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松任駅 〜金沢近郊にひっそりと存在した物資別適合基地の盛衰〜
2018.11.10作成開始 2018.11.25公開  2019.11.27訂補

《目次》
はじめに
松任駅の関連年表
松任駅の貨物取扱量(トン) の推移
松任駅に接続する 専用線一覧
日本石油(株)の鉄 道貨物輸送
住友セメント (株)の鉄道貨物輸送
三谷産業(株)の鉄道 貨物輸送
 敦賀セメント (株)の鉄道貨物輸送
石川県経済農協連の鉄道貨物輸 送
最後に


■はじめに  

 金沢駅から3駅目、普通電車に揺られること10分余り、白山市の代表駅である松任駅に到着する。頭上を北陸新幹線の高架橋がそびえ立ち、橋上駅舎に自動 改札機、整備され た駅前のロータリー、プラットホームには多数の利用客、複線電化の路線を関西のアーバンネットワークで導入されている車輌と同水準の設備を持つ、最新の 521系電車が行き交う光景は、まさに大都市近郊輸送そのものである。

 まぁ、停車する列車本数は大都市近郊と呼ぶには、些か寂しいものはあるのだが、松任駅の乗車人員数は2010年代以降は微増ながらも増加傾向にあり、金 沢都市圏の成長を実感できる駅 と言えよう。

 鉄道ファン的な視点で言えば、駅北側にある金沢総合車両所(旧、松任工場)の印象が強いだろう。駅構内が広いのも、今となっては車両所があるため と思われがちかもしれないが、実は松任駅も、かつては鉄道貨物輸送の拠点としても重要な地位を占めていた。

2018.11松任駅

 同駅には石油、セメント、飼料、化学薬品などの専用線が集積し、1970(昭45)年10月に使用開始された金沢駅の新貨物基地に不足する物資別適合 基 地の機能を担っている感すらあった。松任駅の1982(昭57)年度の1日平均発着トン数は408トンで、40トンタンク車で計算すると10両程度の発着 があったことになる。ちなみに、この年の金沢鉄道管理局内の発着トン数で松任駅は16位にランクされ、比較的近年まで鉄道貨物輸送が行われていた小杉駅や 二塚駅、高月駅などよりも上位であった。

 現在の松任駅は、油槽所やSS、飼料工場といった拠点は姿を消したものの、化学薬品や石油を中心とした三谷産業(株)の配送センターは現役のほか、駅北 側は現在も 複数の工場が集積しており、金沢都市圏のベッドタウンであると共に、工業地帯としての一面も垣間見え、広い駅構内も含め鉄道貨物の匂い≠ェ微かに残って いる。

 専用線が集 積していた割に、不思議と鉄道貨物趣味的には、特段注目されることがなかった印象の強い松任駅を第17回「貨物取扱駅と荷主」で取り上げてみたい。



■松任駅の関連年表  
年  月
内   容
1960(昭 35)年09月
三谷産業 (株)が松任配送センターの用地購入([1] p179)
1961(昭 36)年
日本硬質 陶器(株)(現、ニッコー)が陶磁器工場を建設
1961(昭 36)年06月
三谷産業 (株)が日本石油(株)の特約店となる([1] p179)
1962(昭 37)年11月
日本石油 (株)松任油槽所が開設([2]p107)
石油荷役(株)松任事業所が開設
([9]p336)
1964(昭 39)年01月
三谷産業 (株)松任配送センターが完成([1]p180)
1964(昭 39)年06月
三谷産業 (株)用地内に敦賀セメント(株)松任サービスステーションが 開設([3]p87-88)
1969(昭 44)年07月
住友セメ ント(株)松任包装所が開設([4]p276)
1975(昭 50)年09月
住友セメ ント(株)七尾工場が閉鎖([5]p499)
1983(昭 58)年10月
石油荷役 (株)松任事業所が廃止([9]p336) 同時に日本石油(株)松任油槽所が閉鎖されたと思われる
1986(昭 61)年11月
松任駅の 貨物取り扱い廃止
住友セメント(株)、敦賀セメント(株)を含む三谷産業(株)の車扱輸送が最後まで残存していたと思われる
1987(昭 62)年03月
松任駅の 貨物取り扱い再開(一般駅に戻る)
金沢総合車両所関係に必要な輸送のためと思われる
2011(平 23)年11月
松任駅の 自由通路及び橋上駅舎が使用開始



■松任駅の貨物取扱量(トン)の推 移  

([6]p324、[7]p220より作成)
 松任駅の貨物取扱量は、昭和40年代初頭には発着合わせて60万トン 以上に及び、石川県内では金沢駅に次ぐ水準であった。特に到着量が多く、その傾向は絶対量では減っている昭和50年時点でも変わらない。石油やセメントな どの物資別基地としての役割を果たしていたことが、窺える。

