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三菱製紙株式会社 2001.7.6作成 2006.1.1更新 2008.1.1訂補

 三菱製紙株式会社(本社・東京都千代田区)は、紙.パルプ.写真感光材料の製造、加工および販売を行っており、2007(平成19)年3月期の連 結業績は、売上高2,443億円、経常利益53億円。

 営業品目は、晒クラフトパルプ印刷.筆記用紙(コーテッド紙、上質紙)、書籍用紙情報用紙 (ノーカーボン紙、OCR用紙、フォーム用紙、感熱紙、熱転写受像紙、磁気記録紙、インクジェット用紙)、事務用紙(トレーシングペー パー、PPC用紙、タイプライター用紙、バンクペーパー)、 高級白板紙特殊用紙 (電気絶縁紙、プレスボード、不織布、その他特殊紙)、写真印画紙(白黒印画紙、カラー印画 紙)、 カラーフィルムレンズ付フィルム写真用原紙印刷製版材料(銀塩方式及び電子写真方式ダイレク ト製版システム)、 版下作成材料(イメージセッター用・スキャナー用・電算写植用・写植用フィルム及び印画紙、明室返し用、拡散転写紙)、工業用複写印画紙ジアゾ感光紙関連機器処理薬品、その他である。 (http://web.infoweb.ne.jp/mpm/company/gaiyo.html  より)

=目 次=
<年表>
高砂工場
浪速工場
京都工場
中川工場
白河工場
北上工場
八戸工場
北越製紙株式会社との提携とその解消
中越パルプ工業株式会社との合併 構想とその破談
 

<年表> http://web.infoweb.ne.jp/mpm/company/history.html  などより筆者が作成
1898(明治31)年04月 神戸市三宮においてウォルシュ氏兄弟が経営していた製紙会社を岩崎久弥が譲り受け合資会社神戸製紙所を設立し洋紙の抄造および販売を開始(三菱製紙の創 立)
1901(明治34)年07月 神戸市三宮から、兵庫県高砂市に工場を移転(現在の高砂工場)
1904(明治37)年06月 社名を合資会社三菱製紙所と改称
1911(明治44)年06月 台湾に台湾三菱製紙所を建設し、亜流酸法による竹パルプの製造を開始
1913(大正02)年05月 高砂工場、洋紙と併せ、手漉による和紙の製造を開始
1915(大正04)年05月 高砂工場、六桜社よりの依頼により写真用紙を試抄
1916(大正05)年04月 台湾三菱製紙所を閉鎖
1917(大正06)年01月 東京都葛飾区新宿に中川工場を建設
1917(大正06)年11月 組織を株式会社に変更し、社名を三菱製紙株式会社と改称
1918(大正07)年04月 中川工場構内に江戸川バリウム工業所を建設、操業開始
1920(大正09)年07月 東京都文京区駒込に三菱製紙研究所を開設
1925(大正14)年12月 本社を兵庫県高砂市から東京都千代田区有楽町に移転
1933(昭和08)年01月 高砂工場で、バライタ原紙(写真用原紙)を試抄。中川工場から、真珠アルトン紙を売り出す
1935(昭和10)年06月 高砂工場で、バライタ原紙(写真用原紙)の抄造開始
1944(昭和19)年02月 京都写真工業株式会社(京都府長岡京市所在)との合併成立。写真印画紙に対する京都試製工場とする(後に現在の京都工場と改称)
1944(昭和19)年08月 浪速製紙株式会社(大阪市福島区大開町所在)との合併成立。引続き板紙の抄造にあたり浪速工場と改称
1950(昭和25)年07月 京都工場で、螢光剤を使用した「月光V」(青黒調)を発売。多大の反響を呼ぶ
1956(昭和31)年04月 京都工場で、迅速複写紙「ヒシラピッド」を発売
1958(昭和33)年07月 高砂工場バライタ紙製造関係を中川工場へ移管
1962(昭和37)年06月 米国The National Cash Register Co.と日本国内のNCR紙の製造につき技術提携契約調印
1965(昭和40)年04月 三菱カラー印画紙販売
1965(昭和40)年10月 白河パルプ工業株式会社と合併契約調印
1966(昭和41)年04月 青森県八戸市に八戸工場を新設
1966(昭和41)年04月 白河パルプ工業株式会社(資本金10億円)との合併成立。同社の白河工場、北上工場が三菱製紙の工場となる
1966(昭和41)年12月 浪速工場を閉鎖
1985(昭和60)年04月 ニューヨーク(アメリカ)に、現地法人Mitsubishi Paper International,Inc.を設立
1989(平成元)年01月 筑波研究所を新設(現在の総合研究所)
1989(平成元)年08月 デュッセルドルフ(西ドイツ)に、現地法人Mitsubishi Paper GmbHを設立
1995(平成07)年01月 ニューヨーク(アメリカ)に合弁販社Mitsubishi Imaging(MPM),Inc.を設立
2000(平成12)年07月 北越製紙株式会社と業務、資本提携
2001(平成13)年01月 コダック株式会社と合弁でコダックダイヤミック株式会社を設立
2003(平成15)年03月 中川工場を閉鎖
2005(平成17)年04月 北上工場を北上ハイテクペーパー株式会社として分社化
2005(平成17)年10月 中越パルプ工業株式会社と合併予定が破談
2006(平成18)年01月 北上ハイテクペーパー株式会社に特種製紙株式会社が資本参加
2007(平成19)年04月 北上ハイテクペーパー株式会社を三菱製紙株式会社が完全子会社化
2007(平成19)年11月 三菱製紙株式会社と王子製紙株式会社が情報用紙分野で業務提携


<高砂工場>
『三菱製紙100年史』より

 三菱製紙の発祥は兵庫県の高砂工場である。合資会社神戸製紙所が高砂町に工場を建設、1901(明治34)年5月に第1号抄紙機の運転を開始し た。 [1]
 資材・製品輸送には当初ほとんど馬車を使って山陽鉄道加古川駅まで運んでいたが、1914(大正3)年に播州鉄道が敷設されると、翌1915年2月高砂 駅分岐点から構内までの 専用側線の敷設契約を結び、これによって製品輸送力は飛躍的に上昇することになった。1919(大正8)年には複 線化、1923(大正12)年には構内部分の100mの延長工事を行った。 [1]
 高砂工場は1930年代初頭では7割以上が鉄道輸送であった。また運賃価格の動向を見ながら、10%程度は船便も利用されていた。[1]

 1983(昭和58)年9月からは国鉄高砂線廃止に備え北上工場のパルプの船輸送テストを実施したが、かなりのコスト削減が期待できたこと から高砂線の廃止を待たずに切り替えることにした。 [1]
 しかし1998年の筆者の調査では、六原(三菱製紙北上工場)→姫路貨物(三菱製紙高砂工場) のコンテナ輸送を目撃しており、一部はコンテナ輸送で鉄道輸送が継続されているようだ。(→北上工場参照)
 この輸送の船舶と鉄道(さらにはトラック?)の輸送比率が気になるところではある。

 1987(昭和62)年度ローリングプランでは、「情報関連用紙の主力工場として、ノーカーボン紙・感熱紙のコストダウンを強力に推進する」との 位置付けであった。 [1]

*高砂工場の専用線概要の推移
専用線一覧表 所管駅 専用者 第三者利用者 作業方法 作業キロ 記事
昭和26年版 高砂
高砂港
三菱製紙(株)高砂工場
三菱製紙(株)高砂工場

相手方機
国鉄機
0.5km
0.2km

昭和28年版 高砂 三菱製紙(株) 日本通運(株) 相手方機 0.5km
昭和32年版 高砂港 三菱製紙(株)高砂工場
国鉄機 0.2km 使用停止
昭和39年版 高砂 三菱製紙(株)高砂工場 日本通運(株) 日通機 0.5km
昭和42年版 高砂 三菱製紙(株)高砂工場 日本通運(株) 日通機 0.5km
昭和45年版 高砂 三菱製紙(株)高砂工場 日本通運(株) 日通機 0.5km
昭和58年版 高砂 三菱製紙(株)高砂工場 日本通運(株) 日通機 0.5km

 1984(昭和59)年2月1日には高砂線の鉄道貨物輸送が廃止されたため、この時点までに車扱輸送は全廃になったのだろう。
 

<浪速工場> 
『三菱製紙100年史』より

  浪速工場への原木輸送は従来機帆船によることが多かったが、1949(昭和24)年頃から貨車積のものが増加した。一方、製品は東京・名古屋方面への出荷 も増えたことから、貨車便で輸送するためトラックで野田駅または梅田駅に運ぶことが多くなった。このため輸送コスト削減には専用側線が必要となり、 1951(昭和26)年10月野田駅まで1,900m余の側線を建設することになった。 1953(昭和28)年2月の専用側線の敷設完成に伴い運河として利用していた中津川支流は不要となったため自家埋め立てを行い、大阪府から払い 下げを受け自社所有地となった。[1]
 浪速工場は赤字が続き、思い切った投資をするにも、都会地に立地するため新型抄紙機の導入などの抜本策も実現不可能であった。そこで閉鎖が決定され、 1966(昭和41)年5月から1967(昭和42)年12月にかけて第1号抄紙機から第3号抄紙機が順次停止し工場の全活動が停止した。工場跡地は、大 阪市に売却した一部を除いて、1968(昭和43)年4月に福山通運に売却された。[1]

