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舞鶴市内の貨物取扱駅
2020.7.6作成開始 2023.8.16公開
<目 次>
1.はじめに
2.舞鶴市内の専用線一覧
3.年表
4.駅別取扱量(トン)
 西舞鶴駅    舞鶴港駅
 東舞鶴駅    中舞鶴駅
 松尾寺駅    舞鶴市内各駅
5.品目別取扱量(トン)の推移と輸送体系
 木材         鉱石類と石灰石
 ガラスとその製品
 化学薬品と石灰類
 肥料    セメント  石炭
 コークス  石油     鉄鋼
 繊維    鮮魚    
6.最後に

1995.9 松尾寺駅


■1.はじめに  
 京都府舞鶴市は、1901(明34)年に日本海軍の舞鶴鎮守府が設置された。日本海側唯一の鎮守府であり、横須賀、呉、佐世保と並ぶ日本海軍の重要拠点 に位置付けられた。舞鶴鎮守府設置により東舞鶴は軍港都市として整備が進み、海軍工廠が開 設され数多くの駆逐艦が建造されるなど、舞鶴市の経済に大きな影響を及ぼした。そして、このような海軍の存在は、膨大な軍需輸送を発生させ、鉄道の整備が 促進された。戦前までに港湾部を含めて稠密な鉄道網が構築され、戦後もその遺産は民間の鉄道貨物輸送に活かされることになる。

 敗戦による日本海軍解体に伴い、舞鶴市は旧軍港市転換法に基づき新たな産業の創出が図られた。海軍工廠の流れを汲む造船業、軍需工場であった繊維 業、更に化学肥料や板硝子の工場が誘致されるなど市内には大規模な工場が多数立地した。これら工場には、旧軍用線を活用した専用線が敷設されており、鉄道 貨 物輸送が盛んに行われた。また舞鶴港は外材の輸入港として整備され、これも臨港線が整備され貨車によって各地に運ばれていた。

 このように舞鶴市内は貨物線や専用線が密集する地域で、本州日本海側では秋田、新潟、富山、高岡・新湊と並ぶ鉄道貨物輸送の集積地帯と言えた。しかし秋 田、新潟、富山、高岡・新湊の4地区は、いずれも現在も鉄道コンテナ駅、それも大型コンテナを取り扱う駅や専用線が残るなど鉄道貨物が現役であるのに対し て、舞鶴は鉄道貨物の拠点が消滅して久しく、最寄りのコンテナ駅として近隣に福知山ORSがあるのみとなっている。舞鶴は、上記4地区に見られるような 大手の製紙メーカー、化学メーカーの拠点といった鉄道貨物輸送の大口荷主が存在せず、また日本海縦貫線から外れているという立地が、鉄道貨物輸送の衰退に 拍車 をかけたと言えそうだ。

 京都府が刊行する『京都府統計書』には府内各駅の発着数量と主要取扱品目が掲載されている。更に舞鶴市が発行している統計資料は、『統計要覧』、『舞鶴 市統計要覧』、『舞鶴 市統計書』と名称が変遷しているが、いずれも鉄道貨物輸送のデータが充実している。市内各駅の発着数量(車扱、コンテナ)と市内の合計数値ではあるが、品 目別発着数量も載せられ、昭和20年代後半からの数値を辿ることができる。同市の古い『統計 要覧』は、京都市左京区の京都府立図書館に収蔵されておらず、閲覧と複写のため、はるばる舞鶴市立東図書館まで足を運ぶ必要があったが、これら資料によ り舞 鶴市の鉄道貨物輸送の歴史を数量的な観点からも考察することが可能になったので、ここで纏めることにした。第5回「統計から見る鉄道貨物輸送」は、舞鶴市 内の各貨物取扱駅を取り上げる。



■2.舞鶴市内の専用線一覧  

 舞鶴市の鉄道貨物取扱量のピークは1960年代末で、市内各駅の合計で年間100万トンを超えていた。そのピーク時に近い1970(昭45)年10月1 日現 在の「専用線一覧表」より、舞鶴市内の専用線を下記の通り抜粋する。中舞鶴駅がまだ現役であり、松尾寺駅の大阪セメント(株)専用線は未開業であるが、ま だ東舞 鶴駅に同社のSSと専用線があった点が、国鉄末期の状況と異なる。

専 用線
番号

路 線名
所 管駅
専  用 者
第  三 者
利 用 者
作  業
方 法
作  業 キ ロ
総 延長
キロ

記  事
2304
小浜線
松尾寺
舞鶴市長
日本通運 (株)
日通機
1 番線 0.4
2番線 0.3
3番線 0.4
大波1番線 4.5
大波2番線 1.3
6.8

2305
小浜線
松尾寺
日本板硝 子(株)
舞鶴工場
日本通運 (株)
日通機
板 硝子大波1番線 0.1
板硝子大波2番線 0.1
構内1番線 0.8
構内2番線 0.8
磨砂線 0.5
検修線 0.3
石灰石線 0.7
発送車仕訳線 0.2
荷造場線 0.3
珪砂線 0.4
原料線 0.1
ブタン線 0.1
到着車仕訳線 0.2
3.2
舞鶴市線 (大波線)に接続
2323
舞鶴線
西舞鶴
南石油 (株)
日本通運 (株)
国鉄機  手押
0.1
0.1

2324
舞鶴線
西舞鶴
大和紡績 (株)
舞鶴工場
日本通運 (株)
国鉄機
石 炭線 1.6
(機)1.5
倉庫線 1.7
(機)1.6
0.8
1.西舞 鶴、四所間途中分岐
2.運賃は西舞鶴までのキロ程
による
2325
舞鶴線
西舞鶴
舞鶴重工 業(株)
舞鶴造船所
日之出化 学工業(株)
日本高速輸送(株)
国鉄機  私有機
手押
1 番線 1.9
2場線 1.9
第1製罐場線 1.9
(機)1.6
貨車留置1番線 0.2
貨車留置2番線 0.2
(機)0.2
1.4
(倉谷線 と呼称)
2326
舞鶴線
西舞鶴
日之出化 学工業(株)
舞鶴工場
日本通運 (株)
国鉄機  私有機
手押
肥 料線 0.3
カーバイト線 0.1
(機)1.6
0.5
倉谷線に 接続
2327
舞鶴線
西舞鶴
舞鶴重工 場(株)
舞鶴造船所
日本通運 (株)
日本高速輸送(株)
国鉄機
1 番線 0.3
2番線 0.3
3番線 0.3
4番線 0.4
5番線 0.3
6番線 0.3
(機)1.6
3.1
(車両工 場線と呼称)
倉谷1番線に接続
2328
舞鶴線
西舞鶴
住友セメ ント(株)
日本高速 輸送(株)
国鉄機  日通機
手押
住 友1番線 0.2
住友2番線 0.1
住友3番線 0.1
0.4

2329
舞鶴線
東舞鶴
大阪セメ ント(株)

国鉄機  手押
0.2
0.2

2330
舞鶴線
中舞鶴
舞鶴重工 業(株)
舞鶴造船所
日本通運 (株)
日本高速輸送(株)
私有機
1 番線 0.7
2番線 0.4
旧2水工場線 0.4
鋳造工場線 0.8
海岸線 0.9
1.4