 取扱量の推移は資料が断片的にしか入手できていないため、正確な比較が難しいのが、先述した1982(昭57)年度の1日平均発着トン数は、408トン であることが分かっている。([8]p14)

 これを年換算すると15万トン弱であり、1975(昭50)年度と比較すると半減し、1966〜1967年頃の4分の1以下の水準である。ただ1975 年当時の専用線の取扱量からは大きく減っていないため、昭和50年代初めは専用線以外の貨物が大きく減った時期と考えられる。



■松任駅に接続する専用 線一覧  
専 用者
1957
1961
1964
1967
1970
1975
1983
備  考
中 奥農業協同組合
(株)吉田倉庫



×
×
×
×
共有
加 賀銑(株)

×
×
×
×
×
×

石 川県くみあい運輸(株)







1975 年版まで石川県経済農協連
日 本硬質陶器(株)








日 本石油(株)








三 谷産業(株)







日本硬質 陶器線に接続
住 友セメント(株)








〇:存在 ×:廃止 △:使用停止 −:未開業


地図・空中写真閲覧サービスよ り)


■日本石油(株)の鉄道貨 物輸送  

日本石油(株)松任油槽所([2]p108)
 1962(昭37)年11月に開設された日本石油(株)松任油槽所 は、内陸油槽所であり、臨海油槽所の同社伏木油槽所からタン ク車で石油類の供給を受けていたと思われる。

 しかし、金沢港に日本石 油(株)金沢油槽所が開設されたことにより、松任油槽所が閉鎖され、専用線も廃止されたと思われる。その時期は直接的には判明していない が、『1985 日本物流年鑑』に日本石油(株)の「全国製油所、油槽所一覧(昭60.1)」の図が掲載されており、伏木油槽所はあるものの、松任油槽所 の名は無く、石川県は金沢油槽所のみである。

 そのため1983(昭58)年時点では専用線が残っていることが確認でき、1985(昭60)年1月には油槽所が消滅していることから、1984(昭 59)年頃に油槽所と専用線が廃止されたと考えられる。

(2019.11.27追記)
 日本石油(株)松任油槽所の全面運営と運送を目的に石油荷役(株)松任事業所が1962(昭37)年11月に開設されたが、1983(昭58)年10月 に同事業所は廃止されており、このタイミングで日本石油(株)松任油槽所が閉鎖されたものと思われる。上記内容とも矛盾しない。([9] p336)

 また伏木油槽所は1985年1月には存在しているが、『日本石油百年史』(1988年)によると1982〜1986年度に廃止された7油槽所に含まれて おり、1985年1月〜1987年3月の間に閉鎖された模様。

 尚、日本石油(株)金沢油槽所は2002(平14)年7月に東西オイルターミナル(株)金沢油槽所に統合されている。


■住友セメント(株)の 鉄道貨物輸送  

2018.11松任駅 住友セメント(株)松任SS跡地
 住友セメント(株)七尾工場は津幡SSへタンク車でセメント輸送を行っ ていたが、意外にも同じ石川県内の松任SSには供給していなかったようだ。と言うのは、『セメント年鑑 1973』によると、松任包装所は同社彦根工場から貨車でセメントが搬入されていたことが分かるためだ。

 しかし『1985貨物時刻表』では、富山操からの集配列車が松任駅 で解放を 行っており、時刻から推察するに青海駅電気化学工業(株)が供給元であったかもしれない。

 尚、『セメント年鑑』では1987(昭62)年時点で松任SSは存在していないため、1986(昭61)年11月の松任駅の貨物取り扱い廃止と同時期に セメントサイロも閉鎖 されたと考えられる。

 その後の石川県内の住友セメントの貯蔵基地としては、七尾工場閉鎖後に設置された七尾SSのみである。金沢港にSSは設置されなかった。ただ住友セメン トと物流提携を行っていた電気化学工業には、石川県内の拠点として寺井駅に専用線のあった根上SSがあり、住友セメントも活用していた可能性はあるかもし れ ない。



■三谷産業(株)の鉄道貨物 輸送  

2018.11松任駅 三谷産業イー・シー(株)松任配送センター
* 松任配送センター
石油製品関係
重油タンク3基、灯油タンク2基
化学品関係
硫酸タンク1基、苛性ソーダタンク1基
ポリ塩化アルミタンク1基、次亜塩素酸ソーダタンク1基
三谷産業 イー・シー(株)webサイトより)