*浪速工場の専用線概要の推移
専用線一覧表 所管駅 専用者 第三者利用者 作業方法 作業キロ
昭和28年版 野田 三菱製紙(株)浪速工場 浪速通運(株)
 
浪速通運
会社機
1.3
昭和32年版 野田 三菱製紙(株)浪速工場 浪速通運(株) 浪速通運
会社機
1.3
昭和39年版 野田 三菱製紙(株)浪速工場 浪速通運(株) 浪速通運
会社機
1.3
昭和42年版 野田 三菱製紙(株)浪速工場 浪速通運(株) 浪速通運
会社機
1.3
昭和45年版 野田 三菱製紙(株) 日本運輸倉庫(株)大阪支店
浪速通運(株)
(株)菱三商会
浪速通運機 1.3
昭和58年版 野田 三菱製紙(株) 日本運輸倉庫(株)大阪支店
浪速通運(株)
三菱製紙販売(株)大阪支店
浪速通運機 1.3


<京都工場>

  1938(昭和13)年6月に京都写真工業が創立され、1944(昭和19)年には三菱製紙に吸収合併され同社京都試製工場となり、翌年には京都工場と改 称された。写真印画紙や印刷製販材料を製造している。[1]
 1974(昭和49)年3月には日本石油輸送株式会社は、三菱製紙京都工場向けに感光紙輸送用冷蔵コンテナ(UR1型)を建造しリースを 開始している。[2]
 

<中川工場>
『三菱製紙100年史』より

 戦時下に極度の輸送難を経験して以来の懸案であった金町駅構内専用線から分岐する専用側線の建設は、終戦直後から具体化が検討された。延長 1,500mの専用側線を敷設し江戸川工業所にも分岐すれば、両社ともに運搬経費と時間の節約が可能であった。1948(昭和23)年3月から着工し、 1949(昭和24)年5月に完成し以後その利用度は飛躍的に伸びることとなった。 [1]
 1958(昭和33)年に決定した第1次事業計画では、中川工場のアート紙製造を月産500トン増加させることを計画した。中川工場のアート紙増産を計 画の中心に据えたのは、アート紙が今後も需要の拡大が見込まれる付加価値の高い戦略商品で、三菱製紙が競争力を維持し得る商品と認めたからであった。大消 費地の東京に立地し、原料供給を白河パルプ工業に求める関係から、中川工場が量産を図る上で最適な工場と選定された。中川工場は1955(昭和30)年1 月に6号抄紙機を含むバライタ紙製造の一貫工場が稼動しており、1958年7月には高砂工場のバライタ紙を中川工場に移管していた。そしてこのアート紙増 産計画により、三菱製紙の主力工場としての中川工場の性格が一層鮮明に打ち出された。[1]

*中川工場の専用線概要の推移
専用線一覧表 所管駅 専用者 第三者利用者 作業方法 作業キロ 記事
大正12年版 金町 三菱製紙(株)
手押
昭和5年版 金町 三菱製紙会社
手押 0.1
昭和26年版 金町 三菱製紙(株) 白井運送(株)
(株)江戸川工業所
相手方機 1.0
昭和28年版 金町 三菱製紙(株) 白井運送(株)
(株)江戸川工業所
相手方機
国鉄機
1.0
昭和32年版 金町 三菱製紙(株) 白井運送(株) 私有機
国鉄機
1.0
昭和39年版 金町 三菱製紙(株)中川工場 白井運送(株) 国鉄機
私有機
1.0
昭和42年版 金町 三菱製紙(株)中川工場 白井運送(株) 国鉄機
私有機
1.0
昭和45年版 金町 三菱製紙(株)中川工場 白井運送(株) 私有機 1.0
昭和58年版 金町 三菱製紙(株)中川工場 白井運送(株) 白井通運機 1.0 一部国鉄側線使用

*三菱製紙が設備廃棄へ 東京・中川工場
 (朝日新聞、1999年5月27日付、11面)
  製紙大手の三菱製紙は26日、中川工場(東京都葛飾区)で、2003年3月までに7台の生産設備すべてをストップし、同工場での紙の製造事業をやめると発 表した。業界全体の設備過剰が続くなかで、設備廃棄を通じて競争力を回復するのが狙い。同社全体で年間約100万トンの生産力のうち、5%程度の生産能力 が削減されることになる。同時に同社は、売上高全体の3%程度を占めているパルプの外部販売事業からも撤退する。

 2003(平成15)年3月に中川工場は閉鎖された。下記にあるように、物流拠点としての機能は埼玉県新座市に建設された三菱倉庫株式会社新座配 送センターに移された。八戸工場(北沼駅)からの車扱による鉄道輸送も 新座貨物ターミナル駅着 へと変更の上、コンテナ化された。(→八戸工場参照)

2005.2.26三菱倉庫(株)新座配送センター

*三菱製紙/関東の物流体制再編/品質向上へ2拠点体制  [3]
 三菱製紙は、関東地区の物流体制を再編する。4月をメドに、三菱倉庫の新座配送センター内(埼玉県新座市)に、関東地区の内陸拠点倉庫を設置。有明倉庫 (東京都江東区)と2拠点体制で物流品質向上を図る。
 三菱製紙では、最近の需要家が東京都西北部から埼玉県南部に集中する傾向にあったため、従来の花の木倉庫(葛飾区)と有明倉庫を活用した物流体制見直し が求められていた。3月末に中川工場(同)が生産を中止することから花の木倉庫も閉鎖、機能を新センターへ移管する。今後、年間1万トン(筆者註:月間1 万トンの誤りではないか?)に及ぶ商品を取り扱う。
 また、八戸工場から新拠点への製品輸送は専用コンテナ列車を使用。有明倉庫向け専用船輸送と合わせ、モーダルシフトも推進する。同社では 「体制再編で、年間1億円以上のコスト削減効果がある」としている。

*新座拠点4月完工/首都圏内陸の営業強化/三菱倉庫 [4]
 三菱倉庫(本社・東京、鈴木恭明社長)が埼玉県新座市に建設中の「新座配送センター」が今年4月完工する。倉庫の半分以上のスペースを山之内製薬の専用 に充てる。首都圏内陸部の営業拠点拡充が期待される。
 同センターは、敷地面積が約1万5,300平方メートル、延べ床面積が約2万8,600平方メートルの鉄筋5階建て。JR新座貨物駅から約3キロ、関越 道所沢インターチェンジから約4キロ。同社はこのほど、山之内製薬の物流業務を受託。約1万5,000平方メートルを山之内専用スペースとする予定で、医 薬品対応のため薬事法基準に適合した定温、防じん機能を施し、東日本エリア全域をカバーする保管・配送の一貫サービスを展開する。
 また、三菱製紙の関東内陸部の物流拠点として、約1,150平方メートルの全天候型荷さばき場を設置。大量の入出庫対応で、JRコンテナの横付け に便利なピアー型トラックバース も設けている。
同社の埼玉県内の倉庫は戸田市、児玉郡、八潮市に次いで4カ所目。合計の延べ床面積は約8万3,000平方メートル。
 