2331
舞鶴線
舞鶴港
京都府
日本通運 (株)
国鉄機
国鉄動車 手押
0.4
(機)0.3
0.4




■3.年表  
年   月
内   容
1901 (M34)年10月 舞鶴海軍 鎮守府が開設。同時に必要付属機関として舞鶴造船廠、舞鶴兵器廠が設置([8]p554)
1903 (M36)年11月 舞鶴造船 廠、舞鶴兵器廠を合併して舞鶴海軍工廠が発足([8]p555)
1904 (M37)年11月
福知山〜 綾部〜新舞鶴(後の東舞鶴)間が開通
1919 (T08)年07月
新舞鶴〜 中舞鶴間が開通
1923 (T12)年04月 ワシント ン軍縮条約締結を受けて、舞鶴海軍工廠は規模を縮小し舞鶴要港部工作部となる([8]p555)
1924 (T13)年04月
海舞鶴駅 (後の舞鶴港)の旅客運輸営業廃止、貨物営業のみとなる
1930 (S05)年04月
新舞鶴〜 新舞鶴港〔貨物〕(後の東舞鶴港)が開通
1935 (S10)年08月
西舞鶴駅に南石油(株)専用線が敷設([1]p530)
1936 (S11)年07月
舞鶴要港 部工作部は再び舞鶴海軍工廠に格上げ。造船・造機・造兵の各作業部を有する([8]p555)
1939 (S14)年06月
新舞鶴駅 が東舞鶴駅、新舞鶴港駅が東舞鶴港駅にそれぞれ改称
1939 (S14)年08月
中舞鶴駅に日立造船(株)専用線が敷設([1]p530)
1941 (S16)年09月
東舞鶴〜東舞鶴港〔貨物〕廃止
1943 (S18)年08月
西舞鶴駅に日立造船(株)専用線が敷設([1]p530)
1943 (S18)年12月
松尾寺駅に舞鶴市専用線が敷設([1]p530)
1944 (S19)年01月
西舞鶴駅に大和紡績(株)専用線が敷設([1]p530)
1946 (S21)年04月
旧舞鶴海 軍工廠を引き継いで飯野産業(株)舞鶴造船所として発足
(『舞 鶴館のご案内』日本マリンエンジニアリング学会誌、第53巻第1号、2018年、p115)
1949 (S24)年11月
熔成燐肥 (ようりん)メーカーの日之出化学工業(株)が三井物産(株)の出資を得て設立(『デンカ60年史』1977年、p464)
1950 (S25)年07月 飯野産業 (株)は舞鶴造船所を舞鶴製作所に改称([8]p555)
1950 (S25)年07月
旧海軍工 廠跡に日之出化学工業(株)がようりん専用電炉2基を建設し操業開始(『デンカ60年史』1977年、p464)
1951 (S26)年09月
舞鶴港が 「重要港湾」に指定(『舞鶴市統計書 昭和56年版』p45)
海舞鶴駅に京都府専用線が敷設
([1]p530)
1951 (S26)年12月
松尾寺駅に日本板硝子(株)専用線が敷設([1] p530)
1952 (S27)年04月 飯野産業 (株)は舞鶴製作所を舞鶴造船所に改称([8]p556)
1952 (S27)年07月
日本板硝 子(株)舞鶴工場で型板ガラス、摩板ガラス(一連)製造開始(『日本板硝子五十年史』1968年、p287)
1953 (S27)年10月 飯野産業 (株)は商事部門を分離し、社名を飯野重工業(株)に変更([8]p556)
1958 (S33)年06月
日本〜ナ ホトカ定期航路開設、舞鶴港が寄港地の指定受ける(『舞鶴市統計書 昭和56年版』p45)
1959 (S34)年04月
日本板硝 子(株)は連合軍接収解除によって舞鶴市に譲渡された専用線に使用料を支払って専用化
(『日本板硝子五十年史』1968年、p286)
1962 (S37)年04月
西舞鶴駅に日之出化学工業(株)専用線が敷設([1] p530)
1962 (S37)年07月 日本板硝 子(株)舞鶴工場は4号炉の生産開始。板ガラスの鉄道輸送が増大([1]p526)
1963 (S38)年04月
飯野重工 業(株)舞鶴造船所は飯野系から日立造船系列になり、舞鶴重工業(株)舞鶴造船所として再出発
(『舞 鶴館のご案内』日本マリンエンジニアリング学会誌、第53巻第1号、2018年、p115)
1965 (S40)年10月 国鉄は西 舞鶴駅に貨物営業センターを設置([1]p520)
1966 (S41)年10月
海舞鶴駅 が舞鶴港駅に改称
1967 (S42)年05月
西舞鶴駅に住友セメント(株)西舞鶴包装所の専用線が敷設([1] p530)
1967 (S42)年10月 丸玉木材 (株)、林ベニヤ産業(株)、丸甚合板工業(株)が舞鶴港に進出([1]p520)
1967 (S42)年11月 ワム80000形の581000番台が改造で登場。松尾寺駅常備で日本板硝子(株)の 板ガラス輸送に利用([4]p146-147)
1967 (S42)年12月
舞鶴港に 舞鶴市営平貯木場設置(150,000m2)(『舞鶴市統計書 昭和56年版』p45)
1968 (S43)年07月
東舞鶴駅に大阪セメント(株)東舞鶴SS 専用線が敷設([1] p530)
1968 (S43)年10月
東舞鶴駅にコンテナ基地を設置([1]p520)
1968 (S43)年10月
日之出化 学工業(株)舞鶴工場に全農への供給を目的にようりんの年産5万トンの平炉1基を増設
(『デンカ60年史』1977年、p465)
1970 (S45)年08月
舞鶴〜小 樽間に新日本海フェリー就航(『舞鶴市統計書 昭和56年版』p45)
1970 (S45)年12月
日之出化 学工業(株)は日本鉱業(株)と提携して舞鶴工場にフェロニッケル製造設備を新設し、製錬事業を開始
(『デンカ60年史』1977年、p465)
1971 (S46)年04月
舞鶴重工 業(株)舞鶴造船所は日立造船(株)と合併し、同社舞鶴工場となった
(『舞 鶴館のご案内』日本マリンエンジニアリング学会誌、第53巻第1号、2018年、p115)
1972 (S47)年11月
東舞鶴〜中舞鶴間が廃止
1974 (S49)年05月
舞鶴港駅に「喜多臨港線」が開業([2]p375)
1974 (S49)年12月 日立造船 (株)舞鶴工場西工場は、体質改善対策として軽機械工場に転換することになり、車両・鉄構工場の一部を
食品機械生産工場に転換する工事が完成([8]p559)
1975 (S50)年03月
新守山〜松尾寺間の珪砂出貨増により、専用列車を新設し1日トキ11車の定形輸送開始(『貨物』1975年8月号、p24)
1976 (S51)年09月
舞鶴倉庫 (株)は第4埠頭に穀物サイロ(貯蔵量4,200トン)を完成(『舞鶴市統計書 昭和56年版』p45)
1978 (S53)年05月
府漁連大 型冷蔵庫が完成(保管能力5,000トン)(『舞鶴市統計書 昭和56年版』p45)
1980 (S55)年09月
東舞鶴駅のコンテナ基地が廃止、貨物取り扱い廃止(専用線を除く)
1980 (S55)年10月
舞鶴港駅にコンテナ基地を設置
1981 (S56)年09月
大阪セメント(株)東舞鶴SSが閉鎖([3] p367)
大阪セメント(株)舞鶴SSが開設([3] p368)松尾寺駅に専用線敷設
1984 (S59)年01月
西舞鶴駅の貨物取り扱い廃止
1984 (S59)年02月
舞鶴港駅の「喜多臨港線」が廃止([2]p381)
1960 (S60)年
電気化学 工業(株)舞鶴SS、宇部興産(株)舞鶴SSが開設
1985 (S60)年03月
西舞鶴〜舞鶴港〔貨物〕間が廃止、舞鶴港駅のコンテナ基地も廃止
1987 (S62)年03月
舞鶴若狭 自動車道の丹南篠山口IC〜福知山ICが開通
1989 (H01)年03月
ダイヤ改正で新守山〜松尾寺間の日本板硝子(株)向けの珪砂列車が廃止、同時に日 本板硝子(株)専用線が廃止
1996 (H08)年03月
ダイヤ改正で敦賀〜松尾寺間の住友大阪セメント(株)のセメント列車が廃止
松尾寺駅の住友大阪セメント(株)舞鶴SSの専用線廃止




■4.駅別取扱量(トン)  
 舞鶴市内の貨物取り扱い駅は、西舞鶴駅、舞鶴港駅、東舞鶴駅、中舞鶴駅、松尾寺駅の5駅で、更に戦前には東舞鶴港駅もあり、名前に舞鶴≠ェ入る駅ばか りで 大変ややこしい。更に東舞鶴駅は開業当時は新舞鶴駅であり、舞鶴港駅は海舞鶴駅であったりと改称も行われているため、混乱に拍車がかかる。

 本項では、第二次世界大戦後の1957(昭32)年度以降の各駅の貨物取扱量を纏めている。この期間においては新舞鶴駅という駅名は関係無く、東舞鶴港 駅も 廃止後となるため無視する。そのため、駅名に関するややこしさは上記よりは軽減されているとは言えるだろう。

 本章では、各駅の貨物取扱量の推移を見ながら次章(第5章)で纏めた舞鶴市における品目別取扱量の推移から、貨物取り扱いの状況 を考察していく。駅ごとの品目別取扱量となっていれば、より考察が緻密になるのだが、残念ながらデータが舞鶴市全体のみとなっており、筆者の想像による判 断が 入ることは容赦願いたい。



