廃止で設備の維持費や人件費がかなり軽減することになった。また逆に、新たにバルクセンターが必要になった地区には従来のような重厚な設備でなく、ユー ザー立地に付随して移設も可能な、安価で簡単な設備を設置した。
 このような見直しの結果、1984年初めに、日清製粉及び日本飼料ターミナル梶i1987年3月解散)利用のバルクセンターが全国で31カ所あったが、現在 (筆者註:1990年頃)では5カ 所と なっている。バラ製品はバルクセンターを経由せず、極力直送してコストの低減を進めている。(『90年史』p108〜109)

 我が国の配合飼料の出荷量は1988(昭和63)年の2,671万5,000トンをピークに減少傾向をたどり、1998(平成10)年には2,445万 5,000トンになった。需要の減少と規模の大型化のなかで、全国の飼料工場の数は1988年の186工場から1998年には152工場と大きく減少し た。
 日清製粉の飼料工場は完成から30年前後が経過して老朽化し、合理化にも限界があった。1社単独で大規模工場を建設するのはリスクが大きすぎるため、他 社よりもコスト競争力をつけるためには老朽化工場を閉鎖し、パートナーとの合弁で大規模工場を建設することが最良の方法であるとの結論に至った。( 『100年史』p474〜475)
 

◆潟Wャパンフィード 
 1988(昭和63)年7月に、鹿島臨海地区に飼料工場を建設運営することを目的に、日清製粉、三菱商事、日本農産工業の3社で潟Wャパンフィードが設 立され た。新工場1991(平成3)年1月に完成・稼働した。ジャパンフィードは資本金3億円、出資比率は日清製粉30%、日本農産工業30%、ニチロ30% (後資本参加)、三菱商事10%である。当時月産5万トンというのは日本最大規模の飼料工場であった。製粉工場において、合弁はいまだかつてなく、日清製 粉が飼料部門において合弁という選択肢を選んだことは画期的なことであった。
 このジャパンフィードの設立に伴って、鶴見工場飼料部を1991年3月31日をもって閉鎖し、以後飼料の製造はジャパンフィードほかに委託することに なった。鶴見工場飼料部は、業務を転換してペットフード部としてペットフード主体の製造を行うことになった。
(『100年史』p475〜476)


◆西日本飼料  
 1989(平成元)年2月、西日本飼料鰍ェ設立された。資本金4億円、出資比率は丸紅飼料60%、日清製粉30%、丸紅10%である。
 工場は倉敷市水島地区に1990(平成2)年10月完成した。月産生産能力は3万トンで、主原料の受入れは西日本グレーンセンターよりコンベアー搬入で ある。この 西日本飼料の設立稼働により神戸飼料工場を閉鎖し、西日本飼料に製造を委託することにした。神戸飼料工場は設備の老朽化が進んでいるのに加えて、畜産立地 との乖離が進み、物流コストの点からも不利になっていた。1990年12月29日をもって神戸飼料工場は閉鎖された。
(『100年史』p477〜478)


◆八代飼料梶@
 1993(平成5)年12月、八代飼料鰍ェ設立された。資本金4億円、出資比率は丸紅飼料35%、協同飼料22.5%、日清製粉22.5%(後日資本 参加)、丸紅20%である。新工場は八代市に1995年12月に操業を開始した。月産生産能力は3万5,000トンである。
 八代飼料の稼働に伴い、1996年3月中旬をもって、福岡飼料工場での畜産用飼料の生産を中止し、八代飼料ほかへ製造委託するとともに同工場を水産用飼 料専門工場とした。その後、福岡飼料工場は1999年12月をもって閉鎖され、2000年に解体が終了した。
(『100年史』p478〜479)

◆日本農産工業鰍ニの業務提携 
 日清製粉と日本農産工業は1998(平成10)年10月、両社の配合飼料部門において、南九州地区と中部地区で生産・物流面での業務提携を行うことで合 意 した。その具体的施策は以下である。
(1)南九州地区
 日本農産工業の受託専門メーカーである鹿児島市の光産業鰍閉鎖し、今後は日本農産工業且u布志工場と日清製粉且ュ児島飼料工場の受委託に より製造及び物流面での効率的オペレーションを図りながら、両社の鹿児島地区での生産体制を再構築していく。
(2)中部地区
 日清製粉は福岡飼料工場を閉鎖し、同工場で生産している水産用飼料を知多工場に移管する。これに伴い、より効率的な生産体制をねらい日清製粉樺m多 工場と日本農産工業樺m多工場との間で受委託を推進する。
(『100年史』p479)

 日本農産工業は畜産向け配合飼料を生産する主力拠点を増強する。2001(平成13)年4月に塩釜工場、2001年末までに志 布志工場の設備を増強する。両工場は主力工場で、東北・南九州の両地区の飼料生産は堅調に推移しているため集中投資する。
(『日経産業新聞』2001年1月4日付11面)


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