<白河工場> 
  のちに三菱製紙株式会社白河工場となる白河パルプ工業は、1949(昭和24)年3月黒磯製紙の名称で発起人総会を開いた後、予定していた栃木県那須郡黒 磯町の用地買収が難航したことから、結局同年6月、福島県西白河郡西郷村にある保土ヶ谷化学の休止中の工場を買収して、主に広葉樹を利用して製紙工場の建 設に着手した。その後1950(昭和25)年3月の設立総会で白河製紙に改称し、クラフトパルプの生産に事業を集中することになり、さらに1951(昭和 26)年4月には白河パルプ工業と改称して、同年秋から未晒パルプの生産を開始した。しかし当時の月産800トンのプラントでは業績を改善することができ ず、用水・排水問題や設備増強資金などで苦難の道を歩み、経営陣も幾度か変遷した。1954(昭和29)年に至り融資銀行の大和銀行の再建計画にもとづい て東海パルプが経営を引き受けることとなった。そして同社からの申し出によって三菱製紙は三菱銀行・東京海上火災保険・明治生命などとともに大株主になっ た。経営再建によって広葉樹を利用したクラフトパルプ生産設備が改善され、1956(昭和31)年4月からは晒パルプの生産も始まり、そのかなりの部分は 三菱製紙へ供給されるようになった。三菱製紙との合併は1966(昭和41)年4月であるが、資本参加以来品質などについて綿密な連絡をとり合い、クラフ トパルプの安定的確保の一助となった。[1]
 この頃、三菱銀行、三菱商事から三菱製紙、白河パルプ工業、東海パルプの3社合併の話が持ち込まれていた。白河パルプ工業は、製品を三菱製紙が取り扱っ ていること、同社の製造したパルプの約75%は三菱製紙が購入していること、三菱系企業が資本参加していること、そして社長は元東海パルプ社長という関係 であるため、3社合併で三菱系の強力な紙・パルプ一貫メーカーをつくり出すことことができるという思惑があった。しかし東海パルプは大倉系企業であること から合併は見送られ、三菱製紙と白河パルプ工業の合併に絞られた。 1966(昭和41)年4月1日付で両社は合併した。[1]
  白河工場はパルプ専業工場であった。そのパルプは典型的な国際商品であり、国際市況の変化を反映し相場が不安定な動きを見せるという特徴がある。国際通貨 体制が相場変動性に移行すると、為替レートの変動の面からも価格の不安定性が高まった。この不安定を吸収するためには、パルプの製造には品質とコストの両 面で改善努力を重ね、国際競争力を保っていくことが求められた。白河工場は規模の拡大によるこれ以上のコストダウンは、資源の面からの制約で望み難い。し かしユーザーのオーダーに応じ、未晒、晒パルプに仕上げ、できた多品種のパルプを多品種少量生産の高砂工場に送り出すという面ではパルプ専業工場として やっていく面がないわけではなかった。品質面での優位性が確保されている限り、安価な輸入パルプに対抗することは可能であった。[1]
 しかし白河工場の潜在力を活かし、また各工場の効率化と収益の向上という方針から何らかの手を打つ方針があった。パルプ生産の規模拡大が難しいのなら ば、白河工場が製紙に進出し川下に降りてくればいい。そこで高砂工場の機能の一部を白河工場に移すことが考えられた。高砂工場は製造のメインが薄紙や NCR紙に移しつつあるときであり、また当時プレスボードの市況は極めて難しい状態にあり、日本特紙工業、日本化学工業の2社が経営不振に陥っていた。そ こに本州製紙が新たに参入することになった。1970(昭和45)年10月に高砂工場のプレスボードを白河工場に移転することが決まり、予算6億円で白河 工場にプレスボード設備を新設することになった。これにより、白河工場は赤松を原料としたパルプからのプレスボード生産という世界でも例を見ない一貫工場 となった。翌1971年11月プレスボード設備が完成し、本格稼動に入った。生産能力は月産270トンと高砂工場よりも100トン多く、その後三菱製紙が 日本特紙工業を、本州製紙が日本化学工業を傘下に収め、大手2社体制が確立したが、三菱製紙(株)は本州製紙の追撃にもかかわらずプレスボード製品で不動 の地位を保つことができたのである。[1]
 三菱製紙が変圧器用の電気絶縁紙であるプレスボードの製造を高砂工場で開始したのは1933年であり、これ以降、同製品の開拓者として圧倒的なマーケッ トシェアを維持してきた。製造を白河工場に移管し生産能力を拡充した後の1970年代半ばになると、主力ユーザーである三菱電機からの需要の伸びは堅調で あったことから今後の需要増加に対処するとともに、1974年夏から生産を開始する本州製紙に対して現有シェアを確保することを目的に増強を行うことに なった。70年代前半におけるプレスボードの市場において三菱製紙と関連会社である日本特紙工業のシェアは概ね70〜75%を占めていたが、スイスの有力 メーカー、ワイドマン社と技術提携した本州製紙が、高密度品、成型品の分野に進出を図ってきた。[1]
 
*白河工場の専用線概要の推移
専用線一覧表 所管駅 専用者 第三者利用者 作業方法 作業キロ 記事
昭和26年版 磐城西郷(信) 白河パルプ工業(株)
国鉄機 1.0
昭和28年版 磐城西郷(信) 白河パルプ工業(株) 白河通運(株) 国鉄機 1.0
昭和32年版 磐城西郷 白河パルプ工業(株) 西郷通運(株)
荒川林産化学工業(株)
国鉄機
私有機
原料線0.9
製品線1.7
薬品線1.6
塩酸線1.6
国鉄機による入線は
原料線のみとする。
昭和39年版 磐城西郷 白河パルプ工業(株) 西郷通運(株)
荒川林産化学工業(株)
私有機 原料線0.9
製品線1.7
薬品線1.6
塩酸線1.6

昭和42年版 磐城西郷 三菱製紙(株) 西郷通運(株)
荒川林産化学工業(株)
私有機 原料線0.9
製品線1.7
薬品線1.6
塩酸線1.6

昭和45年版 磐城西郷 三菱製紙(株) 荒川林産化学工業(株)
西郷通運(株)
私有機 原料線0.9
製品線1.7
薬品線1.6
塩酸線1.6

昭和58年版 新白河 三菱製紙(株) 福菱工業(株) 福菱工業機 原料線0.9
製品線1.7
薬品線1.6
塩酸線1.6


*仙台北港駅発送(発荷主:三菱石油)新白河駅到着の石油発送トン数[16] 1986年度を境に輸送量が急減している。発送駅が変更され たのか?
年度 1984 1985 1986 1987 1988 1989
輸送量(トン) 2,916 2,312 3,740 1,496 1,394 476

 1987(昭和62)年現在の鉄道輸送では、ワキ5000型を使用して新白河〜金町の紙輸 送があった。[5]
 1990(平成2)年3月に新白河駅で専用線コンテナ扱いを開始した。[6] 

 白河工場は、操業開始以来40年余、市販パルプを生産してきた。これにより三菱製紙は旧山陽国策パルプとともに国内の二大市販パルプメーカーとして事業 活動を展開してきた。しかし白河工場は1990(平成2)年2月以来、月次損益で赤字を続けていた。市販パルプは元来が国際商品であり、世界のパルプ市況 によって国内の市況も大きな影響を受ける。また為替相場の変動も大きな影響を与える。1990年秋から始まった世界的なパルプ価格の値崩れと円高による打 撃が加わり白河工場は慢性的な赤字に陥った。そこで 北上工場にパルプ生産を集中し白河工場のパルプ生産は1994(平成6)年4月1日をもって休止となった。この結果、白河工場はプレスボード事業 のみの工場となった。 [1]
 1994(平成6)年12月(ダイヤ改正)では新白河駅の貨物扱いが廃止になっている。[7] 1994年4月のパルプ生産休止と同時に 鉄道貨物輸送も廃止されたものと思われる。


<北上工場> 
  白河パルプ工業は「第2次総合合理化計画」の推進によって白河工場の近代化を図ってきたが、1960(昭和35)年頃には市販パルプに対する需要が高ま り、供給能力を超えてきた。紙・パルプ一貫化の流れのなかで中小の製紙会社にとっては安い国産パルプの入手が生産コストの面から死活問題となっていた。興 国人絹パルプや静岡県塵紙工業組合などの中小各社から繰り返される増産要請に、同社は応えたくとも、用水事情の限界から白河工場でのこれ以上の増産は不可 能な状況にあった。そこで同社は新工場の建設を計画し、調査の結果、岩手県北上市に注目することになった。[1]
 北上市はいくつかの点で新工場の立地に最適であった。まず北上川の水量が豊富であったこと、次に原木についても岩手県の森林資源は針葉樹と広葉樹を合わ せると7,500万平方メートルに達すると推定され問題なかった。交通についても 釜石線、山田線、北上線を利用でき、パルプ材の輸送に便利であった。1964(昭和39)年8月、工場の敷地造成が始められ、1965(昭和 40)7月年産4万トン規模で営業運転を開始、同年11月に竣工式を迎えた。そして翌1966年には木釜1基の新設を行い、年産8万5,000トン体制と なった。 1966年10月には専用側線の増設も行われている。 [1]

 1983(昭和58)年9月からは国鉄高砂線廃止に備え北上工場のパルプの船輸送テストを実施したが、かなりのコスト削減が期待できたことから高 砂線の廃止を待たずに切り替えることにした 。[1]

*北上工場の専用線概要の推移
専用線一覧表 所管駅 専用者 第三者利用者 作業方法 作業キロ
昭和42年版 六原 三菱製紙(株)北上工場 岩手通運(株) 岩手通運機 0.8
昭和45年版 六原 三菱製紙(株)北上工場 岩手通運(株) 岩手通運機 0.8
昭和58年版 六原 三菱製紙(株)北上工場 岩手通運(株) 岩手通運機 0.8

*仙台北港駅発送(発荷主:三菱石油)六原駅到着の石油発送トン数[16]
年度 1984 1985 1986 1987 1988 1989
輸送量(トン) 4,548 3,196 4,352 2,176 3,570 3,468

 輸送の主力はコンテナで、コキ50000形6〜7車入線、同数出車が基本的なパターン。この他に工場内で使用する石油類 液化塩素の輸送も鉄道を利用して行われており、石油類が仙台北港から日本石油輸送 (株)のタキ43000形を使用して、また 液化塩素が勿来から主に日本陸 運産業(株)のタキ5450形で入線する。 また常磐線 金町駅の中川工場へ向けて最大6車程度ながらワム80000形による製品輸送が実施されている。但し車扱輸送分はバラつきが大きく入出車数 が0車の場合も少なくない。[8]
 筆者が目撃した北上工場に関係する鉄道輸送は以下の通り。