▼西舞鶴駅


1995.9西舞鶴駅 大和紡績(株)専用線跡

1995.9西舞鶴駅 日立造船(株)専用線跡 築堤が 残る
奥に住友セメント(株)舞鶴SSのサイロが見える

年  度
主 要発送品目
主 要到着品目
年  度
主 要発送品目 主 要到着品目
1971
肥料、鉄鋼、機器
セメント、鉄鋼
1977〜1980 肥料、甲種鉄道車輌、機器 セメント、機器、肥料
1972〜1973
肥料、鉄鋼
セメント、鉄鋼
1981
肥料
セメント、肥料
1974
肥料、甲種鉄道車輌 セメント、機器
1982
肥料、甲種鉄道車輌、機器 セメント、肥料、機器
1975
肥料、甲種鉄道車輌、機器
セメント、機器
1983
肥料、甲種鉄道車輌 セメント、肥料
1976
肥料、甲種鉄道車輌、鉄鋼
セメント、機器、肥料

※『京都府統計書』(京都府)より作成




『日本都市地図全集 第二集』人文社、1960年
(33)舞鶴市より抜粋
 西舞鶴駅は、フロント扱いの貨物もあったかもしれないが、フロント機 能は舞鶴港駅や東舞鶴駅が中心と思われ、メインは専用線扱いであると思われる。大和紡績(株)、舞 鶴重工業(株)〔後の日立造船(株)〕、日之出化学工業(株)といった大工場や南石油(株)、住友セメント(株)といった油槽所、包装所があり多数の専用 線が敷設されていた。とは言っても、ピーク時でも発送量は年間12万トン程度で、到着も同10万トン強とこれだけの専用線がありながらも、大したことは無 い印象ではある。

 品目別取扱量における肥料を見ると、1970年代の発送量は、ほぼ年間8万トン以上をキープしており、これ の大半が日之出化学工業(株)であったと思われ、西舞鶴駅の発送量は同社の依存度が非常に高かったと予想される。

 一方の到着は、セメントから考察してみる。専用線の存在駅が西舞鶴と東舞鶴の2駅であり、到着が二分され ると 考えると、年間3〜4万トンレベルであったと思われる。セメントで特に目に付くのが、1972〜1975年度にかけて同10万トンから6万トン弱に減って いる点だが、西舞鶴 駅の到着量も同期間に同様の傾向を辿っており、同駅の到着におけるセメントの占める割合が高かったと推察される。

 日之出化学工業(株)の専用線には、「カーバイト線」があることから、コー クスの到着も同社向けと考えられる。到着量のピークは1964(昭39)年度の約8千トン、1970年代は年間 1千〜2千トン程度で大した量ではないが、このような小口とでも言うべきコークス輸送が行われていたというのは興味深い。『大阪港勢一斑』(大阪市港湾 局)や『神戸市統計書』(神戸市)によると、1970年代においても大阪北港駅や大阪東港駅、兵庫港駅でコークスの発送が見られるので、このような阪神地 区の駅からコークスが到着していたのかもしれない。

 また石油は、1970年代の到着量は年間1.5万トン程度で推移している。石油は、南石油(株)向けだけ でなく、各工場向け燃料として直接専用線に到着していた分(西舞鶴駅の大和紡績向けもあるかもしれない)もありそうだが、それらを含めて西舞鶴駅向けの輸 送が 大半と思われる。さらに繊維は、製品や原料など大和紡績(株)向けが殆どと思われるが、ピークでも年間7千トン 弱に過ぎず、セメントや石油と比べると少ない水準だ。



▼海舞鶴駅⇒舞鶴港駅


1995.9舞鶴港駅跡

1995.9舞鶴港駅跡

年  度
主 要発送品目
主 要到着品目
年  度
主 要発送品目 主 要到着品目
1969
パルプ用材を除く材木
鮮魚冷凍魚
1977〜1978 林産品、麦、米
化学薬品、水産品、石油
1970
木材(パルプ用以外)

1979
林産品、麦
米、化学薬品、水産品、石油
1971
木材、麦、米
米、鮮魚、冷凍魚
1980
林産品、麦
水産品、米、石油、化学薬品
1972
木材、麦
米、化学薬品
1981
林産品
水産品、化学工業品
1973
パルプ用材、木材、米、麦
米、砂利、肥料
1982
林産品
水産品、肥料
1974
パルプ用材、木材、米、麦
米、肥料、水産品
1983
林産品
米、肥料、セメント
1975
林業品、紙・パルプ、麦
繊維工業品、水産品、石油
1984
-
-
1976
林産品、麦
繊維工業品、水産品、石油

※『京都府統計書』(京都府)より作成



 舞鶴港駅(海舞鶴駅)は、1960年代には年間20万トンを超える取扱量があったが、1970年代に入ると急激に取扱量が減っていき、1980(昭 55)年度は5.5万トンとピークの4分の1程度まで縮小し、駅が廃止された1983(昭58)年度には2万トンと同10分の1に過ぎなかった。

 廃止の寸前まで、発送量が到着量を大きく上回っており、陸揚げされた物資を内陸に輸送する手段として鉄道が活用されていたと思われる。
 舞鶴港駅には、網の目のように各種臨港線が敷設されていたが、1968(昭43)年4月時点では下記の通りである。


『日本都市地図全集 第二集』人文社、1960年
(33)舞鶴市より抜粋

臨 港鉄道(1968年4月1日)
名   称
管 理 者・経 営 者
分 岐 地 点
関 係埠頭、物揚場
幹 線からの長さ(m)
海  舞 鶴 線
日 本国有鉄道
西  舞 鶴 駅
舞 鶴港駅
単 線 1,800
第 2埠頭臨港鉄道

舞  鶴 港 駅
第 2埠頭
単 線 3,000
第 1埠頭臨港鉄道


第 1埠頭
単 線 1,200
大 野辺臨港鉄道


大 野辺物揚場
単 線 580
大 野辺公共臨港線
京  都 府
舞 鶴港駅5番線
大 野辺物揚場
単 線 780
松 陰専用側線

第 2埠頭臨港鉄道
松 陰物揚場
単 線 100
舞 鶴漁港専用側線
日 本通運(株)(京都府)
第 1埠頭臨港鉄道
舞 鶴漁港
単 線 370
(『舞鶴市統計要覧 昭和43年版』p30より抜粋)

 舞鶴港駅で最大の取扱量は、木材であったと思われる。下記品目別を見ると、1955(昭30) 〜1973(昭48)年度にかけて取扱量は年間10万トンを超えており、ピークの1969(昭44)年度には同16.5万トンであり、同年度の舞鶴港駅の 取扱量が同20.2万トンで、木材の占める割合は8割以上となる。その木材は、1974(昭49)〜1975(昭50)年度にかけて急減しており、その影 響を強く受けて、舞鶴港駅自体の取扱量も大きく落ち込んだことが分かる。

 一方、舞鶴漁港の専用線があったものの、鮮魚の取扱量はそれほどではない。1950年代後半から到着量が 発送量を上回っており、取扱量で見ても1970(昭45)年度には5千トンを下回り、その後も減り続けて1970年代末までに全廃となったようだ。

 主要港湾における鉄道貨物輸送でよく見られたホキ2200形による飼料や小麦粉といった粉粒体輸送は、舞鶴港駅では行われていなかったようだ。品目別輸 送を確認しても、飼料は僅かである。しかし小麦又は大麦()は、ピーク時(1970年)に年間1万トン以上の 取扱量があり、少なくは無い。輸入された袋詰めの麦が、ワム車で鉄道輸送されていたと考えられる。

 また石炭は、1950年代の発送量が年間6万トンレベルであったが、1960年代に入ると急減し同4万 トン程度から10年で1万トン強まで減り、1970年代は取扱量としては取るに足らないレベルである。輸送形態としては、輸入された石炭を内陸の工場に運 んでいたと予想されるが、例えば福知山駅の鐘淵繊維(株)や江原駅の(株)神戸製鋼所といった専用線着だったりするのかもしれない。



▼東舞鶴駅


1975.12東舞鶴駅 (地図・空中写真閲覧サービスより)
左上に大阪セメント(株)、右下にコンテナ基地が見える

年  度
主 要発送品目
主 要到着品目
年  度
主 要発送品目 主 要到着品目
1970
パルプ用材
セメント
1976〜1977
甲種鉄道車輌、紙・パルプ
セメント、石油、米、鉄鋼
1971
米、機器
セメント、石油
1978〜1979
甲種鉄道車輌、紙・パルプ
セメント、石油、化学薬品
1972〜1973
甲種鉄道車輌、機器
セメント、石油
1980
甲種鉄道車輌、紙・パルプ
セメント、石油
1974
甲種鉄道車輌、機器
セメント、石油、鉄鋼
1981
甲種鉄道車輌
セメント
1975
甲種鉄道車輌、化学工業品
セメント、石油、米

