日本の鉄道貨物輸送と物流: 目次へ
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味の素グループ
2001.11.14作成  2005.1.10更新
<目次>
1.味の素株式会社
  @沿革
  A川崎工場
  Bその他工場
2.味の素製油株式会社(現、J-オイルミルズ株式会社)
3.味の素ゼネラルフーヅ株式会社
4.三工株式会社(現、味の素ファインテクノ株式会社)
5.味の素物流株式会社
6.カルピス株式会社
7.日本アミノ飼料株式会社(現、伊藤忠飼料株式会社)
8.日本ケロッグ株式会社
9.三楽株式会社
(現、メルシャン株式会社)

1. 味の素株式会社
@沿革

A川崎工場

 川崎工場は1914(大正3)年に操業を開始し「味の素」の生産を開始した。当時は川崎駅との間でトラック輸送が行われてきた。[1]

 戦争の拡大に伴い、周辺各工場と共に貨物専用線の必要性が高まり、1945(昭和20)年3月、京急大師線と川崎市電を利用した3線軌条により工事が開 始された。戦災の影響で完成は遅れ、味の素の工場まで開通したのは1947(昭和22)年3月1日であった。当初のルートは(国鉄)浜川崎〜(川崎市電) 桜本〜(京浜急行)川崎大師の8.0kmであった。[1] 

所管駅
契約相手方
第三者使用
作業方法
作業キロ
専用線種別
記事
浜川崎
川崎市
京浜急行電鉄
日本冶金工業(株)
味の素(株)
国鉄機
冶金線6.0
味の素線8.0
側線
鉄道
運転管理
(『昭和26年版専用線一覧表』)

 1952(昭和27)年に「味液」容器輸送委員会(MCT)活動により、タンク輸送が採用された。これは流通コストの低減、需要家へのサービスを向 上させた画期的なことであった。タンク車による「味液」の輸送は、塩酸輸送専用のタンク車を「味液」輸送に利用しようとしたのがはじまりで、1952年5 月にその許可を取った。[3]

 大口の消費地に隣接する場所を選定して、味の素直営あるいは需要家もちで「味液」をストックする基地を設け、そこへタンク車あるいはタンクローリー によって、大量の「味液」を輸送しようという体制が考えられた。1952年12月に大阪の安治川、名古屋の熱田、1954 (昭和29)年12月には広島の、1955(昭和30)年1月には福岡の博多に直営の「味液」基地を設置し、その後 1957(昭和32)年までに販売店および直売の需要化もちの基地が青森県八戸をはじ め全国約20箇 所に設けられた。 [3]
 
 タンク車による輸送は、北は旭川から南は長崎まで約50箇所に達した。タンク車、タンクローリー、そして樽などの使い分け に より、「味液」の輸送に大幅に合理化されたのである。[3]

■味液基地
基地名
設置
廃止
専用線
備考
八戸(青森)
1957年まで
不明


熱田
1952年12月
不明

内外輸送か?
安治川
1952年12月

安治川口駅 液体薬品中継
坂(広島)
1954年12月

坂駅
味の素(株)専用線
博多
1955年1月

博多港駅
味の素(株)専用線

■その他の味タム%梺駅
着駅
廃止
コンテナ化
備 考
(旭川)



東青森



石巻港
1996年度
12ftタンクコンテナ化
飼料コンビナート向けか?
東新潟港
1996年度


半田埠頭
1996年度

飼料コンビナート向けか?
金沢

ISOタンクコンテナ化

南福井



湖山
1996年度


東広島

ISOタンクコンテナ化

熊本
1996年度

日栄物産(株)熊本貯蔵所向けと思われる
(長崎)




 工場構内の側線は輸送の増大と共に延長され、1953(昭和28)年には操車場が設置、側線が908m延長され、1964(昭和39)年に11線: 総延長3,263mに達している。鉄道貨物輸送全盛期には発送の「味の素」、澱粉、樽入り「味液」、肥料、到着の石炭、硫安、空き樽などの品目に汎用の有 蓋、無蓋車が多数使用されていた。[1]
 1959(昭和34)年には構内引込み線の末端に石炭貯送庫(石炭貨車をそのまま逆さにして石炭の荷おろしがで きるもの)を設置しているが、その後石炭を使用しなくなったため廃止となった。
(筆者註:1972年までに廃止)[3]