*コンテナ輸送
発駅 発荷主 品名 着駅 着荷主 コンテナ 目撃
六原 三菱製紙(株) 空袋 富士 日本食品化工(株) 18D 複数 2002年2月16日 富士
六原 三菱製紙(株) クラフトパルプ 大阪(タ) 紀州製紙(株) 18C 4個 1998年2月26日 黒磯
六原 三菱製紙(株) クラフトパルプ 姫路貨物 三菱製紙(株)高砂工場 C36 3個 1998年2月26日 黒磯
六原 三菱製紙(株) クラフトパルプ 高知 日本板紙(株) C31 1998年3月11日 幸田

*車扱輸送
発駅 発荷主 品名 着駅 着荷主 タンク車 目撃
酒田港 東北東ソー化学(株) 液化塩素 六原 三菱製紙(株) タキ135499 東北東ソー化学(株)
タキ135472 関西化成品輸送(株)
1998年5月4日 仙台港
2004年6月6日 酒田港
仙台北港 東北石油(株) 重油 六原 三菱製紙(株) タキ1500、タキ9650 1998年5月4日 仙台港
勿来 呉羽化学工業(株) 液体塩素 六原 三菱製紙(株) タキ145483 日本石油輸送(株) 2001年11月8日 宮城野
2004.06.06 酒田港

*三菱製紙 感光材料用コート紙生産 北上工場に移管
 (河北新報、1999年12月4日、9面)
 三菱製紙は平成15年度までに東京・中川工場での紙類製造をやめるのに伴い、感光材料用レジンコート(RC)紙の生産を北上市の北上工場に移管すること になり、3日、現地で製造設備の起工式を行った。稼動開始は13年10月を予定、設備投資額は約200億円。
 RC紙は写真用印画紙や高級インクジェット用紙などの原紙として使われ、今後、世界的に需要が大きく伸びると見込まれる。同社はRC紙を事業全体の核に 位置付けて拡大展開を図る方針で、北上工場はその主力工場になる。
 北上工場内に建設するRC紙製造設備は、建築面積約1万2千平方メートル、鉄筋コンクリートと鉄骨の建物は地上4階、延べ床面積約2万7千平方メート ル。RC紙の原紙をすくための抄紙機ライン(日産300トン)、RC紙製造ライン(同120トン)を新設するほか、中川工場から日産100トン分のRC紙 製造ラインを移設する。
 これにより北上工場の従業員を現在の150人から210人程度に増やす。三菱製紙は「北上工場にはパルプの製造ラインがあり、RC紙のラインを設けるこ とで生産の効率化が図られる」としている。
 2003年までに無塩素パルプの製造設備に改造する計画があった。[18] しかしその後に完成したとのプレスリリースが無く、業績不振の北上工場は改 造が遅れているのかもしれない。

 北上工場は2005年4月1日に会社分割により北上ハイテクペーパー株式会社となった。これは稼働率低下によって低収益に陥った北上工場の生産性を向上 させるために、2005年10月を目途に王子製紙株式会社などの他社との資本・業務提携の検討していたためである。しかし結局、具体的な進展が無いまま、 同年10月3日に王子製紙との資本・業務提携検討は終了してしまった。

*北上ハイテクペーパー株式会社への特種製紙株式会社の資本参加に関するお知らせ  (2006年1月25日) http://web.infoweb.ne.jp/mpm/ir/etc/060125.pdf
 三菱製紙株式会社(以下、三菱製紙)は、平成18年1月25日開催の取締役会において、三菱製紙の100%子会社である北上ハイテクペーパー株式会社 (以下、KHP)の株式20%を特種製紙株式会社(以下、特種製紙)に譲渡することを決議し、同日、株式譲渡契約を締結いたしました。
 KHPは、パルプ・レジンコート紙・衛生用紙の製造・販売を目的として、三菱製紙の旧北上工場を簡易分割する形で昨年4月1日に設立されました。また、 昨年11月22日に発表しました三菱製紙グループの中期再生計画(フェニックスプラン)の施策に基づき、KHPは、既存品目に加えて、印刷情報用紙・特殊 紙の製造・販売を強化することを進めております。
 特種製紙は、日本における特殊紙のパイオニアであり、そのブランド力・商品開発力・技術力は、市場・顧客・デザイナー等から高い評価を受けております。
 今後、三菱製紙は、今回の特種製紙の資本参加をベースに、互恵精神のもと、同社とコラボレーションを推進していく所存です。KHPは、特種製紙へ高品質 パルプの供給を行っていくとともに、紙生産面においても同社の協力を得て更に付加価値の高い製品構成化を目指してまいります。
 今回の資本参加により、特種製紙はKHPに非常勤取締役を1名派遣する予定です。
 なお、本株式譲渡に伴う今期の三菱製紙の業績への影響はありません。

(参考)北上ハイテクペーパー株式会社の概要(平成17年4月1日現在)
 1)商号       北上ハイテクペーパー株式会社
 2)事業内容    パルプ、写真感材・インクジェット用レジンコート紙、衛生用紙の製造および販売
 3)設立年月    平成17年4月1日
 4)所在地      岩手県北上市相去町笹長根35
 5)代表者      代表取締役社長 石塚 文彦
 6)資本金      450百万円
 7)株主資本    3,000百万円
 8)総資産      9,495百万円
 9)出資比率    三菱製紙100%
 10)その他      三菱製紙は、KHPに役員を派遣。
             KHP従業員は、三菱製紙からの出向。
             三菱製紙は、上記事業内容にある品目について製造を委託。

*北上ハイテクペーパー 三菱製紙が完全子会社化 (2007年3月 14日 日経産業新聞 16面)
 三菱製紙は13日、写真感材子会社の北上ハイテクペーパー(KHP、岩手県北上市)を4月に完全子会社すると発表した。KHP株の20%を保有する特種 製紙との株式交換によって、株式を取得する。完全子会社化によって意思決定を迅速化し、写真感光材事業を洋紙事業に並ぶ収益源に育てる。
 KHP株一株に対して、三菱製紙株1万5,780株を割り当てる。株式交換の後に、特種製紙の三菱製紙への出資比率は0.2%から1.1%になる見通し だ。KHPと特種製紙の資本関係はなくなるが、印刷書籍用紙のパルプを特種製紙に供給する取引関係は継続する。
 三菱製紙は2005年に稼働率が低下していた北上工場を分社化して、KHPを発足させた。06年に特種製紙がKHPに資本参加。資本提携を機に新商品の 共同開発を試みたが、実績を残せなかった。


<八戸工場> 
2001.8.23八戸工場

 三菱製紙と白河パルプ工業との合併によって、パルプ製造の問題が浮上した。即ち、白河工場にパルプの安定供給を求める意味での一貫メーカーへの道を歩む か、あくまで「パルプから紙」の一貫工場としての八戸工場建設を実現し、スケールメリットによるコストダウンを目指していくのか、という企業としての方向 性や性格にもかかわる問題に発展した。その結果、八戸に新工場を起こす意義はパルプから紙までの一貫以外にないとの見解となった。 [1]
 1965(昭和40)年2月杭打ちが開始され、9月に入ると青森県の築港工事も開始された。この頃には県による鉄道専用線の工事も着工され、八戸工場の 外観が次第にかたちを見せ始めた。引込線部分は三菱製紙負担となるため、仙建工業に発注し、 1966(昭和41)年3月25日予定通り全線竣工を迎えた。専用引込線の開通によって以後の工事が進むスムーズに運ぶようになった。10月には 営業運転に入り、 12月22日中川工場、また同28日に高砂工場へ、初めてのパルプが送られた。[1]
 八戸工場の目玉の一つに専用岸壁がある。それは外材チップへの原料転換を視野に入れ、国際化、自由化の流れのなかで三菱製紙が同業他社に対抗していくた めの最大の武器になるものであった。専用岸壁は1967(昭和42)年5月に鍬入れ式を行い、1968(昭和43)年12月に竣工を迎えた。八戸工場は引 き続き第2期起業が進められ、需要が伸びているコート紙のラインが設けられることになった。設備は専用側線をはさんで第1期のラインと並行して配置され、 1971(昭和46)年3月に試運転が開始された。[1]
 昭和50年代に紙物流の合理化が推進された。八戸工場関係を中心に進めたコストダウンの取り組みでは、割安な海上輸送へのシフト、直送の推進、市中在庫 の効率化の3点に力点を置いた。八戸製品の海上輸送の推進では、従来から行っていた関西向け輸送において運行効率と積載効率を高めたこと、また新たに 1979年5月から名古屋地区に、同年9月から東京地区にも船輸送を開始したことであった。これにより 両地区への輸送費は既存の鉄道輸送に比べ約20%の削減が期待 できた。[1]