※『京都府統計書』(京都府)より作成



 東舞鶴駅は、1968(昭43)年10月にコンテナ扱いを開始したことからも分かる通り、舞鶴地区の貨物取り扱いのフロント機能を果た していたようだ。また同じ1968年には大阪セメント(株)東舞鶴SSが開設されて専用線が敷設されるなど、貨物ターミナルとしての機能がある程度集中し ていた印象もあるが、取扱量を見るとピークの1971(昭46)年度においても9.4万トンと10万トンにも満たず、西舞鶴駅や舞鶴港駅、松尾寺駅と比べ ると少ない数量である。到着量はセメントが大部分を占めていたと思われ、発送が車扱もコンテナも伸び悩んだ実態が伺える。

 結局、東舞鶴駅の貨物取り扱い機能は1980(昭55)〜1981(昭56)年にかけてコンテナが舞鶴港駅へ、セメントが松尾寺駅に移転し、駅の高架化 によって今やその面影は何も残っていない。



▼中舞鶴駅



年  度
主 要発送品目
主 要到着品目
1969
機器
鉱石
1970
金属機器工業品
鉱石
1971〜1972
金属機器、鉄鋼
鉱石、鉄鋼
※『京都府統計書』(京都府)より作成

臨港鉄道
(1968年4月1日)
名   称
管 理 者・経 営 者
分 岐 地 点
関 係埠頭、物揚場
幹 線からの長さ(m)
造 船所臨港鉄道
一 部舞鶴重工業(株)、他は近畿財務局
中  舞 鶴 駅
東 港 造船所地帯
単 線 3,500
(『舞鶴市統計要覧 昭和43年版』p30より抜粋)


『日本都市地図全集 第二集』人文社、1960年、(33)舞鶴市より抜粋
 中舞鶴駅は、1919(大8)年7月に開業したが、当初から舞鶴鎮守 府への旅客及び貨物輸送を担う軍需路線という性格が強かった。戦後は、旧海軍工廠は舞鶴重工業(株)〔後の日立造船(株)〕の造船所となり、引き続き専用 鉄道を介して鉄道貨物輸送が行われた。1957(昭32)年度の取扱量は、9.2万トンもあり、特に到着量が6.3万トンと発送量の2.9万トンを大きく 凌駕していた。

 これは造船所で使用する各種資材を貨車輸送していたと想像されるが、例えば品目別の鉄鋼を見ると1957年 度の到着は4.1万トンとその前後の年と比べても、特に多い。船舶の建造が多かったのか、造船所自体の増設もあるかもしれない。

 因みに鉄鋼の到着量は年によって増減が激しいが、1970年代に入ると年間5千トンを下回る水準になっており、特に1969年度は急減している。中舞鶴 駅も同年度から到着量が大きく減少している。

 舞鶴重工業の専用線の先は、自衛隊の基地方面までトンネルを介して繋がっていたようだ。しかし空中写真を見ても、線路があったように見えないのが謎で、 左の地図は誤りかもしれない。




▼松尾寺駅


1995.9松尾寺駅 日本板硝子(株)専用線跡

1995.9松尾寺駅 日本板硝子(株)専用線跡




『55年度版 京都・滋賀・奈良県 市街地図集』
大阪人文社、京都府(3)、舞鶴市詳図より抜粋

 松尾寺駅は、舞鶴と名が付く市内各駅を差し置いて、舞鶴市を代 表する貨物取扱駅という地位にあったと言うべきであろう。拙web「日本板硝子株式会社」にお いて、同社舞鶴工場の 鉄道貨物輸送を纏めているが、本項でも松尾寺駅の取扱量に着目して、改めて考察してみたい。

 松尾寺駅の専用線は、1981(昭56)年まで舞鶴市と日本板硝子(株)のみであり、それまでは松尾寺駅の貨物取扱量は実質的に日本板硝子関係のみで あったと言えそうだ。同駅の発送量も到着量も1968(昭43)年度がピークで、取扱量は約50万トンに達した。ただピーク後はすぐに年間30万トンを切 り、1970年代 は同25万トン前後で推移していた。1980年代に入ると発送量が一段と減り、1984(昭59)年2月のヤード系輸送の廃止に伴い、ほぼ製品の発送は姿 を消 したと思われる。

臨港鉄道
(1968年4月1日)
名   称
管 理 者・経 営 者
分 岐 地 点
関 係埠頭、物揚場
幹 線からの長さ(m)
大 波臨港鉄道
日 本板硝子(株)
松 尾 寺 駅
日 本板硝子 大波岸壁
単 線 5,890
内工場内複線 440
(『舞鶴市統計要覧 昭和43年版』p30より抜粋)

 舞鶴市に到着する鉱石類は、殆どが珪砂と思われる。1968年度の松尾寺駅の到着量21.2万トンに対し て、同年度の鉱石類の到着は15.1万トンで大半を占めることになる。また石灰石の到着が同年度に4.5万 トンあるが、これも日本板硝子向けと予想される。

 鉱石類(珪砂)で興味深いのは、1968年度には15.1万トンだったものが、1972(昭47)年度には5.4万トンまで落ち込んだにも関わらず、そ の後復調傾向になり、1975(昭50)年3月ダイヤ改正で新守山〜松尾寺間に珪砂専用列車が設定され、年間10万トン以上に戻った点で、国鉄の営業努力 が実を結んだと思われ特筆される。

 尚、珪砂の発送元は1964年に新守山駅〔発荷主:関西窯業(株)(『貨 物』1984年4月号、p14)が開業すると、それ以降は同駅が一貫して大部分を占めていたと思われ る。ただ新守山駅の1974(昭49)年度における珪砂の発送量は70,343トンであるが、同年度の舞鶴市の鉱石は到着量が86,313トンであるため 新 守山駅発送以外の珪砂もあったようだ。例えば、近隣の専用線で調べると今庄駅の藤井鉱業(株)、南条駅の上田鉱業(株)は珪石採取業であり、珪砂の供給元 だったかもしれない。

 一方の石灰石の発送元は不明である。下記の鉱石類と石灰石の項でも述べるが、滋賀県内かもしれない。



▼舞鶴市内各駅の合計
年 度
発送
到着
合 計
年 度
発送
到着
合 計
年 度
発送
到着 合 計
年 度
発送
到着
合 計
1953
351,000
276,000
627,000
1966
456,949
351,646
808,595
1978
242,674
261,746
504,420
1985
5,603
142,050
147,653
1955
326,000
264,000
590,000
1968
561,112
462,267
1,023,379
1979
251,926
301,608
553,534
1986
5,698
125,444
131,142
1957
331,000
346,000
677,000
1970
455,896
355,126
811,022
1980
175,637
247,939
423,576
1987
4,588
115,226
119,814
1959
330,323
310,242
640,565
1971
405,618
327,763
733,381
1981
137,807
223,762
361,569
1988
4,755
66,494
71,249
1960
367,370
365,716
733,086
1973
371,502
348,170
719,672
1982
132,065
224,376
356,441
1989
4,536
35,568
40,104
1962
394,175
385,152
779,327
1975
240,826
269,551
510,377
1983
91,052
196,323
287,375
1990
4,024
38,380
42,404
1964
422,237
382,297
804,534
1977
235,989
217,810
453,799
1984
12,319
151,553
163,872
1995
2,544
24,168
26,712

 舞鶴市内各駅の貨物取扱量の合計は1968年度には100万トンを超えたが、瞬間的だったようで70年代以降は急減し、国鉄末期には20万トンを切る水 準になっていた。この急速な衰退ぶりは、舞鶴地区の鉄道貨物輸送の拠点を壊滅させるのに納得な感もあるのだが、松尾寺駅だけがしぶとく残った。年間4万ト ンレベルの貨物取扱駅が1990年代半ばまで残っていたのは、ある意味驚異的だったが、JR貨物及びセメント業界の合理化が進むと呆気なく廃止された。



■5.品目別取扱量(トン)の推移と 輸送体系  

▼木材
年 度
発送
到着
合 計
年 度
発送
到着
合 計
年 度
発送
到着
合 計
1953
92,281
10,394
102,675
1956
82,227
6,372
88,599
1959
77,402 5,344 82,746
1954
78,188
7,231
85,419
1957
76,367 8,937 85,304 1960
82,900 7,483 90,383
1955
73,363
6,040
79,403
1958
59,480 5,959 65,439 1961
113,469 8,406 121,875


