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日本板硝子株式会社
2012.11.24作成開始 2012.12.2公開  2012.12.24訂補
<目次>
日本板硝子の概要
日本板硝子の沿革
日本板硝子の鉄道貨物輸送
 珪砂の調達について
 ストックポイントについて
 若松工場
 四日市工場
 舞鶴工場
 千葉工場


■日本板硝子の概要
本 社所在地
東 京都港区三田三丁目5番27号 住友不動産三田ツインビル西館
設 立年月日
1918 年(大正7年)11月22日
資 本金
116,449 百万円
連 結売上高
552,223 百万円(2012年3月期)
従 業員数
約 29,700名(2012年3月31日現在)



■日本板硝子の沿革  
年  月
項   目
1918 (大正7)年11月
日米板ガ ラス株式会社として設立され、大阪市に本店を置く
1919 (大正8)年5月
北九州市 若松区に若松工場建設
1931 (昭和6)年1月
日本板硝 子株式会社と現社名に変更
1935 (昭和10)年8月
四日市市 に四日市工場建設
1951 (昭和26)年3月
舞鶴市に 舞鶴工場建設
1963 (昭和38)年9月
市原市に 千葉工場建設
1964 (昭和39)年11月
舞鶴工場 にフロート方式による板ガラス製造設備新設
1969 (昭和44)年7月
千葉工場 に型板ガラス製造設備新設
1971 (昭和46)年8月
千葉工場 にフロート方式による板ガラス製造設備新設
1977 (昭和52)年12月
若松工場 閉鎖
1978 (昭和53)年6月
舞鶴工場 にフロート方式による板ガラス製造設備新設
1998 (平成10)年2月
舞鶴工場 に新フロート窯操業開始
2006 (平成18)年6月
英国ピル キントン社を完全子会社化



■日本板硝子の鉄道貨物輸 送  
 日本板硝子は、ガラス業界の同業他社(旭硝子、セントラル硝子など)と比べて、板ガラスの鉄道貨物輸送を積極的に行っていた印象がある。物資別適合貨車 による板ガラス輸送が松尾寺駅や椎津駅を拠点に行われていたため、そのようなイメージがあるのだろう。また原料輸送においても珪砂やソーダ灰、ドロマイト などで車扱輸送による受入れが松尾寺駅や椎津駅を中心に行われていたなど、鉄道貨物輸送に対する依存度が相対的に高かったようだ。

 しかし現在では、各工場の専用線は全て廃止され、鉄道コンテナ輸送もそれほど積極的には利用していないようだ。過去の経緯を知ると寂しい限りだが、割れ 物であるガラスの輸送はコンテナ輸送するにも細心の注意が必要になろう。ガラス輸送に適した専用のコンテナが必要なのかもしれない。

 それでは、まずは日本板硝子の最後の車扱輸送(新 守山〜松尾寺)となった「珪砂」について、その調達先の変遷を纏めてみる。



▼珪砂の調達について  
 若松工場操業開始当時は、旭硝子から朝鮮大黒山珪砂を譲り受けていたが、その後、同社朝鮮味浦産のもののほか、一部は紀州産のものも買い付けていた。大 正11年2月からは、仁川慶田組との間に朝鮮巡威島産珪砂の採取計約を結び、これを使用した。([1]p79-80)

 しかし日中戦争や太平洋戦争の激化とともに海上輸送が難しくなってきた。海運統制委員会は珪砂を「第一順位の重要物資に非ざるもの」としたため、珪砂輸 送に向けられる船腹は少なく、その入荷は次第に減少した。これより先に、徐々に国内珪砂の開発が進められていた。日本板硝子は昭和14年4月、岐阜県の窯 業原料商との間に珪砂採掘権譲渡条約を結び、愛知県瀬戸市大字瀬戸にあった約3万坪の土地の採掘権、同県春日井郡水野村の珪砂洗浄設備などを譲り受けた。 しかしこの瀬戸珪砂は、適当な粒度のものをそろえることは難しく、当時の技術では使用の見込みが立たなかったため契約を解約した。その他にも周辺で珪砂採 掘地の探索を行った。これらの供給先は四日市工場向けがであったが、良質のものが少なく、朝鮮珪砂の不足を補うことはできなかった。([1] p188)