*八戸工場の専用線概要の推移
専用線一覧表 所管駅 専用者 第三者利用者 作業方法 作業キロ 記事
昭和42年版 北八戸(信) 三菱製紙(株) 星光化学工業(株)
八戸通運(株)
八戸通運機 8.7 青森県専用線
から接続
昭和45年版 北八戸(信) 三菱製紙(株) 星光化学工業(株)
八戸通運(株)
八戸通運機 8.7 青森県専用線
から接続
昭和58年版 北沼 三菱製紙(株) 星光化学工業(株)
八戸通運(株)
社機 0.8
昭和58年版 北沼 三菱製紙(株)(北沼線) 八戸製錬(株)
住吉工業(株)
吉田産業(株)
鋼管商事(株)
スチール工業(株)
東新工業(株)
東北砂鉄工業(株)
八戸通運(株)
社機 0.3

 1966年に三菱製紙は八戸工場の操業を開始する。同工場は我が国有数の大型製紙工場で、東北本線尻内駅(現八戸)〜八戸線長苗代駅に新設された北八戸 信号場(1966年4月21日開業)から分岐する専用線を敷設し、大量の発着貨物が貨車輸送されることになった。[9]
 三菱製紙は青森県に対して鉄道輸送手段の整備を求め、県側も建設費用の一部三菱負担を条件に、北八戸信号場より分岐する県営の専用線を建設した経緯が あった。その後、八戸貨物駅の設置(1970年12月1日開業)に合わせ、専用線を同駅まで延長するとともに、従来の専用線を母体に地方鉄道に鞍替えする こととなり、1970(昭和45)年7月30日に八戸臨海鉄道株式会社を設立、同年12月1日に八戸貨物〜北沼(8.5km)の運輸営業を開始した。 [10]
 西明石〜北沼間で星光化学工業(株)所有タキ6354形( ペーストサイズ剤専用)による輸送があったが、ヤード系輸送廃止に伴い同タンク車は1984(昭和59)年1月に廃車となっている。 [19]
また板谷〜北沼間でジークライト化学鉱業(株)所有タキ 23950形( 白土専用)による輸送があったが、同社の廃業に伴い1984(昭和59)年4月から8月にかけて全車が廃車となった。 [20]

 1987(昭和62)年現在では、北沼駅から金町駅、越中島駅にワム 80000型による紙輸送があった。[5]
 越中島駅には東京都の専用線があり、1989年2月9日の同線廃止時には晴海埠頭への新聞用の紙輸送が残っていた。[11]

 1988(昭和63)年10月末に南四日市発(筆者註:発荷主は日本 合成ゴム株式会社) 北沼着のラテックス輸送が船舶輸送に転移した。同輸送は 年間12千トン〜15千トンの規模であった。[15]

*八戸臨海鉄道の輸送量(トン)推移 (1999年度までは鉄道統計年報、2002年度は八戸市統計書より筆者が作成)
年度 車扱 コンテナ 合計
1989年度 183,391 52,765 236,156
1990年度 183,459 76,350 259,809
1991年度 188,276 92,495 280,771
1993年度 158,572 103,625 262,197
1994年度 140,120 99,080 239,200
1995年度 136,734 116,340 253,074
1997年度 130,778 118,564 249,342
1999年度 125,822 106,294 232,116
2002年度 129,282 130,725 260,007
※1995年頃まで車扱に八戸製錬株式会社の輸送量が含まれる。

『三菱製紙100年史』より

 1991(平成3)年10月、DIP(古紙パルプ)設備が完成した。古紙の利用率は板紙では高水準であったが、紙類では依然低かった。そこでオ フィス古紙を回収して再生する取り組みが始まった。東京丸の内を中心とするオフィス古紙回収・再生化の試みは、三菱グループ各社の協力も得て、1991 (平成3)年2月からスタートした。同年12月までの回収実績は、八戸工場搬送分563.5トン、業者売却分240トン、合計803.6トンであり、順調 な立ち上がりであった。参加企業数は、三菱製紙と明治生命1社からスタートしたが、次第に増加し1992年度末には24社(30事業所)及び日本道路公団 になった。 [1]
 三菱製紙は1993(平成5)年度下期に主力工場で臨海型の八戸工場(青森県八戸市)を中心に出荷体制を見直す。同工場は国内6工場の中でも塗工(コー テッド)紙、上質紙、情報用紙など製品分野が広く、同社の紙の出荷額の6割を占め、物流効率化の余地が多い。専用船、トラック、貨物鉄道の3通りで出荷し ているが、港で乗用車を陸揚げした貨物船が帰る際に製品を載せるなど、専用船以外の船便も利用する考え。同社の物流費は年間約100億円。93年度下期に 半期分約50億円の5%削減を目指す。東京、大阪に倉庫を持つ販売代理店の三菱製紙販売(東京・中央)と共同で配送網を見直す。[12]
 1986年に八戸工場はコンテナ輸送を開始した。1999年現在では、隅田川百済などを主な着駅として全国一円にコンテナで紙を発送している。到着は、古紙デンプン、塩素などがある。荷役はコンテナ積みコキ車が直接専用線に入り、車上積込みで 行っている。コキ車はコキ104、50000型が主である。また八戸工場は金町駅にある三菱製紙の中川工場に向けてワム80000形式32両を発送してい る。なおこの列車は途中で六原発のワムを増結して、金町着は40両になる。また金町駅の専用線は現在曲線の緩和など設備改良の検討中で、その結果によって はコンテナ化される可能性がある。八戸臨海鉄道内の列車はそれぞれコキ車5〜10両で組成され、16レ以外はワムやタキ5450が組み込まれることがあ る。[13]

*お客様事例 三菱製紙株式会社 八戸工場 物流統括担当者のコメント[14]  (Copyright 2000年)
 鉄道コンテナ輸送を始めたきっかけは、横浜の本牧埠頭までトラック輸送で輸出向け製品を運んでいた のを、コストダウンのために切り替えたことである。八戸から大体1,000kmを分岐点として鉄道輸送のコストメリットが出る。
 現在は、鉄道の持ついくつかの課題も解決に向かっているので、今後も鉄道輸送の割合を増やしていきたい。

*荷主さん訪問 三菱製紙(株)八戸工場 (JR貨物ニュース 2001年2月15日号 3面)
 八戸港の臨海部東側に位置する八戸工場は、三菱製紙(株)の東の生産拠点で操業開始は昭和42年。塗工紙、上質紙、板紙等を年間約80万トン、全国各地 に出荷している。販売代理店を通して製品のオーダーが入ると、顧客別に情報をインプットしてある工場のコンピュータで輸送モードを選択する仕組みだが、関 東・関西の大消費地から遠いので、船や鉄道の依存が高い。出荷製品の約4割を同社保有の船で八戸港から積み出し、東京の有明と芝浦埠頭や大阪南港に陸揚げ している。一方、 鉄道でも製品の約3割を輸送している。
 16万5,6000平方メートルの広大な工場の構内に、八戸臨海鉄道・北沼駅の側線が引き込まれていて、同社の中川(東京)工場内にある関連会社の倉庫 に月間1万トンを車扱輸送する。中川工場にも金町駅から引き込み線が延びているのだ。 また月1万トン弱を百 済福岡(タ) をはじめとした全国各地にコンテナでも発送している。この場合も引き込み線での車上荷役だ。
 同工場の営業管理課江口課長に鉄道利用について聞くと「かつて製紙業は典型的な内需消費型産業だったが、最近は特にアジア周辺諸国から紙の輸入が増えて いる。携帯電話の取り扱い説明書等が大きな需要である一方で、価格の安い輸入紙がシェアを伸ばしており楽観はできない。紙はもともと、外見的にも品質的に も差別し難い商品なので価格に目がいくのは仕方の無いこと」と、まず紙業界が現在おかれている状況を説明してくれた。そのため「物流セクションには、どう やって安く物を運ぶかが強く求められている」という。
 鉄道輸送がいかに定時・安定性に優れていても、輸送手段選択の要はやはりコスト。 鉄道が有利なのは静岡県沼津市以遠の陸送だ。「しかし納期にゆとりがある場合でないと」使えず、トラック輸送するケースもある。ト ラックなら八戸市から首都圏には1日で到達する。しかし鉄道だと、隅田川駅には翌日朝着いても、新座(タ)だと3日目着になってしまうからだ。
 この点、今年1月22日に北沼駅の玄関口である八戸貨物駅発着列車のリードタイムがE&S化で改善されたことを歓迎し「コンテナの利用機会を増やせるの ではないか」と期待している。
 ただ同社では鉄道依存度が高いだけに輸送障害の影響が大きい。「最近は自然災害とはいえ大雨や大雪等、輸送障害が目立つ。列車が止まってしまった時の代 行手配や情報提供等、今後とも迅速にお願いしたい」と江口課長は注文した。

*東北支社管内発の紙輸送 4月〜 コンテナ化進む (JR貨物ニュース 2003年3月15日 2面)
 2003年4月、八戸貨物発金町行きの車扱列車が新座(タ)着のコンテナ輸送に変わる。八戸貨物発金町行き紙輸送列車は、荷主が紙の保管場所を金町から 新座(タ)近郊の新設倉庫へ移すのに伴うコンテナ化で、着駅も新座(タ)に変わる。すでに12フィートコンテナで日発30個が八戸貨物から新座(タ)に着 いていて、これにより荷崩れや荷ずれ防止策の確認を行っている。4月からの全面コンテナ化に備えた前倒し措置だ。
 筆者が目撃した八戸工場に関係する鉄道輸送は以下の通り。