パルプ用材
その他木材
合 計
年 度
発送
到着
小 計
発送
到着
小 計
発 送
到 着
合 計
1962
17,174

17,174
105,088
5,030
110,118
122,262
5,030
127,292
1963
24,315
17
24,332
122,299
4,393
126,692
146,614
4,410
151,024
1964
22,839

22,839
111,506
1,093
112,599
134,345
1,093
135,438
1966
8,351
478
8,829
137,537
766
138,303
145,888
1,244
147,132
1967
16,564

16,564
144,079
1,205
145,284
160,582
1,205
161,787
1968
14,919

14,919
144,018
1,014
145,032
158,937
1,014
159,951
1969
7,104
5
7,109
157,480
834
158,314
164,584
839
165,423
1970
6,108
15
6,123
133,690
1,044
134,734
139,798
1,059
140,857
1971
5,394

5,394
104,519
3,583
108,102
109,913
3,583
113,496


パルプ用材
その他木材
合 計
年 度
発送
到着
小 計
発送
到着
小 計
発 送
到 着
合 計
1972
1,619
10
1,629
104,668
1,228
105,896
106,287
1,238
107,525
1973
1,044

1,044
101,389
1,245
102,634
102,433
1,245
103,678
1974
3,508
389
3,897
65,687
1,266
66,953
69,195
1,655
70,850
1975
2,181

2,181
34,474
681
35,155
36,655
681
37,336
1976
956

956
36,606
825
37,431
37,562
825
38,387
1977
545

545
34,412
1,597
36,009
34,957
1,597
36,554
1978



45,840
578
46,418
45,840
578
46,418
1979
130

130
56,171
1,201
57,372
56,301
1,201
57,502
1980
52

52
36,704
912
37,616
36,756
912
37,668


林 産品
年 度
発 送
到 着
合 計
1981
15,890
950
16,840
1982
4,406
796
5,202
1983
674
415
1,089
(『統計要覧』『舞鶴市統計要覧』『舞鶴市統計書』より作成)
 喜多臨港線でトキ 25000形に積み込まれる木材(『貨物』1974年9月号)

 舞鶴港駅には常時100両以上の貨車が滞泊し、ソ連からの輸入木材用にトキ23800形、チキ910形などの木材専用貨車が多数常備されていた。 ([5]p33)
 1970(昭45)年4月から舞鶴港〜豊橋(トキ5両)、舞鶴港〜熊野地(トキ6両)で外材の定形貨物輸送が開始された。[1]

 尚、トキ23800形は1972(昭47)年度にトキ25000形から改造され35両が製造された。積荷の積込みはクレーンだが、取り卸しはフォークリ フトのため柵柱は先端800oが外側に折り畳み可能な構造としたものの、腐食が著しく保守困難のため1978(昭53)年以降は一体の柵柱に交換された。 また喜多臨港線の開業時(1974年)に30両の増備が計画されたが実現しなかった。同型式は舞鶴港〜熊野地・天竜川・浜松などへの原木輸送に使用された が、1982(昭57)年度から廃車が始まり、1983(昭58)年度に全車廃車された。([6]p140-141)

 木材の取扱量は1960年代にピークを迎えるが、1970年代に入ると減少傾向に入り喜多臨港線が開業した1974(昭49)年には10万トンを切って いる。その後も取扱量が回復することは無く、1983(昭58)年度には1千トン程度の取扱量となった。


1971年の舞鶴港の取扱貨物(原木)の仕向地([7]p95より作成)
外 材入津状況(単位:トン)
年 次
隻 数
数 量
年 次
隻 数
数 量
年 次
隻 数
数 量
1968
235
883,372
1978
246
986,629
1988
197
731,002
1970
325
1,233,262
1980
239
887,423
1990
192
659,578
1972
321
1,205,952
1982
196
761,086
1992
193
668,650
1974
268
1,005,877
1984
214
750,879
1994
202
573,313
1976
235
976,548
1986
242
844,015
1996
206
539,644
(『舞鶴市統計要覧』、『舞鶴市統計書』より作成)

 左図の舞鶴港の取り扱い貨物の原木の数量を合計すると、1,037千トンになる。そのうち鉄道輸送分は、106千トンでシェアは10.2%に過ぎない。
 
 舞鶴港の中で原木を取り扱う埠頭は多数あり、鉄道輸送は喜多地区からとなるが、左図では1,037千トンのうち556千トンとおよそ半数で、残りは別地 区で陸揚げされていることが分かる。

 また外材の入津状況を見ると1970年代に年間100万トンを超えてピークに達するが、1980年代から低下傾向にあり舞鶴地区で貨車輸送が姿を消した 1990年代半ばには50万トン台とピークの4割程度となっている。



▼鉱石類と石灰石

鉱石
石灰石・石灰
合計
年 度
発送
到着
小 計
発送
到着
小 計
発 送
到 着
合 計
1957
788

788
120
11,000
11,120
908
11,000
11,908
1958
409
2,078
2,487
20
8,938
8,958
429
11,016
11,445
1959
356
105,708
106,064
26
17,797
17,823
382
123,505
123,887
1960
235
151,459
151,694

23,642
23,642
235
175,101
175,336
1961
65
158,530
158,595
15
25,460
25,475
80
183,990
184,070


鉱石類
石灰石
合 計
年 度
発送
到着
小 計
発送
到着
小 計
発 送
到 着
合 計
1962
1,168
153,956
155,124

25,000
25,000
1,168
178,956
180,124
1963
743
134,020
134,763

27,478
27,478
743
161,498
162,241
1964
188
124,479
124,667

36,659
36,659
188
161,138
161,326
1966
394
153,766
154,160

30
30
394
153,796
154,190
1967
755
137,561
138,316

40,063
40,063
755
177,624
178,379
1968
1,261
151,242
152,503
50
44,866
44,916
1,311
196,108
197,419
1969
84
95,788
95,872

34,184
34,184
84
129,972
130,056
1970
61
85,798
85,859

35,942
35,942
61
121,740
121,801
1971

68,436
68,436
17
31,376
31,393
17
99,812
99,829


鉱石類
石灰石
合 計
年 度
発送
到着
小 計
発送
到着
小 計
発 送
到 着
合 計
1972

54,005
54,005

25,165
25,165

79,170
79,170
1973

68,028
68,028

23,505
23,505
-
91,533
91,533
1974

86,313
86,313

21,977
21,977

108,290
108,290
1975
162
103,716
103,878
71
11,103
11,174
233
114,819
115,052
1976
14
85,435
85,449

7,640
7,640
14
93,075
93,089
1977

62,958
62,958




62,958
62,958
1978

97,073
97,073

14
14

97,087
97,087
1979

122,856
122,856

72
72

122,928
122,928
1980

107,218
107,218




107,218
107,218


鉱 産品
年 度
発 送
到 着
合 計
1981
-
118,163
118,163
1982
-
111,674
111,674
1983
-
119,859
119,859
1985
-
111,650
111,650
1987
-
71,640
71,640
(『統計要覧』『舞鶴市統計要覧』『舞鶴市統計書』より作成)
1995.9松尾寺駅 日本板硝子(株)専用線跡

 「鉱石類」は、日本板硝子(株)向けの珪砂が殆どを占める と思われる。新守山〜松尾寺間で1989(H元)年3月ダイ ヤ改正まで珪砂専用列車が設定され ていた。この専用列車は、1975(昭50)年3月にトキ11両で設定されたのだが、鉱石類の到着も1972(S47)年度には5.4万トンに落ち込んで いたのが、1975年度には10.4万トンに増えており専用列車設定の効果があったことが分かる。しかし、翌年1976(昭51)年度から減少し効果は一 時的なものだったようにも思われるが、その後持ち直して年間10万トンレベルで推移している。しかしJR貨物が発足した1987(昭62)年度は約7万ト ンとなり、その2年後には廃止の憂き目にあ う。

 一方、「石灰石」も日本板硝子(株)向けと想像される。同社専用線には「石灰石線」も存在する。ただ珪砂より大分早い1970年代半ばには消滅したよう だ。この石灰石の供給元がどこなのかは謎 である。統計資料を基に考察すると新潟県や富山県、岐阜県が発送元としては対象外となりそうで、地理的に近い滋賀県や三重県かもしれない。この2県につい ては統計資料から京都府への石灰石の発送があったかどうかが確かめられないのが残念である。