 1964(昭和39)年品鶴貨物線の浜川崎〜塩浜操(現、川崎貨物)間が開通、味の素へのルートとして塩浜操〜小田新田間248mの連絡線が敷設さ れ、運行管理はそれまでの国鉄から、同時に設立された神奈川臨海鉄道へと移った。専用鉄道の年間輸送量は1961年に43万トン(1日あたり貨車 60〜80両)の記録があり、この頃がピークと見られる。列車ダイヤは国鉄時代は1日2往復、神奈川臨海鉄道移管後1968年まで1日3往復、1972年 まで1日2往復、それ以後は1日1往復が設定されていた。[1] 


昭和53年版民鉄要覧


7.日本アミノ飼料株式会社 (現、伊藤忠飼料株式会社)

<沿革> 『味の素株式会社社史2』味の素株式会社、1972年
 脱脂大豆は、直分解「味液」、「エスサンミート」、「プロリッチ」の原料として使用したほかは、脱脂大豆「エスサンフレーク」として外販された。用途は 家畜の飼料用で、全購連が主要な販売先であった。
 畜産業の発展に伴い飼料需要は年々増大して、昭和36年度には農家の飼料支出は肥料支出を上回り、日清製粉(株)、大洋漁業(株)、昭和産業(株) 等の大手会社が飼料業界に進出するようになった。
 味の素(株)は、このような情勢に対処して飼料業界への進出を図り、曲折を経て昭和36年2月に伊藤忠商事(株)、三楽酒造(株)、森永乳業(株) の3社と共同して、日本アミノ飼料(株)を設立(資本金3億円、出資比率は味の素60%、伊藤忠20%、三楽オーシャン10%、森永乳業5%、その他 5%)した。神奈川県横須賀市田浦港町に工場を建設、昭和37年9月から操業を開始した。味の素(株)は、これに原料として脱脂大豆を供給し、製品である 完全配合飼料「味えさ」の発売元となり、伊藤忠が総代理店として販売を担当した。「味えさ」は、育雛用3種、ブロイラー成鶏用4種、肉豚用4種、乳牛用4 種など合計16品種であった。

■沿革
年 月
内 容
1961年02月
日本アミノ飼料株式会社創立、資本金3億円
1964年04月
社名をアミノ飼料工業株式会社に改称
1980年10月
河田飼料株式会社と対等合併し社名を伊藤忠飼料株式会社に改称
石巻、千葉、横須賀、名古屋、姫路、門司、福岡、鹿児島の8工場、飼料生産量 120万トン体制
1981年09月 福岡工場を閉鎖し、門司工場に統合
1982年07月
横須賀工場を閉鎖し、千葉工場に統合
1983年11月
コンピュータシステムによる最新鋭の八戸工場稼働、7工場体制を敷く
1985年12月
同社と伊藤忠商事株式会社の出資により南九飼料株式会社を設立
1987年08月
南九飼料株式会社志布志工場稼働。これにより実質8工場体制
1992年06月
門司工場内に水産工場併設
1994年10月
南九飼料株式会社を合併、当社志布志工場となる
1996年03月
姫路工場、鹿児島工場を閉鎖
1997年09月
千葉工場を閉鎖、これにより、畜産飼料生産は、八戸、石巻、門司、志布 志の4工場体制に集約



9.三楽株式会社

■三楽のアルコール出荷体制
311頁
 アルコールの生産は川崎、八代両工場に集約されたが、得意先からアルコールの納入日時を指定されるケースが増えてきて、両工場からの直接出荷だけでは間 に合わなくなってきた。そこで当局の許可を得て、要所要所に蔵置場を設けアルコール貯槽を置いて、あらかじめストックしておいたものを出荷する体制を整え た。

324〜330頁
 S39年に合理化推進委員会が設置された。そのもとには運輸業務合理化推進委員会を設けられ検討を行った。
 そしていくつかの提案を行ったのだが、一例をあげれば、八代工場から大阪佃工場へのアルコール輸送がある。従来はドラム缶詰で貨車輸送していたが、これ を 船便(八代工場〜尼崎港)に変更し、尼崎から大阪佃工場まではトラック便による方法とし、空容器の返送は貨車による方法となった。