*コンテナ輸送
発駅 発荷主 品名 着駅 着荷主 コンテナ 目撃
北沼 三菱製紙(株) 紙 P 隅田川 19D 1998年3月21日 隅田川
北沼 三菱製紙(株) 紙 P 本牧埠頭 紙ランマ 18D 1998年9月19日 宮城野
北沼 三菱製紙(株) 紙  静岡貨物 サンキョウ V18C 1998年2月26日 黒磯
北沼 三菱製紙(株) 静岡貨物 ダイニチ 19B 1998年2月26日 黒磯
北沼 三菱製紙(株) 紙 P 刈谷 プリテック 18D 1998年3月11日 刈谷
北沼 三菱製紙(株) 紙 P 名古屋(タ) 小牧 18D 1998年9月19日 宮城野
北沼 三菱製紙(株) 四日市 イセ紙業 18D 2004年12月12日 四日市
富士 東洋インキ製造(株) インキ 八戸貨物 三菱製紙(株) 18D 1998年2月16日 富士
富士 日本食品化工(株) MS#4600 北沼 三菱製紙(株) UR17A 1996年12月28日 富士
名古屋(タ) サンノプコ(株) ※ ステアリン酸カルシウム 八戸貨物 三菱製紙(株)? UT11A-5065 2000年9月2日 一ノ関
百済 (株)日新化学研究所 ステアリン酸カルシウム 八戸貨物 三菱製紙(株) UT11A-5076 1996年12月24日 百済
※サンノプコ(株)は三洋化成工業(株)の関連会社である。本社は京都市東山区一橋野本町11、事業内容は紙・パルプ、塗料、ラテックス、セラミックス、 エレクトロニクス用の各種工業用薬剤の製造販売、資本金4億円(三洋化成100%出資)である。2002(平成12)年4月に三洋化成工業の紙パルプ関連 ビジネスがサンノプコに集約された。

 サンノプコは三菱製紙以外にも、タンクコンテナで名古屋(タ)発宮城野着(大昭和製紙岩沼)、秋田貨物着(東北製紙?)にステアリン酸カルシウム を発送している。

 同様に(株)日新化学研究所もタンクコンテナで他に梅田発宮城野着(日本製紙石巻)にステアリン酸カルシウムを発送している。ステアリン酸カルシウム輸 送にはちょっと注目だ。
1996.12.24百済駅  

*車扱輸送
発駅 発荷主 品名 着駅 着荷主 タンク車 目撃
酒田港 東北東ソー化学(株) 液体塩素 北沼 三菱製紙(株) タキ145451 東ソー(株)
タキ145498 関西化成品輸送(株)
2001年11月8日 宮城野
2004年6月6日 酒田港
勿来 呉羽化学工業(株) 液体塩素 北沼 三菱製紙(株) タキ165461 日本陸運産業(株) 2001年11月8日 宮城野

*八戸工場のECF(非塩素漂白)パルプ比率を向上
[17] (2004年3月8日 三菱製紙株式会社)
 三菱製紙株式会社(本社 東京都千代田区 取締役社長 佐藤 健)は、このほど八戸工場(青森県八戸市 常務取締役工場長 亀田利昭)において、ECF (非塩素漂白)パルプの比率を向上させることを決定した。2005年8月に完成の予定である。
 同工場は、1988年パルプ漂白工程に酸素漂白法を導入し、塩素使用量を半減している。さらに未晒カッパー価の安定、パルプ洗浄の強化、排水処理の増強 などの対策を行い排水中のAOXの削減を図ってきたが、2000年8月にはパルプ漂白工程の一部をECF(非塩素漂白)に転換している。
 今回のECF化により、同工場の主力である連続蒸解釜系列は全てECF化される。本ECF化は、2000年8月の第1段階と同様、塩素の代わりに二酸化 塩素を使用する漂白方法であり、これにより排水中のAOXが更に減少し、又排水色度の改善によって廃棄物発生量、クロロホルムの排出も著しく削減される。
 八戸工場は1998年11月にパルプから紙までの一貫工場としては国内で初めてIS0-14001の認証を取得しており、今回のECF転換比率向上も環 境マネジメントシステムに則って進められたものである。

(注) ECF:Elemental Chlorine Free パルプ漂白工程で塩素を使用しない漂白法
    AOX:Adsorbable Organic Halogen 排水中に含まれる塩素などの吸着性有機ハロゲン化合物の量

*三菱製紙 パルプ製造設備増強 八戸工場 月産5万5,500トン 完全自 給達成へ (2007年3月27日 日経産業新聞 16面)
 三菱製紙は今夏をめどに主力の八戸工場(青森県八戸市)のパルプ製造設備を増強する。70億円を投じて連続蒸解釜や回収ボイラーなどを改造。生産量を月 間5,000トン増の5万5,500トンへと増やし、パルプの完全自給を達成する。割高な外部からのパルプ調達をやめることで、2008年3月期に10億 円(連結経常利益ベース)の増益効果を見込む。
 連続蒸解釜は木材チップを連続的に煮てパルプにする設備で、回収ボイラーは蒸解工程で出る「黒液」を濃縮した後、燃焼させて蒸気と電力を得るための付帯 設備。改造による出力向上でパルプ生産量を引き上げることが可能になる。パルプ増産で、従来の外部調達分2,500トンを代替したうえ、八戸での洋紙生産 も増やす計画だ。
 三菱製紙は05年に策定した経営再建策「フェニックスプラン」で08年3月期の連結経常利益を06年3月期比45%増の70億円にする目標を掲げてい る。八戸工場改修による10億円のほか、子会社の採算の改善、人員削減などで目標額を達成できると同社ではみている。
 八戸工場を主力とする洋紙事業の売上高は1,124億円。今期は前期比3.2%増の1,160億円を見込む。不振だった写真印画紙の原紙など、写真感光 材料事業の黒字化にメドが立ってきており、来期は主力の洋紙事業の強化に重点を移せるとしている。

<北越製紙株式会社との提携とその解消> 

*三菱・北越製紙が提携 業界の第3勢力に浮上
 (河北新報、2000年7月12日付、8面)
 製紙業界5位の三菱製紙と、6位の北越製紙は11日、取締役会を開き、株式を相互に持ち合い、資本・業務提携することを決めた。提携関係の進展によって は事業統合に踏み込む可能性があり、同業界では王子製紙、日本製紙・大昭和製紙グループに次ぐ第三勢力となる見通しだ。
 三菱製紙が北越製紙株2百万株(発行株式の1.29%)を、北越が三菱株の7百万株(同2.14%)を取得する。投資額はいずれも20億円程度とみられ る。
 日本製紙と大昭和製紙が今年3月に経営統合を決め、製紙業界の市場の4割を上位2グループが握ることになった。このため三菱、北越製紙は6月初めにトッ プ会談を開き、協力関係に入ることによって二大グループに対抗することで一致した。
 両社は今月中に提携推進委員会を設置、@技術開発A生産・販売B資材共同購入−の3分野について具体的な協力策の検討に入る。現時点では「合併や事業統 合を意図するものではない」としている。
三菱製紙の2000年(平成12年)3月期決算(連結ベース)は売上高2,439億円だが、経常赤字113億円。経営基盤強化のためフィルム・印画紙大手 の米イーストマン・コダックへの原紙供給などの販路拡大を模索している。一方、新潟県に主力向上を持つ北越製紙は売上高1,327億円、経常利益49億 円。

*年50億円の収益改善 三菱製紙 北越製紙 提携で効果試算 (日経産業新聞、2000年12月25日付、10面)
 今年7月に資本・業務提携した三菱製紙と北越製紙は22日、両社で実施する具体的な提携内容と収益改善効果をまとめた。提携後、原材料の共同調達や製品 の相互OEM(相手先ブランドによる生産)を実施することにしており、今後3年以内に合計で年間50億円規模の収益改善効果があるとした。今後、生産設備 の新設や電子商取引などでも共同投資の可能性を探る。
 収益改善効果はチップやパルプ、燃料、資材など原材料の共同調達が両社合計で11億円、製造技術の相互導入や物流合理化で25億円、製品の相互OEMで 10億円、情報用紙・機能紙の生産設備の共同利用で4億円。相互OEMでは三菱製紙が上質紙を、北越製紙が塗工紙をそれぞれ年1万トンずつ生産し、供給す る。印刷情報用紙など今後生産設備を新設する際は共同投資も検討する。
 三菱製紙と北越製紙は7月、株式の持合を含む業務提携で合意。その後、提携推進委員会を設置し、具体的な提携内容を協議していた。