▼ガラスとその製品
年 度
発送
到着
合 計
年 度
発送
到着
合 計
1962
102,000


1972
113,121
15,687
128,808
1963
128,700


1973
119,363
16,687
136,050
1964
131,700


1974
99,875
16,311
116,186
1965
128,000


1975
82,838
7,762
90,600
1966
161,500


1976
108,106
10,364
118,470
1967
192,600


1977
79,099
8,898
87,997
1968
202,834

202,834
1978
82,231
13,732
95,963
1969
172,617
8,006
180,623
1979
74,508
14,396
88,904
1970
153,055
36,874
189,929
1980
40,094
16,631
56,725
1971
130,534
12,916
143,450

(『統計要覧』『舞鶴市統計要覧』『舞鶴市統計書』より作成)

 ガラスの発送は日本板硝子(株)からと思われるが、そのピークは1968(昭43)年度と原料の珪砂と比べると、かなり早い。ガラスの貨車輸送は輸送時 の破損等の問題があったようで、物資別適合輸送の貨車も開発されたものの定着には至らなかった。

 またガラスの発送としては、ビール輸送の返送となる「空き瓶」もありそうだ。麒麟麦酒(株)(向日町駅、尼崎駅)や朝日麦酒(株)(吹田駅、西ノ宮駅) など から舞鶴地区へビールの輸送が想定されるが、その返送として空き瓶の輸送が考えられる。松尾寺駅以外からガラスの発送が行われていることが分かれば、より その可能性が高いと言えるのだが、駅別の品目輸送量のデータが不明なのが改めて残念である。



▼化学薬品と石灰類

化学薬品
石灰類
年 度
発送
到着
合 計
発送
到着
合 計
1962
4,500
30,215
34,715

11,932
11,932
1963
2,897
32,818
35,715

12,861
12,861
1964
3,712
1,365
5,077

12,811
12,811
1966
4,165
39,611
43,776
11
9,406
9,417
1967
4,928
42,606
47,534

11,936
11,936
1968
6,258
47,909
54,167

11,301
11,301
1969
5,439
36,638
42,077

10,394
10,394
1970
3,826
37,046
40,872

53
53
1971
223
33,354
33,577





化学薬品
石灰類
年 度
発送
到着
合 計
発送
到着
合 計
1972
278
27,979
28,257

779
779
1973
199
35,863
36,062



1974
232
35,884
36,116



1975
486
25,348
25,834



1976
319
6,357
6,676



1977
110
3,468
3,578



1978
142
5,905
6,047



1979
293
5,927
6,220



1980
441
3,209
3,650




 化学薬品の到着においても、松尾寺駅の日本板硝子(株)向けが大き い比重を占めていたと思われる。判明している貨車輸送としては、高砂港駅鐘淵化学工業 (株)からタキ7750形による苛性ソーダ大阪港駅徳山曹達(株)からホキ4900形によるソーダ灰がある。

 到着量は、1975(昭50)年度から1976(昭51)年度にかけて急減しているが、参考までに大阪港駅の徳山曹達(株)専用線に着目すると 「1975年版専用線一覧表」では存在するが、「1983年 版専用線一覧表」では消滅しており、到着量が急減している時期に大阪港駅の同社専用線が廃止になっている可能性が高い。ソーダ灰の輸送量として年間2〜3 万トンであったことも推定できる。

 その他に西舞鶴駅の日之出化学工業(株)専用線には「カーバイド線」がある。これは肥料である石灰窒素の原料としてカーバイ ドが到着していたと思われ、カーバイドの発送元としては、西大垣駅の揖斐川電気工業(株)、武生駅の信越 化学工業(株)が想定される。両社とも専用線を介してホキ5900形によるカーバイド輸送を行っていた。

 一方、石灰類は謎である。日之出化学工業(株)の主力製品「ようりん」にも石灰が含まれることもあり同社向けの輸送と想像される。上述の石灰石は日本板硝子(株)向けと想定したが、石灰石と石灰類の違いも分からない(加工度の差か?)し、1969 (昭44)年度を最後に到着が急減している点も含めて興味深いところだ。

 日之出化学工業(株)専用線跡地の途中、と言っても日之出化学工業 (株)にほぼ隣接して「丸紅(株)舞鶴充填所」が存在した。

 1995(H7)年9月当時で施設自体が使われていない雰囲気であったし、そもそも貨車輸送には関係無いかもしれない(各年の「専用線一覧表」には一切 現れない)。

 ただその立地から何となく気になる存在感を放っており、LPG輸送にタンク車が活用されていた可能性もあるのではないかと思っている。これは根拠がある というよりは、ただの筆者の期待というか、願望に近い話である。

 下記の石油もそうだが、舞鶴は燃料供給における鉄道への依存度は低かった傾向にあるので、上記可能性は低 いと言わざるを得ないが丸紅が立地していたという記録としてだけは残しておきたい。

1995.9丸紅(株)舞鶴充填所



▼肥料
年 度
発送
到着
合 計
年 度
発送
到着
合 計
1962
52,478
7,908
60,386
1972
82,742
2,951
85,693
1963
45,566
6,846
52,412
1973
79,244
4,855
84,099
1964
51,132
10,386
61,518
1974
86,644
3,806
90,450
1966
63,371
6,358
69,729
1975
75,803
3,085
78,888
1967
77,674
5,148
82,822
1976
81,860
2,600
84,460
1968
95,520
4,509
100,029
1977
86,991
2,532
89,523
1969
91,531
4,040
95,571
1978
78,872
2,693
81,565
1970
87,824
3,502
91,326
1979
81,018
2,906
83,924
1971
87,314
3,068
90,382
1980
64,398
3,118
67,516
(『統計要覧』『舞鶴市統計要覧』『舞鶴市統計書』より作成)


2020.7日之出化学工業(株)

 舞鶴市内に本社・工場に立地する日之出化学工業(株)は、1950(昭25)年7月に操業を開始した。肥料の発送の大半が同社からの輸送と思われる。

 1968(昭43)年10月に同社舞鶴工場は年産5万トンの平炉1基増設した。肥料の発送量についても1968年度から急増しており、その後も8万トン 前後で推移している。安定的な貨車輸送をしていたことが予想されるが、国鉄末期のヤード系輸送廃止時に肥料メーカーは一気に貨車輸送を廃止しており、日之 出化学工業も同様であったと思われる。コンテナ輸送への転換もあまり進まなかったと思われ、舞鶴港駅のコンテナ基地を維持するには力不足だったようで、 1985(昭60)年3月にコンテナ基地は廃止され てしまった。



▼セメント
年 度
発送
到着
合 計
年 度
発送
到着
合 計
年 度
発送
到着
合 計
1953
310
7,986
8,296
1962
45
20,674
20,719
1972
30
104,682
104,712
1954
366
16,026
16,392
1963
92
15,106
15,198
1973
1,350
112,943
114,293
1955
735
15,724
16,459
1964
10
18,113
18,123
1974

87,265
87,265
1956
3,385
16,757
20,142
1966

26,062
26,062
1975

58,610
58,610
1957
1,270
16,577
17,847
1967
10
48,008
48,018
1976

62,189
62,189
1958
2,727
14,297
17,024
1968
19
60,420
60,439
1977

68,106
68,106
1959
17,099
12,984
30,083
1969

61,538
61,538
1978

77,823
77,823
1960
11,542
18,620
30,162
1970

73,395
73,395
1979
15
83,100
83,115
1961
966
16,979
17,945
1971

94,099
94,099
1980

76,587
76,587

 1967(昭42)年5月に西舞鶴駅に住友セメント(株)西舞鶴包装所の専用線が開設され、敦賀港〜西舞鶴間でセメントの貨車輸送が開始された。タキ5両の定形貨 物輸送であった。([1]p528)
敦賀港駅が発駅のため、住友セメント(株)と敦賀セメント(株)の間で交換出荷を行っていたのかもしれない。尚、同社は戦時中に磐城セメント(株)に吸収 合併されるという歴史もあった。

 ただ『セメント年鑑 1973』では住友セメント(株)彦根工場が西舞鶴包装所の供給工場になっており、その時点で発送元が変更になっていた可能性も考 えられる。1970年代に入るとセメント到着量が増えており、発送元の変更や2工場からの供給など輸送体系に変化があった可能性も考えられそうだ。

 一方、1968(昭43)年7月に東舞鶴駅に大阪セメント(株)東舞鶴SSの専用線が開設され、近江長岡〜東舞鶴間でセメントの貨車輸送が開始された。

 統計上も明確に到着量が増加しているが、ピーク時の1973(昭48)年度で11.3万トンであり、それ以降は7〜8万トンレベルに落ち込んでいる。 1981(昭56)年度以降のデータは無いものの、松尾寺駅に大阪セメント(株)舞鶴SS向け の輸送が残っていた1990年代は3万トン程度であり、逆算すると住友セメント(株)向けの輸送は4〜5万トンであったと予想される。