 朝鮮珪砂は、昭和20年の敗戦とともに入荷が途絶したので、早急に国内珪砂を探索する必要があった。そこで昭和21年の初めから五島列島や中国地方の海 岸線を中心に珪砂の調査を行ったが、適当な品質のものが見つからなかった。昭和22年には、普通板ガラスの生産が四日市工場から再び二島工場に移された 頃、日豊珪砂工業(株)(現、(株)ニチフク)から愛知県瀬戸の珪砂を購入、 試験 的に使ったが採掘量が少なく、到底必要量を入手できないため、再び五島列島や山陰地方の海岸を調査した。その結果、同年7月から山口県豊浦郡豊浦町の小串 珪砂、昭和23年8月から五島列島の五島珪砂が二島工場に納入され始めた。しかしこれらの珪砂はいずれも海岸へ吹寄せられた浜砂で品質的に劣っており、採 掘量にも限度があった。そこで金山で金を採るときの副産物である佐渡珪砂に注目した。

 昭和22年11月、三菱鉱業との間で珪砂を購入する話がまとまり、翌23年4月に生産を再開した四日市工場に納入が始まった。二島工場は主に佐渡・五 島・小串の珪砂を混用し、四日市工場は佐渡と五島の珪砂を混用した。([1]p242-243)

 日本板硝子は埋蔵量の豊富な瀬戸の珪砂を、本格的に使用することを検討することになった。瀬戸珪砂はこれまで山砂をそのまま篩にかけて精選していたため ロスが多く、使えるのは月400トン前後に過ぎなかった。同社は日豊珪砂工業と協力して、瀬戸珪砂から板ガラス原料に適する品質、粒度の珪砂を作ることに 努力し、コニカルミルで粉砕することによって適当な粒度に仕上げることができるようになり、ロスも少なくなった。この方式はその後広く普及し、日豊珪砂工 業は昭和24年6月、もっぱら板ガラス原料用珪砂を作るため、湯之根工場を完成、生産能力を増強した。四日市工場が更に2号窯を動かし、3炉体制になった 昭和24年10月ごろには、瀬戸珪砂が月3,000トン、佐渡珪砂同2,000トンとなり、量的には原料珪砂の心配は全くなくなった。

 その後、瀬戸珪砂の生産力は更に向上し、しかもその埋蔵量は無尽蔵といえるほど豊富で、品質も優れているうえ、輸送費も安いので、日本板硝子は瀬戸珪砂 を主力とするようになった。佐渡珪砂は金山の縮小とともにその生産に問題を生じ、次第に入荷量が減少し、三菱鉱業との話し合いにより、昭和 28年4月以降の 生産品の購入を打ち切ることにした。

 その他の地域の珪砂も一時期あったが、瀬戸珪砂業界の成長によってこれも必要なくなった。このようにして原料珪砂は瀬戸珪砂だけとなり、日豊珪砂工業・ 河地窯業原料・関西窯業の3社から納入されるようになった。([1]p243-244)



▼ストックポイントについて  
 日本板硝子は工場から全国各地のストックポイント(倉庫)を経由して出荷されている。鉄道貨物輸送による板ガラス輸送も盛んで、専用線を保有する倉庫を ストックポイントとして活用することも多かった。また専用線は無くても、貨物取扱駅に近接する倉庫が活用されていたようで、鉄道貨物輸送を前提とした物流 体系となっていたことが窺える。

▽ストックポイント一覧
ス トックポイント
専 用線
所管駅
使 用開始
備   考
澁澤倉庫 (株)(小樽市)
浜小樽
1951(昭 26)年
[1]p308
日本通運 (株)長町倉庫(仙台市)
長町
1962(昭 37)年9月

熊谷通運 (株)広瀬倉庫(熊谷市)
熊谷
1961(昭 36)年5月

日本板硝 子(株)芝浦倉庫(東京都港区)

1934(昭 和9)年1月
芝浦埠頭 に設置([1]p144)。芝 浦駅は1930(昭5)年8月に開業。
日本通運 (株)白鳥倉庫(名古屋市)

1964(昭 39)年6月
東陽倉庫 (株)堀川倉庫から変更。東海道貨物支線の白島駅の近くか?
日本通運 (株)金沢倉庫(金沢市)
金沢
1962(昭 37)年10月

大阪埠頭 倉庫(株)安治川倉庫(大阪市港区)

1959(昭 34)年9月
二島海運 (資)三軒家倉庫を残したほか大阪市内の倉庫を統合。
日本通運 (株)広島倉庫(広島市)

1963(昭 38)年4月

([1]p360、「昭和39年版専用線一覧表」などより作成)