548〜550頁
物流部門の現況 アルコールの移送システム
 アルコール製造が、川崎及び八代の2工場に集約されたことはすでに述べたが、川崎工場の製造量は自家用のみでいっぱいであり、殆ど他にまわす余裕がな い。 従って他の工場への移送はもっぱら八代工場から行われている。
 これらの輸送方法は、灘、四国向けは国鉄料金の値上げにより早くからタンク船輸送に切換えていたが、他はすべてタンク貨車に頼っていた。 と ころが近年の国鉄の合理化強化によって運賃がますます値上げにとなったこと、さらにはタンク貨車の使用が中止になる等の事情が重なったために、輸送方法は 大幅な変更を余儀なくされたのである。

アルコールの移送方法
拠点
設置
輸送方法
用途
備考
札幌工場
札幌市西区
前田1条11-311-1

タンク車
⇒ローリー車
北海道の添加用
従来は八代工場からタンク貨車で輸送していたが、
国鉄のタンク貨 車の北海道向輸送が廃止された
ため、
ローリー車によ るほかに方法がなくなり、出荷工場も川崎工場に切換えざるを得なくなった。 
(筆者註、前述の札幌工場は川崎からタンク車で輸送しているというのは間違いなのか?)
秋田アルコール蔵置場
秋田市寺内字
大小路207-29
昭和46年11月18日完成
(設置許可が昭和45年)
タンク車
⇒タンカー
東北の添加用
(福島の一部は川崎より
移送)
従来はタンク貨車で蔵置場引込線まで輸送されていた。
ところがこの引込線は近くの石油基地が引込線の使用を廃止することに なった
ため、
同社も撤去せざるを得なくなった。
これに代わる輸送方法として、隣の会社のドルフィンを借用してタンク船で輸送する方法に切換。
すなわちタン ク船でドルフィンまで運び、ドルフィンからパイプで蔵置場まで送る。
鶴見アルコール蔵置場
横浜市鶴見区
大黒町3-100
内外輸送(株)横浜支店内
昭和59年12月12日
川崎工場鶴見アルコール
蔵置場開設
タンク車
⇒タンカー、
ローリー
流山、藤沢工場用 流山・藤沢工場向けにはタンク貨車を利用していたが、国鉄運賃の値上げ で、
タンク船に切換えたものである。
鶴見の内外輸送(株)の タンクを借用していったんこれに受け入れ、
ここからはローリー車で移送している。
灘アルコール蔵置場
神戸市東灘区
住吉浜町18-1
昭和44年9月1日設置
広島(除山口)、
大阪(除四国)、
名古屋(除静岡の一部)
の各支店添加用

四国アルコール蔵置場
坂出市昭和町2-2-1
日本化学塩業(株)内
昭和50年9月27日開設


八代アルコール蔵置場
八代市港町71
昭和44年9月10日設置



334〜335頁
磐田工場
 旧オーシヤン(株)の工場で、合併後、アルコール、焼酎の製造は川崎へ、清酒は藤沢(後さらに流山へ)へ移管し、 もっぱら甘味果実酒の主力工場として機能していたが、洋酒類を藤沢に集中し、また関西工場も設置の運びとなったため、酒類の製造は全面ストップし、昭和 41年より化学薬品部門の拠点として再出発した。

348頁
日本合成アルコール(株)の設立
 従来のアルコール製造法、すなわち甘藷あるいは糖蜜を原料とする発酵法 がコスト面で限界に近づきつつあり、かつ工業用(専売)アルコールは発酵法からの転換を図る必要があるのではないか、そのような発想で設立されたのが日本 合成アルコール(株)である。同社は エチレンを原料として合成法によってア ルコールの製造をしようというもので、通産省の斡旋で、三楽オーシヤン(株)、宝酒造(株)、協和発酵工業 (株)の大手3社の共同企業 として設立されることになった。昭和38年8月に東京都港区に本社および事業所を置いて正式に発足した。資本金は4億8000万円で、各社が3分の1ずつ 出 資した。同社は昭和42年8月からアルコールの溜出を開始した。



[1]
[2]『味の素株式会社社史2』味の素株式会社、1972年



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