▼石炭
年 度
発送
到着
合 計
年 度
発送
到着
合 計
年 度
発送
到着
合 計
1953
69,861
19,637
89,498
1962
30,186
7,081
37,267
1972

323
323
1954
68,671
15,115
83,786
1963
22,866
7,841
30,707
1973
721
1,266
1,987
1955
62,093
17,452
79,545
1964
21,184
5,563
26,747
1974
283
646
929
1956
66,564
17,468
84,032
1966
14,620
4,753
19,373
1975
33
284
317
1957
68,455
17,750
86,205
1967
19,857
4,686
24,543
1976
24
235
259
1958
58,599
10,726
69,325
1968
16,373
5,302
21,675
1977
22
310
332
1959
47,895
3,031
50,926
1969
11,272
3,709
14,981
1978
308
97
405
1960
40,209
9,010
49,219
1970
136
4,464
4,600
1979
11
104
115
1961
34,183
8,967
43,150
1971
166
1,852
2,018
1980

85
85
※1953〜1961年度は石炭・亜炭

 大和紡績(株)舞鶴工場の専用線には「石炭線」があるた め、舞鶴港の埠頭に陸揚げされた石炭を舞鶴港駅から同社専用線まで輸送するという短距離輸送があった可能性が考えら れる。その場合、発送と到着の両面で数量がカウントされることになる。

 一方で、1969(昭44)年度までは発送量が到着を上回っているため、舞鶴港から各地に貨車で石炭を発送していたことになる。近隣の駅で石炭の到着が あ りそうな専用線としては、伯耆大山駅の日本パルプ工業(株)の専用線には「1983(S58)年版専用線一覧表」まで石炭線が存 在した。

 また1980(昭55)年度まで細々と石炭の到着が残っているが、大和紡績向けの輸送が残っていたのだとすると、関西地区の臨港駅から石炭が到着してい たのかもしれない。



▼コークス
年 度
発送
到着
合 計
年 度
発送
到着
合 計
1962
291
6,703
6,994
1972
-
915
915
1963
-
7,594
7,594
1973
-
1,650
1,650
1964
52
7,851
7,903
1974
-
1,631
1,631
1966
28
5,984
6,012
1975
-
1,467
1,467
1967
54
5,352
5,406
1976
-
1,165
1,165
1968
-
4,157
4,157
1977
-
1,176
1,176
1969
-
2,236
2,236
1978
-
821
821
1970
475
1,585
2,060
1979
-
867
867
1971
-
1,100
1,100
1980
-
1,079
1,079

 近畿地方の貨物取扱駅でコークスの発送があったことが分かっているのは、安治川口駅や大阪北港駅、兵庫港駅などが挙げられる。例えば、1964(昭 39)年度の実 績では安治川口駅からは190,145トンのコークスの発送がある。

 一方、コークスが到着していたのは日之出化学工業(株)であろうか。同社は平炉法による「ようりん」製造で、オイルコークス燃焼を行っているようなので コークスの到着があった可能性は高そうである。



▼石油
年 度
発送
到着
合 計
年 度
発送
到着
合 計
1962
52
12,804
12,856
1972
35
16,776
16,811
1963
35
11,078
11,113
1973
29
16,347
16,376
1964
155
12,829
12,984
1974
23
13,029
13,052
1966
80
10,857
10,937
1975

13,182
13,182
1967
93
12,235
12,328
1976

12,672
12,672
1968
20
13,851
13,871
1977
34
14,527
14,561
1969
25
14,713
14,738
1978

15,152
15,152
1970
18
17,274
17,292
1979

14,267
14,267
1971

15,834
15,834
1980

8,072
8,072
※1962〜1975年度は「石油・アルコール」

貯油施設
(昭和43年4月1日)
経 営者
貯 油 槽 容 量 数 量
出 光興産(株)
7,000kl: 1基、500kl:4基、200kl:2基、100kl未満:5基
日 本石油(株)
3,000kl: 1基、1,000kl:1基、500kl:1基、200kl:1基、100kl:1基
南 石油(株)
200kl: 1基、50kl:1基、30kl:2基、25kl:1基、5kl:2基
山 内石油
100kl: 1基、50kl:1基
徳 山石油
40kl: 2基、15kl:1基、6kl:1基
漁 協連合会
150kl: 1基、50kl:2基、4kl:2基
ゼ ネラル石油(株)
2,000kl: 1基
モー ビル石油(株)
1,000kl: 3基、500kl:3基
(『舞鶴市統計要覧 昭和43年版』p32より抜粋)


2023.6舞鶴港駅跡(Google ストリートビューより)
京都府漁業協同組合連合会 舞鶴油槽所

 舞鶴港には上記表の通り、石油元売会社と地元の石油販売会社、そして 漁協の油槽所が立地していた。しかし専用線が存在したのは、西舞鶴駅の南石油(株)のみで石油輸送における鉄道の依存度は低かったようだ。

 南石油(株)は、現在でも昭和シェル石油系のガソリンスタンドを経営している。また西舞鶴駅の専用線の推移を見ると、シェル石油(株)専用線は1967 年版まで存在し、1970年版からは南石油(株)に変化している。そのため南石油(株)はシェル系列であったと想定されるため、鷹取駅のシェル石油(株) 神戸油槽所から石油が到着していたと考えている。

 尚、貨車による石油の到着先としては油槽所だけでなく、日本板硝子(株)をはじめとする需要家直送分もあったのかもしれない。




▼鉄鋼
年 度
発送
到着
合 計
年 度
発送
到着
合 計
年 度
発送
到着
合 計
1953
6,921
13,469
20,390
1962
2,142
7,900
10,042
1972
2,654
4,764
7,418
1954
1,495
6,757
8,252
1963
1,022
10,230
11,252
1973
4,582
3,749
8,331
1955
2,002
22,698
24,700
1964
944
445
1,389
1974
2,884
4,427
7,311
1956
1,677
31,192
32,869
1966
448
17,497
17,945
1975
2,413
2,394
4,807
1957
1,633
40,976
42,609
1967
747
22,987
23,734
1976
3,640
2,424
6,064
1958
1,552
22,284
23,836
1968
500
12,286
12,786
1977
2,250
2,749
4,999
1959
1,679
27,343
29,022
1969
647
1,838
2,485
1978
221
1,061
1,282
1960
3,286
20,201
23,487
1970
672
4,251
4,923
1979
140
1,100
1,240
1961
2,855
15,016
17,871
1971
5,508
5,816
11,324
1980
95
755
850

 鉄鋼は到着が多い点が注目される。年度によって到着量が大きく増減しており、造船業は年によって建造量の変動が大きそうなイメージがあり、飯野産業 (株)〔舞鶴重工業(株)〕向けの鉄鋼が主だったのかもしれない。飯野産業(株)の建造量について、データが得られれば更に考察が深められそうである。

 到着量 は1968(昭43)年度を最後に年間1万トンを割り込んでいるが、1972(昭47)年11月には中舞鶴駅が廃止されており、鉄鋼の到着減少が中舞鶴駅 の鉄道貨物輸送の衰退、そして東舞鶴〜中舞鶴 間の営業廃止に繋がったのかもしれない。

 尚、中舞鶴駅の項でも述べた通り、1969(昭44)年度から同駅の到着量が減っており鉄鋼輸 送と関係してい る可能性は高そうだ。



▼繊維
年 度
発送
到着
合 計
年 度
発送
到着
合 計
年 度
発送
到着
合 計
1953
5,184
4,453
9,637
1963
1,082
4,713
5,795
1974
946
3,526
4,472
1954
8,791
4,608
13,399
1964
50
6,761
6,811
1975
1,048
5,213
6,261
1955
4,960
4,029
8,989
1966
1,342
3,508
4,850
1976
1,299
4,883
6,182
1956
4,499
6,073
10,572
1967
1,594
5,958
7,552
1977
496
1,691
2,187
1957
3,998
4,921
8,919
1968
158
5,451
5,609
1978
209
1,257
1,466
1958
2,446
3,662
6,108
1969
1,889
4,463
6,352
1979
171
1,594
1,765
1959
1,949
5,396
7,345
1970
1,885
4,844
6,729
1980
121
1,561
1,682
1960
1,756
6,777
8,533
1971
1,730
4,560
6,290
1981
121
668
789
1961
1,595
6,316
7,911
1972
1,865
3,619
5,484
1982
55
58
113
1962
1,456
4,096
5,552
1973
1,427
4,837
6,264
1983
22
30
52
※1953〜1961年度は「繊維及び同製品」、1962〜1974年度は「繊維とその製品」、
1975〜1980年度は「その他の繊維工業品」、1981〜1983年度は「繊維工業品」