▼若松工場  
 1919(大8)年5月に若松工場が建設された。

 創業当時の製品の輸送は貨車積みが主で、工場での積込みは 二島駅の鉄道省公認運送取扱人に指定されていた梅田運輸店によって行われた。大消費地である大阪・東京向けの貨車は、それぞれ梅田駅、秋葉原駅に到着し、 大阪では大阪運輸組合合資会社(後の大阪運輸株式会社)が、東京では朝日運輸社が荷扱いに当たっていた。到着した製品は駅構内で特約店の引取りに応じ、大 口注文については馬車で配達していた。また大阪・東京では、数量はあまり多くはなかったが、住友倉庫に製品の保管を委託していた。貨車便のほか大阪方面に はときどき船便による輸送も行われ、堂島川の河畔で荷捌きしたこともあるが、船輸送が積極的に利用されたのは昭和に入ってからのことであ る。([1]p88)
 
 1977(昭52)年12月に若松工場は閉鎖された。



▼四日市工場  
 四日市工場は1936(昭11)年12月に操業を開始した。([1]p161)

 四日市工場には、松尾寺駅(舞鶴工場)や椎津駅(千葉工場)から板ガラスが到着していたようである。また逆に椎津駅には板ガラスの発送も行っていたよう だ。

 原料受入れの合理化として、1961(昭36)年2月にはアプライトをダンプカーによって、同年11月には芒硝をコンテナー袋によって受入れ、また ソーダ灰については徳山曹達と協力して受入れ設備を完成し、1964(昭和39)年11月からは船から直接未包装のまま受け入れるようになった。([1] p408-409)

 一方、舞鶴工場はソーダ灰の受入れはホキ4900形の貨車を 用いる合理化を行った。

 千葉工場の専用線は、1984(昭59)年4月に廃止された([4]p109)ので、同時期に四日市工場の専用線も廃 止されたものと思われる。



▼舞鶴工場  

1995.9松尾寺駅に接続していた専用線跡。トンネルの左側が線路 跡。

1995.9専用線跡。右側に舞鶴工場がチラッと見える。

 鉄道引込線の敷設も市委託工事として、福知山鉄道管理局の設計指導で行われ、国鉄小浜線松尾寺駅から工場近くまで敷設されていた旧第三海軍火薬廠鉄道側 線(約6km)を利用して工場内に引込線を敷設、1951(昭26)年11月竣工した。側線は当初舞鶴市の名義で使用許可を得て、工場建設資材の輸送に 利用していたが、その後、連合軍に接収され、日本板硝子と連合軍で共同使用することになった。接収解除後、市に譲渡されたので、1959(昭34)年4 月から同社は市に使用料を支払って専用している。([1]p286-287)

▽舞鶴工場の専用線概要
専 用線
番号
所 管駅
専 用者
第 三者利用者
通運事業者等
作 業方法
作 業キロ
総 延長キロ
記  事
1999
松 尾寺
日 本板硝子(株)舞鶴工場
日 本通運(株)
日 通機
板 硝子大波
1番線 0.1
板硝子大波
2番線 0.1
構内1番線
0.6
構内2番線
0.5
磨砂線 0.2
検修線 0.1
石灰石線 0.1
発送車仕訳線
0.2
荷造場線 0.3
珪砂線 0.4
原料線 0.1
ブタン線 0.1
到着車仕訳線
0.3
コンテナ線 0.1
3.3
舞 鶴市線(大波線)に接続
(「昭和50年版専用線一覧表」より)

 かなり規模の大きな専用線であったことが分かる。「懐かしい駅の風景〜線路配線図とともに」 のブログでは、1979(昭54)年8月当時の松 尾寺駅構内の入換風景と大変貴重な専 用線の配線図を掲載している。日本板硝子の工場の中でも、舞鶴工場が特に鉄道貨物輸送への依存度が高かったものと思われる。

 1962(昭37)年7月、4号炉の生産開始から板ガラスの鉄道輸送は増大し、1967(昭42)年の大型ガラスの生産に伴い天井開きパワム25両低床トキ2両の 改造など適合貨車の配車で対処 したが、1969(昭44)年千葉工場が新設(筆者註:千葉工場に型板ガラス製造設備が新設されたことを指しているものと思われる)さ れ漸減の傾向を示している。([2]p526)
 発送は、パワム、トム、トラなどで、1日平均30両くらい だった。板ガラス専用貨車の、屋根開閉式のワム581000代や、トキ22000型も常備されていた。([5]p33)
 トキ22000形は、1968(昭43)年に後藤工場で2両がトキ15000形から改造され、1982年度に廃車となった。([6] p110-111)