*三菱製紙と北越製紙 製品輸送を共同化 来年度から (日刊工業新聞、2003年10月30日付、1面)
 三菱製紙と北越製紙は物流の共同化に乗り出す。自社倉庫から需要家への製品輸送(2次物流)を共同配送に改めコスト削減を実現する。専門のワーキンググ ループ(WG)を年明けにも設け、来春までに成案を得て04年度春から実施に移す方針。両社は00年7月に業務・資本提携を結んだが、具体的なアライアン スは原材料の共同購入や技術交流など限定的だった。今回、販売分野で手を握ることが弾みとなって、より戦略的な提携に向け加速・発展する可能性も出てき た。
 両社は3ヵ月ごとに業務提携推進委員会を開催中。次回は1月の予定で、この時に同委の下にある生産・販売部会内に2次物流の効率化を検討するWGを設置 する。両社は現在、首都圏や近畿圏近隣の倉庫から紙の需要家にそれぞれトラックで運んでおり、WGでは同輸送を共同配送化することを中心に話し合い、業務 効率化と物流費の圧縮を目指す。
 コスト削減目標などは明らかにしていないが、両社が00年12月に公表した提携効果試算では製造技術の相互導入や人員・物流の合理化で年25億円の収益 向上が見込めるとしている。
 両社に限らず製紙業界では、工場から倉庫への1次物流の効率化はある程度進んでいるものの、2次物流の改革は遅れ気味だった。
 三菱と北越の提携は資本面で株式を2%程度持ち合いし、業務面では調達や製造技術の相互開示、工場技術者の交流などを行う程度にとどまっていた。物流共 同化に踏み出すことで両社の提携関係が今後、生産や投資分野などにも広がることも予想される。

*2005年7月に三菱製紙と北越製紙、提携解消を発表 http://www.nikkei.co.jp/news/past/honbun.cfm?i=AT1D01048%2001072005&g=S1&d=20050701
 三菱製紙と北越製紙は1日、業務・資本提携を解消すると発表した。今月10日で5年の期限を迎えるため予定通り提携関係を終了させる。
 両社は原料の共同購入などにより5年間で約55億円(三菱紙28億円、北越紙27億円)のコスト削減効果を上げた。三菱紙は北越紙株を約1.3%、北越 紙は三菱紙株を約2.2%をそれぞれ持ち合っていたが、両社は売却する公算が大きい。
 2000年に王子製紙や日本製紙の大手メーカーに対抗するため両社は業務・資本提携で合意。合併を検討した時期もあったが、不振に悩む三菱紙の北上工場 (岩手県北上市、現在は分社化)の扱いを巡り意見が対立した。三菱紙は今年1月、中越パルプ工業との合併を発表したが販売政策で折り合わず破談。今回の提 携終了で北越紙との合併の可能性もなくなり、三菱紙は単独での生き残りを目指すことになる。 (19:14)


<中越パルプ工業株式会社との合併構想とその破談> 
 北越製紙との提携から経営統合に進むかと思っていたところ、中越パルプ工業との合併が発表された。しかしこれに北越製紙が合流する可能性もあったがいず れも交渉不調。

*三菱製紙・中越パルプ 10月合併 生き残りへ最後のカケ (日経産業新聞、2005年2月1日付、3面)
 製紙業界第5位の三菱製紙と第7位の中越パルプ工業は31日、今年10月に合併すると発表した。業界順位は5位のままだが、連結売上高は約3,500億 円、主力の印刷・情報用紙のシェアは業界3位の13%に拡大する。同日の記者会見では、業界上位の日本製紙グループ本社や王子製紙に次ぐ第三のグループを 目指す考えを強調した。伸び悩む市場の中で、中堅企業の両社は最後のカケに出た。

▽印刷・情報用シェア3位に 「北越」統合も視野

 新会社の名称は「三菱中越製紙」の予定。合併は中越パルプ工業が三菱製紙を吸収する方式で、出資比率は今後詰める。新本社は東京・千代田の三菱製 紙の本社とする。社長には、王子製紙元副社長の長岡剣太郎・中越パルプ顧問が就く公算が大きい。
 「これからはお互い大変になりそうですね」。今回の合併話が持ち上がったのは昨年11月のこと。都内のパーティーの席上で三菱製紙の佐藤健社長と中越パ ルプの菅野二郎社長は意気投合し、合併を含む両社の経営拡大策について話し合いを始めた。
 製紙業界の中で三菱製紙は売上高5位、中越パルプ工業は同7位の中堅メーカー。両社は需給の逼迫する紙の原料確保や中国メーカーの台頭などを理由に合併 するとしているが、今回の合併劇に執念を燃やしたのは三菱製紙の佐藤社長だったとみられる。
 三菱製紙は国内での紙の需要の伸び悩みなどに伴い、2005年3月期決算で最終赤字に陥る見込み。前の期は黒字を確保したが、02年度あたりから経営が 悪化。02年、03年度には最終赤字を計上した。
経営立て直しに向けて登場したのが佐藤社長だった。経費削減などリストラを徹底的に進めるとともに社内風土の改革を推進したが、思うように実が上がらな かった。
製紙業界は01年3月末に日本製紙と大昭和製紙が経営統合し、日本ユニパックホールディング(現日本製紙グループ本社)が誕生。王子製紙と日本ユニパック の二強体制が確立した。国内の紙需要も大きな伸びが見込めない中で、二強は中国など海外進出を計画。大王製紙以下のメーカーは生き残りに向けた対応を迫ら れていた。
 三菱製紙はすでに売上高6位の北越製紙と原料の共同調達などで業務・資本提携しており、製紙業界の中でかろうじて存在感を誇示してきたのが実情。だが、 両社の提携は今年7月に期限切れを迎える。
実は佐藤社長は就任後、業績拡大を続ける北越製紙との合併を模索していた時期があったが、北越側は「現在の三菱製紙の業績状態ではお荷物になりかねない」 (幹部)として、三菱製紙の経営改善策を見守ってきた。結果的には「お互いの必要度が一致することはなかった」(佐藤社長)。
 製紙業界は典型的な装置産業で、ある程度の規模の経営体力は不可欠。合併新会社の業績次第では、北越製紙との合併も視野に入ってくるとみられる。新会社 が今後、合併効果などをテコに、どれだけ企業体力を強化できるかにかかっている。(田中良喜)
 

中越パルプ工業 三菱製紙
事業概要 新聞用紙や印刷用紙などが
主力で製紙業界では第7位
写真用印画紙や上級コート紙などが
主力で製紙業界では第5位
設立 1947年に富山県で高岡製紙
として創業
1898年に神戸市で岩崎久弥氏が
神戸製紙所として創業
資本金 173億円(04年9月現在) 309億円(04年9月現在)
売上高 1,087億円(04年3月期連結) 2,370億円(04年3月期連結)
経常利益 45億円(04年3月期連結) 15億円(04年3月期連結)
従業員数 1,940人(04年3月末連結) 5,219人(04年3月末連結)

製紙大手の売上高
      社 名 売上高(億円)
@日本製紙グループ本社 11,926
A王子製紙 11,804
B大王製紙 3,915
Cレンゴー 3,751
★合併新会社 3,457
D三菱製紙 2,370
E北越製紙 1,476
F中越パルプ工業 1,087
G東海パルプ 550
H紀州製紙 530
I巴川製紙所 430
(注)2004年3月期連結。合併新会社は中越パルプ工業と三菱製紙の連結売上高の単純合計
 

*三菱製紙、中越パルプと合併撤回 三菱商事と連携探る 写真用感材など「不採算」 撤退も (日本経済新聞、2005年5月17日付、13面)
 三菱製紙の佐藤健社長は16日、中越パルプ工業との合併撤回の記者会見で「三菱グループの強いサポートをお願いしたいと考えている」と述べた。三菱製紙 はこれまで北越製紙や中越パルプ工業など中堅製紙メーカーとの提携を模索してきたが、今後は三菱商事など三菱グループ企業と連携の道を探ることで脆弱な経 営基盤を強化していきたい考えだ。 
 三菱製紙は2000年に北越製紙と業務資本提携を結んでいたが、不振の北上工場(岩手県北上市、現在は分社化)の存続などを巡り意見が対立。三菱製紙は 同工場を分社化した後、王子製紙が出資する再建案を提示した中越パルプとの合併を選択した。しかし、その合併も撤回した。
 中越パルプの主力販売代理店と、三菱製紙の販売子会社を合併させるとした中越パルプ側の要求に三菱製紙が反対して、交渉が決裂した。その結果、三菱製紙 に残された選択肢は同じグループ内しか残されていないのが実情だ。
 会見で佐藤社長は三菱グループとの今後の連携方針を問われ「これからいろいろと内容をまとめていきたい」と述べた。佐藤社長の念頭には三菱商事との連携 がある。
 製紙業界のチップ(木片)やパルプの輸入などの川上部門と紙製品の流通・販売といった川下を手掛ける三菱商事との連携強化は生産部門が中心の三菱製紙に とって補完効果が大きい。「内容がまとまり次第、お話したい」(佐藤社長)と期待をかける。
 三菱製紙は2005年3月期に連結最終赤字に陥ったもようだ。「事業規模拡大よりまずは経営基盤の強化」(佐藤社長)が課題だ。その際、写真用感材など 不採算部門の撤退も課題となる。