大和紡績(株)舞鶴工場
(『大和紡績30年史』大和紡績株式会社、1971年)

 大和紡績(株)舞鶴工場は同社の主力拠点の一角を占めていたと思われ るが、繊維の発送・到着量を合わせても年間1万トンを超える程度で、専用線が存在した割には数量は少ない印象である。大和紡績(株)と言えば、島根県の益 田工場で は苛性ソーダなどの化学薬品や重油の到着が多く、何となく舞鶴工場にも同じようなイメージを抱いてしまうが、益田工場は合繊や化繊原料から「化合繊わた」 を製造し、それを同社の 各拠点に供給する役割を担っており、舞鶴工場はそのような原料を元に紡績・織布を担う工場であった。

 そのため鉄道貨物輸送では化学薬品などの到着は少なく、繊維の発着に限られていたのかもしれない。また発送よりも到着の方が多い傾向が見られ、原料搬入 の面では貨車輸送の 依存が比較的、高かったのかもしれない。上述の益田工場から到着する原料でも貨車輸送が行われていたことも想像される。

 また神戸港駅からの原綿の到着もあったのではとも想像している。1970(昭45)年前後には、神戸港駅から繊維工業品の発送は年間7万トン前後あり、 輸送先の一つとして大和紡績(株)舞鶴工場もありそうと予想している。



▼鮮魚
年 度
発送
到着
合 計
年 度
発送
到着
合 計
年 度
発送
到着
合 計
1953
14,063
10,430
24,493
1962
4,742
12,620
17,362
1972
207
168
375
1954
16,952
7,613
24,565
1963
4,063
13,624
17,687
1973
529
1,151
1,680
1955
17,505
8,918
26,423
1964
5,521
12,931
18,452
1974
104
605
709
1956
9,890
8,195
18,085
1966
2,859
10,710
13,569
1975
-
566
566
1957
8,073
11,439
19,512
1967
2,892
9,167
12,059
1976
13
343
356
1958
6,321
11,762
18,083
1968
1,928
8,153
10,081
1977
13
104
117
1959
5,174
10,254
15,428
1969
1,200
5,006
6,206
1978
11
178
189
1960
3,767
9,319
13,086
1970
1,052
3,500
4,552
1979
-
27
27
1961
7,159
9,598
16,757
1971
1,015
3,345
4,360
1980
-
-
-
※1953〜1974年度は「魚介類」、1975〜1980年度は「鮮魚と冷凍魚」

 舞鶴港駅から鮮魚の発送が行われたようだが、高速貨物列車用の冷蔵車(レサ)の配備は無かった模様だ。そもそも物資別適合輸送が本格化した1960年代 後半の時点で、発 送量は1,000トン程度に落ち込んでおり、鮮魚の発送拠点としての舞鶴港駅の位置付けは低かったと想像される。

 その裏付けとして『福知山鉄道管理局史』によると、「香住、舞鶴港に水揚げされる魚介類の鉄道輸送は、1955(昭30)年までは順調に推移し、年間約 5万トンを輸送していたが、その後は道路網の整備に伴いトラックの進出が著しく、1971(昭46)年度は2千トンに激減した」とあり、発送量からの記述 と思われるが上記統計の数量と傾向は一致する。([1]p528)

 京阪神地区まで距離も近く、トラックとの競争に貨車輸送は早期に敗れてしまったといったところであろうか。



▼麦
年 度
発送
到着
合 計
年 度
発送
到着
合 計
1962
78
1,803
1,881
1972
10,288
685
10,973
1963
901
1,835
2,736
1973
9,689
20
9,709
1964
4,754
1,281
6,035
1974
7,437
25
7,462
1966
4,277
748
5,025
1975
7,525
15
7,540
1967
5,223
78
5,301
1976
6,478
-
6,478
1968
7,762
45
7,807
1977
5,719
-
5,719
1969
8,018
238
8,256
1978
3,695
11
3,706
1970
10,443
89
10,532
1979
2,679
-
2,679
1971
9,000
121
9,121
1980
2,191
-
2,191
※1962〜1975年度は「麦・小麦粉」


1995.9舞鶴港駅跡
右奥に舞鶴倉庫(株)の穀物サイロが見える

 麦の発送はピーク時でも年間1万トン程度で、お馴染みの粉粒体輸送用 のホキ2200 形の配備は無かった模様である。

 発送先は不明だが、舞鶴倉庫(株)が舞鶴港駅付近に穀物サイロを整備したことは判明しており、同社からの発送だった可能性が高そうだ。

 その一方で到着先の想定が難しい。近隣に需要家となりそうな内陸型の製粉工場は存在しないと思われる。ただホキ車によるバルク輸送が行われていないのだ とすると、ワム車による袋詰め輸送だったと思われるが、そうなると着駅の想定は極めて困難である。

 ちなみに山陰本線の和田山駅には、日清製粉(株)の専用線が存在したが、これは飼料用のバルクセンターと思われるため本件とは無関係と判断している。



■6.最後に  


2019.9福知山ORS
 筆者が、とはずがたりの運転するCIVICに同乗して舞鶴市内を初め て訪れたのは、残暑の厳しい1995(平7)年9月のことであった。

 既に松尾寺駅の大阪セメント(株)専用線向けの輸送を除いて貨車輸送は悉く姿を消しており、貨物線や専用線の跡地を巡ることを目的に市内各所を走り回っ た。朝露が滴る9月の早朝に舞鶴市内に到着し、探索を開始した。一部にはレールも残る線路跡には雑草が思うがままに生い茂り、その猛烈な草いきれに圧倒さ れつつ、鉄道貨物輸送が繁栄していたであろう高度経済成長期に想いを馳せたものであった。その一方で操業を続ける日本板硝子(株)、日之出化学工業 (株)、大和紡績(株)などの各工場は残っていたものの、外観からしてその最盛期を過ぎた感は、当時ですらひしひしと伝わってきて、鉄道貨物輸送の復活を 検討す べき地域とは言えないと高校生ながら、冷静に判断せざるを得なかった。

 それから25年後の2020(令2)年に舞鶴市の再訪を果たしたが、鉄道貨物輸送の痕跡は当然ながら月日の経過と共に薄れており、旧日本海軍の倉庫を改 装した観 光施設「舞鶴赤レンガパーク」の存在感もあって、今や港湾都市・産業都市というよりも観光都市化が進んでいる印象すらあった。

 近隣の福知山市では、鉄道とは無関係に高速道路へのアクセスに優れた立地に「福知山ORS」が移設され、舞鶴を含む丹後地域の鉄道貨物輸送の需要をカ バーしているようである。また丹後山田駅を拠点に専用線のあった日本冶金工業(株)大江山製造所は、現在は京都貨物駅を拠点に鉄道コンテナ輸送を行ってい るようであるし、 舞鶴という場所に拘る必要性は鉄道貨物の主力がコンテナ輸送となった今、無いのかもしれない。

 そのような気持ちになりつつも、舞鶴市内にかつて構築されていた鉄道貨物の充実したインフラとその骨太な線路網が可能にした多岐に渡る輸送体系の解明に 関しては、これからも魅力的な研究テーマとして筆者は拘り続けたいと考えている。




[1]『福知山鉄道管理局史』日本国有鉄道 福知山鉄道管理局、1973年
[2]『近畿地方の日本国有鉄道 大阪・天王寺・福知山鉄道管理局史』大阪・天王寺・福知山鉄道管理局史編集委員会、2004年
[3]『セメント年鑑 1988』セメント新聞社、1988年
[4]吉岡 心平「物適貨車めぐり[第7回]板ガラスの輸送用車」『ジェイ・トレイン』Vol.74、2019年
[5]渡辺 一策「ローカル貨物列車ワンポイントガイド」『鉄道ダイヤ情報』No.139、1995年
[6]吉岡 心平「国鉄貨車教室・第55回 トキ23800・チキ910形」『レイル・マガジン』通関266号、2005年
[7]『舞鶴港開発計画』京都府総合開発審議会、1973年
[8]『日立造船百年史』日立造船株式会社、1985年

参考文献

『統計要覧』舞鶴市、昭和40年版〜昭和33年版
『舞鶴市統計要覧』舞鶴市、昭和48年版〜昭和42年版
『舞鶴市統計書』舞鶴市、平成9年版〜昭和49年版


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