▽板ガラス出貨状況 (単位:千トン)
年  度
1962
1963
1964
1965
1966
1967
1968
1969
1970
1971
発 送トン数
102.0
128.7
131.7
128.0
161.5
192.6
202.8
170.8
146.2
122.6
([2]p526)

▽日本板硝子に関わる定形貨物輸送実施表
年  月
1966 年4月
1966 年4月
1967 年8月
1968 年10月
1968 年10月
品  名
板 ガ ラ ス
発  駅
松  尾  寺
着  駅
四 日市港
大 阪東港
芝  浦
椎  津
二  島
車  数
ト ム・トラ5両
ト ム・トラ5両
パ ワム2両
パ ワム2両
パ ワム2両
備  考
四日市工 場着か
大阪埠頭 倉庫着か
日本板硝 子(株)芝浦倉庫着か
千葉工場 着か
若松工場 着か
([2]p528)

 原料受入れの合理化として、舞鶴工場でもソーダ灰の受入れにはエアスライド方式による専用貨車を利用することになり、1961(昭36)年6月から試 用し、11月から本格的に使用した。([1]p408)
発 駅
発 荷主
品  目
着 駅
着 荷主
貨 車
備   考
周 防富田
東 洋曹達工業(株)
ソー ダ灰
松 尾寺
日 本板硝子(株)
ホ キ4900形
1978(昭53)年7月に同社所有のホキ4900形がまとめて廃車になり、
本形式は形式消滅した。
吉岡心 平氏のwebサイトホ キ4900形4925より)
大 阪港
徳 山曹達(株)
ソー ダ灰
松 尾寺
日 本板硝子(株)
ホ キ4900形
1977(昭52)年11月廃車吉岡心 平氏のwebサイトホ キ4900形4926より)
 このように東洋曹達工業(現、東ソー)は周防富田(現、新南陽)駅の専用線からホキ車でソーダ灰を輸送していたのに対して、徳山曹達(株)は大阪港まで 船舶 でソーダ灰を運び、港に設置されたタンクから貨車で松尾寺まで運ぶという輸送を行っていたようである。
 また大阪港駅には、「昭和39年版専用線一覧表」によると徳山曹達(株)の専用線が存在する。

 苛性ソーダの輸送にも鉄道貨物輸送は利用された。
発 駅
発 荷主
品  目
着 駅
着 荷主
貨 車
備   考
高 砂港
鐘 淵化学工業(株)
苛 性ソーダ
松 尾寺
日 本板硝子(株)
タ キ7750形17795
1986(昭61)年11月廃車吉岡心 平氏のwebサイトタキ7750形17795より)
 鐘淵化学工業以外にも苛性ソーダがタンク車輸送されていても良さそうだが、今のところこの輸送しか判明していない。

 板ガラスやソーダ灰、苛性ソーダの鉄道貨物輸送が廃止になった後も、下記の珪砂輸送だけが続けられていた。上述の 瀬戸珪 砂を調達するための輸送である。
発 駅
発 荷主
品  目
着 駅
着 荷主
貨 車
備   考
新 守山
日 豊珪砂工業(株)か?
珪  砂
松 尾寺
日 本板硝子(株)
ト キ25000形
1989(平元)年3月ダイヤ改正で列車設定が消滅

 この珪砂輸送の廃止に伴い、最盛期には1日に30両程度の発送を誇り、途中にトンネルまで備えた大規模な松尾寺駅の日本板硝子の専用線が廃止さ れた。この廃止により日本板硝子は鉄道貨物輸送の利用が殆ど無くなったものと思われる。



▼千葉工場  
 1963(昭38)年に千葉工場の建設が開始され、1964(昭39)年7月1日に千葉工場は正式に発足した。
 出荷当初は産業道路、京葉臨海鉄道とも未完成だったため、製品の出荷には並々ならぬ苦労があった。遠隔地向けは房総線姉崎駅までトラックで運び、同駅か ら貨車輸送した。東京支店芝浦倉庫向けには、工場岸壁から直接船輸送も行った。一方、京葉臨海鉄道の延長工事のために関係進出企業の出資により増資を行 い、日本板硝子も資本参加した。1964年10月に着工した路線は、1965(昭40)年6月に開通した。同時に、同社の専用線も完成したため、即日、 仙台倉庫及び熊谷倉庫向けの製品が専用線を利 用して初出荷した。([1]p374-375)