*合併破談の三菱製紙・中越パルプ 生き残りの絵図描けず  (日経産業新聞、2005年8月2日付、14面)
 三菱製紙と中越パルプ工業が合併計画を白紙撤回して2カ月余り。単独での生き残りに向け、それぞれ成長戦略の練り直しを急いでいる。
 「ようやく出血が止まってきた」。三菱製紙の佐藤健社長らは、ほっと胸をなでおろしている。業績悪化の元凶となった写真印画紙などを手がける北上ハイテ クペーパー(旧北上工場、岩手県北上市)が、4月の分社後、黒字基調になってきたからだ。
 同拠点には5年ほど前に大型投資をしたが、その後のデジタルカメラの普及などを読み切れず、印画紙設備などの稼働率は一時、30%台にまで低下。前期だ けで約47億円の赤字となった。
 今年3月末、旧北上工場の設備など約240億円分の減損処理を実施。稼働率は現在でも50%を切るが、月2億円の償却負担がなくなった。今期は人件費削 減効果などが加わり、北上ハイテクペーパーの経常損益は約7億円の赤字にまで改善する見通しだ。
 ただ稼働率をさらに上げる切り札として期待していた王子製紙による北上ハイテクペーパーへの出資の可能性が遠のいたのは痛い。王子系の中越パルプ工業と の合併が破談となったからだ。
 三菱製紙は11月にも経営再建策をまとめる。佐藤社長は「三菱製紙が変わることをアピールしたい」と語る。印画紙需要が大きく伸びる可能性は薄く、北上 ハイテクペーパーの抜本的な改善策なしに、単独での生き残りというシナリオを書くことはできない。
 これに対し三菱製紙を吸収合併するチャンスを逃した中越パルプ工業の長岡剣太郎社長は、「利益を倍増させる」という新たな目標を掲げた。コスト削減の徹 底により、2005年3月期に35億円だった連結経常利益を3年で70億円に増やす計画。
 同社は富山県と鹿児島県に工場を持つが、大市場の首都圏などから遠く大手の工場にはコスト競争力で劣る。製品にこれといった特徴もなく、収益拡大には限 界がある。
 輸入紙流入の拡大と各社の増産投資による競争激化で、これら2社の市場が草刈り場になる可能性が出てきた。両社が生き残るには「結局、再編を選択せざる を得ない」とみる業界関係者は多い。
 
▽中越パルプ工業・長岡社長 危機バネにコスト削減
 「当社の利益率は業界内でみると低い水準にある。合併破談により社内で危機意識が高まっており、これをバネに収益を倍増にする運動を始める。ありとあら ゆることをやる」「抄紙機などの改造投資をして、今後2、3年で生産量を年間100万トン(現在は92万トン)に引き上げる。増産とコスト削減には、輸入 紙対策という意味もある。営業の経験を生かしてトップセールスも精力的にやっていく」「再編はあるかもしれない。規模を大きくして経営体力を強化すること は当然、考えなければならない。相手があるかどうかわからないけれども、心の準備だけは常にしておくつもりだ」
 
▽三菱製紙・佐藤社長 再編の可能性否定せず
 「目先の目標は、06年3月期の連結経常利益の目標として掲げた35億円の達成だ。北上ハイテクペーパーの減損処理などでなんとか達成できそうだ。再建 策では当社の中核事業を定め、進むべき方向をはっきりさせる。写真用感材事業は少なくとも赤字にならないようにしたい」「北上工場への大型投資は結果から みれば失敗。しかし世界首位の写真用インクジェット用紙は、技術的にも強みを持ち手放すつもりはない。一般紙を取り込むことで稼働率を上げたい」「再編の 可能性は否定しない。北越製紙との提携は終わったが、OEM(相手先ブランドによる生産)の形での製品のやりとりなどは続ける」

*対立関係が一転…王子と三菱製紙、情報用紙で業務提携  (FujiSankei Business i. 2007年11月21日) http://www.business-i.jp/news/sou-page/news/200711210007a.nwc
 製紙業界最大手の王子製紙と中堅の三菱製紙は20日、資本・業務提携すると発表した。王子が三菱製紙の実施する第三者割当増資を約18億円で引き受け、 2.34%を出資する。
 王子が昨年8月に北越製紙対し、敵対的TOBを仕掛けた際には、三菱製紙に出資する三菱商事が北越支援に回り、王子と対立した経緯がある。製紙業界では 昨年以降、北越が日本製紙、大王製紙と相次いで提携するなど、“反・王子連合”を形成する形で再編が加速した。今回、対立関係にあった王子と三菱が手を組 んだことで、製紙業界の再編が新たな段階に入る可能性もある。
 会見した三菱製紙の佐藤健社長は、王子との関係について「あくまで情報用紙事業の効率化に限定する」と語った。
 両社の業務提携は、伝票などに使われるノーカーボン用紙や感熱紙という限定的な範囲にとどまっている。
 三菱製紙は来年中をめどに王子からの増資資金を活用し、ノーカーボン用紙を製造する高砂工場(兵庫県)と八戸工場(青森県)の年産能力5万トンを増強。 王子製紙にOEM(相手先ブランドによる生産)供給する。伝票の電子化によりノーカーボン用紙市場は毎年数%の縮小が続いており、市場シェアでそれぞれ2 割を占める両社が手を結ぶことで、「効率化により収益力を高める」(佐藤社長)ことを狙っている。
 さらに三菱製紙は、王子製紙が能力増強しているタイ子会社に約10億円を出資。アジアで需要が堅調な感熱紙のOEM供給を受け海外事業を強化する。
 ただ、業界でも、両社の組み合わせは、意外感を持って受け止められている。
 三菱製紙は2005年に王子系列の中越パルプとの合併でで合意したが、販売政策の意見の食い違いなどから白紙撤回。勢力拡張を狙う王子に反発してきた経 緯がある。
 さらに昨年、王子が北越に経営統合を持ちかけた際、三菱商事が北越の第三者割当増資を引き受け、北越を支援。これが王子が敵対的TOBに踏み切るきっか けとなった。
 王子の強引な手法への反発から、日本製紙と大王製紙も北越株を取得し支援。その後、それぞれ業務提携しており、反王子を軸に製紙業界の再編が一気に加速 した。
 今回の王子と三菱の提携は、市場参加者が少ない限定的な分野であることが最大の要因。三菱の佐藤社長は会見で「単独で生きる」と強調した。ただ、対立関 係を乗り越える形での提携が、新たな合従連衡の呼び水となる可能性は否定できない。

<註>
[1]『三菱製紙百年史』三菱製紙株式会社、1999年
[2]『日本石油輸送50年史』日本石油輸送株式会社、1997年
[3] 物流タウンweb「最新物流情報」ロジクロ、2003年2月24日更新 http://www.transport.or.jp/butsuryu/pastnews/h030204c.html#kiji7
[4] 物流タウンweb「最新物流情報」輸送経済新聞社、2003年2月18日更新 http://www.transport.or.jp/butsuryu/pastnews/h030203y.html#kiji9
[5]渡辺喜一「JR貨物の車両ガイド@貨車篇」『鉄道ダイヤ情報』第16巻第11号、通巻47号、弘済出版社、1987年、36〜37頁
[6]『’90貨物時刻表』鉄道貨物協会、1990年、7頁
[7]『’94貨物時刻表』鉄道貨物協会、1994年
[8]伊藤博志「北上地区の貨物輸送近況」『トワイライトゾ〜ン・マニュアル11』ネコ・パブリッシング、2002年、128〜129頁
[9]渡辺一策「ローカル貨物列車ワンポイントガイド」『鉄道ダイヤ情報』第24巻11号、通巻154号、弘済出版社、1995年、13頁
[10]曽我治夫「臨海鉄道13社の現況」『鉄道ピクトリアル』第43巻第3号、通巻572号、鉄道図書刊行会、1993年、43頁
[11]石原明成「東京都の専用線全廃」『鉄道ピクトリアル』第39巻第5号、通巻511号、鉄道図書刊行会、1989年、91頁
[12]日本経済新聞、1993年10月22日、13面
[13]渡辺一策・藤岡雄一「臨海鉄道パーフェクトガイド」『鉄道ダイヤ情報』第28巻3号、通巻197号、弘済出版社、1999年、27頁
[14]日本貨物鉄道株式会社web お客様事例 http://www.jrfreight.co.jp/eigyou/jirei/mpm.html
[15]『仙台臨海鉄道のあゆみ(20年間の資料を中心として』仙台臨海鉄道株式会社、1990年、100頁及び108頁
[16]上記同書、170頁
[17]三菱製紙株式会社web http://web.infoweb.ne.jp/mpm/news/040308.html
[18]日本経済新聞、1999年10月26日、11面
[19]吉岡心平氏web 私有貨車研究所 http://shimpei.3.pro.tok2.com/0001/123_pfc-special3/pfs117_taki6354.htm
[20]吉岡心平氏web 私有貨車研究所 http://shimpei.3.pro.tok2.com/0001/121_pfc-special1/pfs031_taki23951.htm
 
 
 

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