 三谷産業(株)から分離した三谷産業イー・シー(株)の松任配送センターが、今なお松任駅に残る鉄道貨物輸送の最大の痕跡である。痕跡とは言っても、配 送センター自体は今なお現役であり、石油と化学薬品を取り扱っているようだ。以前は、下記の通り敦賀セメ ント(株)の基地も同地内に存在した。

 そして、この基地を取り巻く輸送体系が興味深いところで、化学薬品を中心に下記の通り考察してみた。
 尚、石油は同社が日本石油(株)の特約店であったことから、伏木駅の日本石油(株)伏木油槽所からタンク車で到着していたと想像される。上記の同社松任油槽所向けと併せて輸送されていたのであろうか。


(『私有貨車番号表』より三谷産業(株)所有を抜粋、想定供給元は筆者追記)
*三谷産業(株)松任配送センターの化学薬品輸送

 三谷産業(株)は、東洋紡績(株)の取引においてタンク車 取得の提案があり、1947(昭22)年には国鉄から製作の承認を得ている。同年12月には硫酸専用のタム1525形が製作された。同社はタンク車を所有 することで、化学薬品を安く大量に納入できるというメリットを活かし、業容を拡大させていった。([1]p51、59-60、176)

 同社の配送センターは、1946(昭21)年に東金沢の日本電気冶金(株)金沢工場の敷地に開設され、硫酸、塩酸、苛性ソーダの基地として活躍した。([1] p57-58)

 やがて同地では手狭になったのか、1960(昭35)年に松任配送センターの用地を購入し、1964(昭39)年に同センターが完成した。([1] p179-180)

 松任配送センターは化学メーカーから硫酸、塩酸、液化塩素がタンク車で到着する一方、需要家への発送もタンク車で行っていたようだ。左記表に纏めた三谷 産業(株)所有のタンク車からその輸送体系が想定できる。


 ちなみに同社社史に載っている「創業五十周年謝恩パーティー」出席者から、取引先を確かめることができるが、日本曹達(株)と東邦亜鉛(株)は出席者に含まれるが、東洋 曹達(東ソー)関係は見当たらない。([1]p150-154)

 尚、同パーティーからは、その他にも松任駅にタンク車輸送を行っていたと想像される化学メーカーが何社も出席しており、下記の通り纏めておく。
 想定品目と想定発駅は、『私有貨車番号表』と松任配送センターの取扱品目より、筆者が勝手に予想したものである。
出 席者(抜粋)
想 定される品目
想 定される発駅
旭電化工 業(株) 社長
苛性ソー ダ、液化塩素
知手
関東電化 工業(株) 取締役
苛性ソー ダ、塩酸
渋川
呉羽化学 工業(株) 専務
苛性ソー ダ、塩酸、液化塩素
勿来
鶴見曹達 (株) 社長
苛性ソー ダ、塩酸、液化塩素
鶴見川口
電気化学 工業(株) 専務
苛性ソー ダ
青海
東亞合成 化学工業(株) 高岡工場長
苛性ソー ダ
伏木
徳山曹達 (株) 社長
苛性ソー ダ、塩酸、液化塩素
新南陽
日産化学 工業(株) 富山工場長
濃硫酸、 苛性ソーダ、塩酸
速星
日本カー バイド工業(株) 専務
苛性ソー ダ
魚津
日本曹達 (株) 高岡工場長
苛性ソー ダ、塩酸、液化塩素
能町

 一方、松任配送センターからタンク車で化学薬品を輸送していたと思われるのは、タンク車所有のきっかけが東洋紡績であったことから、敦賀駅の同社敦賀工場は予想できる。それ以外は、今のところ、これと いった輸送先を見出せていない。

▼敦賀セメント(株)の鉄道貨物輸送   

敦賀セメント(株)松任SS([3]p86)
 敦賀市に設立された敦賀セメント(株)は、1959(昭34)年に完 成した大阪サービスステーション(SS)を皮切りにセメント専用ホッパ車によるバラ輸送を開始した。その後、1962(昭37)年に名古屋SSが完成した のに続き、1964(昭39)年7月に松任SSが完成した。([3]p84-87)

 石川県松任町(当時)に石川生コン(株)が新設され、敦賀セメントのバラセメントの供給が決定したため、三谷産業(株)の好意により同社所有地内に貯蔵能力500トンの松任 SSを建設した。([3]p87-88)

 敦賀港〜松任間で同社所有のホッパ車やタンク車でセメント輸送が行われていたようだが、『専用線一覧表』の松任駅を見ても、三谷産業(株)には敦賀セメ ントの名は記載されず、この敦賀セメントの輸送は全く気付かない存在であった。先日、福井県立図書館で閲覧した『敦賀セメント二十年史』から発掘できた輸 送先である。(『セメント年鑑』で過去の同社SSの一覧を見れば、気付けるとは思うが…)