▽京葉臨海鉄道の品目別トン数 (単位:トン)
年 度
1965
1966
1967
1968
1969
1970
1971
1972
1973
1974
1975
1976
1977
1978
1979
1980
1981
発 送(ガラス製品)
9,000
17,000
19,000
20,737
56,060
74,322
65,645
78,777
91,378
78,209
60,748
33,934
24,327
27,598
20,376
24,645
6,215
到 着(ガラス)
5,714
20,835
26,544
27,602
19,580
23,995
24,309
19,477
25,780
14,558
18,581
26,153
21,546
21,493
33,036
14,997
21,432
合  計
14,714
37,835
45,544
48,339
75,640
98,317
89,954
98,254
117,158
92,767
79,329
60,087
45,873
49,091
53,412
39,642
27,647
([3]p190-191)

 京葉臨海鉄道のガラス製品及びガラスの発着トン数が、全て日本 板硝子なのかは不明だが同社の荷主企業から判断すると殆どが日本板硝子の輸送と判断して構わないものと思われる。
 輸送量のピークは1973(昭和48)年度であるが、それ以降は特に発送が急速に落ち込んでいる。千葉工場からの発送は船やトラックへの転換が急速に進 む一方で、到着は安定しているので他工場からのガラスの到着は鉄道貨物輸送を維持していたものと考えられる。

駅  名
会 社名
主  な る 着 駅
主  な る 発 駅
椎 津
日 本板硝子
長 町、松尾寺、第三会沢、横川
松 尾寺、長町、第三会沢、四日市港
駅  名
会 社名
発   送
到   着
椎 津
日 本板硝子
板 ガラス、空タンク車、ボックスパレット芒硝、積付用Lラック 板 ガラス、ドロマイド、ボックスパレット
([3]p195、p197)

 椎津〜長町・松尾寺で板ガラスの輸送があり、松尾寺・四日市港〜椎津でも板ガラスの輸送が行われていたものと思われ る。また第三会沢〜椎津でドロマイド輸送が行われていたよう だ。横川が謎だが同駅からは「芒硝」が到着していたのであろうか?
発  駅
発 荷主
品  目
着  駅
着 荷主
貨  車
備    考
椎 津
日本板硝 子(株)
板ガラス
四 日市港
松尾寺
日本板硝 子(株)
日本板硝子(株)
トキ 80000形
工場間輸 送。連結時の衝撃による破損事故が多く、
郡山のJOTヤードで長期留置の後、1984年4月廃車
吉岡心 平氏のwebサイトの「ト キ80000形80000」より)
第 三会沢
日鉄鉱業 (株)
ドロマイ ト
椎 津
日本板硝 子(株)
タキ 21000形
1983 年6月廃車。吉岡心 平氏のwebサイトの「タ キ21000形21021」より)

 椎津駅の日本板硝子の専用線は、1984(昭59)年4月に廃止された。([4]p109)

 千葉工場のコンテナ輸送については、平成19 年度「エネルギー使用合理化事業者支援事業」採択案件に下記のようなものがある。
番 号
事 業の名称
事 業者名
実 施場所
実 施内容
221
硝子専用馬一体型無蓋コンテナ
利用した鉄道へのモーダルシフトに
よる省エネ事業
日本通運 (株)/日通商事(株)/
日本板硝子(株)/日本貨物鉄道(株)/
京葉臨海鉄道(株)
千葉県千 葉市
中央区浜野町
1216
千葉県市 原市から兵庫県・岡山県・広島県へ輸送している
建材硝子の輸送モードを、トレーラーおよびトラックから鉄道
へモーダルシフトし、CO2を削減する。

 しかしこのような硝子専用の無蓋コンテナの目撃情報が筆者の知る限り無いため、この輸送が実現したのかどうか懐疑的ではある。




[1]『日本板硝子五十年史』日本板硝子株式会社、1968年
[2]『福知山鉄道管理局史』日本国有鉄道福山鉄道管理局、1973年
[3]『京葉臨海鉄道20年史』京葉臨海鉄道株式会社、1983年
[4]『35年のあゆみ』京葉臨海鉄道株式会社、1999年
[5]渡辺 一策「ローカル貨物列車ワンポイントガイド」『鉄道ダイヤ情報』第24巻第11号、1995年
[6]吉岡 心平「私有無蓋車トキ25000形が登場!」『レイル・マガジン6月号』第16巻第8号、1999年


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