 『セメント年鑑』によると、松任駅の実質的な貨物取り扱いが廃止された1987(昭62)年時点でも松任SSが存在しており、1986(昭61)年11 月の松任駅の貨物取り扱い廃止の頃まで輸送は継続していたのかもしれない。

 しかし現在は敦賀セメントのSSは全廃されており、同社のSSネットワークの歴史解明は、今後の宿題としておきたい。



■石川県経済農協連の鉄道貨物輸送  
 筆者が1995(平7)年8月に、伏木・新湊界隈を目指して現地を特急列車で通過した際には、「くみあい飼料」のサイロ等の施設が残っていたのを車窓か ら確認している。その後は、現地を訪問することを失念して おり、いつの間にか姿を消していた。

 ホキ2200形による飼料原料の到着があった模様だが、どこから到着していたのであろうか。新湊(全購連)〜篠ノ井間(信越くみあい飼料)でホキによる トウモロコシ輸送が行われていた(『貨物』1966年10月号)ため、新湊〜松任間の輸送もあったのかもしれない。

 また1973(昭48)年10月より、名古屋臨海鉄道から松任、 新湊などの飼料積みホキ車の返空列車が設定された。([10]p99) 一方、知多駅の東海くみあい飼料(株)から金指、松任行き配合飼料(袋物)を輸送するためハワム12両の配置を受け ていた。([10]p101) このため知多からホキ2200形とワム80000形によって飼料原料を輸送されていたよう だ。

 現地の施設は解体撤去済みで、跡地は立体駐車場などに再開発されている。松任駅の駅前という立地で飼料工場の操業継続は難しいだろうし、1990年代以 降進んだくみあい系≠フ各飼料会社の合併と臨海工場への集約に伴う内陸工場の閉鎖を踏まえると、松任の工場が早晩消滅したのもやむを得ないか。

 また北陸地方には、臨海型の飼料コンビナートが立地していない点が気になる。改めて畜産業(牛、豚、鶏)の全国ランキングの指標を調べてみると、北陸3 県はいずれも下位に沈んでおり、畜産が盛んでは無い地域と言え、飼料の需要自体が低調という背景がありそうだ。



■最後に  
 松任駅の存在する白山市内には、(株)金沢村田製作所や東証1部上場のディスプレイメーカー、EIZO(株)などの本社があるほか、DIC(株)北陸工 場や大阪有機化学工業(株)金沢工場などの製造業も多数立地するなど、北陸有数の工業地帯の1つである。その一方で、消費物資の受け入れ基地としての機能 は、松任駅からは消滅し、近隣の金沢港にその役割を譲ったように見える。

 実際、金沢港の2015(平27)年度の移入貨物(208万トン)のうち、石油製品が65.8%を占め、以下セメント14.6%、重油8.4%、 LPG5.8%等となっている。移入先は山口20.9%、岡山18.8%、新潟10.0%、千葉8.0%、愛媛7.2%等で、周南や水島、京葉などの石油 コンビナートから石油・LPG類が、新潟地区からセメントが移入している姿が浮かび上がる。(金沢港振興協会webサ イトより)

 松任駅の昭和40年頃の到着量が40万トン程度であったのと比較しても、その5倍に及ぶ現在の金沢港の移入量(更に輸入量として約70万トンもあり)を 見るにつけ、バルク輸送は内航海運による効率的な輸送に、鉄道貨物は全く敵わないと脱帽せざるを得ない。

 白山市民としても、石油やセメント貨車の入れ換えでけたたましい松任駅よりも、521系電車が発着するスマートな松任駅を望んでいるであろう。金沢の ベッドタウンであり、電子部品メーカーが多数立地する白山市の表玄関としては、今の姿が似つかわしいと結論付けたい。




[1]『三谷産業50年の歩み』三谷産業株式会社、1980年
[2]『丸一石油百年史』丸一石油株式会社、1989年
[3]『敦賀セメント二十年史 敦賀工場三十年の歩み』敦賀セメント株式会社、1968年
[4]『セメント年鑑 1995』セメント新聞社、1995年
[5]『住友セメント八十年史』住友セメント株式会社、1987年
[6]『昭和42年度 貨物輸送概況』金沢鉄道管理局、発刊年不明
[7]『昭和50年度 貨物輸送概況』金沢鉄道管理局、発刊年不明
[8]『昭和58年 金鉄局の概況』金沢鉄道管理局、発刊年不明
[9]『石油荷役四十年史』石油荷役株式会社、1988年
[10]『15年のあゆみ』名古屋臨海鉄道株式会社、1981年

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